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開会式を観ながら

7月23日21時現在、各国選手団が国立競技場に入場しています。

開催自体に賛否両論あり、今も誰もが肯定できる結果とはなっていないとは思います。

それでも、気持ちを文章化し、伝えられればと思います。


2013年の日本開催が決まった頃、私はアスリートでした。

高校サッカー部でレギュラーを目指し、全国を目指していました。そして今思えば、諦めたのもこの年でした。

2015年、大学に入学しました。入学枠の最も多い一般受験生として門をくぐりました。

同じ学部の同世代には、今大会にホッケーチームの一員として出場する選手がいました。最初にできた友人もまた、当時この大会を目指す自転車競技の選手でした。

2016年にロンドンの前回大会が開かれている頃、偶然高校の友人と再会しました。

高校時代に甲子園を目指していた彼は一浪後に大学に入学し、もうプレーはしていませんでした。大学の友人が自転車競技を断念したのもまた、この年のようでした。

2017年から、大学での活動で学域や文化や国籍をまたいで仲間と関わる機会が増えました。

外国人選手と何かで競うこと自体は別に特別なことではないと気がつきました。また、外国人という意識自体がナンセンスなものだとも感じました。

2019年、社会人となった頃にチケットの抽選が行われました。

職場の先輩から当選した話を聞いていました。私もアスリートを意識していたところも少しはあったのか、スパルタンレースへの出場を目指して少しづつトレーニングを始めました。その前哨戦としてマラソン大会への出場を控えていた最中、当時の会社が倒産しました。(こういうアクシデントもあるのかと)倒産の週に5時間の持久走を走り、転職活動中に100キロ歩いていました。

2020年、コロナが起こりました。

職場は変わり、参加予定だったスパルタンは中止になりました。100キロ歩行も参加した2019年からまだ再開されないままです。

2021年、今日。オリンピックの開会式を観ています。

職場は再度変わりました。景色も変わりました。


オープニング演出で2013年の開催決定からここまでをなぞっているのを観て、自身のここまでを思い出しました。

改めて、入場するアスリートへのリスペクトの気持ちが高まりました。

世代的に、私が諦めた2013年からここまでずっと信じて続けてきた選手たちです。自分が歩めなかった道を歩いている選手たちです。国籍を置いている国や地域を代表しているという結果ではなく、その過程を本当にリスペクトしたいです。

ここ数年の流行りか、それとも私がそういった情報ばかり入れてしまうようになったためか、「スマートな努力」といったニュアンスの考えによく触れます。それは大枠、不確実性を潰す行動管理だったりします。ただ今日この場に立つ選手たちが最も私に教えてくれているのは、不確実性のなかで道を信じて歩いてきた結果です。

単純に、選手を応援するスポーツファンとしてこの大会を楽しもうと思います。

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