人類学の道第六回「Making:Anthropology, Archaeology,Art and Architecture(3)」
前回までのあらすじ
過程をブラックボックス化することにより「メイキング」という行為が人間のイメージをモノに転写する試みであると主張するHylomorphic modelに対して、インゴルドは「過程」を重視し、むしろ万物全てが「生成過程」の中にあると主張する(morphegentic process)。この考え方は「物質」に対する従来の概念をも批判する。物質には固有の性質はなく、それはmorphegentic processの中で現れる「歴史性」なのである。ゆえに「Making(制作)」とは、人間中心のトップダウン作業ではなく、それは「目的」ではなく「期待」を常に抱いてモノと「共に生成」していく運動なのである。ウヘヘヘ。
考古学のHylomorphic model
4Aが「参与観察」を必要としていることから分かるように、芸術や人類学の界隈に共通する問題(Hylomorphic model)が他の分野にも散見されるということを予想するのは決して難しくないだろう。インゴルドは、考古学に注目し、現代考古学の問題を「手斧」の観点から考察していく。
Acheuleanはアシュール文化という古代文化のことをさすが、ここでもHylomorphic modelが指摘するように、「手斧」はhuman intelligence、つまり人間の知性を象徴するモノとして語られている。つまり人間が理性を用いて「イメージ」したものを材料を使って投影している、ということである。
ところで面白いことに、ここで投影されているのは何も「イメージ」だけではない、と従来の考古学者たちは主張するのだ。
我々が道具を作る動きは、mind(精神)の投影だけではなく、body(身体)の延長線上というわけである。ところで個人的な体験なのだが、フィリピンのレイテ島に行った時、たまたまホストバディだった男子がフィリピンの棒術「アーニス」を習っていたので、興味を持った私は彼に型を教えてもらったのだが、その時に言われたのが、棒を自分の身体の延長線上として捉えることだった。「なるほどなぁ」などと思っていたのだが、どうやらインゴルド的には、それは誤りらしい。
もし手斧が身体の延長線上であるならば、なぜあんなに「石ころ」みたいな知性を感じさせないデザインとなっているのだろうか?逆にもし「イメージ」の転写なのだとしたらなぜあんなにも「普遍的」なデザインをしているのだろうか?曰く、手斧というのはどこの古代文化にも見られるもので、アフリカからアジアまで、採掘される手斧というのはどうも皆同じ形をしているらしい。しかしもし人間が真に「知性的」な生き物であるならば、いろいろなヴァリエーションがあっても良いのではないのだろうか?ルロワ=グーランはそれを「知性が足りなかった」と言って結論づけようとするが、インゴルドは異なる場所に問題があると考える。
この問題の本質は、西洋的伝統である「心身二元論」にある。人間とは「精神」という非物質的なものと「身体」という物質的なものの二つによって構成されている。デカルト以前にアリストテレスの時代から提唱されてきたこの概念が問題はのは、何を隠そうHylomorphic modelの基盤にこの思想があるからである。「精神」、ここでは「人間」が物質のフォーム(形)を規定する。ゆえにHylomorphic modelはこの西洋式「心身二元論」に基づいているのである。そして、これがインゴルドの危惧する真の問題なのだ。
考古学の虚偽
ところで、もし考古学者たちが発掘する「手斧」が「手斧」ではないのなら、これらの根拠が一気に覆るのではないだろうか。このとんでも理論はしかし、あながち突拍子もないわけでもないらしい。
もしポンペイの大噴火のように、街が一瞬で世紀末となるような出来事に出くわしたのなら、当時使われていたものがそのままの状態で保存はされていなくても、彼らが使っていた道具がそのままその当時「使用されていたもの」であることを想像するのは容易なことだろう。しかし、もし他の古代文化を持つホモ族たちが瞬間的な大量絶滅に別に瀕していないのだとしたら、考古学者たちが採掘する道具、この例で言えば「手斧」は本当に「完成品」なのだろうか?この疑問にデイヴィットソンとノブルは「ノン」と答える。考古学者たちが必死研究してきたのは「手斧」ではなく使えなくなった「手斧のカス」、ということなのだ。彼らはこれを「finished artefact fallcy(完成品虚偽)」と呼び、考古学会に激震を走らせた。考えてみれば割と当たり前のことなのである。鉛筆を使っていて小さくなったら、新しいのと交換してそれを捨てるなり机の後ろなりにほっぽってしまうものではないのだろうか?そう考えると考古学者たちが「手斧だ!」と熱心に研究していたものは、使えなくなって昔の人々がポイ捨てした「手斧の残骸」なのである。
これが何を意味するのか、それは「手斧が人類の普遍的イメージを転写したものである」とか「身体の延長線上である」とかいう理論が通用しなくなる、ということである。なぜなら考古学者が発掘するのは「手斧」ではなく「手斧の残骸」なのだから。よって我々は永久に、真に「手斧」が何であったかを知ることはできないのだ。ゆえに、僕らは「手斧作った古代人たちは知性が低い」などと結論づけることなど、もってのほかなのである。
「始まり」と「終わり」の虚偽
そもそも発掘した「手斧」が「完成品」であるという思い込みは、どこから来るのだろうか?インゴルドは従来の考古学的見解を次のように解説する。
未完成の文章が何の意味もなさないのと、考古学者たちが調べている「手斧(の残骸)」は類似している。それはそれ自体では何の意味もなさないのだ。そしてそうした「無意味」なものが解析される方法として、「始まり」と「終わり」とこちらから決めつけて研究する方法がある。しかしそれは決して「物質」または「対象」それ自体に寄り添った考え方ではない。主体/対象の二元論から出発し、主体の決めた条件に対象を押し込める。インゴルドはこうした考古学の研究方法を自らの発見した「丸い石」を用いてこのように批判する。
手斧が人間によって形成されているが、しかしだからなんだというのだろうか?インゴルドが海岸で拾ってきた丸い石も、何も初めからそうあったわけではない。波や他の石との摩擦によってインゴルドが手に取った時の形になったのである。手斧もそうである。手斧として加工される前はただの石だったのかもしれないが、何もないところから石が突然現れたわけではない。雨や風によってさらされ、大地から切り離され、それがたまたま狩猟民たちの目に止まって手斧として加工されただけに過ぎない。そう、インゴルド的には「道具」と「モノ(自然物)」という分断された領域は存在しない。なぜなら人間がもし境界線のない一元論的な世界に住んでいるのだとしたら、人間の「手」が加える運動と波が石に加える運動は差異なく一つの「運動」だから。
よってインゴルドは「メイキング(制作)」を、次のように形容する。
故にメイキングという行為は決して対象を混ぜ合わるものでも個々の材料を組み立てて製作者の意図する形に作り上げることではない。それは「つなぐ」ことである。そしてそのメイキングの段階は制作者の意図しない、意図することのできない過去の運動からつながり、そして制作者の意図しない未来への運動へとつながっていく。メイキングはただのプロセスの途中に過ぎない。それは始まりもなければ終わりもなく、決して人だけによって成されるものではない。例えば手斧が石から手斧として加工される時、それは「人」の手によるものだろう。だがその石が大地から削られ制作者の眼前に出現するのは、風や雨の働きである。そして何もその石は手斧として造られるように生まれてきたわけではないのだが、その制作者はモノそれ自体に導かれるように、手斧として制作することになったのである。ただそうなった、それだけである。そして手斧が消耗すると自然の中に放棄される。そうして今現在、その手斧は考古学者たちの手によって大切に保管・研究されていたり、そこら辺に転がっていたりする。そしてそれがこの先どうなるかわからない。博物館に保存されているからといってそれが一生そこにあるとは全く限らない。数年前にブラジルの博物館で多くの展示品が火事によって消失したのがいい例である。人間が大切に保存したからといって、別に未来永劫その形を保ったまま存在し続けるわけではないのだ。しかしどんな形であれ、その手斧が未来で誰か(何か)に発見される時、たとえその未来の存在が制作者の痕跡を発見できずとも、確かに制作者の運動はその手斧の残骸に組み込まれているのだ。それも別段大切なことではないのだが。
かくしてインゴルドは考古学の「手斧」の事例を用いて、考古学の問題、「道具」と「モノ」の違い、そして「メイキング」とは何かを提示する。それは人間が、hylomorphic modelの根底にある西洋的二元論から出発し、「始まり」と「終わり」を制定することよって「手斧」を人為的、そして「原始人」の知性並びに未熟さを証明する「道具」として使用したことであり、「人間の手が加えられたか否か」などという二元論的発想は無意味だとし故に道具とモノの違いはないと考え、よってメイキングとは「モノ」に働きかけることにより過去と対話をし、未来へとつなげていく運動なのである。
こうして考古学的知見から「メイキング」という概念を明らかにしていったインゴルドが、今度は「建築」へと足を踏み入れる。次回「家を作ることについて」に続く。