元バンドマンが、会社員からフリーランス、会社を起すまで。略歴と簡易実績つき。ver.2.0
ざっくり略歴を語ります。興味のない方は下に実績だけ置きましたので、そちらを。2021.08.04更新しました。
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最初、ニルヴァーナを聞いた時全く良さが、わからなかった。
リバティーンズも、レディオヘッドも、ビョークも。
ただ、気づけば死ぬほどインユーテロを、KID Aを、ちょっとナードな周りの奴らと一緒に聞いていて、北九州の片田舎で、僕はバンドをやっていて、僕は無敵だった。
...が、現実は甘くなく、全くもって、無敵ではなかった。というか自尊心だけ強い、アホだった。
大学は写真をやっとけば、食いっぱぐれることはないだろう。とかいうすげー失礼な理由で九産大の芸術学部写真映像に進み、まんまと遊びすぎて、1年留年した。新卒のカードはことごとく滑り、音楽の道も、ゲーム業界も厳しく、滑り込んだのはアニメ業界の音響効果という職業だった。
とりあえず東京に出たかった。"売れる" "有名になる" "ひと旗あげる"
すべてに出遅れた僕が逆転を打つには、エンタメの世界で戦っていくしかないとわかっていたから。そして決めた。いろいろ決めた。いまもそれを馬鹿正直に守って生きている。
そこから色々あり(超はしょる)、ゲーム業界に。外資系の新規開発に進むが、予算がなくなり事業部解散に。当時の上司が「べっきさん、求人サイト何社登録しました?私は4社ですよ!」と笑ゥせぇるすまん、ばりに塞ぎ込んでいたので、愛情注いだタイトルがローンチできなかったショックを受け止める暇もなく、次のゲーム会社へ。面接で何か滑らないエピソード話して、と言われて、当時のディレクターにウケて入った。今思えば、めちゃくちゃな会社である。後から聞いたが、他の面談の応答は全く聞いてなかったらしい。めちゃくちゃである。
ここはTHE プランナーという会社で、本当に良い環境でゲーム運営、企画の忍耐力、体力を学んだ。元来、M気質な性か、叩き上げがあっているようだった。
が、ここも色々あって、離脱。パンクスプリングスというフェスがラストの年で、大学時代一緒に映画を撮っていたYに誘われ、見に行ったのだ。余談だが、靴を失くしたし、メガネも粉々に割れた。9mmのライブでダイバーに足で顔をけられて流血してちょっと9mmを嫌いになった日を思い出した。
そんで、ブラフマンのボーカル、トシロウが「自分のやりたいことぐらい、てめぇで決めやがれ!」と神輿(客席にダイブして、そのまま客に担がれ一周する感じ)されながら叫んでいて、稲妻が落ちた。思えば、東京に出てきてから、生きることに必死で、ぼーっと生きていたからであった。味付けすると借金もあった(返した)。
そいで、フリーランスになった。アホだった。周りにもめちゃくちゃ反対された。そりゃそうだ。稼げるはずがない。"なんのツテも" "なんの技術も" "なんの実績"もないのだから。当時は勢いでいけると思っていた。
...が、いけなかった。めちゃくちゃ走り回ったけど、最初の月は8万円だった。雑用とかもやっていた。パワポのデザイン、プレゼン書整えて5,000円もらう。みたいな。けど交通費に1000円かかるやん!みたいな。次の月に稼ぎがないと九州に帰らないといけないとこまで、、僕はキテいた。
かっこいい挫折とかじゃなくて、メロンパン1個で1日って、つら。みたいな挫折だった。情けないを通り越して、タイムマシーン探したい。みたいな感じだった。アシッドマンがまだ売れてなかった時1日2個のおにぎりで生活してたというが、若干負けてないか?俺みたいな。
が、結果、スタートアップの会社に拾われた。運がよかった。前の月に鬼営業してたのが功を結んだ。今思えば本当に運がよかったんだと思う。ネットのとある記事に応募して、それがきっかけだったから。
半分フリーランスみたいな感じ。クリエイティブではほとんど利益はなかったので。そこからスタートアップ会社がスクリューしたりナックルしたり、ストレート投げたりする日々を、主にバッターに打たれる球として体験する。どういうことかというと、夏の甲子園で連投、連試合する先発ピッチャー。あれ。あれの球。(それぐらいスタートアップって毎日チャレンジする。)
だいたいここで毎日3人分ぐらいの働きをした、スタートアップはなんもかんも足りないので全部やるしかなかった。が、やりがいだけがあった。下っ端じゃあなくて、名前だけのプロデューサーとして走り回る日々やスタイルはもともと偉そうな自分にあっていたみたいだ。
ここで芸人さんを起用したゲームのプロモーションをガンガンやっていくことになる。e-Sportsなんかにも大きく関わらせてもらった。
このタイミングで交友がガッ!と広がり、ある日、とあるイベント会社の社長さんに言われた。「お前、仕事を形にすることを目的にしてないか?目に火が入ってねぇよ、今のお前は。」稲妻2度目。余談だが、本当に枝分かれした雷に当たったこともある。正直、仕事もうまく行っていて、満足していた。メロンパンが好きなだけ買えるようになると、人間は甘えるのだ。
隣を見ると当たり前のように同郷の友人がモノ作りの現場で戦っていた。極彩色を便器で洗い流したような色した感情をようやく引きずりだし、向き合った。そして、俺はまだ上に行きたいと思った。
自分は音響演出で仲間と最強の作品をつくりたいと考えていた。みんなの名前が載ったエンドロールをスタッフ一同でスクリーンで見る。それをもう一度思い出した。
大学時代映画研究部だったのもあり、芸大の卒業制作のタイミングで、イオンシネマを仲間の自主映画監督が借りて、100人ぐらい来ると思った中、身内だらけの20人でみんなでつくった映画を観た時。本当に感動した。誰かと作品をつくるということは、本当にすばらしいことだ。これをもっとでかいスクリーンで満員の客席で味わえることがあるなら、それはホントに死んでもいいような、体験、"充実"だと思った。
そして、稼げてはいなかったが、奇跡的にまだ劇伴(BGM)は続けていた。
恥ずかしさがなくなり、隠さなくなった。目標がはっきりすると良い。今は売れてないけど、別に知ったことはないな。と。そして、別に作曲にこだわらなくてもいいな、とも思った。
不思議とそこからBGMが売れ始めたり、作曲や音響周りのお仕事をいただけるようになった。もちろん生活はプロモーションの仕事で成り立っていたが。(2018年で55万円をサウンド周りの売上としてあげさせてもらいました。広く浅くが自分の弱点だと思っていたが、それが役立つこともあるんだな、と感じた年でもあります。)
なんのために上京したんやっけ、俺はどういう俺になりたいんやっけ。いまだに自問することがある。そんな時はたいてい横にいる寝不足気味な、一緒に酒を飲む友人や仲間に救われる。当たり前のように今も昔もみんな走ってた。少しづつ、少しづつ、少しづつ、東京という土地に、商業作品にみんなの名前が載っていく。そこに自分の名前がないことは心臓を鷲掴みにされる感覚に近い。偉そうな自分がただいるだけで、帰った時に自分の頭を鈍器で殴って、叫びたくなりそうになる。何者でもまだない、というのは当たり前な事実で、だからこそ、その感情をしがんで、血がでるぐらい噛み潰して、誰もが寝てる時間に息を止めて作業や仕事を続けるほかない。思えば20代はそんな感情と行動の上下運動の連続だったと思う。けれど、これだけは言える、人の何倍も失敗した。けれど、たまに何かが少しだけ、少しだけ、うまくいくことがある。褒められることがある。誰かに何かのきっかけを与えられたような気がする夜がある。そのあとに仲間と飲む酒と会話は最高だ。ずっとその場にいたいと思う。火は誰かにつけてもらうのではなく、常に自分で燃料をくべ、燃やし続けるものなのだ、と真に思う。もちろんそれはトレードオフだけれど、それだけの価値がある。と信じています。
...お世話になったスタートアップを後にし、ついに実績片手に大型タイトルのプロモーション等に従事していくことになる。そこからはそれなりにゲームのプロモーション分野の最前線で戦ってきたつもりである。
失恋も数多くあったせいもあり、ぐるぐるぐると仕事ばっかり打ち込んで来た。おかげさまで、それなりにいい流れの中で。
そしてある日、気づいた。あれ俺カートが死んだ27歳やん。。
(ここで導入からのオチ!)
2/20にカートコバーンはショットガンで死んだ。誕生した。(死亡は4/5)
その翌日、大安と一粒万倍日の2019年 2/21に株式会社カナグを仲間と創業いたしました。
実は名前だけのプロデューサー(べっきP)は、若い子に"夢"も"希望"も何も与えられなかった。安い飯を奢るぐらいだった。それがビックリするほどダサいな、と思った。ロックでダサい。ってのは"死"とイコールだ。いや本当。
だから30までには"自分のため"に、会社を建てると決めていた。
が、早くてもいいじゃんと思った。27歳でやろう、と。若い子たちと悔しいエピソードを10個ぐらい重ねれば、アホの俺でも腹がくくれた。
どうなるか、わかりませんが、これから約1年間 株式会社カナグ の社長として走っていこうと思います。1年後ないかもしれませんし、少しだけおっきくなってみなさんに認められているかもしれません。
エンタメの世界にいる人として、できるだけつらいことも、面白おかしく書くように心がけますので、どうかおヒマなときにご一読していただければ幸いです。
駄文を読んでいただきありがとうございます。
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2021.08.04
気づけば、30歳になりカナグもおかげさまで
3期目を迎えることができました。
過去最高売り上げも、新しく始まった国内のVtuber 制作、
運用プロジェクトに海外Vtuberプロジェクトをはじめ、
新たに2024年の映画化を目指した
IP 制作プロジェクトもスタートし、いよいよ
会社として目標に対してチャレンジができ、嬉しい限りです。
メンバーも増え、トラブルもありますが
楽しく日々を送れること、
カナグのメンバー、取引先のみなさま、
応援してくださっているみなさま、
関係者すべてに、感謝の念でいっぱいでございます。
この舟がどこまでいけるのか、
どういう景色をつくることができるのか。
今年来年とさらにメンバー、一同邁進してまいりますので
どうぞ引き続きあたたかく見守っていただけますと
幸いです。そして私自身が日々一番ワクワクしております。
別城
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別城 翔 (bekki tsubasa)
カナグ代表 / プロモーションプランナー , サウンドエンジニア
ePARA 副代表 / VAZ プロデューサー
1991年福岡県北九州生まれ
個人実績 (音響/作編曲)
・宇部興産 様
・NEXCO東日本 様
・京セラ 様
・某飲食チェーン店 様
その他
・Vtuber 楽曲提供
・オリジナルアニメへの楽曲提供 ...等
(※順不同)
(※小畑貴裕主宰の劇伴研究会に所属)
個人プロモーション実績
・GMOインターネット さま
・PUBG JAPAN さま
・セガゲームス さま
・バンダイナムコエンターテインメント さま
・ポケモン さま
・ドリコム さま
・KLab Games さま
・DMM GAMES さま
・XFLAG (mixi) さま
・吉本興業 さま (e-Sports)
・Studiorex さま
...等多数
・30タイトル以上のゲームタイトル のプロモーションに従事
・eスポーツ事業会社さま、
JCGさま、waveさまのアドバイザー、コンサルティングも担当
(※順不同)
(4/18 追記)