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劇場版mygo前編観たよ

楽奈パパ、見てますか、娘さんのバンドからプロテインバーが出ましたよ。

もはやバンドと筋トレは切っても切れない縁。
あなたもどうですか、mygoプロテインバー。

という感じで要家の謎が色々と明らかになった今作。
SPACEの閉店に関しては意外な真相も知れた。楽奈のことがなくともいずれは閉めるつもりだったのかもしれないが、オーナーの孫に対する愛情を窺い知ることができて感慨深かった。

この総集編で追加された楽奈のエピソードはmygo、そしてバンドリ1期の視聴者にとっても必見のものだったと言える。
しかし個人的には、そこを起点にして始まるこの映画の構成そのものに惹きつけられた。

mygo本編はCRYCHICの解散から始まる。
元CRYCHICメンバーがそれぞれ新しい出会いを経験し歩み出していく、というのが物語の軸になっていると言っていい。
愛音は狂言回し的な立場からCRYCHICの過去を知り、そこに関わっていくことになる。

一方、楽奈はアウトサイダーだ。
楽奈はCRYCHICのことを深く知らず、知るつもりもない。
CRYCHICの過去を知る、という物語の方向性からは逸脱して存在する、それが要楽奈という人物の立ち位置だった。

この劇場総集編・前編はそんな楽奈の視点から始まり、そして印象的なCRYCHICの解散シーンは省略されている。
どころか、CRYCHICに関する描写は殆ど存在しない。
燈の視点でCRYCHICの過去が明かされる第3話の回想も、少なくともこの前編には入っていなかった。

アウトサイダーである楽奈の幼少期の視点から始まり、本来あったCRYCHIC軸の物語の流れとは合流せず、その過去を知ることもない。
すると、この映画を観ている我々もまた「他者の視点」になる。
本編とは全く別の角度。絞られた視点から観る名もないバンドの結成。
mygoの物語を現在進行形で起きている一つの現象に捉え直す。
それがこの映画の意義だったのではないかと思う。

CRYCHICの過去を知らない我々にはわからない。
春日影とは何なのか。なぜその曲が生まれたのか。
なぜそよさんが春日影を弾くことを躊躇うのか。
なぜ祥子はこの曲を聴いて走り去っていったのか。
何もわからない。だからこそあのライブの目撃者の一人としてその現象を見つめることができる。

これは映画として胸のすくような体験だった。
見てて心地よかったし、何より本編を見ている時とは違うものを見れた。そのことが嬉しかった。
これは総集編と聞いて思い浮かべるようなものとは全く別だ。一本の映画として再構成されたmygoと言っていい。

前後編に分けた意義も感じられる。
前編では楽奈の過去から始まったように、恐らく後編では前編で省略された燈の過去から始まるのではないか、と予想できる。
根拠は予告編で第3話のワンシーンが入っていたことだけだが、少なくともこのままCRYCHICについて語らず置いてけぼりになることはないのだろう。
言わば後編は前編で語られなかったことの解答編になっているはずだ。
前編はmygo本編で語らなかった楽奈の過去に対する回答であり、後編は前編で語らなかった燈の過去に対する回答になる。
循環しているのだ。物語を一つの輪として繋ぐように。我々を先へ先へ導くように。
総集編を作る、ということに対して、ここまで構成を練るということは珍しいのではないかと思う。
勿論、それを可能にするのはこの映画に与えられた充分な尺だと思う。よくある総集編映画に比べて時間的にかなり幅がある。
それはそれだけこの作品に熱意が注がれているということでもある、と受け取っている。そのことが嬉しい。ありがとう。良いものが見れました。


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