脱サラ準備中にコ〇ナ騒動になり、あれこれ思いを巡らせていたあの頃
■サラリーマンだって自分の引退は自分で決める、自主定年という選択
ボチボチ50歳が見えてきたころ、会社に辞意を伝えてみました。全力で引き留められると思っていたところ、話はトントン進んでいったのでした。
「こんなに優秀な人材(自称)を簡単に手放す会社に未来はない!」・・・なんて嘯いてみたりしましたが、黙っていても定年まで12年。自分の終わりくらい自分で決めよう。
■出戻りを繰り返した過去、そして10年ぶり3度目の脱サラ病発症
これまでも会社に疑問を持ったり、辞めたり、転職したり、起業したり、失敗したり、サラリーマンに戻ったりしてきました。
最初に脱サラを考えたのは30歳のころ。子供も生まれたばかりなのに、勢いだけで飛び出しました。とにかく会社がいやだった。無策な起業劇がうまくいくわけない。すぐにサラリーマンに戻りました。
40歳になるころ再び一念発起し、学習塾を作りました。教育にかける情熱はそれなりのものがありました。ただ、想いだけでうまくいくほど、ビジネスは甘くない。またサラリーマンに戻った。
どうやら10年周期で脱サラ病が発症するらしく、50が見えてきた頃、それは三たびやってきた。ただ、過去2回とは明らかに違う感覚もありました。
■「いつまでそこにいるの?」という息子の声
最初の脱サラのころ1歳だった息子は、父親の思惑通り、右投げ左打ちの内野手に育ちました。
地方大会の決勝戦、グランドで躍動する息子をスタンドで見て、自分は置き去りにされた気分でした。3年前は、同じ決勝戦を隣で一緒に観戦していたのに・・・。
「父ちゃんはいつまでそこにいるの?」そう言われた気がしました。
■自分にとっての甲子園とは?
甲子園という本気のゴールがあるからこそ、キツイ練習も楽しめし、やることが明確になります。逆にやらないこともわかります。
そう、自分には心の底から目指したいモノがない。いや、忘れている。
純粋に好きだった野球も、どこかで親の期待に応えるための道具になった。勉強でいい点取るのも、周りに認められるための手段でしかなかった。
いつからか、自分の目指すゴールは、他人や社会価値観に置き換わっていったのでした。
■このままでは死ねないらしい
気がつけば干支を4周し、もうひとまわりで還暦というところまできました。このまま終わっていいのか?いや、それじゃあまりにもツマラン。
まずはここから抜け出そう、環境変えなきゃヤバイ・・・そう決めた時に、何か弾けました。これまでの脱サラ歴とは、明らかに違うストーリーが動きはじめた。
そんな経緯で、「自主定年」を決意しましたが、現実問題として収入は得ていかなければならない。さて、どうしようか・・・?
そもそも、なぜ今までうまくいかなかったのか?答えは「脳科学」にありました。
■脳科学との出会い
筆者は数年前からコーチングを勉強していました。コーチングで稼ごうと、頑張っていた時期もありましたが、これもうまくいかなかった。
ただ、丸腰でサラリーマンを辞めることになってしまったので、何かしなきゃならない。自業自得ですが・・・。
そんな時に脳科学に出会ったのです。新型ウイルスで、世の中がにわかに騒ぎ始めた2月中ごろの雪の日でした。