電子書籍:小説『邂逅の街』-試し読み
電子書籍:小説『邂逅の街』-試し読み
土曜日の朝、小田秀樹はスマホのメロディーコールで目覚めた。
サイドテーブルに手を伸ばしてスマホを掴み、ベッドの中で画面を見た。電話の相手は、幼馴染の森本からだった。
「秀樹か? 俺、森本やけど」
「めずらしいなぁ。ひさしぶりやんか」
「あのな、今度N小学校の同窓会するんやけど、小田も参加できるかなぁ?」
「いつ、するのん」
「四月二十七日の土曜日、午後六時から居酒屋『楓』でするんや。知ってるやろ、商店街にある『楓』。来てほしいんや」
「うん、わかった。参加するわ」
「そうかぁ、来てくれるか! 南も来るらしいで」
通話を切ってからも、森本のよろこぶ声が耳の底に残った。
N小学校の同窓会は二十名ほどが集まる、という話だった。「店は貸し切りやからな」と、森本は自慢げに話していた。駅近の商店街にある『楓』は、秀樹が通っていたT工業高校の後輩が経営している店だった。
森本から『楓』で同窓会を開催することを聞いたとき、秀樹は後輩が店を続けていることを知った。秀樹が暮らした街では、小学校から高校までが自宅から徒歩圏内にあった。
秀樹は、最後の同窓会になるかもしれないと思うと、ちょっぴり感傷に浸りそうになった。
当日の土曜日、早めに自宅を出た秀樹は、午後五時頃にA駅へ到着した。郊外の小さな駅を思わせる駅舎から十分ほど歩いたところに、秀樹が生まれ育った区域があった。二十一歳でその街を出た秀樹は、駅前から周辺の風景を望むと、妙に懐かしさがこみ上げてきた。
秀樹は三十八年ぶりに、住んでいた場所に足を向けた。ゆっくり歩きながら街並みを眺めた。当時の光景とはずいぶん様変わりしていて、知らない街並みが目の前にあった。
当時住んでいた一角は、建売住宅が並んでいる場所に変わっていた。裏手のドブ川もなくなり、背中合わせのように建売住宅が建ち並んでいる。秀樹は辺りをぶらぶら歩き、立ち止まっては面影のあるものに目を向けた。
もとの区域に戻った秀樹は、建売住宅が並んでいる場所で佇んだ。古さを感じさせない住宅を眺めていると、在りし日の記憶が蘇ってきた。
*
小田秀樹は、大阪近郊の工業都市として発展を遂げた街で生まれ育った。秀樹の父親は、当時鉄工所を経営していた。
錆ついたトタン張りで囲われた外壁の二階建て住居で、裏側は増築された平屋建ての建物が父親の鉄工所になっていた。鉄工所の中には、一台の切削加工の旋盤と、加工品の鉄板に孔開け作業ができる二台のボール盤が置かれていた。
住居の隣地は空き地になっていて、境界線のブロック塀に沿って二メートル幅ほどの私道の路地がある。路地を進むと、鉄工所の出入り口があった。出入り口の引き戸の脇には、「小田鉄工所」と書かれた木板の看板が付けられていた。
路地に入ると油の臭いがする。路地には大きなドラム缶が並列に三個置かれていて、その中に、切削加工で生じたスクリュー状の切り屑が入っていた。
工場の裏手に、一、五メートル幅ほどのドブ川が流れている。そのドブ川に沿って、雑草の生えた小さな空き地が続いていた。
夏になると、そのドブ川にトンボが飛んでくる。秀樹は子どものころ、ドブ川の土手で近所の子どもたちと薄暗くなるまで遊んだ。「ドブ川」と、子どもたちは呼んでいたが、それほど汚れた川ではなかった。周囲に田んぼが点在する地域で、用水路として使われていた。
鉄工所の旋盤は、そのドブ川に向けて設置されていた。
普段の父親は、油で汚れた軍手を嵌めているが、切削加工の仕事をしているときは、黒ずんだ素手で旋盤を操っていた。旋盤の振動音と鉄を削る音が木霊(こだま)して、切り屑を辺りに撒き散らす光景を子どものころから見ていた。薄汚れた作業帽をかぶり、旋盤の回転軸を見つめる父親の一心なまなざしが、今でも目に焼き付いている。
父親の右肘には金属棒が入っていて、六十度ほどしか肘が曲がらない。父親は独身のころ、勤務先の鉄工所で注意を怠り、作業服の袖を旋盤の回転軸に巻き込まれて事故を起こした。
両親が独身だった当時、秀樹の母親は腎臓を患い、父親と同じ病院に入院していた。右腕に障害を抱えた三十前の男と、幼年で父を亡くして母子家庭で育った中学校卒の若い女は、その病院で偶然出会い、病院関係者の口利きで結ばれた。
秀樹が小学生のころは景気が良かったのか、熱気だった雰囲気が鉄工所にあった。
鉄工所の片隅に置かれたボール盤で、母親は加工品の鉄板にドリルで孔開け作業をすることが多かった。油で汚れた前掛け姿で、ほつれた髪を頬に垂らしながら、不満も言わずに黙々と作業に勤しんでいた。
冬は鉄工所の窓枠と壁の隙間から冷気が忍び込み、コンクリートの土間は冷ややかな寒気をさらしていた。石油ストーブを傍に置いての作業だったが、寒さを凌(しの)げるほどではなかった。
夏になると、業務用の大型扇風機の生ぬるい風が鉄工所に吹いていた。仕事中の両親の額や首筋、あるいは背中には、作業服を通して汗が滲んでいた。
小学生のころから、そんな光景をつぶさに見ていた秀樹は、高校を卒業したら父親の仕事を手伝い、母親を少しでも楽にさせたいと考えていた。
秀樹が中学二年に進級したころには、前年のオイルショックの影響で一番の取引先の仕事がほとんどなくなった。ほどなく同業者の紹介で、新規のブローカー業者の下請け仕事を受けるようになった。
父親は、安い工賃と手形決済の支払い条件を嫌々ながら飲み込んだが、それでも取引先になったブローカー業者から期日より工賃の支払いが遅れることが度々(たびたび)あった。そのことに嫌気が差していた父親は、徐々に精神が不安定になり、部屋に籠(こも)っては酒を飲むようになった。酒を飲み続けると、苛立った感情を母親に当てた。ときに、声を荒げて暴言を吐いたり、あるいは母親が不平不満を言ったりすると、暴力を振るうこともあった。
そんな家庭環境がしばらく続いた。
続きは下記で。(この小説は、「青い軌跡」の新装版です)