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大久保元調教師の訃報に触れ、ナリタブライアンの高松宮記念挑戦を思い出した。

名調教師の訃報。


大久保正陽元調教師がお亡くなりになりました。

管理馬で有名なのは何と言っても、1994年のクラシック三冠馬・ナリタブライアン

1994年のナリタブライアンの強さは今でも競馬ファンの間で語り草。

歴代最強馬はこの馬、という競馬ファンも多いです。


ナリタブライアンの無双と挫折。そして異例の挑戦。


ナリタブライアンの1994年はまさに無双状態。
クラシック三冠に加え、年末の大一番、有馬記念も圧勝。

翌年以降も無双が続くと目されていたものの、好事魔多し。

天皇賞(春)を目前に股関節炎を発症してしまい、休養を余儀なくされます。

秋のG1戦線に復帰はしたものの、ナリタブライアンとは思えない走りで全く勝てなくなってしまいました。

1995年は挫折の一年となってしまいました。

1996年は、緒戦の阪神大賞典こそマヤノトップガンに競り勝ったものの、久々のG1制覇を狙った天皇賞(春)はサクラローレルに完敗。

そして次走が驚きの高松宮記念への出走表明。

・・競馬ファン以外にはこれだけだと何の事やら?だと思いますが、天皇賞(春)が3200メートルの長距離レースで、高松宮記念は1200メートルの短距離レース。

人間からすると3200メートルと1200メートル、そんなに変わるのかな?という感じですが、サラブレッドにとっては3200メートルはマラソンのようなもので、1200メートルは100メートル走のようなもの。

ナリタブライアンはデビュー戦から3戦目まで、1200メートルのレースに出たことはあるものの、いわゆる王道路線を走るようになってからは2000メートル以上のレースへの出走ばかり。

私はまだその頃は競馬ファン歴も浅かったものの、この挑戦が異例なものであることは理解でき、かなり驚かされました。

当時、ダビスタという競走馬育成ゲームにハマっていたのですが、ゲームの中でもそんなローテーションはやったことがありません。

なんにせよ前例のないローテーションであり、しかもそれに挑戦するのが、歴代最強馬なのでは?とさえ言われたナリタブライアン。

この挑戦を決めたのが大久保元調教師であり、「人間は勝手に、ステイヤーだとか短距離馬だとか言うんだけどね。特にブライアンは、無事に出走すれば、1200メートルもこなすと思っていた。」というのが、この挑戦の理由だったそう。

大久保元調教師としての信念があっての挑戦だったのだと思います。


結果と、その後。


肝心の結果ですが、近走で長距離を走り続けていたナリタブライアンは、流石に短距離戦の速いペースについていけず、道中は後方を追走。
最後の直線はなかなかの走りだったと思いますが、上位1〜3着馬との差は詰められず、4着に敗戦。

結果的には無謀な挑戦だったのかもしれません。

多くの評論家の批判もありました。

さらに悪いことには、ナリタブライアンはこの高松宮記念のあと屈腱炎を発症してしまい、引退に追い込まれてしまいます。

あの強かったナリタブライアンが、3歳の有馬記念を最後にG1を勝てず、しかも1200メートルの高松宮記念が最後のレースとなってしまった事には本当にがっかりしました。。


競馬ファンとしての気持ち。


ただ、最初に高松宮記念挑戦を知ったときから、レースの日まで。

そしてレース当日、ゲートインからゴールまで、「ブライアン、ひょっとして勝っちゃうかも?」と楽しみな気持ちがいくらかあったのもまた事実。

あれから四半世紀、今や競馬のレース体系は距離別の整備がかなり進み、異端とも言えるローテーションに挑戦するような調教師も少ない。

三冠馬が短距離レースに出るようなことは、今後まずないと思います。

・・と、このように書くとあの異例のローテーションを肯定しているようですが、今さら是非をどうこう考えたいというよりは、大久保元調教師の信念はすごかったし、あの時の驚きと楽しみな気持ちは、中々味わえないものだったな、と思うのです。


今夜は名調教師の訃報に触れ、ふと思い出したナリタブライアンの挑戦について書いてみました。合掌。

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