おばあちゃんの想い

80歳を超えたおばあちゃんは今、母と父と暮らしいている。子供はみんな家を出て、3人だけ。昔からのボケていたが、ここ2年ぐらいでの認知症の進行度が中々である。デイサービスに行ったことを帰って30分ぐらい立つと忘れている。夕飯を食べたことを覚えてない。コケたことを覚えていない。子供の名前を思い出せない。など。よくテレビで耳にしたような典型的な認知症だ。それを父と母が介護をしている状況。久々に正月に帰るとおばあちゃんに対する態度が変わっていた。多分母と父は気づいていない。母は典型的な母親でお節介をする。何でもやってあげなきゃいけないと思っている。子供の頃それがしんどくて段々と自分のことを喋らなくなってきた節が私にはあった。優しさなのかとは思うが、受け取る側は申し訳ないがそれがしんどかった。
今日は食事の場面で、「ご飯これぐらいでいいよね」とか、「いいお肉入れたからね」とか何度も押し付けおお節介をしている。それに対して子供は「自分で決めるからいい、自分でやるから。」との回答。おばあちゃんは何も言わずに言われるがままにしていた。
そんな中で、赤い実がついた枝が食事の一品についていた。おばあちゃんは植物が好きだ。昔は庭掃除を一人でやっていていろんな植物を育てていた。その赤い枝を見ると、なんとかして机に立たせようとしていた。赤い実を見えるように飾りたかったのだと思う。ペットボトルに建てかけようとしていたが、手元が震えていて思うようにいかない。対面に座っていた私は手を差し伸べておばあちゃんからその実を取り上げた。その時、何も声はかけなかったが、何も言われなかった。私が立て掛けようとしているのを見ていたからかもしれない。中々立たないなーとサランラップとペットボトルでもう少しで立ちそうだ、もう少し、と試行錯誤していると「この辺片付けてなかって悪かったねーラップも閉まっとくねー」と、母にラップやペットボトルを片付けられてしまった。もちろん愛でようとしていた赤い実のついた枝も。「あ、、」っとおばあちゃんは言葉をこぼした。その声は母に届かず。私がおばあちゃんの方に目をやると、目があった。「ふっ」っと一息の笑いが二人から出た。「捨てられてしもうたね」と悲しげに、生きづらそうにおばあちゃんは言った。
そのやり取りをしたときに、おばあちゃん側の心境に心を馳せた。おばあちゃん側からしたら介護される側であってそれは分かっているはず。介護されているから、自分では今なにもできないからこそあまり自分の想いを言えないのではないかと思った。つらそうだった。自分で覚えてないことも分かっていて、自分のことを自分一人でできない状態。それってどんな感情になるんだろう。それを今の私が考えてもすべてを分かることはできないが、母、父、おばあちゃんの三人で暮らしている中で辛そうだというのが垣間見えた。
だからといって今私が一緒に住んであげられるかというと無理だ。今私は自分の人生を確立するだけで精一杯で、心に余裕を持って親と一緒に住めるかというと難しい。何ができるかと考えても今は答えは出ない。何がしてあげられるかという視点に対して考えてしまうため結局親のように接してしまうのではないかとも思う。
介護する側も色々大変であるが、介護される側の心境も中々のものなんじゃないか。お互いが精神的にも良い状態で生活してほしい。
おばあちゃんの気持ちが垣間見えた、そんなお正月でした。

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