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『ラヴ・ストリート』【34】

 リトル・ウイング
 
南城光輝は、翌日、いつもと変わりなく登校した。教室へ入ると、金森がぽかーんと口を開けて席に座っていた。
「よう!」
 光輝が声を掛けても、金森は口を開いたままで返事をしなかった。
「おい、金森。朝から大丈夫か。魂が抜けたような顔をして」
 光輝はそう言いながら、教科書をカバンから出して机に入れた。
金森は横目でにらみながらぼそっと言った。
「魂が抜けてるんじゃなくて、呆れてるんだよ」
「何に?」
「おまえ退学するんじゃなかった?」
「あっ・・・」
「俺、昨日、先生にそう伝えちゃったんだけど」
「マジ?」
「冗談だよ」
 金森が肩をバシッと強くたたいた。「無事生還、おめでとう!」
「サンキュー」
 光輝は、その痛みが、教室が、机が、教科書が単純に嬉しかった。光輝は金森に素直に言った。
「昨日、つくづく思ったんだけど、金森となら友達になれそうだ」
「今まで友達じゃなかったのかよ」
「学校以外で一緒に遊んだこととかなかったし」
「放課後もベタベタと一緒に遊ぶのが友達なのか」
「まあ、そう言われると」
「俺は南城と友達のつもりだったけど」
「そうか」
 光輝は満面の笑みを浮かべた。
 金森の顔がみるみる引きつった。
「昨日から引き続き、いつもの南城じゃない。キモい」
 チャイムが鳴り、生徒たちは一斉に着席した。光輝は普通の高校生に戻った。
 担任の教師が教室に入ってくるなり、げきを飛ばした。
「一月のセンター試験まで、あと二ヶ月半だな。目標に向かって、最後の追い込みをしっかりやれよ!」
 光輝は、初めて、その言葉を真摯に受け止めた。高校に入ってからの目標が将来への準備ではなくて、どちらかと言えば家を出ることにおかれていた。東京の大学を受験し、北海道を脱出しようと。取り敢えず興味のある法学部か教育学部を希望していたが、衝動的に強盗という犯罪を犯してしまった。犯罪者が法律関係の仕事をするのか。教育者として教壇に立つのか。結局、迷ったまま、先月、札幌の大学に願書を出してしまった。大学の所在地を東京から札幌に変更したのはエリの存在だ。そんな中途半端な状態だったが、啓太郎に出会ったことで、今はしっかりと将来を見据えることができた。罪を背負い、懺悔の気持ちで社会のために貢献していく。それが自分の使命だ。優等生の仮面をつけてきた以上、優等生的に罪を償うつもりだ。もし警察に捕まるようなことがあっても、それは厳粛に受け止めるつもりだ。罪を償って一から出直す。エリがいてくれるから何があっても大丈夫だ。
 また、エリのことを考えた。エリは進路をどうするのだろう。昨夜、その話もしたかった。話すことが山ほどあったのに不覚にも眠ってしまった。光輝はがっくりとうなだれた。しかし、態度とは裏腹に、頭の中はファーストキスのことを思い出していた。今朝から何度も思い出している。
 キスをした瞬間、背中に小さな羽根が生え、ふわっと体が宙に浮くような感じがした。ジミ・ヘンドリックスの『リトル・ウイング』が頭の中で流れた。歌詞に歌われている女性のイメージがエリと合致した。エリに出会った時から母親を感じていた。女性本来が持つ強さ、厳しさ、包容力。宇宙のような神秘さと無限の広さに惹かれていた。
 エリには最初から小さな羽根が生えていた。エリはきっとそれに気がついていない。深い悲しみと孤独の沼に沈みかけていた光輝を、その細い腕に抱きかかえて地上に舞い戻ってくれた。エリには光輝にしか見えない小さな羽根が生えていた。
 光輝は顔がにんまりとしていた。男子高校生の頭の中はやはりこんなものだ。進路のことを真面目に考えていたと思ったら、キスのことを考えている。
 エリは恋人だ。僕は、もうパッセンジャーではない。
 気がつくと、前の席の金森が光輝の顔をじっと見ている。
「ふーん」
「なんだよ」
 金森は光輝の心を見透かしたように片側の口角を上げた。
「よかったな」
「えっ?」
 光輝は、金森とつき合っていくのはなかなか手強そうだと思い、苦笑いした。
   *
 霧島エリは、教室で完全に脱力していた。ようやく怒濤の説教から解放された。昨日、学校をさぼったことはばれていなかったが、外泊するというメールを勝手に送り、挙げ句に十時過ぎに帰ったことが両親の逆鱗にふれた。帰ってから今朝家を出るまで、ガミガミと怒られ、ねちねちと文句を言われ続けた。
 エリは両親に対して冷めている印象だが、中学生までは必死に愛されようと努力をしている子供だった。小さい頃から姉より愛されていないと感じていたため、小学生になると、お年玉は一切使わず、両親の誕生日、母の日、父の日、結婚記念日に至るまでプレゼントをし続けた。いわゆる点数稼ぎである。しかし、一度もプレゼントをしたことがない姉が可愛がられる。それでもだめならと、次は徹底的に家の手伝いをした。掃除に、皿洗い、小五の頃からは、お使いを毎日した。家族四人分の食材を買いに行くので結構大変だった。最初は有り難がっていた母親も、何ヶ月も続くと、もう当たり前のようになっていった。感謝するどころか買い出しは、もうエリの仕事と決めてかかっていた。学校から帰ると、当然のようにメモが置いてある。エリはすぐに買い物に行く。「ありがとう」とか「いつも助かるわ」というような言葉は全く聞かれなかった。
 ある日、どうしても友達と遊びたくて、一度だけすぐに買い物に行かなかったことがあった。パートから帰ってきた母は説教を超えて怒り狂った。「親不孝者」「育ててやった恩を忘れて」。エリは今まで三年以上にわたり毎日お使いをしたのに、たった一度しなかったことを責められたことが悲しくて、涙が止まらなかった。夕食もとらず部屋にこもって泣き続けた。それなら、姉のように、最初から何もしない方がよかったと思った。それから、家の手伝いも、プレゼントもやめてしまった。傷つくだけだ。どんなに努力しても、姉にはかなわない。
 その後、お使いに行った姉が、ものすごく褒められているのを見た。それだけではない。姉から、初めて母の日にプレゼントをもらった母が、それを嬉しそうにエリに自慢した。「お姉ちゃんからもらったの。エリはくれないのにね」
 エリが、お年玉を使わずに六年間毎年続けていたプレゼントを、わずか二年中断しただけで忘れられていた。いや、忘れられたのではない。記憶に残ることはなかったのだ。悲しみを通り越して、もはや諦めの境地に達していた。世の中こんなものだと。
 昨夜、両親に説教をされながら、そんな子供時代のことを思い出していた。なぜなら、今回もそれに類似したものだったからだ。姉は、よく外泊をし、遅く帰ってきた。しかし、軽く注意されるどころか、黙認になった。ところが、いつも門限を守っている真面目なエリが、たった一度、はめをはずそうとすると怒濤の説教と化す。それでも、みつきちゃんが落ち込んでいて励ましていたと必死に嘘をつき通した。しかし、返ってくる言葉は、「不良娘」「食わせてもらってるくせに」「もう帰ってくるな」「恥さらし」。一年前のエリだったら、自殺を考えるような罵声が飛び交った。
 最後にエリは思い切って父親に聞いた。
「どうして、同じことをしても、お姉ちゃんはいいのに、私は怒られるの?」
「おまえなら、馬鹿なことをしそうだからだ!」
「馬鹿なこと?」
 母親がそれに続けた。
「お姉ちゃんは、しっかりしてるから大丈夫なのよ」
「ふーん」
「なんだ。その態度は。反省してるのか! この馬鹿娘」
 父親は殴る寸前の勢いだった。「今度、こんなことがあったら出ていってもらうからな」
 エリは泣かなかった。光輝がいるから平気だった。子供の時に一生懸命にお手伝いをしたご褒美を、神様が代わりに下さったのだと思った。
 高校生活最後の年に、好きではなかった学校がシェルターになるとは思わなかった。早朝勉強会があると嘘を言って、いつもより一時間も早く家を出た。そして、誰よりも早く学校に着くと安心して机に伏した。力が抜けた。その時、光輝からメールが届いた。光輝はあのまま、朝まで寝入ってしまったようだった。
  本当にごめん。こたつで熟睡してしまった。せっかく部屋に来てくれたのに。今日の放課後、会える? 会いたい。会って下さい。
 エリは光輝の寝起きの顔を想像して、くすっと笑った。今頃、熊の絵のついたカーテンを開けている。たぶん、制服は着たままだ。黙って帰ってしまった自分も随分と薄情だったと、また、くすっと笑った。そして、返信した。
 こっちこそ帰ってしまってごめんね。やっぱり、親に逆らえない小心者でした。放課後、いつもの本屋さんで待っています。
 エリは携帯電話を抱きしめた。光輝から借りたCDに入っていた『リトル・ウイング』という曲をかけて聴いた。光輝は「エリをイメージした」と言った。それが嬉しくて、誰もいない教室で、皆が登校してくるまで何度も聴いた。
 授業が始まってからも、頭の中のリピートボタンはずっと押されたままだった。ウォッチタワーでの出来事が、お気に入りの映画のシーンように繰り返し流れた。光輝のいろいろな表情に胸がどきどきした。何度も抱きしめられた。吐息に触れた。好きだと言われた。キスをした。
 私、彼の恋人になったんだ。
 ウォッチタワーでキスした後、光輝は耳元で囁いた。
「小さな羽根が生えたみたいだった」
「えっ?」
「ふわっと体が宙に浮いた」
 確かにそんな感じがした。そんな気持ちだったと言った方が正しいのかもしれない。光輝に抱かれて、自由に空を飛んでいるイメージが浮かんだ。光輝は小さな羽根を持っている。飛ぶことに憧れている平凡な少女が、突然現れた小さな羽根を持つ少年によって空を飛んだ。飛び続けた。そんな一年だった。
「うん」
 エリが頷くと、光輝は確かめるように、もう一度キスをした。また体が宙に浮いた。こんな幸せな日が来るとは全く想像しなかった。
 ピンク色の頬をした天使がふわふわする気持ちに任せて浮遊する一方で、青ざめた天使がしっかりと両足を地につけ凍える指先を合わせて懺悔をしていた。
 罪を償っていかなければならない。いくら啓太郎がモデルガンを向けたことを冗談のように流してくれたからといって、決して許される行為ではなかった。未遂に終わったのは偶然でしかない。手にしていたのが本物の拳銃だったら間違いなく血が流れていた。殺人者だった。自分のことばかりを考えて啓太郎の人生、生活、背負っているもの、取り巻く人々に思いを巡らせることができなかった。病気の母親から、たったひとり息子を奪おうとした。
 怖い。罪を犯しておきながら、今こうして幸せで平穏な時が流れていることが怖い。ひとりが怖い。光輝に会いたい。光輝もずっとそうだったのだ。罪は永遠に消えない。
 エリは窓から外を見た。きれいな青空が広がっている。きっと、光輝もこの青い空を見ている。そして、放課後までが長いと感じてくれている。 
 私たちは同じ気持ちだ。

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