どうして女の子は、「髪を切ったこと」に気づいてもらいたいの?

「髪を切ったことに気づいてほしい」とか、「ちょっと痩せたことに気づいてほしい」とか、「掃除してあげたからありがとうと言ってほしい」とか、こういうことをパートナーに対して思う女子が巷には多いということは、前々からよく聞いていた。

かく言うわたしは、学校で「髪切った?」とか言われるのはなんだか恥ずかしかったからあんまり言われたくなかったし、痩せることも自己満足(痩せた?と聞かれるのはもちろん嬉しいです)で、相手の家の掃除は基本的にしないし、仮にするとしても相手の前でするか、自分のためにすると思う。

というのも昔、ハンガリーに留学していた時にルームメイトがいたのですが、帰宅時間の連絡がなかったりして心配"させられている"ことにイライラしてしまった時があったのだけれど、その時ある人に「それは自分が勝手に心配しているだけで、相手がそれを望んでいるかどうかは分からないし、多分望んでいないよ」と言われたことがあったからだ。その時から、仮に相手のことを想ってやっている行動だったとしても、それは「自分がやりたいからする。以上。」と思うようにしている。


この時から、冒頭に書いたようなことはほとんど思わなくなったのだけれど、ふと、なぜ「自分の変化や行動に気づいてほしい」と思うのだろうかと考えを巡らせてみた。だって、「髪切ったね」って言われたって、「痩せたね」って言われたって、「掃除してくれてありがとう」って言われてたって、何も現実に変化はないと思ったからだ。髪を切ったことを気づかれたって、髪がつやつやになるわけでもないし、痩せた事実は数字を見れば自分でも分かるわけだし、ありがとうと言われたって掃除に費やした時間や労力のコストが返還されることはないではないか。特に掃除に関しては「ありがとう」と言われれさえすればいくらでもやるのにって思う人も多いと思っていて、それって不思議なことだなと。つまり、変化に気づいてもらったとてメリットって別にないはずじゃないかと、ふと思ったのだ。

では、「髪切ったね」ではなくて「髪を切ってかわいくなったね」や「痩せて綺麗になったね」、「掃除してくれたから家が綺麗で気持ちがいいよ」だったら話は変わるのだろうか?「髪を切った」という変化の指摘ではなく、その変化によってどのくらい状況が好転したかを伝えてくれるのであれば、メリットがあると言えるのだろうか?

わたしは研究者でもなんでもないので専門的なことは分からないけれど、たぶん、変化に対する状況の好転具合(例:かわいくなったね)が付け加えられたとて、本人の気持ちに大差はないと思うのだ。「髪切ったね」と変化に気づいてもらう発言を受けることと、「髪を切ってかわいくなったね」と状況がどのくらい好転したかを示されることに、大差はないと思うのだ。もちろん「似合わないね」と言われたらマイナスな気持ちになると思うけれど。


おそらく、変化に気づかれたい、感謝されたいと思うその心は、「自分が費やした時間やお金や労力が、意味あるもの(変化を生むもの)だと認めてほしい」ということなのかもしれない。言い換えると、「費やしたコストを後悔したくないから、その変化の"存在"をしっかり表面化して認知してほしい」ということなのではないか。

髪を切ったとか、痩せたとか、初対面の人には認識され得ない変化なわけだから、だからパートナーなど変化前の自分を知っている人にこそ、そのコストを認めてほしいわけである。


もちろん、変化を一番に認められるのは自分なわけだから、誰かにそれを強要するのはまだまだ己の足で立てていない証拠だなとも思うけれど、人間は誰しも認められたい生き物である。

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