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電子書籍『未来からの贈り物』-試し読み

2017/10/16: ブログ転載記事

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電子書籍『未来からの贈り物』-試し読み

 金曜日の夜、病院の駐車場に着いたのは午後九時ごろだった。
 夜間出入り口の扉を開けると、通路の左手に守衛の窓口があった。そこで僕は手続きを済ませ、エレベーターを目指して進んだ。
 面会時間は午後八時までなので人通りはない。節電のため、必要最低限の照明しか照らされていない通路は薄暗かった。
 エレベーターを降りると、七階のホールも薄暗くひっそりとしていた。左側の壁一面は大きな腰窓になっていて、休憩用の二人掛けソファが窓の下に置かれている。
 右側の通路を進んでゆくと、蛍光灯が煌々と照り付けるナースステーションが見えた。
 僕は詰所で声を掛けて、応対した看護師に紙袋を手渡した。
 紙袋の中身は、新装のパジャマ二組とタオル類が入っている。治療方針の変更で、母の入院期間が予定より長引いたので着替え用として持ってきたものだ。
 人影の気配を感じて、薄暗い病室の通路に目を向けた。
 芯がぶれているような動きで、人影がゆらゆらした動きで近づいてくる。
 その人影の髪は肩のあたりまであり、小柄で細いかたちをしている。母だと気づくのに時間はかからなかった。五年後に還暦を迎える母は、背丈が僕のあごのあたりまでしかない。
 不安を抱えながらの入院生活を送っているせいだろうか。母の頬は少し削げて、青白い顔つきをしている。乳がんの手術を終えてから三日が過ぎても、母の表情に生気はなかった。「急に用事を言いつけて悪かったね」と母は言った。
「着替えのパジャマ、持ってきたから。看護師さんに渡したよ」
「売店で気に入ったパジャマがなくて、助かったわ。車で来たんだろ。気をつけて帰らないとね」
 母は淋しそうにほほ笑んだ。
 母と別れて、エレベーターホールに向かった。大きな腰窓に近づくと外灯に照らされた駐車場が見えて、ふっと不安な表情を浮かべた母の顔が目に浮んだ。それは手術の日に見せた母の顔だった。

執刀の当日、緑色の手術衣の母は点滴台を従え手術室に向かった。看護師は母と肩を並べて歩き、その後ろに父と僕が、そして叔母と弟がその後に続いた。
 途中で何度も立ち止まった母は、か細い肩で息を取るように上下させた。初めての手術に、不安を隠せなかったようだ。その都度、看護師がそっと肩を抱くようにして寄り沿い、歩行を促した。
 母は手術室の扉の前で振り返って、心細く感じられるほほ笑みを口もとに滲ませながら、僕たち家族に小さく手を振った。
 駐車場をぼんやり見ていた僕はエレベーターに乗り、一階のボタンを押した。
 病院の駐車場で車に乗り込むと、僕は美樹に電話を掛けた。
 四、五回、呼び出し音が耳に流れると、美樹の声が聞こえた。
「はい、もしもし」
「あっ、俺だけど。今、病院の駐車場なんだ」
「お母さんの具合はどう?」
「ああ、少し落ち込んでいるみたいだけど、大丈夫だよ」
「そう……。それはよかったわ」
「あさっての日曜日、一緒に病院に行かないか?」
「えっ、お見舞いに行ってもいいの?」
「もちろん、いいよ。おふくろも会いたがっているし。いつにする?」
「そうね……。三時ごろでも」
「じゃ、車でマンションまで迎えにゆくよ」
「うん、家で待っている」
 僕は通話を切って、携帯電話を助手席に置いた。

 日曜日の夕方、七階病棟の談話室に向かうと、窓ぎわのソファで母がひとりで待っていた。
 母は立ち上がって、初対面の美樹とぎこちない挨拶を交わした。
「どうも、わざわざお越しいただいて……」
「黒田美樹です。はじめまして」
「どうぞ、座って下さい」
 母は美樹に対して、しっかりした口調で言った。美樹は、少し緊張しているようだ。
 テーブルを挟んで母と対面すると、美樹は革のバッグから小箱を取り出した。それは水色の包装紙に包まれ、赤いリボンが飾られた小箱だった。
「あの、お見舞いにと思って……」
 美樹の声は途切れた。
「まあ、何かしら? すてきな小箱ね」
「どうぞ、開けてみて下さい」
 母は丁寧に包装紙をめくった。中身は音楽プレーヤーだった。
「ワインカラーの音楽プレーヤーだわ! きれいな色ねぇ」
「シャンソンがお好きだと聞いていましたので、名曲を録音してきました」
「ああ、私の好きな曲ばかり。この曲、私がリクエストして手術室で流してもらったのよぉ。うれしいわぁ」
「気分が優れないとき、好きな曲を聴くといいと思って……」
「ありがとう美樹さん……大切に使わせていただくわ」
 黒い瞳に湿ったひかりを湛えると、母の表情がぱっと明るくなった。そんな表情を見るのは久しぶりのことだった。
 しばらく話し込んでいると、母と美樹は打ち解けて語り合うようになった。会話の合間に、ふたりの笑い声が上がった。
 術後の経過を医師から聞いていた僕は、落ち込んでいた。母は退院後も外来で放射線治療を控えていて、辛く不安な日々が続きそうだからだ。そのことを、病院に向かう車の中で美樹に話した。
 大学病院で働く看護師の美樹は、ずいぶん、励ますような言葉を掛けてくれた。 二年ほど付き合っているが、これほど、頼りになる存在に思えたことはない。
 母は、和らいだ表情を美樹に向けながら話し込んでいる。見舞い品の音楽プレーヤーが、よほど気に入ったようだ。
 またふたりの笑い声が、談話室でひろがった。

 母が退院してからしばらくのことだった。
 休日の夜、リビングでくつろいでいた僕に母は声を掛けてきた。
「美樹さんにお礼がしたいんだけど」
 見舞いの品を頂いたことで、母は気になっている様子だった。
「よく気がつく、しっかりした御嬢さんだねぇ。お父さんは会っていないけど、私が話をすると、気に入ったようだよ」
「ああ、親父に話したの?」
「当たり前じゃないの。美樹さんも年頃なんだから、お前がはっきりした態度にでないとね」
「うーん、色々と考えているよ」
「何、言っているの。はっきりさせたほうがいいわよ。ふたりで食事にでも行って来たら」
 母はそう言って、白い封筒を差し出した。
「これ、食事代に使って」
 封筒の中に、数枚の万札が入っていた。
「ちょっと、多いんじゃないかなぁ」
「何、言ってるの。私の気持ちだからいいのよ。その代り、思い出に残るようなところに連れて行ってあげるのよ。わかった?」
 僕は複雑な気持ちで、ポケットに封筒を仕舞い込んだ。

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ボイスドラマ「未来からの贈り物」

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