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性善説を教える学校で例外だったこと。

学校は、いいところだ。

基本的には。

そうでなかった人たちにとって、学校が悪いところだった原因のほとんどは、『やったもん勝ち』『性善説』に集約されるのではなかろうか。ぼく自身、そう思う部分はたくさんあった。

とにかくケンカにおいて、やったもん勝ちは常だった。10の汚い言葉に対して、1のグーパンをくれてやると、それだけでこちらが悪いように言われることは多々あった。中には話を聞いて、そういうジャッジをしない先生もいたが、その数は言わずもがなだ。

そうしてほとんどの場合、『悪気はなかったんだから』という常套句とともに、形式だけの謝罪という茶番がくりひろげられ、道徳や教育、節度や秩序というものは、まったくないがしろにされる。

反面教師、世の中にはいろんな人間がいて、いろんな考えがあって、そういうなにがしかと出くわした時の対処法を、独学で学ぶサバイバルな環境が、ぼくにとっての学校の一面だった。

手っ取り早い方法は、あいさつしてそこそこ無視、だ。

あいさつは欠かせない。これは社会に生きる人間にとって、間違いのない真理の一つだと確信している。これが欠けるだけで、人間のあいだがらというものは無関係にもかかわらずこじれてしまう。

そこそこ無視がなにより肝要だと思う。全部無視してしまっては、元も子もない。それはケンカを売る態度であり、1の汚い言葉に相当する。なにか問われたり、なにか聞かれたり、なにか尋ねられた時、『うーん、ちょっとわかんないや』と言うだけで、その場をやり過ごすことが出来る。

それでもどうにもならない状況に陥ってしまうことがあるがゆえに、学校には大人という、子どもではない存在が必要なのだと思う。大人の責任の見せどころだ。

さて本題。

けれどもそういった、ひどく消極的な性善説のはびこる学校教育において、唯一、『森には悪いオオカミがいるのよ』と口酸っぱく言われた時間があった。社会の授業や道徳の時間ではなく、英国数理よみかきそろばんの時間でもなかった。

『情報』の時間である。

なにをする時間か。

パソコンを使う時間である。

さいわいにも、そういった21世紀へ向けての授業というものを、小学生のうちから受けることが出来た。電源の入れ方や切り方。パソコンで絵を描いたり、イントラネット内でキーボードを叩いてチャットをしたり、一太郎で文章を書いたり。あの時分は授業中にゲームの出来る時間、くらいの印象だったように思うが、パソコンなんてまったくわからんという状況を脱せれるほどに、その授業は学びに結び付いた。

またそのフィードバックを、家庭ですることが出来るくらい、学びの環境には恵まれていた。富士通のタッチおじさんは心の親戚だったし、NECのバザールでござーるは心のペットだった。

その授業の中で、『ネチケット』という言葉を教わった。

これには小学生ながら、おどろいた。

『あの、ちゃんちゃら軽薄な学校授業の中で、分かり合う以前に最初から悪い人がいるということを教えている!!』

という衝撃は、今でもよく覚えている。

このネチケットが、すでに失われつつあるらしい。インターネットの海を眺めていると、そう思う節がしばしばある。以前はごく限られた、知識のある人間のみが存在していたこの広い電子の海も、すっかりその利便性に富んだ性質が知れ渡るところとなり、今では芋の子を洗うような賑わいを見せている。

ただこの賑わいが、明るいものではない……ような気がする。自分に向きのない騒ぎ方なのかもしれないし、本当に無軌道な乱痴気騒ぎを続けているだけかもしれない。その是非はもはや定かでないにせよ、インターネットの功の部分を覆い隠すだけの力を持っていることは、もはや疑いようもない。

そういった様々な人が現れるインターネット世界において、すべての人間を悪だと思って生きろ、という考えが、ネチケットの一つだ。知った名前でさえ、考えなしに信用してはいけない、という極端な言い方までしていた。

あのみんな仲良し和気あいあい、人類みな兄弟を唯一無二の真理と喧伝してきた学校教育において、それはとてつもない違和感だった。大人になってそれが、インターネット憎しの教育方針から出たインターネット絶対悪論の発端なのかもしれないと考えることも出来たが、とにかくインターネットは悪の巣窟だと、あの、学校という組織が、教えてはばからなかったことは、大変なおどろきだった。

そしてそういう巨悪のはびこる世界の中で、正しい知識を選りすぐるためのマナーを学びましょう。それが情報の時間に教わった、ネチケットの内容だった。

これがなんの役に立つもんか、と思いながら机に縛り付けられていたあのころの気持ちは、大人になってようやく意味合いが現れる。逆説的に、大人にならなければ、学習の意味合いはわからないのだ。これが教育の、根本的な欠陥なのだが、かつてネチケットを教わった身として、それがどうであったか。

ようやくわかる時が来た。

ネチケット、めっちゃ正しい。

ネチケットにはさまざまなルールが含まれていた。中でも三つのことは、憲法の序文よろしく格別の扱いを受けていた。

自分の顔や名前、住所をインターネット上にさらさない。

半角カナ、HTML形式のメール、暴言は絶対に使わないこと。

冗談でも物騒な発言はしない。

これらの三原則は、インターネット黎明期における提唱だったが、間違いではないし、むしろこれらを遵守・罰則規定を設けても良いとさえ思えるくらい、正鵠を得ている。

まるでインターネットが世界の隅々にまで広がり、今日日のすべての人間が、電子の海にアクセスするSF近未来を予知していたかのようですらある。フェイスブック(元々は大学の学生に向けたミニコミサービスだったのだが、うっかり世界に広まってしまった)くそくらえと言わんばかりのものだ。

それから20年余りが経った。

ネチケットはどこへやら、インターネットはやったもん勝ちの風潮と、形式だけの謝罪……のような気持ちのこもらない『なにか』が応酬する虚しい世界になりつつある。

ことさらインターネットの世界を照らす光源は、『炎上』の炎だ。

これそのものは、別に悪いことではない。ネチケットをうたわれたインターネットに限らず、どんな場面においても暴言を吐けば叩かれるし、考えのない失言をすれば叩かれる。その場かぎりのでまかせは、あとから手痛いしっぺ返しを食うものだ。

けれども、この『叩く権利』は、『その場にいた人間に限る』という原理原則が置き去りにされているような気がする。タレントがテレビする暴言は視聴した場にいた者に叩く権利があるし、政治家の失言は主権者であるすべての国民に叩く権利がある。

あるのかもしれない、という伏線は、今回ばかりは張らないことにする。ある、と言い切る。一つの矜持だ。

一方で、『炎上』によって起きた光に対して、『あそこに叩かれている人間がいるぞ!』と集まって、騒ぎを大きくする権利は、誰にもない。叩かれている人間がいて、無関係な人間が、それを叩く権利は、当然ない。あるはずもない。

また、あくまで『叩く権利』であって、それを行使しない自由も、その場にいた人間の持つ権利だ。なぜ叩かないのか、という言葉は、まったくもってお門違いの、無関係な人間が、ついでに無知までひけらかす、ひどく無教養な発言だ。

どこかで起きた炎上について、その場に居合わせなかった人間は、『ああ、気を付けなきゃならんね。明日は我が身ぞ』と思う自由しかないのだ。

ことさらインターネットが便利になりすぎたあまり、無関係のなにかに首を突っこまなければ我慢の出来ない人間が増えた。これはネチケットの風化や教育の敗北というよりも、ネチケットを学ばなかった人間が、インターネットの便利さの尻馬に乗る形でやって来て、本来あったはずの理想を、その無教養さで破壊しつくしたのではなかろうか。

かつてネチケットを学んだ身として、過渡期を迎えて荒れ狂うインターネットの海へ向けて、洪水をおさめ給うた諸葛孔明よろしく、新しいネチケットまんじゅうを一つ投げ入れたいと思う。

炎上に後乗りしてはいけない。

炎上は起きる。どうあっても起きる。SNSという概念がなかった時代から、それは起きていた。表情を伴わない文章を交わす際のデメリットがたまりにたまると、どうしても起きる。ただ起きていたとしても、『コイツ最高にアホ』と言う権利は、それが起きた場面に居合わせた人間にしかないのだ。いくら宮根誠司や坂上忍がクソッタレだったとしても、あいつらはクソッタレだという権利はぼくにはない。彼らの出るような番組は見ないし、見ないから、当然、ない。

またそれが、インターネット上の出来事でも、リアルタイムの出来事であったとしても、だ。

本当にこれはなんとかしたい。結局後乗りで炎に突っ込むユーザーが多ければ多いほど、その火の粉はあちこちに散らばり、後には何も残らなくなってしまう。最近、楽しかったはずのインターネットのあちこちから、興味もないのに火の粉が降りかかってくる。

未知の世界への好奇心を埋めてくれる存在は、Youtubeが傾向から生成してくれる音楽のプレイリストくらいだ。

このご時世だ。世に出ていた人が、所在なさげにインターネットの海に流れ着いてるだけの、一過性のことかもしれない。しかして我慢をするのも、実に腹立たしい。

それは結局の所、やったもん勝ちを肯定するだけなのだ。

だからネチケットのネも知らないアホタレどもよ。

ぜひとも学んでほしい。

インターネットの使い方を。

そして先人の言葉を借りるなら、やはりこれに限る。

おまえら半年ROMってろ。


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