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「ハーフ」と“mixed”について

“got a lightskin friend, look like Michael Jackson
got a darkskin friend, look like Michael Jackson”…

 slow jamz/kanye west

皆さんにはどんな友達がいますか?同じ高校、同じ中学、あるいは幼なじみ?
その中に、異なる人種の生物学的両親の間に生まれてきた人はいるだろうか。
もし日本に住んでいて、社会と結んで生活しているあなたの友人のなかにそんな状況の人がいるのなら、距離を取ったり特別扱いする必要はないんだけど(現在の自然な友情はそのままに)、でも一度彼らのことについて考えてみてほしい。


違和感を覚えるというのは、本人の意識だけで自然に発生することではなく、結局のところ「違和」 つまり社会との相対的差異や摩擦によって生じることで、生まれてこのかた悪意に晒されてこなかった純粋な人間同士の交流に存在するはずのない事態だ、という綺麗事(あるいは逃げ道)は横に置いておくしかない。僕はそんなことを適当に書き連ねて問題をごまかせるような人間ではない。
現実問題として、この細長い島嶼地域のそこかしこに、日常違和感を覚えながら生活を強いられている人たちが存在するし、問題の異質さは我々が島に閉じこもっていることからやってきている。大陸世界の問題から孤立したなにかを見つめなければいけない。


鎖国は必ずしも終わっていない。この縦に伸びた列島では何もかもが日本語で進行し、英語は港でカタカナと入れ替わってしまう。古くは織田信長から、そして起点の明治維新以降、人々の日常と意識の中で地位を確かにしてきた外来語たちは、本来の所有者であるはずの人々に、静かで 本質を削りとるような攻撃を仕掛けている。言語や習慣のかたちで見えない壁が張り巡らされている。
この国で過ごす彼らは、外見的な差異だけでなく、母語(mother tongue)の違和についても対処していかなければいけない。自分の話す言葉についても、家庭や周囲で話される言葉についても、自然さと不自然さが同居している。
かけられる言葉は時に全てをかたちづくる。

ハーフという呼称。生物学的母親と生物学的父親の人種が異なる、(多くの場合)特徴的な形質を持つ人々に向けられてきたこの言葉は、一見すると正直で本質的なものに見える。二分の一の異質さ。二分の一の仲間意識。片方が仲間で、片方がアウトサイダー。状況を描写しているだけの悪意のない言葉に過ぎない。そうだろ…… と僕の中のニヒルぶった部分が語りかけてくる。クリティカルシンキングぶって、皮肉屋で、逆張りで、世間に背を向けてバカにすることをクールだと勘違いしている部分。でも、と僕は思う。本当に語義を考えるのなら、halfという言葉のもつ不完全さのニュアンスについても向き合わなければいけないはずだ。半分。半分存在している≒半分欠乏している。half blood prince (半純血のプリンス)。与えられた自分の中の背反性を意識させるもので、さらに言えばbloodlineを想起させる言葉で、自分自身の核を指し示すようなものではない。人格の輪郭をなぞるような言葉で、左半身だけのシルエットを洞窟の壁に映し出すという残酷さを持っている。難しい話かもしれないけど必要な話だ。
言葉は本質を壁に映し出す。僕たちは鎖に繋がれて岩肌を見つめることしかできないし、イデアの影を映すはずの松明の灯りが、おかしな方向にかざされて、僕たちが本当より小さかったり、歪んでいたり、欠けていたりする影を見ることになるのは切ないし怒りを覚えるべき事態だ。

mixedという呼称。この言葉が向く対象自体は先のものと同じで、世間の“woke”な人たちが最近使っているのをよく見かける。意義を理解せずに流行の言葉に飛びつくことほど無意味でチープな行為はない。当然この単語にもいろいろな側面があって、手放しで「みんな!明日からこの言葉を使っていきましょう!」という態度は取れない。(pros and cons). さっき「ハーフ」について考えたときに述べた問題点について、mixedというワードは確かに回避できているかもしれない。*mixed→混ざった。混ざっている。 その通りだ、と感じる。父親から半分、母親から半分、キレイに受け継いで赤ん坊が産まれてくるわけではないことなんてみんな知っている(本筋ではないし、人格をつくるのはDNAではないから染色体の話は置いておこう)。そして混ざった結果にひとつになる、納得のいく考えだし、出来上がるのは完全なひとつの人間だ(one whole person, not half or so)。そうでしょ?
でも依然として核心に迫った単語ではない。選択肢のひとつになるのは当然だし素晴らしい解決への意識だと思うけど、混ざりものに行き当たって、おしまい。ひとつの、確かで、自分の思うがままに形作る人間性を描写することなく、ひとまず解決、あるいは一歩前進、それでいいでしょ?
よくないよな。まったく良くはない。古い人間の使う古い言葉から一段成長して、新しいワードをみんなで相談して使いはじめたって、新しい時代は訪れない。でも……。でも、そんなこと言って「意識高い系」をバカにし続けたって、新時代はやってこないでしょ?


じゃあどうしろっていうんだろう?
今僕たちが向き合っている違和感を打ち倒すために、頑張って武器を選んでいるのに、そのどれもがどこかに矛盾を抱えていて、それ自体を捉えなおしし続けるしかないなら、じゃあ何を手に取って戦えばいいっていうんだ?
その答えを出してから執筆するべきだと思うかな?僕がこんなタイトルの文章を世に出しておきながら正解を出していないのは無責任なこと?そうかもしれない。
僕の稚拙な文章では何も伝わらなかったかもしれない。こんなに近くにある問題をどうすることもできないやりきれなさも、どちらについても考えるべきことがあるということも(ハーフという言葉を悪者にしているように見えたかもしれない)、答えのなさをどうにかして受け止めることができたらという希望も。

でも答えはない。あるのは思索と対話しかない。
それをみんなでやっていきたい。


人をバカにする自分を見つめ直すこと。未来についてのもうひとつの窓になる。新しいことや泥臭いこと、肩の力の入ったことに挑戦する人たちを、煙草を吸いながら猫背で批判することは、カッコ良くもなければ世界の進歩に貢献するものでもない。それは照れや嫉妬や諦めの裏返しで、遠すぎる未来を見つめた非現実的な思想に近い。
小さな一歩を踏み出すことを心のどこかで恐れているのは、薄っぺらい思想にしがみついているのは、挑戦を始める人たちではなくて、暗がりから歯を剥いて彼らを威嚇している僕たちの方なんだろう。

そう思って、今までは安っぽい見せつけの行動に過ぎない、くだらない近代SNSだと思っていたnoteを書いてみることにした。

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