オーシャンブルーと叫んだ女の人。
感動する瞬間、というものは、いつだって他人によってもたらされる。
さる2015年の話だ。
薄曇りのその日、前日からワクワクで眠れなかったことは覚えている。早起きしなくちゃいけない使命感と焦燥感とで、より眠れなかったことも覚えている。そして待ちに待ったその日の結末は、どちらかというと忘れたいくらいの笑いと悪夢だった。
毎年、春の競馬を締めくくる宝塚記念には行くようにしている。
宝塚記念とは、ファン投票の行われるレースだ。レースはたくさんあるが、どの馬も好きなレースに出走できるわけではない。まあまあ勝っていたり、たくさん勝っていたり、あるいは勝っていない馬だけで行われるレースもある。この宝塚記念では、ファン投票が広く開催され、その上位にランキングされた馬から、出走する権利が与えられる。
この、『春のグランプリ』と呼ばれる祭りが行われる阪神競馬場へは、さいわいにして片道280円で行くことが出来る。40分ちょっと乗りっぱなしでこの安さ。阪急グループには頭が上がらない。
西宮北口という駅で乗り換え、仁川駅で降りると、朝9時からごった返す人の垣根の向こうに、巨大な競馬場が見えてくる。もっともこの季節の土日、西宮北口で電車を降り、乗り換えのホームへ足を向けた段階で、『ああ、この群衆はみんな競馬に行く人たちなんだな』とわかるくらい、駅の風景は様変わりする。
目の前で動き、いななき、走る馬を見て、そして鼻で、馬の落としたでっかいうんこのニオイを感じることが、ぼくにとっては季節の風物詩だった。
ああでもない、こうでもない。
あっちが良さそう、こっちも負けてない。
思うたとおりになぜ買わない。もっと買っとけばよかった。
穴の開いた相馬眼で、30分おきに訪れるあの一喜一憂は、ほかのレジャーでは得られないような感動と興奮、葛藤と後悔とがある。そのカギを握る……あるいはカギをくわえているのは、やはりほかでもない歴史を背負った馬が走っているからにほかならないだろう。
そうして好きな馬というものが、人それぞれに誕生していく。
人の心を感動させる瞬間というものは、自分の好きななにかが躍動している時間もそうだが、『自分の好きな誰かが、その人の好きななにかに熱中している瞬間』というのも、往々にしてある話だろう。
たとえば、歌手なんかがそうだ。
歌手は人前でワーキャー言われたいと思う人ばかりではないし、(それがメインの人もいる。ぼくも昔はゴスをかじって、そうだった)どちらかといえば音楽に身を浸し、魂を叫んでいる瞬間がたまらなく好きだから、歌手をしている人がほとんどだろう。そういう自分の好きなだれかが、なにかに熱中している瞬間、聴衆は魂を揺さぶられるのではないかと思う。
アイドルなんかが、最たるものなのではないかと。カワイイ子がボードゲームに熱中しているだけで、その配信を見ながらゲラゲラ笑ったりできる。笑いも必要にして十分な、感動の一つだろう。
そういった瞬間が、少なくとも競馬場ではあちこちで巻き起こる。
馬の名前、あるいは騎手の名前を叫び、『行け! がんばれ! 叩け! 負けるな! 差せ!』とげきを飛ばす。お金のかかったギャンブルだからでしょ、と思う人はいるかもしれない。それはそれで、間違いではないと思う。他方で、その馬に勝ってほしい、勝って余生をつないでほしいと思う人も、またいることは忘れないでいてほしい。
人の数だけ、考え方、感じ方、モノの見方はあるのだから。
そうして朝が終わり、昼がすぎ、いよいよメインレースの宝塚記念の時間が刻一刻と迫りつつあった。
競走馬はまずパドックと呼ばれる下見所へと案内される。そこで人の数の多さや雑音に慣れてもらい、それから本馬場……レースが行われる場所へと誘導され、ゲートに入り、命をかけて激走する。
自分が最先端の歴史を走るサラブレッドだと証明するために。
競走馬たちが次々に本馬場へと、軽快なファンファーレと共に登場する。10万人弱の拍手に迎えられて、青い芝をさっそうとストレッチがてらにかけていく。ライブのステージに、アイドルやバンドマンが現れてくる瞬間と、気持ちはまったく同じだ。
その時だった。
すぐそばから、女性の声がした。
『ブルー! がんばれー!』
その瞬間、ウッ…………とこらえたが、ぼくの目からポロリと涙がこぼれた。
その女性の目当ては、オーシャンブルーという牡馬だったのだろう。
この馬には、ぼくも思い出がある。2012年の有馬記念、夜中に放送していた競馬番組で、亀谷敬正さんという方が、『この馬は血統的に買える。超大穴』と言っていたのを偶然目にし、じゃあ買うだけ買うか、と皮算用抜きにしてみたところ、まるで未来を見てきたかのようにオーシャンブルーは激走し、有馬記念で2着になった。
それからオーシャンブルーは、とにかく走った。有馬記念で番狂わせを演じてから2年後、中山金杯という伝統あるレースを勝ち、それからも走った。とにかく無事に、よく、たくさん走った。
有馬記念から11戦して1勝。あとは全部、負けばかりだった。
それでも良く走った。人気を裏切ったこともあれば、人気通りにしか走れなかったこともある。ぼくも競馬新聞にオーシャンブルーの名前を見て、買ったり、買わなかったりした。そんな中でも、たしかに1勝を飾れた。『無事これ名馬』である。
そうした懸命な姿に、女性は胸を打たれ、あの瞬間、今回も無事であれと叫んだのではないかと思う。
誰かが、誰かの好きな何かに熱中している瞬間、人は心を揺さぶられる。
涙をぬぐいながら、2分20秒の激闘に目を凝らした。
そして第56回宝塚記念が始まり、スタートして1秒で、数十億円の馬券が紙くずになった事件が起きた。ウォーターゲート事件よろしく、ゴールドシップ・ゲート事件である。
あの時の有馬記念を覚えていたぼくは、亀谷さんの予想に半分だけ乗っかり、ラブリーデイからの馬券を持っていたので、ほとんどの馬券は紙くずになったものの、さいわい致命傷を負うだけで済んだ。
そしてラブリーデイは無事に完走し、それから4戦して、無事に引退。種牡馬として、次世代へ名を残すことに成功した。二頭の産駒がJRAで二勝し、地方競馬でもまずまずといった出だしを切った。
あの瞬間に似た感動に、次はいつ出会えるだろう。
それがそう遠くならないことを願って。
写真は午前中に行われた競馬予想大会の一幕。元阪神タイガースの桧山進次郎さん(写真中央)、元騎手の佐藤哲三さん(写真左二)をゲストに、和気あいあいとした雰囲気で行われていました。
3時間後に起きる悪夢など、知るよしもありません…。