『ラヴ・ストリート』【14】
ボニーとクライド
夏目啓太郎は、『カサブランカ』で二杯目のコーヒーを飲み終えると、急いで代金を払い店を出た。正門から生徒が一人二人と出てきたのだ。門の前に着いた時、ちょうどエリが足早に出ていくのが見えた。とりあえず面識のあるエリに聞くことができる。
啓太郎はついていると思い、後方から駆け寄った。
「霧島さん」
エリは振り向き、啓太郎の顔を見ると、ものすごく驚いて目を大きく見開いた。
啓太郎は昨日の印象がよくなかったと分かっていたので、少し距離をおいて謙虚に頭を下げた。
「昨日は、突然、すみませんでした」
エリは声を発さずに、赤い唇を少し開いたまま固まっていた。視線を合わそうとしない。
啓太郎はエリの事情を全く知らないので、さほど気にもせず勝手に話を始めた。
「公園での最後の目撃者が、霧島さんと同じセイジョの生徒さんだって分かったんです」
「えっ?」
「ご存じありませんか? 髪が長い三つ編みの子。ひょっとしたら、霧島さんの近所に住んでいるかもしれません」
エリはものすごい早口で一気に喋った。
「三つ編みの子も、髪の長い子も、学校にはたくさんいます。それに、学年が違うと全く面識がなかったりしますから、近所に住んでいても分かりません。もう、いいですか? 急ぎますので」
エリはすでに歩き出していた。
啓太郎は後方から追いながら、構わずに続けた。
「ちなみに彼氏はフゾクの生徒さんみたいなんですけど」
エリが足を止め、啓太郎の方を振り返った。口調が少しきつくなった。
「だから、分かりません」
「俺って、相当、嫌われてます?」
啓太郎は苦笑いして頭をかいた。今までの経験から言って、主婦と女子高生は最も取材しやすかった。ここまではっきりと拒否反応を示されたのは、横領事件の当事者に直撃取材して以来だった。まるで、後ろめたいことがあるように感じた。
エリは自分の口調に気がついたのか、とたんに普通の口調に戻した。
「男の人と話してるだけで、いろいろと噂になるんです」
「なるほど」
「それに気をつけた方がいいと思います」
「えっ?」
「女子校の周りをうろつくと、すぐに不審者だって通報されますから」
「それはヤバい」
「失礼します」
エリは地下鉄駅の方向へ足早に去っていった。
啓太郎はやれやれと息をつき、通報されないようにバス停でさりげなく情報を集めることにした。啓太郎は移動する途中、女子生徒たちの屈託のない笑顔をいくつも見た。エリとは対照的だった。エリには人見知りや警戒心とは違う人を寄せつけない独特の雰囲気がある。パーソナルスペースに立ち入ることを拒絶する強い意志とでも言おうか。
数分すると、バス停には女子生徒が集まってきた。啓太郎はさりげなく前に立っていた二人組に声を掛けた。
「すみません。フリーライターの夏目と言います」
啓太郎は名刺を見せた。
「フリーライター?」
「つまり雑誌記者です」
「何か、かっこいい」
これが普通の女子高生のリアクションだ。
啓太郎は適当な話題をでっち上げて、それとなく話を聞き出そうとした。
「実は素敵な高校生カップルを探していまして」
「へえ。そういうの、やってるんだあ」
女子生徒たちは、すぐに興味を示した。
「できればセイジョとフゾクの優等生カップルとか」
少々わざとらしいと思いながらも、啓太郎は鎌をかけてみた。
「カレシがフゾクなのって、霧島さんしかいないよね」
「そうだよね」と女子生徒たちは頷き合った。
「霧島さんって・・・エリさん?」
「もう知ってるんだあ。情報が早い!」
啓太郎は女子生徒の一人にバシッと腕をたたかれ苦笑いした。
「霧島エリさんて、ショートカットの子だよね」
「そうそう。すっかり活発な感じになって。前より今の髪型の方が全然いい」
「前より?」
「長いから三つ編みにしてたの。前のはイケてなかった」
「三つ編み⁉」
啓太郎はいきなりのキーワード登場にどきりとした。
「髪型が変わったのって、イケメンのカレシが堂々と迎えに来た後だよ」
「イケメン⁉ フゾクの彼氏が来たんだ・・・」
啓太郎は二つ目のキーワードにも簡単に突き当たった。
「もう、シンデレラ状態。みんなの注目の的だったよねえ」
「その後すぐに髪の毛を切ったから、カレシの好みなんだって話になって」
女子生徒たちは、またうんうんと頷き合った。
啓太郎の胸は高鳴っていた。瞳の奥がきらりと光った。
「それって、いつくらいの話かな」
「去年の今頃」
「正確に分かる?」
「うーん・・・十月十日! 体育大会の日だったもん」
強盗事件の翌日だ! 啓太郎のジャーナリスト魂に完全に火がついた。
「その彼って、俳優の杉澤洸平に似てる?」
「髪型とか、雰囲気は似てるかも」
「彼の名前って分かる?」
「名前まで知らないけど、三年生らしいから、すぐに分かると思う」
「ありがとう」
最後の目撃者カップル。フゾクとセイジョ。イケメンと三つ編み。
事件翌日、シンデレラ。ショートカット。一千万円の拾得。
次々と重なり合うキーワードたち。絶対的な偶然なのか。それとも相対的な必然なのか。これは一体、どういうことだ? 最後の目撃者がエリとその彼氏だとしたら、情報と見事に合致する。でも、エリは自ら目撃者だとは言わなかった。それに、エリは一千万円の拾得者だ。
啓太郎が犯罪事件の取材をする時、目撃者にこだわるのには理由がある。目撃者の証言こそが分岐点と位置づけているからだ。どの方向に進むのか大きく左右する。目撃者の数が少ないほど証言を重要視する。一人ならなおさらだ。特に饒舌すぎる目撃者と寡黙すぎる目撃者に出会うと嫌でも立ち止まって考えてしまう。火災現場で饒舌に語る目撃者が、実は放火犯だったというパターンを想像してもらえばいい。
あちこちに飛び散っていた情報のピースが、予想外のスピードで強盗事件という枠にはめ込まれていく。後は抜けているピースを探して収めれば、強盗事件の全体像が見える。パズルは完成だ。
しかし、啓太郎は取材をいったん打ち切り帰ることにした。少し時間をおいて興奮を冷まそうと思った。出来過ぎの感があった。もう一度パズルのピースをばらし、一つずつはめ直す必要がある。以前、想像に任せて暴走し、危うく人を傷つけそうになったことがあった。それだけは何としても避けなければならない。イケメンの男子高生も、三つ編みの女子高生も、見渡せばたくさんいる。フゾクとセイジョのカップルもまだ他にいるだろう。もしかすると、今年の卒業生かもしれない。エリが最後の目撃者だと決まったわけではない。髪の毛だって、偶然、事件の翌日に、たまたま切りたくなっただけかもしれない。それに最後の目撃者だからどうだというのだろう。事件に関与しているわけではない。犯人は男だ。男・・・。
啓太郎はよからぬ推理をしようとする頭をぽんとたたいた。しかし、考えまいとすればするほど、頭の中でばらばらにしたはずのピースが互いを引き合った。それは、車を運転している間中、ずっと続いた。
夕方になると、啓太郎は、着替えと数冊の本を持って、美代子が入院する病院へ行った。美代子はいつものように手を振って迎えた。そして少女のように笑った。しかし、ここ一週間で、随分とやつれたような感じがした。入院生活も二週目になり、美代子はずっと薬の副作用と体中の痛みと闘っていた。だから、面会時間に啓太郎が来るのを何よりも楽しみにしていた。話をすると気が紛れ、少しは痛みを忘れるのだろう。
美代子は特に取材した事件のことを聞きたがった。啓太郎が美代子を心配しながらも、事件取材の仕事を続けるのはこのためだ。あまり心配して側にいると、病気がよくないと思わせてしまう。
啓太郎は面倒がることもなくベッドサイドの丸椅子に座り、今回の事件のことをかいつまんで話した。
「で、公園にいた高校生カップルが目撃したのを最後に、犯人の男は忽然と消えてしまったんだ」
「捕まってないのね」
「ああ。でも、二日後、道端に盗まれたお金が置いてあって、通りかがった女子高生が拾って届けたんだ」
「犯人はどうしてお金を置いていっちゃったのかしら」
「分からない。だから調べてる」
「そうよねえ」
美代子は、ふふと笑った。
「実はさあ。警察官が公園にいたカップルの制服を覚えてたんだ。フゾクとセイジョ」
「あら、私の後輩だわ」
「で、お金を拾ったのも、セイジョの生徒」
「すごい偶然ね」
「だから、今日、セイジョに行ったんだ」
「そうなのね」
美代子は嬉しそうに身を乗り出した。
「『カサブランカ』っていう喫茶店に入ったよ」
「まあ!」
「フレンチトーストを食った」
「懐かしい」
「あれって、お母さんが作るのと同じ味だよね」
「ばれた?」
「うん」
「真似して作ってたんだもの」
「いい店だね」
「ええ・・・」
美代子は、その瞬間、すーっと現実を離れたようになった。時を遡り『カサブランカ』の窓辺の席に座っている。視線を斜めに逸らし首を少し曲げている。黙ったまま、瞬き一つしない。啓太郎は記憶をたどる旅の邪魔をしないように、その様子を静かに見守っていた。
美代子が瞬きを再開した。
「あっ。話が逸れちゃったわね。目撃者も、お金を拾った子も、セイジョの生徒だったのよね」
「そうだよ」
啓太郎は、声を潜めた。「同一人物だったらどうする?」
美代子は、啓太郎が話を面白くしようとミステリーのエッセンスを加えたと思ったらしく、会話の調子を合わせた。
「たぶん犯罪トリックね。犯人は公園で消えたんじゃなくて、そこにいたのよ!」
「犯人を目撃したというのは?」
「狂言。実行犯は彼。彼女は共犯者」
実は、啓太郎も、美代子と全く同じことを考えていた。
「じゃあ、お金は?」
「うーん・・・ケンカして、彼女が怒って警察に届けちゃったとか?」
美代子が、おどけて言った。
「きっと二人は事件と関係ないよ」
啓太郎は、ふっと笑って推理を打ち消した。自分自身にも言いきかせているようだった。
「当たり前じゃない。私の後輩がそんなことするわけないもの」
「でもさ。過去の犯罪を調べてみると、高校生による強盗事件は意外にあるんだ。まあ、男女二人っていうのは聞いたことがないけど」
「でも、本当だったら映画みたいな話ねえ。ボニーとクライドみたい」
「ボニーとクライド?」
「『俺たちに明日はない』って古いアメリカ映画、知らない?」
「知らない」
「ボニーとクライドは、史上にその名が残るほどの凶悪犯でね。映画は二人が主人公になっているの」
「凶悪犯が主人公かよ」
「究極の愛よ。とことん愛し抜いた男と悪の限りを尽くす。最後は警察に取り囲まれて、銃弾の雨にうたれるの」
「何が究極の愛だよ。犯罪者を美化してどうするんだよ」
「まあボニーとクライドは凶悪犯だけど、こっちの事件は人も傷つけていないし、ちゃんとお金も返しているじゃない」
「強盗しました。でも、やっぱりお金は返します。ごめんなさい。で、済ましていいわけ? 罪は罪だよ」
「そうだけど・・・」
「悪いことをしたやつは罰せられる。きちんと罪を償うべきなんだよ。酌量の余地なんかない」
啓太郎は自分にそう言い聞かせていた。そうでなければ、常に報いを受けてきたジャン・バルジャンの苦難の人生は意味をなさない。父親の遺伝子。自分の半分は犯罪者だ。戒めるようにジャーナリズムの精神のもとに正義を主張する。啓太郎は心の中でうごめく奇妙な感情と闘っていた。だからこの事件が気になっていた。善人の仮面をかぶった強盗犯が許せなかった。しかし、矛先がにわかに変わってきた。あのエリがボニーだとしたら。
啓太郎はバイトがあるので、七時過ぎには洗濯物を持って病室を出た。ナースステーションの前を通りかかると、看護師長が啓太郎を呼び止めた。
「夏目さん」
「ああ。いつも母が、お世話になっています」
「実は、今日、検査結果が出まして。それで担当の先生が、現在の病状と今後の治療について詳しくお話しをしたいと。明日、お時間はとれますか?」
「はい」
「午前十時は、いかがでしょうか」
「大丈夫です」
「では、よろしくお願いします」
「はい・・・」
嫌な予感がした。母自身ではなく、家族が呼ばれる。きっと、検査結果があまりよくないのだろう。啓太郎は美代子の笑顔に油断していた自分に気がついた。母は笑顔の裏で相当な痛みと闘っているのだ。
その夜、啓太郎はバイト先のレンタルビデオ店で『俺たちに明日はない』を見た。
八十七発の銃弾を撃ち込まれ、壮絶な最期をとげるボニーとクライド。機関銃で二人に銃弾を浴びせた保安官と自分の姿が重なった。悪人は絶対に許さない。罪は許さない。銃弾は発射してしまうと止めることができない。体の中に潜んでいる激しいリビドーのようだ。本能的なエネルギーはいったん体を飛び出すと、それはものすごい勢いで人の心をも撃ち抜く。啓太郎は犯人を追い詰めることの恐怖をいつも感じる。飛び出すと止められない。
啓太郎は、明日にもクライドを捜し当てるだろう。