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『罪と罰』の問いと答え1 エレーナ・ゴルフンケリ

地点が2020年3月にその原型を創作した舞台、ドストエフスキー原作『罪と罰』は、パンデミックと戦争の影響で三度クリエイションの延期を余儀なくされながらも、2023年4月にサンクトペテルブルクのボリショイ・ドラマ劇場(BDT)で初演され、現在もレパートリー作品として上演されています。日本での初演とロシアでの初演、その両方を観劇した現地の批評家エレーナ・ゴルフンケリさんの2万字に及ぶ劇評を5回に分けて掲載いたします。

近年ドストエフスキーの小説『罪と罰』への関心が増しており、演劇界においても同様である。関心が高まるとともに、演劇界がこの小説及び作者に寄せる問いの数も増えている。古典作品が時代を経るうえで、これは自然な現象であり、作品はますます難解なものとなる。古典は世界とともに時間の中を移動しながら、その時々の〈与えられた状況〉を吸収し、昔から知られた筋を様々な見知らぬ方向へと展開させていく。二人の人間を殺した主人公ラスコーリニコフは、後悔したか? その後悔の代償は何だったか? 自己を確立するために人を殺さねばならない社会のモラルとは何か? どうして信仰が救いになるのか? そして何から救うのか――罪から? 本当に救い得るのか? 果ては――この学生には一体罪があるのか? 劇団が、演出家が、俳優が、これらの、あるいはほかの、自分独自の問いに対して、様々な答えを出そうとする。そもそも劇団と演出家が提起する独自の問いこそが、通例、一回一回の上演に対して受け手が、すなわち観客が、人々が、社会が、向ける関心の中心を占めるのである。

地点『罪と罰』Photo by Takuya Matsumi

わがロシアに限らず全世界的な関心も含めて考えるなら、原作(小説)へのまなざしはさらに新たな問いを含めた豊かなものとなるだろう。そう、まさに豊かなものとなる――なぜなら、ますます昂進していく複雑さと全世界性こそが、現代のわれわれと19世紀の偉大なる芸術的な言葉との間の深い紐帯の根幹なのだから。

日本の演劇とヨーロッパやロシアの演劇を分かつ〈万里の長城〉は、とっくの昔に取り払われている。したがってドストエフスキーの小説が劇団「地点」のポスターに掲げられることは、何も不思議ではない。京都のこの劇団について我々はいくらかのことを知っている。舞台演出家で、西欧やロシアの作劇法による脚本作家である三浦基は、俳優たちとともに、正確に言えば劇団の長として、ロシアの諸都市を訪れている。三浦さんの芝居は簡潔でしかも極めて自由な舞台であり、月並みでない発想の鋭さ、民族的なものと世界的なものとの結合ぶりで見る者を驚かす。彼ははっきりとヨーロッパ演劇のモデルを自分のために選択し、それを東洋的なものと接合している。地点の演目にはシェイクスピア、ブレヒト、ドストエフスキー、ミラー、アルトー、フォッセ、太田省吾、デイヴィッド・ハロワーが含まれる。チェーホフはとりわけ特別な位置づけで、その〈四大戯曲〉は三浦にとって特別な演目となっている。オペラも手掛けている(フィリップ・グラスの『流刑地にて』)。三浦はパリとモスクワでの研修経験を持ち、このわずか15年ほどの間に、地点は何度もロシアを訪れ、各地(モスクワ、ペテルブルグ、ウラジーミル、オムスク、ヴェリーキー・ノヴゴロド)の演劇祭に参加したり、独自に旅公演を行ったりしてきた。

現在の彼はロシアにおいてゲストでも巡業者でもなく、トフストノーゴフ記念ボリショイドラマ劇場(BDT)の『罪と罰』を手掛ける演出家である。これはひとつの実験である。その狙いは、ロシアと日本という二つの要素を組み合わせた舞台上で、今一度この小説を活性化させることにある。つまり三浦の演出でロシアの俳優たちが演ずるのだ。

Photo by Stas Levshin 2023 @The Tovstonogov Bolshoi Drama Theatre. St.Peterburg

ペテルブルグで芝居を手掛けるに先立って、この演出家はこの作品の〈パイロット版〉と呼ぶべきものを本拠地の京都で制作している。つまり構想、舞台構成、演技の方針は日本という土地で作られた。そのうえでその〈半製品〉がペテルブルグに持ち込まれたのだ。それゆえに本来演出的には出来上がっている芝居のオーサーシップと、ナマの、ロシア人の演技とを、合体させる必要が生じた。

Photo by Stas Levshin 2023 @The Tovstonogov Bolshoi Drama Theatre. St.Peterburg

わざわざそんなことをする意味があるのか?――そんな疑問がまず浮かんでくる。まずは演出家をペテルブルグに呼んできて、すべてをここで、現場で作らせたほうが簡単ではないか? 通例、招待演出家の公演というのはそうしたものだ。演出家のプランがいかに独創的であろうと、結局はなにもかも異質な客演地の舞台上で新たに生み出されるのだから。

答えはおそらくこうだ――ヨーロッパの演出家の場合、誰を呼んできても(三浦より)はるかに我々ロシア人に近いから、事前のモデルにも(もしそんなものがあったにせよ)、アジアの劇団の場合ほどはっきりとした違いは生じない。今回の『罪と罰』の企画の価値は、二つの流派、二つの伝統を一つに統合してみようというところにあるのだ。

たしかに三浦は日本演劇の歴史的伝統に拘束されず、自由な態度をとってはいるが、完全に伝統を拒絶しているわけではない。伝統は彼の演出の生地に織り込まれている。だから時として、その生地の中のあれこれの〈糸〉の由来がわからないことがある。全体の絵柄もトーンも色彩もリズムも、すべてなじみで、まさにペテルブルグ風なのだが、同時に斬新に感じられるのだ。

京都の〈パイロット版〉とくらべるとこの二重性に対する驚きは一層強くなる。私はそれを見る機会を得た。京都版のドストエフスキーは、三浦の芝居の大半がそうであるように簡潔でコンパクトに思えた。ペテルブルグでも、最初の印象はそのままだった。小説のテクストから特別に切り取られた、まるで暗号のような言葉群――「僕は知っています!」「さあ行こう!」「僕は見た!」「知りたいなあ!」「神様、お護り下さい!」――が繰り返される(そしてペテルブルグでも繰り返される)。これはそれぞれの役のキーワードなのだ。「僕は知っている!」性急で苛立ったラスコーリニコフの言葉――彼には実際、言われなくてもわかっているのだ、自分が何をしでかしたか、何が自分を待っているのかが。「神様、お護り下さい!」――これはカテリーナ・イワーノヴナの絶え間なき祈りで、自分を、酔っぱらいの夫を、子供たちを、継娘を護ってくれと言っているのだ。「知りたいなあ!」は、登場人物たちの間を徘徊し事件の展開を注意深く追っているザミョートフ(ザメートフ)の心の声だ。「僕は見た!」は、偽善者ルージンのたくらみを目撃したレベジャートニコフの叫び。「さあ行こう!」は、エピソードからエピソードへと観客を導いていく、疲れ知らずの語り手役ラズミーヒンの呼びかけである。

地点『罪と罰』Photo by Takuya Matsumi

掛け合いや独白や対話の始まりにおかれる「ア」「オ」という短い音が、日本語版の芝居のリズミカルな音の音楽を作り出していた。言葉の応酬に付随するこうした音も異色なら、登場人物たちが指揮者のように手を伸ばして、お互いの立ち位置を指示しているのも異色だった。手による指図で、文字通り役者たちの配置がぴたりと決まるのだ。全部の指を伸ばしたり一本指だけ伸ばしたりする手のひらの形は、スリラー小説やアクション小説を連想させるが、ただし発砲事件など気配すらもない(舞台裏で起こるスヴィドリガイロフの自殺を除いて)。

登場するドストエフスキーの人物群には、革命前の町人風の服装をした者もいれば、現代のペテルブルグの場末の住民風の服装の者もいて、それが観客を(つまり2020年当時唯一のロシア人観客だった私を)よく見知ったようでいながら、同時に精密な本当らしさからズレのある世界へといざなうのだった。

地点『罪と罰』Photo by Takuya Matsumi

だが大事なのは壁、防火外壁で、それが舞台装飾の主要要素になっている。それは舞台奥に、古きペテルブルグの街路の防火壁とそっくりの姿で立っていて、ひび割れ、色は褪せ、非常階段が取り付けられている(今日ではこういった壁に画家たちがモニュメンタルなグラフィティを描いたりする)。その壁はペテルブルグの弱い夕日に照らされていた。4つのドアといくつかの窓がいろんな高さに付いていて、人物たちの住まう屋根裏部屋や、話を交わすことのできる居酒屋を示している。まさに示しているだけで、それ以上ではない。この舞台は実生活の細部など一切必要としていない。事件の場のしつらえも、小道具も不要だ。告白も、手紙も、告発も、許しも、階段の踊り場で声として発せられる。すると壁は、いろんな高さに住まう者たちの様々な欲望や恐れによってにぎわう。ペテルブルグの壁が野鳥たちの棲家に似て見えた。

Photo by Stas Levshin 2023 @The Tovstonogov Bolshoi Drama Theatre. St.Peterburg

前景には舞台全体を横切る形で橋が架かっている。その特殊な、詩的な意味合いは、のちに明らかになる。この橋もまた主な演技空間だった。人々がその橋を歩きながら出会ったりぶつかったりするのだが、その様はドストエフスキーの時代にサドーヴァヤ通り、ゴロホヴァーヤ通り、ストリャールヌイ横丁、ポディヤーチェスキー橋などを歩いていた人々とそっくりで、一人だったり二人連れだったりするが、ただし作品の筋書きに則した厳密な秩序に従っている。例えばスヴィドリガイロフはプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナとアヴドーチヤ・ロマーノヴナの後を追って歩いている。あれこれのエピソード場面の外では、事件の参加者たちは単なる通行人と化し、群衆の一部としてペテルブルグの河岸や橋や通りをひたすら歩くのだ。

地点『罪と罰』Photo by Takuya Matsumi

こうした日本の芝居の硬い骨組みは、一見原作小説が提起しているような人物像の開示の可能性を閉ざしてしまうかに見える。だがそうではない。どの登場人物にも独自の詩的及び理念的な解釈が施されている。日本版ラスコーリニコフは意志強固で、自己の克服、周囲の者への優越という理念に取りつかれており、最後の一瞬まで戦おうとする。彼のうちには何かしら自己犠牲への偏執を抱えた騎士に似た、ちょっと侍めいたところがある。ひたむきな、厳しい顔、固く握りしめて筋肉のこぶを浮かび上がらせた手、床にも地面にも橋にも、たとえ跪いたときにさえ、しっかりと踏ん張った全身――このすべてが和製の〈ペテルブルグの住人〉たちの中で彼を際立たせていた。ソーニャも彼に劣らずまっしぐらな性格だった。ラスコーリニコフが戦闘的であるのと同等に、彼女は道徳的な厳格さを備えていた。このペアはマクベス夫妻を連想させる(ただし仮にソーニャの並外れた意志力を倫理上の非完全主義の方向へと向けることができたならばだが)。ルージンはその自己満足ぶりの演技が見事だった。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは嘆きぶりや息子への盲目的熱愛ぶりで、典型的なロシアの母を体現していた。ラズミーヒンは『ハムレット』のホレイショと同じく目撃者と語り手の位置にとどまった。

ポルフィーリー・ペトローヴィチは告発者と捜査官の境界にとどまっていた。カテリーナ・イワーノヴナは日本版でもすべての者すべてのことにいら立つ凶暴性を失っていなかった。京都芸術大学の演劇ホールで行われたこの芝居を私は最も強い印象を受けたものの一つとして思い起こす。ロシア小説を理解し、かくも深い関心を持ってくれたことへの感謝とともに。

地点『罪と罰』Photo by Takuya Matsumi

エレーナ・ゴルフンケリ
ロシア国立舞台芸術大学(サンクトペテルブルグ)教授

原文 
Елена ГОРФУНКЕЛЬ «Вопросы и ответы «Преступления и наказания»», 『Slavistika: 東京大学大学院人文社会系研究科スラヴ語スラヴ文学研究室年報』37巻、2023年、5-20頁。

https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/records/2008004




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