母の葬式に参列できない残酷さ
昨日の夜中に家族LINEで、お母さんが自分のお母さんが亡くなったことを告げた。
「もしも万が一」に束縛される
母は新潟の田舎の出身で社会人になった時に上京し、23歳で寿退社をした。なので今でも関東に住んでいる。
母の両親はもちろん新潟に住んでいる。
新潟といえば、コロナの感染者数は今でも一日一桁を少し超えるか超えないか程度である。一方で、一都三県には今日から二度目の緊急事態宣言が発令された。一日一桁台の感染者数なんていつだったか思い出せないほどなので、きっとまるで別の国かのような雰囲気が新潟にはあるのかもしれないと思う。
だから、母は親戚から言われてしまった。「県外の人は来ないでほしい」と。
決して関東に住んでいる人のことをウイルス扱いしているわけではなくて、もし万が一今回のお葬式で誰かがコロナにかかってしまったら、きっとみんな間違いなくお母さんを疑うだろうから。だから、こちらに任せてほしいということのようだ。
PCR検査を受けてから行けばいいじゃないか、と私は母に提案したけれど、新潟に行くまでの間に感染するかもしれないし、来ないでほしいと言われてしまった手前もう諦めるしかない、そう言っていた。新潟に着いてから検査を受ければいい、そう思ったけど、周りの人をすごく気遣う母のことだから、もう彼女の決断を最大限尊重してあげて、認めてあげて、それでいいと思うと言ってあげて、母が少しでも後悔してしまわないようにすることが娘の務めだなと思った。
しかしながら、一つも確定的な事実がない中で、自分の母親の葬式への出欠すら左右されてしまうことの憎さたるや。
お葬式に出られないということ
一昨年の1月、実家で飼っていた二匹のうちの一匹の犬が死んでしまった。私にとっては初めてのリアルな「死」だと感じた。大人になってから初めて経験した身近な死だったから。
母から連絡をもらって急いで実家に駆けつけた時には、まだ少しだけ温かかったような気もするけれど、冷えていく体、固まっていく体、動かない顔、でも、触らなかったら死んでいることは分からない。
翌日に火葬の予約を入れたものの、明日が来るのが嫌で怖くて、どうにかずっとこのままでもいいからここに置いておけないのかと本気で考えた。
でも、いざ愛犬を燃やしてくれている煙を見送ったり、お骨を拾い上げたり、そうすることで気持ちが一気に軽くなって、現実を受け入れられ、素直に愛犬と過ごせた日々に感謝できたのだった。こうした一連の行事は、この世に残された人のためにあるのだなと思った。
だから、お葬式に行けないというのはすごく、すごく、すごく、重大なことなのだと思う。死んだ人の死を実感できない、それはすごく残された人間にとって、ふんぎりがつかないというか、気持ちが安らかにならないというか、いつまでもどこか心がざわついてしまうような、そんなことにもなりかねないのかもしれないと思う。
だから、どうか、もし母と同じような思いをされている方がいたら、すべてをコロナのせいにしてほしいと思います。母も、行かないのは親不孝なのでは、薄情なのでは、と自問自答していると言っていたけど、間違いなくすべてコロナのせいです。コロナさえなければ、大事な人の死があった際には何もかも放り投げて飛んで行ったことと思います。
生きる希望とは
私はまだ30手前のアラサーなので、周りの人は健在だ。結婚しようかしまいかもまだ本気で考えていないし、仕事や趣味が楽しくて、使えるお金も増えてきて、どんどん一人が楽しくなっている。
でも、一匹目の犬が亡くなった時も思ったのだけれど、誰かが亡くなってしまっても、それに打ち勝てる「希望」に思える存在というのは、死を乗り越えるためになくてはならないと思った。犬を例にしてばかりで恐縮だが、一匹目の犬が亡くなった時は、家に帰れば元気なもう一匹が待ってる、そう思うだけで頑張って生きようと思えたものだ。ちなみに翌年の一月にそのもう一匹も亡くなってしまったのだけれど、幸いにして今度は兄の奥さんの妊娠が発覚して、また希望を感じることができた。
そうして、自分より若くて、元気で、健康で、眩い未来が待っていると思われる(本人がどう思っていようと)命を繋いでいくことで、また明日も生きていける、そのくらい人間は自分一人では脆いものなのだと思わされるようになった。
無責任に、ただのエゴで一人の人間をこの世に爆誕させるなんて、私には到底荷が重すぎる、背負いきれない、怖い、とずっとそう思ってきたけれど、自分が生きていくためにも、また両親が少しでも明るく生きていくためにも、新しい命を授かることも素敵なことなのかもしれないと、やっと思えるきっかけになりました。
おばあちゃん、お見送りできなくてごめんね。ありがとう。