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音のない世界・手話カフェ【創作日記】

「手話カフェ」があることを知ったわたしは、土曜日の夕方、その店に訪れることにしました。

わたしは最寄駅から普通列車に乗り、十五分ほど乗車したのち改札口がひとつしかないN駅に降りました。はじめて下車した駅は、こじんまりとして古びた印象が残る駅舎でした。

改札口を抜けると、左右に南北の出入り口があります。わたしは北側の出入り口を抜けて、小さな商店街を歩きました。石畳の商店街を数分ほど歩いて左に折れると、人と自転車しか通り抜けられないような高架下が見えました。その場所で立ち止まって、スマホの画面を指先でタップしながら手話カフェのホームページをひらきました。そして位置情報を探りだしたのです。

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左手の古い建物の石段を上がり切ったところが「手話カフェ」の出入り口になっていることがわかりました。わたしはその階段を上がりました。「手話カフェ」の玄関口が見えましたが、コロナ禍のせいか、出入り口の扉は開かれたままになっていました。

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店内にBGMは流れていませんでした。静寂が包み込んでいるような音のない世界があるだけです。足場板に塗装を施した床板に足を踏み入れると、床板が微かにきしむような音をたてました。

左手にあるカウンターに視線を流してみると、人のよさそうな30代に思えるマスターがカウンターの中から微笑んでいる姿が見えました。目が合ったわたしは、マスターに軽く会釈しました。するとマスターは、カウンターに座っていた小柄な男性の席の近くに座ることをすすめるような手振りをしてきました。わたしはその男性の隣席を空けて座りました。カウンター席にいた小太りの男性は、笑顔を浮かべてわたしを迎えました。

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店内の奥にはテーブルがあり、天井は古木の梁が交差していて吹き抜けになっています。壁は漆喰が塗られているようです。音のない空間はレトロな雰囲気が漂っているようで、妙に落ち着きます。わたしは注文した珈琲を飲みながら、店内にそれとなく視線を移していきました。

しばらくして、カウンター席に並んで座っていた男性が声をかけてきました。

その男性に顔を向けると、マスターと同年代に見える彼は、やさしそうな笑みを浮かべて尋ねてきます。

「ここ、初めてですか?」

「ええ、そうです」

「この店を何で知ったのですか?」

と、彼は尋ねてきました。

「たまたまネットサーフィンをしていたら、この店のホームページを見つけたんですよ。場所も、それほど遠くなかったし。店内の様子に惹かれて」

と、わたしは応えました。

「そうですか。この店、レトロな雰囲気があるでしょう。マスターの趣味なんですよ」

「そうですね。この店の常連さんですか?」

わたしはその男性に尋ねてみました。

「常連かどうかわかりませんが、週に一度は来ますね。僕、健聴者だけど、大学で手話サークルに入っていたんです」

「それで、この店に通ってるんですね」

「それもありますけど。実は、彼女が聴覚障害者なんです。彼女は平日、会社勤めをしているんですけど、土曜日の夜だけこの店のボランティアスタッフになっているんです。もうすぐ、来るはずですけど……」

男性はときおり笑顔を見せながら、手話を交えて語った。彼が付き合っている彼女を待っていることを、わたしは知った。

しばらくして、男性から聞いていた彼女が姿を現しました。髪の長い卵型の顔立ちをした女性でした。彼女は彼に笑みを浮かべながら、カウンターを通り過ぎていきました。意味深な笑みのようです。

テーブルに座った彼女を見届けた彼は、わたしに「じゃ」と言って席から離れました。そして彼女のいるテーブルに足を向けてゆきました。

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奥のテーブル席で、ふたりは楽しそうに手話で語り合っています。時間の経過とともに、彼女の表情は豊かになっていくようです。好きな異性を前にして、身振り手振りで感情を伝えようとする行為は、舞踏にも似ていて興味深い光景にも思えてくるのでした。

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