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いつまでも好きな人

20代の頃から鶴田浩二氏が好きだった。
こんな人がお父さんだったらなあとか、親戚のおじさんだったらなあとか、よく夢想した。正確に言うと彼が好きというより、彼が演じる役柄が好きなんだろうな。

当たり前のことを当たり前にできる大人。
自分の中に確固とした信念を持ち、誰が見ていようと見ていなかろうとそれを貫く。自分には厳しいけど、相手にそれを押しつけたりはしない。
どんな時も相手の心情をおもんばかる。決して独断で相手を切り捨てたりはしない。でも言うべきことは言う。自分の考えとして。
その上で「おまえはどうなんだ」と相手の考えを聞く。
いいなあ。かっこいい。ほんとにすてき。
私もこういう大人になりたかったなあ…(いや、まだ諦めちゃいけない)。

そしたらなんとBSプレミアムで『男たちの旅路』を一挙放映してるじゃないですか!
慌てて録画した。悔しいことに第一部は前の週に終わってた。
なんてこった~!
一話一話じっくり観た。ただただ懐かしい。
全編昭和の匂いがプンプン。水谷豊氏の若いこと!大好きな作品だったのに、内容はことごとく忘れてしまってて、お蔭でまるで初めて観るみたいに楽しめた。
第三部の『シルバー・シート』には泣けた。路面電車を突如占拠し、立てこもる老人4人。
理由は何なのか?
何か要求があるのか?
ひょんなことから老人たちと顔見知りになった洋平(水谷豊)と吉岡(鶴田浩二)はその真意をくみ取ろうと必死で働きかける。が…
「何が要求だと思う?」
反対に彼らからナゾをかけられちゃったりする。
老人たちがまたいい。
木村喬氏、笠智衆氏、藤原釜足氏…と往年の名優たちが勢ぞろい。それだけで、うわ~めちゃくちゃ豪華!とワクワクしちゃう。
 
さて、話し合いを続けるうち、結局老人たちは誰かに対して何かを要求したいわけじゃないんだとだんだん分かってくる。
要求はない。
けれど満たされない思いはある。
むしろ強くある。
その思いを言葉にしたところで受け入れてもらえないことも、理解してもらえないことも、彼らは重々承知。
だから要求なんかしない。
「私たちは捨てられた人間です」
と老人たちは言う。
年老いた今、自分を必要としてくれる人は誰1人おらず(皆さん家族がなく、同じ老人ホームで暮らしてる仲間)、ただ世間の重荷になっているという現実をかみしめながら、ひっそりと生きている。
仕事がしたくても場がない。力もない。
自分の耄碌の程度すら、自分じゃよくわからない。
年老いた人間に同情してくれる人はいても、敬意を表するものなどいない。
だけど、人間はしてきたことで敬意を表されちゃいけないのか?
そういう過去を大切にしなきゃ一生っていったい何なんだ?
ただこうして次々に使い捨てられていくだけなのか?
切々と訴える老人たちに吉岡は言う。
「気持ちは分かるが、まちがっているんじゃないか。こんなことをした人間に誰が敬意を表すると思いますか。立派な過去を汚すだけじゃないですか」
それに対し、
「それは理屈だ」
と老人たち。
あと20年も立てば、あれは理屈だったとあんたも理解できるよと。
「年を取ったら分かると言って突き放すくらいなら、なぜこんなことをしたのか?すねた子供が押入れに閉じこもったのと同じじゃないか。外に出て言いたいことを言えばいい」
吉岡のきつい言葉。こんなふうにきちんと憤りを伝えられるのもいい。一見辛辣な批判のようにも聞こえるが、その裏に
「…なぜ言わないのか?」
という反語(問いかけ)が隠れている。と私は感じる(私の耳には吉岡が言うことならなんでも良く聞こえちゃうのかもしれないけど…)。
吉岡の厳しい言葉に、老人たちは動じる様子もなく、淡々と言う。
「これは老人の要領を得ん悪あがきです」
この時の笠智衆氏のなんともいえない表情。怒りや悲しみをとうに突き抜けた、どこか幼子を思わせるような無垢な表情。
世間に訴えても解決できる問題じゃないことくらい、言われなくても彼らはとっくに理解している。
それでもなおウワーッと無茶をやりたくなる。理屈が分かることと、納得できることは別。いくら頭で理解できても、それで寂しさや無念な思いが消えるわけじゃない。
この辺の心理はまさに
「年を取ってみなきゃ分からない」
のだろう。まだ少し若い吉岡には理解できないし、さらに若い陽平にはもっと理解しがたい。
最後に老人たちを警察に引き渡した吉岡に陽平は怒りをぶつける。警察沙汰にならないよう説得すると吉岡が言っていたからだ。
「老人だからと特別扱いしないで下さい。一人前の人間として黙って警察に引き渡してくださいね」
話をするうち、吉岡は老人たちにこう頼まれていた。こういう形で彼らに敬意を表するしかなかったのだろう。
 
「結局じいさんたちの主張は何だったんです?」
と陽平。それが分かればオレが変わりにみんなに訴えてやるのにと。
「お前も年を取ると言われた。ただそれだけのことだ」
吉岡の言葉に陽平は「それだけ?」と完全に拍子抜け。
当時まだ20歳ぐらいだった私の印象も、たぶん彼と同じだったんじゃないか。おぼろげながら覚えてる話なのに、面白かったという印象は残っていない。
なんの結論もないストーリーに、陽平同様釈然としなかったんだと思う。
この年になって観ると泣けるし、一方で老人たちの気持ちに共感できなくても自分なりに関わっていこうとする、陽平の若い正義感をまぶしく感じたりもする。
 
あれから40年近くたっても、高齢者を取り巻く環境はほとんど変化していない。今もって、年老いた人が安らかな余生を送れる世の中が実現してるとは思えない。
91歳間近の母を見ていても切なくなる。去年までできてたことが今年はもうできない。できたとしてもうんざりするほどの時間や労力がかかるようになる。
自分の体から、一つまたひとつと、若い頃からコツコツと身につけてきた能力が、ふっと指の間からこぼれ落ちるように失われてしまう。それを見つめ続けることがどんなに辛いか。無念なことか。信じられないことか。
それが年を取るということなんだよと言われても、はい、そうですかと、納得できるわけがない。納得できないけど、受け入れていくしか、生きる道はないのだ。
弱く能力のない人間は、世間から一人前の人間として扱われなくなる。居場所がどんどん狭められ、すみっこへと追いやられていく。
まじめに懸命に生きてきた人たちが人生をそんな理不尽な思いで終えなくてはいけないなんて、この世の中はどこか歪んでるんじゃないかと思えてならない。
年老いて幸福感が持てない世の中って、つまりは誰もが幸せじゃない世の中ってことでもある。だってみんないつかは老人になるんだから。
お金があったとしても解決できない問題だ。私たちが良かれと思ってたどり着いたはずの今の社会のあり方に疑問符が浮かんでしまう。
母とともに、少しでも幸せに年老いていく道を模索する日々だ。
まだ答えは見つからない。

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