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夏の色彩/自分らしさ
(220528)干城
4月から新生活が始まる、っていう設計の生き方から外れて以来、5月が好きになった。
(ってことは、それまでなんだかんだ5月病だったのかもしれない。)
でも今年はカラッと晴れる日が少なくて、ちょっとイマイチ。晴れたときにちょっと暑すぎるのも。
スピードワゴンの小沢さんが夏が好きって言ってて、でももう結構何年も暑すぎるんだよって言ってて。誰かに、お前の好きな夏はもう過去なんだよ、もうあの夏なんだよ、って言われて。そうか俺が好きなのはあの夏だったのか、俺あの夏が好きだよ、ってなってたのが、なんか好き。
あの夏
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(220530)まや
あの夏、
と聞いて思い浮かぶ夏があんまりない。
しばらく考えても思い出せなくて、きっとあるはずなのに。
強いて言うならおととし。
石垣島で初めてダイビングをした。
海の世界は無音で、長く長く息を吐く。
その特殊な感覚がおもしろくて、無音の世界にカラフルな魚や珊瑚。亀。
自分の知らない世界がこの地球に広大に広がっていることに気づいて、めちゃくちゃに感動した。
干城さんのあの夏はどんな夏ですか。
(220601)干城
なんだろう。
石垣島って聞いてぱらっと、20代の前半のころに行った八丈島を思い出した。
思い出すのは匂い。花の匂いと潮の匂い。
たぶん湿度が高くって濃くって、びゅんびゅん風が吹いてて。
その匂いが肌に絡まりながら飛んでってた。
あと、『リリイ・シュシュのすべて』を思い出した。
湿度と世界、って感じだな、あの夏っていうもののイメージ。
暗くも明るくもどっちにも振れる。
漠然としたものが纏わりつく、ずっと続いていくんじゃないかっていう何かが含まれてるのが、あの夏。
(220604)まや
湿った空気が肌に纏わりつく。
蝉の声。
タンクトップ姿の男。
潮の香り。
強烈な日差しに目も肌も痛くなる。
外はこんなに明るいのに、心をどこに置いたらいいのかわからない。
なにもかもが自分とは無関係かのように冷たい。
もう随分前から夏ばかりだったような、この瞬間がいつまでも続いていくような感覚。気持ち悪い。
寂しいと呼ぶには暑すぎる、ちょっと水分の多すぎる、夏。
(220606)干城
何となく書き始めたのだけど、この話題、20代前半の、映画をよく見ていたころの映画を思い出す。
そのころは、芝居を始めたばかりのころで、とりあえず映画たくさん見なさいみたいなことを言われて。
あと、多少そのころの時代的なものと、文学部だったっていうのもあってか、どの映画を見てるとかがある種のステータスというか文化的な嗜みみたいな感じで。
そういうのにもせっつかれて、よく見てたと思う。本も(本はそんなに読まなかったけど、)結構そんなふうだったな、僕は。
世界の色づき方と、リリイ・シュシュ
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世界の色づき方が明らかに違う。
中年に差し掛かってきて、若い頃を思い出して比べるとそんなふうに思う。
そんなことないのかもしれないけど。
振り返ったり観測したりするときに、何かのフィルターがかかるのかもしれない。
環境も状況も、連続しながら変化してるから、いまの瞬間は気づかなくて、
ある地点からある地点を見ると、その差が感じられて、はっきり映るだけなのかもしれない。
『リリイ・シュシュのすべて』を、折々思い出したりするけど、
僕が思い出してるのは、『リリイ・シュシュのすべて』ではなくて、
「あの夏」なのかもしれない。
(220610)まや
文化的嗜みがステータスになる感じ、懐かしいな。
ある程度オタク気質がないと文化ってハマれないと思うのだけど、私どちらかというとリア充気質だから、ステータス下層でコンプレックスだったな。(でも観ない笑)
それでも『リリィ・シュシュの全て』は観たしやっぱり衝撃的だよね。
いじめを受けてる女子生徒がレイプされてるのをみて別の女子が笑ってるのが記憶に貼りついて消せない。
干城さんの印象に残ってるシーンはどこ?
リリィ・シュシュもそうだけど、学校ってどうしてあんなに閉鎖的で息苦しい場所なんだろう。
最近こそあまり見ないけど、悪夢はたいてい学校が舞台だった。楽しかった時間もたくさんあったはずなのに。
特に中学校は、どうしてもマイナスのイメージが強くて、それに比べると、小学校・高校・大学はほとんど楽しかった。自分らしくいられたからかなあ。
自分らしくいられるって、大切なことだよね。
自分らしくいられるために何か心がけてることってありますか?
世界の色づき方は確かに、刻々と、気づかないくらい少しずつ変化しているものなんだろうなあ。
いまという瞬間はほぼ100%主観的だけど、過去のことは、多少は客観的に見られるんだろうか。記憶が取捨選択されている時点で、主観的とも言える。
そうだね、私も30代になって、特にママになって、完璧主義で極端なところが薄まってきたから、以前よりささやかなことを楽しめるようになった。
そういう意味では、前の方が濃くて派手だったかもしれないけど、今の方が以前より地味な毎日が濃く色づいてる感じ。
(220611)干城
印象に残っているのは、南の島の海。
まやの石垣島の描写からずっとこのイメージが続いてる。
ゴポゴポいってる水の音。海面と空と、それがなんか鮮やかで暴力的で。
なんか世界にぶっ叩かれた感じだった。
今もある程度ガード上げてないと喰らっちゃうような怖さがある。
僕は割合、学校での息苦しさを感じていなかった気がする。生活は保障されていたし、従順でいられたんだろうね。
とはいえ、意識の外に追いやってたものが溜まってはいたんだろうな。大学で弾けた何かがあるような気がする。
大学でというより、東京に出て、という感じだな。
学校より、家とか地元とかに息苦しさを感じていたんだろうと思う。
自分らしさとグラデーション
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自分らしくいられるために心がけていることは、、ない気がする。
というより、あれ、これ結構まるっきり頭になかった問いかも。
自分らしくいるってどういうこと?
自分らしくいようっていうのは、僕の場合、その場で求められてる役割をやろう、っていうのに、ちょっと似てる気がするな。なんでだろ??
馴染もうとするってことかな。そこに馴染んでいることが自分らしくいるってことなのかな。
う~ん、なんだろうな。自分らしさってもの、あんまり考えてこなかったのかもな。
最近は、嘘とかホントとか、真実とかってものも、あまり興味がないというか、考えないようにしてるというか。
グレーのグラデーション。
グレーじゃなくてもいいか、グラデーション。
グラデーションで考えようとしてるというか、そうやって捉えたいなと思ってるような気がする。
自分らしくのあたりのこと、書いてほしいな。
(220613)まや
南の島の海のシーンかあ。
ネットであらすじ見返しても、私そのシーンは全く思い出せないんだよね。
当たり前だけど同じ作品でも人によって受け取るイメージが全然違うっておもしろいことだよね。
あの夏、の話もそうだけどイメージにギャップ(幅?)があるって想像が沸き立てられる。
「南の島の海」っていう開放的で明るいイメージが孕む暴力的な鮮やかさ。
寒くて厳しい季節に暴力的なイメージは余計に辛い気持ちになるけど、
なんだろう。冬は寒くて身体が縮こまるからかなあ、夏の気候で解放されて緩んだ身体から生まれる暴力性の方が、歯止めが効かない動物的な感じがする。
自分らしくいること。
干城さんからの答えが予想外で、私とある意味真逆でびっくり。
「その場で求められる役割をやろう」は、私にとって自分らしくいることを阻害する要素の一つなんだよね。
私は結構サービス精神が強くて、場や相手に求められることに応えようとしすぎちゃう。
干城さんが書いてくれた「馴染もうとする」ことがすごく得意なんだと思う。
あくまで表面的に、なのだけど、もう反射的に馴染んでる(つもり)。
それで周りの人の期待や願望を必要以上に強く受け取りすぎてしまう。
そうすると、自分が本来どうしたかったのかを見失ってしまうことがたびたびあって。自分でも気づかないうちに自分を押し殺して、「場や相手に求められる自分」を演じて、自分を見失う。
何年か前にすごく悩んでた時に人生で初めて占いに行ってみて(占いかよって言わないでね笑)、
「本来のあなたはとてもわんぱく、本来の自分に戻っていけるといいね」って言ってもらって、それからはわんぱくでいられるかどうかみたいなのを大切にしてるし、自分らしさとは「自分自身が本来持っている、子供の頃の悩みを持ち始める以前の私」みたいな風に捉えているのだよね。
中学時代と、20代後半の悩んでいた時は如実にわんぱくではいられてなかったなと。
干城さんはいい意味で誰といても変わらなそうというか、話し方とかゆっくりで独特のテンポ感を持ってるよね。少しスローな。
そういう人は、基本的にマイペースを維持できてて自分らしさに悩むことなんてないのかな。
私はグラデーションの話が気になりました。
嘘とかホント、真実が気にならないってどういう意味?
何故かちょっと笑える。
気にならないってなんだろう。
(220614)干城
なるほどなぁ。
僕の場合は、だから、「できる範囲で」ということなんだろうな。自分を損なわない範囲で、ということ。
で、それが当然でしょって、ある程度無意識に思っているんだろうな。
無理しても良いっていう相手や場だったら無理するの全然やるけど、そうじゃなかったらできるだけしたくないし。
同時に、自分を押し殺すのが比較的平気っていうのもあるのかもしれない。
でも、もっと運動したいとか、そういうのはある。もっと発散したい、ヘトヘトになるまで走りたいみたいな。
ヘトヘトになる気持ちよさってあるよね。
しかしそう考えると、周りから見たら、全然その場で求められる役割をやろうとなんてしてないように見えるのかもな。
誰といても変わらなそうってのはちょくちょく言われることあるけど、自分としてはそんなことないと思っていて、人とか場に応じて変わっているつもりでいるし。
やっぱり周りから見えているものと、自分で感じていることは違う。
マイペースっていうか、穏やかな自分本位、って感じなのかもな。
自分らしさには悩まないかもしれないけど、
もっとオープンで強く、柔軟に、瑞々しくいたい、みたいなことはよく思ってて、(こうありたいっていう人では、自分は全然なくて)、
モデルさんのエッセイとかドキュメンタリーとか好きで、手に取れるときはちょいちょい見たりする。
こうありたい、なりたい自分ってのと、本来的な自分ってのがたぶん結構違っていて、
それはもう、なれないな、なれなくてもいいか、って、結構前に思うようになってる。
グラデーションの話。
このあたり、そんなに確かじゃないし、あんまり言葉にできないのだけど、、
(嘘とかホント、真実が)“気にならない”ってのとはちょっと違う。考えないようにしてるが一番近い気がする。
なんというか、嘘もホントも真実も、多面的というか多層的というか、見えるものが違うし、いろんな色をもっているように思って。
それを、突き詰めてというか、この色だろって決めていくことに、あまり興味がなくなったというか、考えないようにしてる。
それこそ、本来の、とかもそうで、固定的な何か/あるべき何かに向かって自分を進めていく、っていうようなことに対して、今はちょっと、そっぽを向いてる。
グラデーションといえば、PARCO劇場で観た、ピーター・ブルックの『ザ・スーツ』が、とにかく美しかったな。
あと、一昨年の春から、夕方によく散歩するようになって、空を眺めるんだけど、ほんとにきれい。
空がもし一色だったとしたら、ゾッとするね。
今年の東京の梅雨は今のところ空梅雨模様。
小学生のころの、通学路のアジサイとブロック塀のカタツムリ、黄色い傘に水たまりに長靴が、僕のあの梅雨。
(220616)まや
時計の秒針がカチカチ。
グレーな僕は今日もほんの少しだけ年をとる。
今と過去と未来に区切りをつけることに最近はすっかり興味が無くなった。
美しい景色。
昔見た映画のシーン。
僕自身。
大切なものは何をしてもしなくても、勝手に残っていくでしょう。
東京の空には雨が、音も立てずに降っている。
小角まや、干城の記事はこちらから。
https://note.com/beyond_it_all/m/m5e18eb4b7f06
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