仏教の懺悔法~ツォンカパ大師と弁栄上人の懺悔法を窺う~
仏教の懺悔
仏教の懺悔(さんげ)を考えてみるに、その印象は自分が為してはいけないことを為してしまったことに深い罪悪感を感じ、赦しを請うて仏菩薩に告白するというようなことであろうかと思う。
例えば、日本の仏教の宗派で日常的によく読誦する勤行次第の中に、『華厳経』を出典とする「懺悔偈」に次のような偈文がある、
上記の偈文を見るとやはり懺悔というのは、煩悩に惑わされて自分が身体・口・心で造ってしまった業に対して悔いることから起こる告白である。仏から戒められていた様々な禁戒を自分が直接破ることを懺悔するものが主である。
後代の仏教徒の中にはこのような懺悔観を一歩進める先徳方がおられる。それはチベット仏教中興の祖と謳われるツォンカパ大師と近代浄土宗の傑僧である弁栄上人である。お二方の懺悔観を窺ってみたい。
ツォンカパ大師の懺悔観
ツォンカパ大師の懺悔観は大師の著書『菩提道次第小論』に見える。
上記大師の言葉からその特徴が窺える。大師は罪業には直接・間接・随喜の三種あるとする。直接というのは先に挙げた懺悔偈のように仏教一般的に云われているところの懺悔、自分自身が煩悩に惑わされて仏が定める為してはいけない禁戒を破ってその行為を己がしてしまうことである。
そして、以下の二項目がツォンカパ大師の独特な懺悔観である。
先ず間接は自分は禁戒を破ることないが、他者に禁戒を破らせて破戒行為をさせてしまうことである。例えば自分は不殺生戒を守っていたとしても、誰かをそそのかして殺生させてしまうこと、直接的行為ではなかったとしても罪業となるという。これは世俗の法律でも上の者は直接手を下すことは無いが下っ端の者に命令させて犯罪をするといったことがあるがそれに類似するであろう。
そして随喜であるが、これはツォンカパ大師のような徹底した仏教者にしていえる懺悔観であろうと思う。自分が直接罪業を為したのでもなく、また誰かをそそのかして罪業を為さしめたのでもなく、他者が行った悪業に対して喜んでしまった、あるいはその悪業を増長せしめるような助けをしてしまった場合、これらのことも同じく自分自身の罪業となってしまうから懺悔の必要があるという。
実はこのような考え方は禅宗の祖である達摩大師も同じようなこと述べており、例えば実際に邪婬をしていなくとも心の中で邪婬を想い浮かべていればそれも悪業となってしまうとしている。
ツォンカパ大師の懺悔の独自性は間接的罪業と随喜の悪業の懺悔観にあり、特に後者の随喜による悪業への懺悔法にあるといえよう。
弁栄上人の懺悔観
弁栄上人の懺悔観は上人が自ら著作した儀礼書である『如来光明礼拝儀』に顕れている。
弁栄上人の懺悔観は上記の言葉の中に端的に表現されている。
「作す可らざる罪をつくり」と「すべきことを怠るの罪に陥ひれり」の二点である。この中、前者はいわゆる仏教に見られる一般的な懺悔観、つまり身・口・意の三業によって、為してはいけない行為をしてしまったという罪、先にツォンカパ大師の懺悔法にあった直接の行為による罪悪感と同じである。
弁栄上人の特徴は後者、本当は私が為さなければならなかった事をせずにそれを怠ってしまったという責任放棄の懺悔観である。このことに弁栄上人の懺悔観における独自性がある。先のツォンカパ大師の特徴であった間接的な罪悪観や随喜の罪業観とはまた違った卓見である。
懺悔観の多くは為してしまった罪業の懺悔を強調するのであるが、それは裏を返せば禁戒を犯さなければ良いという消極的な考え方だと言える。例えば五戒や十重禁戒を守りさえすれば罪業は生まれないとする。しかし弁栄上人は積極的な行動をしていくべきだという菩薩道を基にした考え方をされているようであり、戒法を全て守っただけでは不可としている。自分の責務果たさないことは菩薩としての罪業になるが故に懺悔が必要であるということであろうか。
両者の懺悔観を手本とする
二人の先徳の懺悔観を窺えば、そこには定められた勤行次第の通りに懺悔を行う凡夫には到達できない深い三昧によって起る鋭い洞察から来る懺悔であると考えられる。
偉大なお二方の懺悔観を知ることで自らの懺悔を改めて考え直し、日々の勤行で行うことが大切であると思う次第である。
今回は取り上げなかったが、浄土教の大成者である善導大師の懺悔観はツォンカパ大師や弁栄上人の懺悔観とまた違った激しい懺悔法を実践されていたようである。善導大師の主張する三種の懺悔法は非常によく知られたものなので、ここでは述べなかったが、ご興味ある方は各自調べていただきたい。