イェリネク語と地点語 佐々木敦
「わたしたちはいつも思う。全くの外部にいると。」
エルフリーデ・イェリネク『雲。家。』(林立騎訳)
私はドイツ語を読めないので、エルフリーデ・イェリネクの作品は、もっぱら日本語訳で読んできた。それでも彼女の言語遣いの異様さ、異常さはじゅうぶんに伝わるし(そこに多少とも勘違いや思い込みが作用しているとしても)、それを言ったら他の外国語の翻訳だって同じことだ。イェリネクの戯曲の日本語上演を最初に観たのがいつでどれだったかは記憶が定かではないが、それ以前に文字で邦訳作品を読んでいたはずだ。冒頭で引用した『雲。家。』はPort Bとかもめマシーンによる上演を観たことがある。演出/上演にかかわる他の様々な要素を括弧に括って言えば、俳優によって発される台詞を「聞いた」時、イェリネクを「読んだ」時の感触と、大きな違いは感じなかった。それらはまるでイェリネクを読んでいるみたいだった。これはもちろん良い意味で言っているのである。そこにはオーストリアのノーベル文学賞作家への、そして日本語翻訳者への、敬意と尊重があった。
ところが地点による『光のない。』を観た時、全然異なる印象を抱いたのである。もちろん敬意と尊重に欠けているというのではない。だがしかし、その時感じたままを書くと、三浦基と地点の役者たちはイェリネク(の言語)と差しの真剣勝負で丁々発止の渡り合いを演じているように思えたのだ。周知のように地点は既存の戯曲(など)を上演するにあたって強烈な変調や操作を施し、時に地点語などと呼ばれる異様で異常な台詞の発話を醸成させる。その特異な方法論がイェリネクほど嵌まる作家はいないだろう。地点の『光のない。』を観ることは、原作戯曲を読むのとは完全に別種の体験だったのだ。
重要な点は、地点がやってのけたのがイェリネクの新たな解釈とも一風変わった翻案とも決定的に違うということである。誤解をおそれずに言えば、それは戯曲の読解の範疇をとっくに逸脱している。しばしば難解だとされ、実際にも難解なイェリネクの言葉が、ドイツ語だとか日本語だとかの差異を超えた言語そのものの即物性として、ゴツゴツとした手触りとともにそこに在った。日本語なので何を言っているのかはかろうじてわかるが、だがそれは意味の理解というよりも「音」として、いや「力」として、一種の「波動」のようなものとして、こちらに迫り来る。つまりそれはドイツ語を日本語に翻訳したものというよりも、いわばイェリネク語を地点語に翻訳した上演だったのだ。
それゆえに『光のない。』を多言語へと押し開いた『ノー・ライト』が可能になったのだろう。たまたま日本語を母語とする者たちで構成されているが、実をいえば地点はもはや日本語の劇団ではないのだ。それはエルフリーデ・イェリネクが、たまたまドイツ語を使用しているが、ドイツ語の作家ではない、というのと同じ意味である。『騒音、見ているのに見えない。見えなくても見ている!』という途轍もなく魅惑的なタイトルの次なる「勝負」、イェリネク語と地点語の更なる一騎打ちに大いに期待したい。
ちなみに『雲。家。』の「わたしたちはいつも思う。全くの外部にいると。」の続きは「そうして突然、中心に立つ。」である。
(批評)