訃報に触れて
昨晩、訃報が届きました。筆者が小学生のころ所属していた野球チームを創った人です。このチームを通じて家族ぐるみのつながりが生まれ、40年たった今も関係が続いています。
筆者の野球への想いは、成人を迎えた息子に引き継がれ、彼の人生の大部分を占めています。野球を通じて世代を超え、大きなギフトを与えていただきました。
ありがとうございました。合掌。
「人はなぜ生まれて死ぬのか」
訃報に触れるたびに、頭を擡げる問いです。生物学の中には、ある程度の答えを見つけられますが、そこじゃない。
50を迎え、いろんなことがわかってきた今日この頃ですが、人の生死の最奥にあるものには、まだ辿り着けません。
死について考えると、思考のループに嵌ってしまうので、視点を変えてみました。
「人はなぜ生まれて死ぬのか」と子供に質問されたらどう答えるか?
「生まれたから死んでいくのは自然の流れであって、それ自体に意味はない」
「誰かの死に触れて、感じたことを受け止めて、自分にできることを考えてみると、そこに意味を見つけられるかもしれない」
「小さくてもいいから、これまでと違う生き方を見つけて、生きる活力にできたら、その人の死にに報いることができる」
それっぽい答えが出てきましたが、しっくりは来ていません。今の自分ではこの程度でしょう。
今回の知らせは、父親からの電話で聞きました。故人と父は、付き合いも長く、同い年でもあります。
それほど遠くない将来に、我が家にもその時はやってきます。最近では自分自身の最期も、意識するようになりました。
今日一日
怒らず 怖れず 悲しまず
正直 親切 愉快に
力と勇気と信念とを持って
自己の人生に対する責務を果たし
常に平和と愛を失わざる
立派な人間として生きることを
厳かに誓います
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