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無敵な身体から一気に雑魚になった日【大人喘息により人に優しくなれた。】

6年前までは、いくらでも働ける無敵な人間だった。

風邪なんてのは年に一回引くか引かないか
くらいで、学生時代は喘息で体育の見学者を
蔑視したりしていた。

残業100時間なんて違法な数字も余裕だった。
すぐ疲れた、眠い、なんて言う人に
「メンタルの弱さは甘え。」だなんて内心
思っていたり、毒でしかなかった。

自分が毒のような人間になったのは
完璧主義な親の影響だろう。

また幼児期の虐めにより負けず嫌いから
社会ではのし上がってやる精神が凄まじく
他人からはメンタルが鉄と言われた。

会社員を保険とし自営業し出して寝ないで
フル稼働しようが飲みの付き合いなんて
余裕で行けたし、そのまま会社に出社から
ミスなく仕事はこなしていた。

それは予兆もないある日の事だった

自分に限界はないと思っていた25歳のある日。
空咳が止まらず下痢や嘔吐がした。

只の一時的な風邪か発熱と思いきや中々
治まらず症状は日に日に悪化し病院へ行くことにした。

検査結果はマイコプラズマ肺炎、逆流性食道炎
結核の陽性反応が出た為、仕事を中断になったが
生活もある為、医者にいつ治ります?と聞いたが
死にますよ?と言われて仕方なく結核の陽性疑いを
白黒ハッキリしてほしくなり無理矢理胃液を
抜いて検査してもらった。

結核ではなかった。が、大人喘息と判明。
当時は何の病気なのかすら判断出来ず薬も
効果はなく、ただ死にかけそうになりつつも
呪いなのか?と思い畜生と悔しさしかなかった。

あれだけ無敵な身体が一気に雑魚体質。
医者には最初、自分は前のような身体に
戻るだろ!なんて当たり散らしたりしていた。

身体が弱る、悔しさに怒ると余計発作になり
大量に貰った薬で治療。
通院はほぼ毎日だった。1日に採血三本。
呼吸困難で車椅子に乗せられ看護師さんが
優しく引いてくれた。

医療費は月10万飛んだ。
当時は月収50万は稼いでいたから、まだ
助かったが医療費なんかに10万は辛い。
病院より美容院へ行きたい。

通院1ヶ月目くらいの頃、薬が安定し
普通に歩けるようになった。

健康体の有り難みが解った。

医者に八つ当たりしていたが
感謝しかなかった。

看護師さんにありがとうと泣いた。

歩く事は出来るから
松葉杖のお年寄りに椅子を譲った。

そこから色々制限が掛かり自分は
以前のような働きはしなくなった。
あれだけ働くと喘息発作になるから
出来ないので悔しさもあったが身体を
大切にしようとした。

当たり前に吸える空気に感謝した。

喘息になってから…

まだアホってくらい無敵健康体な時は
都内でガツガツ働き体育会系なキャラ
だったせいか、飲み友も沢山いた。

病気してから全く居酒屋に行かなくなり
友人は都内にしか居なかったせいか
週末なんかは飲みやイベントの誘いが沢山来た。

ウルトラジャパンのVVIPのサクラを
やってほしい。なんて弾けた誘いは
ザラだったが死んでしまう。

お酒が飲めないから別の内容で誘って
なんて言って早くも1年過ぎ、自分は
イベントに誘われることはなくなった。

病気になると友人までも失う。
病気が辛いのではなく薄っぺらい
友人関係だったと気づいて開き直り
孤高に生きようと決めた。

酒だけが人生の楽しみではない。

治療である程度善くなった身体に
ご褒美に動ける範囲で一人旅をした。

都内ばかりで窮屈だったと改めて
感じる瞬間。

静岡県は優しい。

一人旅って楽しい。

確かに誰かと旅も楽しいがメジャーな
場しかいかなくなる為、一人だと
マニアックなスポットを散歩出来る。

喘息になってからずっと一人だ。

でも楽しさを沢山知った。

忘れていた絵が好きだったことを。

スケボーにハマりすぎて一人旅と
一緒にクルージングしたことを。

自然に埋もれて遊ぶことの楽しさを。

瓶のラムネと砂浜が美味しさを。

仕事ばかりに生きて長年忘れていた
何かを教えてくれた。

都会という狭い世界で生きず
もっともっと広く楽しい発見は
自然にも沢山あるのである。

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