電子書籍:小説『青い軌跡』・試し読み
電子書籍:小説『青い軌跡』・試し読み
土曜の午後の三時過ぎになって、数日続いていた雨は、ようやく治まった。
青山直樹は憂鬱な気分を抱えながら、駅近の繁華街にある中華料理店で、久しぶりに夕食を摂ることにした。その中華料理店は妻が気に入っていて、家族でよく通った店だった。
雨上がりの土曜日の夕方、その店でチャーハン、チンジャオロースに餃子。そして瓶ビールを頼んだ。
幼児の声が聞こえたのは、食事を始めてから十分ほどが経過した後だった。
家族連れの客が、店の一隅のテーブルに座っていた。テーブルを挟んで両親が座り、母親の隣席に幼稚園児ぐらいの女の子が座っていた。何が楽しいのか、無邪気に笑い、浮いた両足をぶらつかせている。そして女の子はしきりに、前に座っている父親に話しかけていた。
ときどき、家族の笑い声が聞こえた。直樹は暗い気分のままビールをグラスに注ぎ、飲み干した。
中華料理店を後にした直樹は、ほろ酔い気分で繁華街を当てもなく歩いた。
自宅のマンションに戻っても、誰も直樹を迎える家族はいなかった。直樹は、三ヵ月ほど前から妻の恵子と別居していた。
直樹は三十五歳で結婚しているが、すでに両親は他界していた。
婚姻生活は五年を過ぎようとしている。その間、子どもに恵まれ三歳になる一人息子がいるが、今は妻の実家で暮らしている。
「母の体調が悪いから、しばらく実家の手伝い、せな、あかんねん」と言って、妻は息子を連れて実家に戻った。直樹はそのとき、手荷物を車の後部ハッチに載せて、妻の実家まで送った。
次の日から毎日のように、直樹は、妻の実家に電話で連絡を入れるようになった。妻との短い会話が済むと、言葉を覚え始めた息子とたわいのない会話を楽しんだ。それが日々のささやかなしあわせのように思えた。
直樹は、機械設計の外注業務を生業とする自営業を二年ほど前からしている。ちょうど息子が、しきりに寝返りを打つようになったころからだった。
自宅から車で一時間ほどかかる妻の実家に、隔週の頻度で休日の日曜日に遊びに行っていた。だが、妻の様子がおかしくなったのは一ヵ月ほど前からだった。居留守を使っているのではないかと思える出来事があった。それからというものの、妻の実家に訪れることはしなくなった。
思い出したくもない木曜の夜のことが、直樹の脳裏に浮かんだ。
その日、直樹はいつものように、妻の実家に電話を入れた。電話に出たのは義理の母親だった。
「もしもし……。あの、直樹ですけど、恵ちゃんをお願いします」
「今、いないけどね」
義母の素っ気ない低い声が、耳の底に粘りついた。
「お風呂ですか?」
「いや、違うけど……」
「じゃ、外出でもしているのですか?」
直樹は壁にかかった時計に目を向けた。時計の針は夜の九時過ぎを指しているところだった。
「どこに行ったんですか?」
「そんなこと、私に言われても知らんがな」
初めて聞く、義母のぞんざいな物言いだった。物の言い方にショックを覚えた直樹は、呆気にとられて、言葉が後に続かなかった。沈黙が続くと、直樹は焦った。
「あの……」
通話の切れる音が聞こえた。直樹の漠然とした不安が現実となった瞬間だった。しばらく前から妻が電話で応対する頻度が少なくなり、様子が変だと思っていた。居留守を使うようになったことが、頭の片隅で引っ掛かっていた。
通話が切れた後、明日の朝にでも妻の実家に行ってみようか、と考えたが、迷った挙句、しばらく様子を見ることに一旦は落ち着いた。けれど不安な気持ちがぶり返したのか、その日から数日、直樹は満足に眠れない夜を過ごした。
アーケード付の商店街から外れた繁華街の路面は濡れていて、至るところに水溜まりができていた。
商店街から繁華街に目を向けた直樹は、ふと前方に、紺色のワンピースを着た背のすらっとした女の後ろ姿が映った。女の後ろ姿が恵子に似ているように思えると、知らず知らずに足が動き、目を凝らしながら女の後を追った。後ろ姿を追い求めると、直樹の心は波立ち騒いで落ち着かなくなった。
半信半疑で女のしぐさを観察していたが、女は急に洋装店の前で立ち止まると、ショーウィンドウのマネキン人形に目を向けた。だが女の横顔に、直樹はほっとした気分を味わった。女の横顔は、恵子と似ても似つかない顔立ちだったからだ。
「俺はバカか」
直樹は心の中で毒突き、こんなところに恵子が居るはずはないと思った。
ため息をついた直樹は、さりげない動作で踵を返し、商店街に足を向けた。歩いていると、妻と諍いのあった日のことが思い出された。
「仕事が上手くいかないって……。どうして今頃になって言うのん。最初からわかってることやんか!」
「もうちょっとしたら、もう少し渡せるって」
「何、言うてるのん! こんな生活費で、どうやって親子三人がやっていけるぅ思うてんのよ」
「だから、言うてるやんか。パート探してくれへんかって」
「私、嫌やわ。子どもが小学校上がるまで、傍にいてあげたいんや」
「そんなこと、言わんと」
「ああ、あほらし……」
恵子はため息をつくと、直樹を横目で睨みつけ、むすっとした顔つきになった。
商店街をぶらぶら歩いていると、小さな映画館の看板が目についた。長い間、映画館で映画は観ていないことを思い返した。自宅に戻っても、味気ない気分になるだけだった。気分転換に映画を観るのもいいだろうと思い、軽い気持ちでミニシアターの映画館のガラス戸を開いた。
映画館に入ってみると狭い縦長のロビーがあり、ページュ色のカウンターがあった。天井のダウンライト照明の灯りがまぶしいほど明るくて、清潔に感じられるロビーだった。
品のよさそうな年配の女性が受付カウンターに立っていた。来客の気配を感じたのか、こちらに顔を向けた。
白髪交じりの短髪でラフウェーブの髪型の女性の口もとに、笑みが浮かんだ。直樹はその女性の視線を避けて、壁に貼ってある映画ポスターを見た。そしてすぐに、カウンターに近づいて行った。
上映予定の『道』という映画のチケットの清算を済ませた直樹は、受け取った映画のチラシを片手に持ちながら、劇場の重い扉を押し開いた。
『道』という題名の映画の予備知識はなかったが、白黒場面がパンフレットの表紙だったので、かなり古い映画のように思えた。
劇場は座席数六十ほどの広さがあった。見渡してみると、十五人ほどの観客が席を占めているだけだった。直樹は中央寄りの座り心地の良さそうなソファー席に腰を鎮めた。すると睡眠不足のせいか、うつらうつら睡魔が襲ってきた。
上映開始の甲高いブザーの音で、直樹は思わず目を覚ましてしまった。
軽いため息をつくと、目の前のスクリーンに視線を向けた。
すると、ふいに横文字の白黒画面が現れ、物悲しくなるようなメロディーが劇場内に流れだした。少しして、そのメロディーは軽快な音楽に変わった。直樹は『道』のパンフレットに目を向けて、物語のあらすじを一読した。
白黒の横文字だけの画面が一転すると、海辺の風景に変わり、葦のようなものを束にして背負った女の子が登場した。その風変わりな女の子は、「ジェルソミーナ」という名の主人公だった。
数人のきょうだいの子どもたちが、ジェルソミーナの名を呼びながら集まってきた。
子どもたちがジェルソミーナに向かって口々に告げると、ずんぐり気味で目の大きなジェルソミーナは、慌てて砂浜を走り出した。子どもたちも引きずられるようにして、彼女の後を追った。
場面が変わって白い家屋が映し出されると、母親の悲しみをたたえるような声が聞こえ、家の壁に体を預けている精悍な顔立ちをした屈強な男の姿が映し出された。
その男は、もうひとりの主人公「ザンパノ」だった。
娘のジェルソミーナは、母親からザンパノと共に大道芸の道を歩むように哀願される。ジェルソミーナは戸惑いながらも、母親の要求に応え、突然現れたザンパノと共に旅に出ることを決意する。
娘との別離に悲しむ、ジェルソミーナの母親の悲痛な叫び声を耳にすると、直樹は、亡くなった母親の悲痛な叫び声と重なって聞こえたような錯覚を起こした。
高校生のころに聞いた母親の悲痛な叫び声を思い出すと、多感な時期の記憶がまざまざと浮かんできた。 続く・・・・・・。
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