『ラヴ・ストリート』【23】
グレート・プロミス
南城光輝は、さすがにしびれを切らしていた。二週間近くもエリに会えないというのはどういうことだろう。真っ直ぐに家へ帰る気になれず、セイジョへ来てしまった。そして、門の前でエリが出てくるのを待っていた。ずっと雪が降り続いている。光輝の頭と制服の上着には、払っても払っても雪が積もった。
光輝は一年前のことを思い出していた。現金の強奪に成功した夜は、その興奮から一睡もできなかった。本当に大金が手に入った! 自由を手に入れた! 興奮がさらに興奮を呼び起こす。そんな精神状態が学校へ行ってからも続き、授業中も不思議と眠くならなかった。目は爛々と輝き、まさにハイな状態が続いていた。その勢いのまま、放課後にセイジョへ向かった。たくさんの女子の視線の中、挑発的にエリの手を取って駆け抜けた。もちろん恥ずかしさも多少はあった。しかし、恥ずかしさを楽しむ余裕すらあった。それからも中島公園の菖蒲池に着くまで、光輝は何度かエリの手を取った。細くて冷たいエリの手は、眠りたがっている脳に刺激を与え、油断を振り払う効果があった。だから、エリに対して何らかの感情があって手を繋いだわけではない。その時はそう思っていた。そして、ボート上であの強烈な台詞をくらう。
「こんな馬鹿な真似をするぐらいなら言ってよ。私が一緒に死んであげるから」
光輝はハイな状態から一気に現実へと引き戻された。異常なまでの興奮は、罪を犯したという恐怖に姿を変えた。脱出したかったのは家ではない。まさに孤独だった。ずっと我慢していた涙がひと粒こぼれた。男は泣かないのが当たり前というジェンダー的な考え方がプレッシャーとなり、ストレスのはけ口を奪っていた。男も大いに泣くべきなのだ。子供にかえって泣き叫ぶべきなのだ。かっこ悪かったが、エリに弱い自分を見せたことを、今はよかったと思っている。
その後、エリの行動力と決断力はすごかった。光輝が口を挟む余地などなかった。それどころか名前すら聞き出すのに苦労した。
「名前、聞いてなかった。僕は 」
「言わないで。お互い知らない方がいいと思う」
「どうして?」
「もう、会うこともないでしょう」
「えっ?」
エリは光輝と関わりたくないように見えた。
「全部任せて。お金は拾ったことにして私が警察に届ける。衣類とかは少しずつゴミに出して処分する」
「でも、拳銃とかは、法に触れるかなりヤバいものだし」
「分かった。中が分からないように慎重にする。あなたは罪を犯したことを、ひたすら神様に懺悔すればいい」
「やっぱり僕がしたことなのに。迷惑かけられないよ」
「もう十分、迷惑かけられてるし」
「そうだけど」
「下手に動かない方がいいと思う。犯人は男だって分かってるんだから。私なら怪しまれない」
光輝は心で葛藤していた。エリにそんなことをさせていいのか。いっそのこと自首するべきではないのか。
エリは言い切った。
「このボートを降りたら、もう二度と会わない。いいでしょう?」
光輝はそれを聞いて正直また泣きたくなった。置き去りにされる子供の心境だった。孤独を自覚してしまった以上、その領域に立ちつくすのはもういやだった。惨めさと不安でオールを漕ぐ手が止まった。また、ひとりぼっちになってしまう。
「困る」
光輝は、弱々しい情けない声だった。
「何が?」
エリは止まったオールの先に目をやりながら、普通に返事をした。
光輝はエリにあっさり返されて、少々困りながらも素直に言った。
「君の名前も連絡先も知らないと」
「何で?」
「その後、どうなったか気になるし」
エリは口角を上げ、明るい声で言った。意を決した感があった。
「警察があなたの家に行かなかったら、うまくいったと思って」
「やっぱり困る」
「どうして?」
光輝は必死だった。本気だった。
「だって、馬鹿な真似をしたくなったら、一緒に死んでくれるって言っただろう」
「えっ?」
「それって、ものすごく大事な約束だよね」
「・・・うん」
「何も知らないと、連絡できないしょ」
エリは、突然、くすくすと笑い出した。
「北海道弁、似合わない」
「えっ?」
光輝はエリの笑顔を初めて見た。自分が面白いことを言うと、こんなふうに笑うんだと思った。笑いがエリの態度を軟化させた。
「私は、霧島エリ」
「僕は、南城光輝」
「じゃあ、私の携帯番号を入れるから携帯を貸して」
「ああ」
光輝は嬉しそうに携帯電話をポケットから出すとエリに差し出した。
エリは自分の番号を入力した。
「何か緊急事態が起きたら、連絡ちょうだい」
「うん」
「馬鹿な真似をしそうになった時も」
「うん」
そう約束して二人は別れた。
もちろん緊急事態は起きなかった。馬鹿な真似もしそうになかった。それなのに、光輝は、すぐに電話をした。エリは、全てうまくいったから大丈夫と言って切ってしまった。
また電話をした。おいしいケーキ屋さんがあると。エリは、甘いものは嫌いだからと言ってやはり切ってしまった。
こりずにまた電話をした。映画のチケットが二枚あると。エリは、SF超大作は苦手だからと言ってすまなそうに切ってしまった。
これが最後だと思って電話をした。とにかく会って下さい。お願いしますと。
翌日、待ち合わせ場所の地下街ポールタウンに現れたエリは、ショートカットになっていた。驚いた顔をした光輝に、エリは淡々と説明した。公園で警察に会っているので髪型を変えてお金を届けたと。そこまで、気を配って事後処理に奔走してくれたことに頭が下がった。エリは気にしないふりをしながら、しきりに髪を触っている。本当は短くしたくなかったのだ。それを光輝のためにバッサリと切ってしまった。
光輝は、エリの仕種と健気さに思わず抱きしめたくなった。その瞬間、最初の感情が甦ってきた。セイジョの門からエリを見つけた時、本当は手を繋ぎたかったのではないか。前日、公園でその冷たい手を握った時から、こんな感情が芽ばえていたのではないか。光輝は何度も自問した。つり橋効果は光輝にも作用していたのかもしれない。
恋をしたこともなかった。
男子校ということもあったが、舞の存在が女性への嫌悪感を抱かせていた。他校の女子生徒たちからたくさんアプローチされ、その中にはモデル並みの容姿をした子もいたが、全く心が動かなかった。
光輝は、もう一度、エリと手を繋ごうと思った。ここで拒否されたら、もう会わない。エリが受け入れてくれたら、どこまでも歩こうと。光輝はエリの手を取った。刹那、エリがびくっとしたのが伝わった。エリは黙ったまま、ゆっくりと光輝の方に顔を向け、その横顔をじっと見た。何かを言っているような気がした。光輝は前を向いたまま、ゆっくりと歩き出した。どこまでも歩こうと思った。
あれから一年。エリは髪の毛を伸ばさない。事件が風化するまで、きっと伸ばさないつもりだろう。
雪は降り続いた。光輝は、前髪に積もった雪が体温で溶け、雫となって落ちてくるの指先で払った。雪にはいろいろな種類がある。小さくて固い球形のパラパラとした雪。水分をたくさん含んだ重くべたっとした雪。そして、風で舞い上がってしまうほど軽くてふわふわとした雪。今日は、そのふわふわとした雪だった。
光輝の頭、マフラー、肩、背中は雪で真っ白になっていた。校門から出てくる女子生徒たちが、ちらちらと視線を送ってくる。何だか切ない。待つのも切ない。雪がしんしんと降るのも切ない。光輝は、人間の女の子に恋をしてしまった哀れな雪だるまみたいだと思った。そして、そんな童話があったかなあ、どこからそんな発想が出てきたんだろうと、ふと可笑しくなった。
「エリのカレシでしょ?」
通りかかった女子生徒が話しかけてくれた。光輝は助かったと思った。
「うん」
「エリ、ボランティア活動の話し合いで遅くなると思うけど」
「そうなんだ」
エリが忙しいと言っていたのは嘘ではなかった。
「エリの携帯に電話してみた?」
「学校にいる時は、電源を切っているみたいなんだ」
「そういうところ真面目なんだから。待ってて。エリ、呼んできてあげる」
女子生徒は学校に引き返した。
光輝は後ろから叫んだ。
「いや、いいよ。別に今日、約束してなかったんだ。突然、来たから」
「突然なんて、なおさら感動だよお」
女子生徒は走って校舎に入っていった。
光輝はエリに会えると思うとほっとした。しかし、ここへ来た言い訳を考えないといけなかった。待っていたでは、しつこい男のイメージだ。ストーカーっぽい。偶然、ここを通りかかったではわざとらしい。どうしよう。
「笠地蔵みたい」
光輝が顔を上げると、エリが赤い傘をさして笑っていた。急いで走ってきたのか、はあはあと息が白い。光輝は不意をつかれ顔が赤くなった。
「本人、雪だるまのつもりなんだけど。マフラーもしてるし」
光輝はそう言うと、エリに雪を払って欲しくて、雪だるまのままでいた。
「すごい雪が積もってる。男子ってかっこつけて、コート着ないもんね」
エリは傘を差し掛け優しく微笑むと、背伸びをして、右手で光輝の頭の雪を払った。
光輝は、してやったりという顔をして背を少し低くした。エリの長い指が髪の毛に絡む。肩に触れる。その度にどきどきした。
「この近くに友達がいて、遊びに行った帰りなんだ」
光輝は結局わざとらしい嘘をついた。
「そう」
「会えるかなあと思って寄ったら、友達が呼びにいってくれて」
「うん」
「突然、ごめん」
「ううん。ちょっとでも顔を見られてよかった」
エリが初めてしおらしいことを言ったので、光輝はまた赤くなった。
「今度、またゆっくり会おう」
「うん。傘、赤だけど使う?」
「いや、いい」
「じゃあ、私、戻るね」
「夜、メールをするから」
「うん」
エリは足首まで雪に埋まりながら走っていった。
光輝は、そのままエリを連れて帰りたかった。何故か、もう会えないような不安な気持ちになった。エリの姿が校舎に消えると、大きなため息をつき、仕方なく駅の方向へ歩き出した。