あの日あのとき
人は必ずいなくなるって思って生きてきて、大好きな人ができても、この人もいつかはいなくなるんだなって考えておく。
そうやって、直面する最大級の恐怖を先に少し味見しておくんだと思う。
なぜかお葬式について行くことが多かった小さな頃。棺桶の中に花を入れるとき、「誰だろうこのおばあさんは」と思った記憶がまだある。
小学生のときに隣の席だった友人が亡くなって、道端で飼い猫が車に轢かれて死んでいて、友人の父親が癌で亡くなった。
ブスと言われ、ひがみ妬み、度がすぎたイタズラ、こころをガチガチに固めて守るしかなかった。消えたいなと思うようになった。
その数年後に自分の父親も突然姿を消して、言い寄ってきたセンパイもこちらが心を開いたら海を渡って行った。
大人になっても救急車で運ばれてきた人が何人も亡くなるのを目の前で見続けて、自分の子どももお腹の中で天使になった。
いきものはスッといなくなるんだなと知った。
ステキな未来を考えて、引き寄せて、ワクワクしよう!って、すごく救われる。そこに向かって進むべきうっすらとした道が見えるから。
反対に、今日一日をがんばって生きていくことが精一杯の人もいるのも知ってる。お金も時間も、あったかい居場所もある。それでも、生きるのが大変で今日一日を無事に終えたらまた明日、頑張らなきゃいけないのかなと、ふと思うの。
私はどちらかというと生きるのが下手で、どうにかしてここまできたなぁと思っていて。
20代前半は生きるの下手さがMAXでね。決定的な理由は無いの。“死にたい”でもないの。“消えたい”の。誰か私を消してって毎日思ってる。
試行錯誤して未来を見ても大丈夫そうだなって気付いた私が思うには、「ここから救い出して!」という思いが誤作動変換されて“消えたい”になっていたんだね。
命の区切りじゃないけど、私は中学生くらいから40歳で何かあるなってずーっと見据えて生きてきて、出家でもするんじゃないかなとか言っていたんだけど。理由なんかない、その40歳が気になりすぎるよね。そこまでは元気でいたいな、何かあるのかな、痛いのは嫌だよとたまに思い出す。
それでね、あなただけじゃないよって言いたくて。
フッと消えたくなるのも、わかるよ。
長生きしなくていいしっていうのも、明日死んでもいいやぁっていうのも。
諦めた。ガッカリした。明るい未来がない。こんな世の中。
バイバイしたい?
それもわかるけど、とりあえず生きていて。
社会の中の駒の一人、みたく思っても。
家庭や学校、社会が生き地獄な場合は逃げて、離れて。そしてあなたは悪くない。
スッと消えてしまう前に。
近くにいる誰かが悲しまなくても、遠くの私が悲しくなる。
あのとき死ぬ勇気がないって自分を責めたけど、勇気がなくて良かった。
出会えて良かった。