誰をも救おうとすると誰も救えない
why なぜだろう?誰かを救えるはずの力で誰もがまた..
幼少期に観たウルトラマンコスモスのテーマ曲の、思い出深い一節。
なぜだろう?誰も幸せになっていない
何もわかっていなかったときはクライアントに価値を届けられていないんじゃないかと怖かった。
所属組織の全体像が見えてくると利益貢献できていないんじゃないかと怖くなった。
関わる人がひとりひとり見えてくると迷惑をかけることが怖くなった。
クライアントが課題を抱えていて、解決してあげたい
社内リソースのさらなる投入が必要だが、解決しても儲からない
解決するための働きかけで、他者に工数を割かせてしまう
結果クライアントの課題は解決されず、中途半端に投入されたリソースで何も生み出せず、割かせた工数のせいで別のところで遅延が発生する。繰り返される失敗。
売上はお客様からの拍手、利益は市場から与えられた自由と信じていますが「お客様」対「自社」の関係に加え、「会社のなかの人」という要素が加わると組織に恐怖を感じてしまう。
そんなときに思うことは、
ウルトラマンは何を考えて市街地戦を繰り広げるのだろうか?
ということでした。
割り切って踏みつぶすことも大事
ウルトラマンの戦闘は怪獣に近接戦闘を仕掛けては人を踏みつぶし、投げ飛ばしては街を破壊します。しかし足元を見ることはないのではないかと思います。もし足元を見てしまったら戦い方はかなり制限されるでしょう。
踏みつぶさないように距離をとり(どのみち人は踏んでしまう)、遠距離から精度の下がるスペシウム光線を怪獣にジワジワあててダメージを稼いでいくものの活動時間3分を消化して結局倒せず、街は破壊されて自分も死ぬという展開が予想されます。
ウルトラマンが地球を守り続けることができるのは、足元の人命を捨てられるからとも言えます。つまり守るということは捨てるということです。
自分が守るのはひとつ、他は誰かが守る
とはいえ、気がついてしまった時点で「今度からは気にならない」ようにはなかなかできません。世の中の課題は知ってしまった人の責任でもあります。そのうえで割り切るために、「人を信じる」ということが大事なのではないかと思います。ウルトラマンが足元を見ずに戦えるのは、地球防衛隊が避難誘導していると信じているからかもしれません。
記憶の限りでは劇中で地球防衛隊が全市民の避難誘導をできているような感じはしませんが、何かを信じる(ある意味負荷を押し付ける)ためには些細でも何らかの理由が必要であり、地球防衛軍の存在そのものが信じる理由となっているのではないかと思います。
誰かを救える力であって、誰をも救える力ではない。
だからこそ自分では救えない部分をきっと救ってくれるだろうと信じきるのが大事です。それを「特定の誰か」としてしまうと、その特定された誰かにエラーが起こると信じきれなくなってしまいます。しかし「この中の誰かが」と匿名化されると意外と信じられてしまうものです。ある意味、責任の所在を曖昧にしているだけで現実からは目を背けているのですが、そんな曖昧さの余地を与えてくれている組織というのはまた奥深いものだと感じるのでした。
救えるところに全力を注ぎ、他のところは誰かがやっていると信じます。