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『罪と罰』の問いと答え4 エレーナ・ゴルフンケリ
ここでまた日本で構想されたこの芝居におけるロシア性という話題に戻るべきだろう。ロシアの俳優たちは三浦基の提起した構想やイメージに従い、それもかなり正確に実現することに成功したが、成功したのはそれだけではない。彼らはそこから、作者の志を傷つけることなく、自分なりの興味や利益を引き出している。例えばセリフの冒頭の「ア」と「オ」の音だが、ロシアの俳優には日本語のような軽い音の飛翔がない。その代わり彼らには、我が国の舞台経験から生まれる自然な、微細な感情のニュアンスがある。演出家が提案する演技スタイルは、彼らが自分なりに感じることを促し、感情をごく短い形で表現することを覚えさせたのだ。あるいくつかのケースでは、自前の精彩に富んだ役作りに結びついている。例えばルージン(イワン・フェドルーク)。これは実に際立った仕事だと認めざるを得ない。こうしたもの(際立った処理)は一見この芝居の全体的な色あいにそぐわないようにも見える。しかしそんなことはない。なぜならルージンのテクストに入り込む複数の「ア」は、この役のリズムを作り、感情表現を加えるだけでなく、さらにそこに個人的なニュアンスをも盛り込んでいるからだ。ルージンは大層おしゃべりで動きの多い人物である。持ち前の大きな歩幅と飛び跳ねるような足取りで、彼は舞台中を(橋の全部を)自由に歩き回り、行き止まりの向こうにまで飛び出そうとする。騒々しく落ち着きのないこの人物は、自分のエネルギーの磁場にラスコーリニコフも、ソーニャも、カテリーナ・イワーノヴナもレベジャートニコフも引き寄せてしまう。このルージンが人となじみになったり、呼び止めたり、責めたりする手法は、結局マニアックでユニークな例の「ア」に尽きるのであり、その背後に彼の横柄さとうぬぼれが控えている。第一幕の終わりでは、演出家が見事な機知を発揮して、このルージンの長広舌を幕を下ろしてちょん切ろうとするのだが、ルージンは何とかその幕の下に潜り込もうとする。ルージンのテーマはコメディーの連続と化しているが、それを可能にしたのは役者自身である。わざわざこのルージンの正体を暴露する必要はない。役そのものが自己暴露的に演じられているからだ。「エフェクト」を「フェフェクト」と発音するルージンの言葉のおぼつかなささえもが、気の利いた笑劇風の色付けとなっている。日本語版でもルージンは同じく効果的だった。あたかも独りよがりのネジが、観客の目の前でぐるぐると地面に潜っていったかと思うとすぐにまた駆け上ってくるといった感じなのだ。京都でもペテルブルグでも、ルージンの造形は我が国の演出で通例となっていたものをしのぐ効果を発揮した。演出家はこの人物に何かしら日本の喜劇の伝統につながるものを見出し、ルージンを否定的な魅力の持ち主として特別あつかいしている。
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喜劇的要素は三浦の演出に多くみられる。彼はドストエフスキーのコメディー的本性を感じ取り、それを尊重している。皮肉は影の声として響く――例えばペテルブルグの住人の約半数は、自分相手に独り言を言う癖があるという指摘など。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナ(ユリヤ・デイネガ)のシーンは何やら子供っぽいキーキー声と、おかしなけんか腰の態度が支配する。群衆に交じって橋の上の通路や前ステージにいる時のほかは、このラスコーリニコフの母親のいる場は階段の手すりの隙間しかない。そこから彼女はキーキー声で息子への手紙を読み、そこから息子と話す。息子ロジオンは母親の手の届かぬところにいる。何の断りもないまま、家族から出て行ったのだ。息子には何かしら秘密がある。彼の論文を読むのは3回目だが、何もわからない。女優に残されたのはただ声と抑揚の遊びだけで、そこに、偉い息子に対する慄き、子供のような純真さ、どこまでも尽くし、愛してやろうという覚悟、さらには愚かしいほどの単純さがうかがえる。女優が選ぶのは単純な声の調べで、そこには何一つ深い音色はない。さえずりのような高い女の声が、かすかな(あるいは押し隠した)憂愁か、あるいは見せかけの陽気さを含んで、ありふれた母の哀歌を繰り返すのだ。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナの造形において、この女優は芸術的に洗練された喜劇性(コミズム)の域に達している。おそらく演出家も女優もともに、過剰なセンチメンタリズムに陥るのを嫌ったのだろう。つまり日本の演劇流派の厳しい原則も、女優がその役に自身の〈学校仕込み〉の生活を演じる力を活かす妨げにはならなかったのである。
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カテリーナ・イワーノヴナの場合、どんなコミカルなところがありうるだろうか? かすれた、全身をふり絞るような咳、半ば狂気をともなう他愛ない女性の醜い風貌、膝で這って行ってルージンに寄りかかると、相手が疫病から逃げるように身をかわす様子――どこを見てもつまはじきの対象ではないか? たしかに、肺病を病みながら呪いから祈りへと早変わりを見せる彼女は、疫病そのものではないか? だがそのすべてが簡潔、滑稽に、才能豊かに演じられる。カテリーナ・イワーノヴナ(エレーナ・オシーポヴァ)の人物像は、苦悩と屈辱のグロテスクである。
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舞台裏で規則的に、破裂音のような、こう言ってよければ客観的な立場からの笑い声が聞こえる。三浦がドストエフスキーとともに笑っているのは誰のことだろう? ラズミーヒン(ドミートリー・カルギン)はもちろん例の「ア」をネタに、ルージンないしスヴィドリガイロフを嘲笑する方法を編み出した。このスヴィドリガイロフ(イワン・カンディーノフ)というドストエフスキーにおける重要な地主旦那にも、ある種のアイロニカルないろどりが〈処方〉されている。スヴィドリガイロフもペテルブルグでは旦那ではないのだから、これも当然である。
小説に比べるとこの芝居では彼の役は切り詰められている。とはいえ他の役もすべて、内容的にミニマムに圧縮されているのだが。皆と同様、スヴィドリガイロフも社会階層的な特徴を失っている。スヴィドリガイロフが手持ちにしているのは一つの重要な行為と重要な言葉だ。我が国の演出の常道となっているスヴィドリガイロフとラスコーリニコフの妹アヴドーチヤ・ロマーノヴナとの長いデュエット、あのエロチックな決闘を、三浦は前提としていない。われらがペテルブルグの『罪と罰』におけるスヴィドリガイロフは、にもかかわらずソリストである。アヴドーチヤ・ロマーノヴナとプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナの後をつけてこの町の通りを、河岸を、横丁を、橋をひたすらさすらうスヴィドリガイロフの、その磁石を持った独特な旅の果てに、ソロとしての出番が回って来るのだ。スヴィドリガイロフの二つの短いシーンは切り詰められているが、よくわかる。厳しい、引き締まった立姿、軽くうつむいた、あるいは挑戦的にもたげられた頭、あたかも身振りを、情欲や邪念を押し隠すかのように両ポケットに突っ込まれた手、あるいはドゥーニャに向けて男らしく決然と、あるいは男らしい色気で乞うように(何を? 愛を、それとも許しを?)さし伸ばされた手――その様子からはとても目が離せない。カンディーノフは表情豊かな声を持ち、それはスヴィドリガイロフを苦しめる感情の激発に忠実である。彼のわざとらしい、見せかけの、飛び切り大きな笑い声――それは何かしらくだくだしい感情を覆い隠す仮面である。それはロシアの芝居なら延々と展開しうる感情だが、日本式の芝居では禁じられているのだ。スヴィドリガイロフはやすやすと、ほとんど楽しげに「アメリカへ旅立つ」。端のほうの階段のてっぺんからそれを「全ペテルブルグに」あるいは全世界に向けて呼ばわりながら。ドアの向こうで銃声がした時も、散文的な自殺ではなく、無への跳躍がなされたような気がするのだ。スヴィドリガイロフのうちには、何かしら言い残されたこと、あるいは言われなかったことがある。観客には彼の二面性――怖さとやさしさ、毒々しさと熱烈さ、従順さと挑発性――が残される。スヴィドリガイロフやその他の登場人物のケースで日本の演出家から得た教訓は、どんな役においても、文学的、および視覚的部分を切り詰めるのが有益だということである。そうすることによって観客の想像力や記憶力が、すこぶる活発に芝居との相互作用を開始する。舞台と客席の間で、あたかも記号の、私流にいえば意味の象形文字の、やり取りが始まるのだ。ここにもまた観客の想像力に訴えかける、日本流の演劇の遺産がある。日本の観客の想像力は、ロシアの観客の場合よりも活発で反応がいい。観客が、想像力を掻き立ててくれるものを待ち構えているのだ。
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ポルフィーリー・ペトローヴィチの人物像はどんな映画でも芝居でも、常に謎めいている。そのバリエーションは――生きた心を持たぬ法の番人、「高みに立つ」教導者、所帯じみた探偵(ドストエフスキーが言及している部屋着も含め)、「おしまいになった人間」など。ルスラン・バラバーノフの場合は、演技が二つの部分に分けられていた。最初の演技――ポルフィーリー・ペトローヴィチはペテルブルグの同じ一つの場所を歩幅で測っている風変りな人物。ラスコーリニコフと出会うとちょっと当惑したような薄笑みを浮かべる。あまり自信なさげにラスコーリニコフの罪障を明かそうとする際も、両手のこぶしをじっと胸に押し付けて、突き出したその指が殺人者を指し示す。このなんだかおもちゃじみた、そして同時にお遊びめいた仕草は、完全に解放された第二部のポルフィーリー・ペトローヴィチには全くそぐわない。まずは重要なラスコーリニコフとの会見の場面、捜査官が犯罪者の前に犯行時の状況を完全に開示して見せるシーン。そこでバラバーノフはイントネーションをがらりと変える。作り物の驚き声で「おやおや、あなたでしたか」などと言っていた彼が、胸の奥から出てくる、ゆるぎない、いわば堂々と自信に満ちた声で語るのだ。確かにその途中、例のミコールカ(リョーニャ・ネチャーエフ)が捜査官と殺人者の真剣な対決の場面に泣きながら闖入して自白する珍事のため、彼は束の間混乱する。しかしポルフィーリー・ペトローヴィチがうろたえるのはほんの一瞬だけであり、また彼は対話のスタイルを立て直す。これは非常に重要である。この最後の会話は、何かのついでの、ちらりとした会話ではなく、お互いが最後の正義を求めて行う会話である。二人のいずれにも自分の正義があるのだ。ラスコーリニコフへのはなむけの言葉(「生きて、未来の人生に幸せを期待しなさい」)を発するポルフィーリー・ペトローヴィチの声にも、何かしら自分の「終わってしまった」人生への悲しみのごときものがこもっている。その瞬間のポルフィーリー・ペトローヴィチの言葉には、憐れみと共感と悲しみを告げる、高い、バリトンのような調べが混じる。例の小説の総譜的スコアには、この捜査官用の決まりセリフも用意されているが、それはこの人物像の大きさを感じるのを妨げはしない。歩き回る運動状態からぴたりと静止状態に移った彼が、容疑者(この捜査官から見ればすでに犯人なのだが)と最後に対面し、伸ばした手の動きでまっすぐにラスコーリニコフを示し、再会を約すときも、人差し指をのばしたその彫刻のようなポーズが、この捜査官が行うめぐりあわせになった探求の、荘厳なる終焉を表している。
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この人物は、むろんラスコーリニコフと並ぶ中心人物だ。ラスコーリニコフ、ポルフィーリー、ソーニャ、ミコールカが並ぶシーンは何度か繰り返される。この4人の登場人物が橋の左側にぞろりと斜めに並ぶ図柄。ポルフィーリーは、また路上のラスコーリニコフを目撃して、彼に両手の人差し指を向ける。架空の殺人犯で捜査妨害者のミコールカは、ポルフィーリーの背後に立って、限られた一瞬のチャンスを狙っている。だがミコールカとポルフィーリーの間にはソーニャがいて、ちょっと膝を曲げて十字を切る格好のまま固まっている。そもそもこの配置のうちに、物語の筋がそっくり語られているのだ。一瞬動きを止めて固まったこの人物配置が、さらっと描いたスケッチのような形で、出来事の本質を暗示している。しかしこの橋上のストップ・シーンにも、ある種の偶然性への暗示がある。つまりどこかの時点まで、これらの重要人物たちも、街を歩く群衆と一つに交じっていたのだ。ペテルブルグの市街のあちこちを、喧噪や馬車の騒音、教会の鐘の音に包まれて、雑多な顔をしながらひとつのかたまりとなって、時には速足で、時にはゆっくりと歩む集団のイメージ――それは極めて雄弁だ。あたかもこの演出家が、ドストエフスキーに倣って、群衆中の(つまり世界中の)どれか一人の人物に光学装置を向けると、その相手がにわかにくっきりと浮かび上がり、目に見える興味深い人物と化すかのようだ。その姿に視線が据えられ、相手の特徴、おかれた状況、個性、ひいては醜さや美しさまでもが観察される。そのあとでその人物はまた群衆に混じりこみ、群衆があらゆる人間を飲み込んでのっぺらぼうの塊と化すと、視線もまた顔のない集団の中に溶け込んでいく。三浦の舞台で集団を構成するのは、たかが15人ほどの登場人物に過ぎないが、人間は多様であるという印象がはっきりと示される。
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エレーナ・ゴルフンケリ
ロシア国立舞台芸術大学(サンクトペテルブルグ)教授
原文
Елена ГОРФУНКЕЛЬ «Вопросы и ответы «Преступления и наказания»», 『Slavistika: 東京大学大学院人文社会系研究科スラヴ語スラヴ文学研究室年報』37巻、2023年、5-20頁。