小説『月曜日の夜に』-試し読み
『東京物語』
東京本社に立ち寄った僕は、午後から山手線に乗り込み渋谷駅を目指した。
混雑しているハチ公改札口を抜けてた僕は、駅前周辺の人波をかき分けながら明治通りに進んだ。そして宮下公園を通り過ぎてから、だらだら坂を上り始めた。上りながら、彼女がこの坂道を下ってくるような気が何度もした。
けれど現実には、見知らぬ人たちとすれ違うばかりだ。もし、記憶にある出来事が現実に起これば、それは奇跡に近いというほかはない。彼女と付き合っている間、何度もこの坂道で偶然のように落ち合ったことを思い出した。
デートの日は、いつも渋谷駅から携帯で連絡することが習慣になっていた。
「今、渋谷駅に着いたから。十五分ほどしたら、迎えに行くよ」
「うん、待ってる」
彼女の弾むような返事は、いつも決まった台詞だった。自宅で待っていると思っていたら、ときおり、彼女とだらだら坂の途中で出会う。出会うというよりも、坂道の途中で、彼女は僕を待っているのだ。
ボブの髪形が似合う白い肌の彼女は、坂道を下ってくる。だらだら坂の途中で出会うと、彼女は口許に笑みを浮かべ、とてもうれしそうな表情になる。軽い足取りで僕の隣に並び、きまって僕の左手を握りしめた。
上り切った坂道を見下ろすと、眼下に中庭のある建物が見えた。
そこは当時、彼女が母親とふたりで住んでいた公営住宅だった。昭和五十年代にたてられた古い建物であったが、渋谷駅から徒歩十分とかからず、利便が良かったせいか、転居する人はほとんどいなかった。
彼女は、今はその公営住宅には住んではいない。昨年の暮れ、ひっそりと引っ越したという。近所の住人にも行き先を告げずに姿を消したので、しばらく近所の住人から変な噂が立っていたらしい。
公営住宅を訪れた僕に、隣の住人がそう言ったのだ。その建物を眺めていると、僕の脳裏に、彼女との思い出が蘇ってくるようだ。
二年前、大阪へ転勤になってから、彼女と遠距離恋愛になった。
僕は月に一、二度、金曜日の夜に大阪駅バスターミナルから夜行バスに乗って、東京に向かうことになった。
僕たちは当時、土曜日の朝から日曜日の夜に掛けてひとときも離れず、東京の街で過ごしていた。そんな遠距離恋愛の生活が一年半ほど続いた昨年の十二月初旬、僕たちの関係は終わってしまった。そしてその月の十二月の二十日過ぎ、彼女は母親と一緒に、住み慣れた公営住宅から立ち去っていたのだ。
予感はあった。昨年の秋ごろからメールの返信が途絶えがちになり、返信の文章も素っ気なくなって行ったからだ。
昨年のクリスマスの三週間前、「もう、逢わないほうがいい」と書かれた十二の文字を残して、彼女からのメールは途絶えた。信じられない気持ちでメールを読んだ僕は、彼女と過ごした三年間の思い出がたった十二の文字でかき消されたような気分になり、胸が痛くなった。すぐにでも東京で彼女に逢って真意を確かめたかったが、なぜか行動に移せなかった。彼女からの返信を読んだ後、心の中は動揺してしまい、何を言えばいいのかわからなかったからだ。メールを読むまでは、彼女との別れがあるなど疑いもしなかった。年が明けても、しばらく彼女に対する動揺が続いて治まらなかった。
最後のメールを受け取る一ヶ月ほど前の情景が目に浮かんだ。
「知らない、大阪の土地で暮らすのは嫌」
円山町にあるホテルの一室のベッドの中で、彼女はくぐもった声で言った。
白く細い肩先にある髪が揺れた。ベッドシーツに顔を埋めたまま、彼女は嗚咽を漏らしていた。
いつまで大阪勤務が続くのかわからなかった僕は、彼女にはっきりと応えることができなかった。彼女の名を呼んでも、髪を揺らすばかりで、彼女は応えることはなかった。
優柔不断な態度に嫌気が差してしまったのだろうか。それとも、好きだった母親の傍にいつまでも居たかったのだろうか。たぶん彼女は、東京の都会から離れられない気持ちが強かったのだと思う。ただ、住み慣れた公営住宅を年の暮れに引っ越す理由は、僕には思いつかない。僕と別れた理由と何か関係があるのだろうか。奇跡でも起これば、渋谷の街中で彼女と再会できるかもしれない。渋谷の街をくまなく歩いていれば逢えるかもしれない。そんなことを、まざまざ考えた僕はため息をつくしかなかった。
離れて行った彼女を思いながら、公営住宅の中庭を見下ろしていた僕は、渋谷駅に戻るために坂道を下った。宮下公園のあたりでふと立ち止まって見上げると、ビルの大きな窓ガラスに夕陽が映し出されているのが目に留まった。窓ガラスに陽光が反射して、まぶしいほどに美しい夕陽が僕の視線を捕らえた。渋谷の街で、何度も彼女と見た夕陽の輝きだったことを思い出すと、目頭が熱くなってしまった。
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