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『僕はCに分類されている・第二部』 第三章

 第三章 疑念
 
僕、松田征慈は、2008年の8月14日にコンルチプで生まれた。しかし、これからは「2002年、アメリカ生まれ。高校一年生」と答える。六年もの年齢詐称、出生地と経歴詐称。一度ついた嘘は突き通さなければならない。嘘は好まない限り、耐え難い精神の苦痛、疲労となるだろう。僕は虚飾の人生のはじまりを迎えた。いや、生まれた時点ですでに周りを嘘で固められていた。そして、それに気づかないふりをしていた僕自身もまた、すでに嘘つきだった。
 2018年、4月。僕は生まれ故郷のコンルチプから、祖父母の家のある札幌へと旅立った。コンルチプへはもう二度と戻れない。十歳のはずの僕は、一気に十六歳。投薬の効果が想像以上で、予定より二年前倒しとなった。祖父母は手放しで喜んだ。僕の体はいつの間にか紐でぐるぐる巻きにされ、都合よく高速度で引きずられていくようなものだった。内部にある心は追いついていないが、有無を言わさず、体ごと仕方なく持っていかれる。既定路線である市内の私立高校への進学が決まっていた。人生を区切るならば、第二幕に入ったところだと思う。僕はコンルチプという辺地で生まれ育ち、わずかな子供たちの中でしか生活したことがない。果たして都会の生活になじめるのだろうか。昨年の夏休みに予行練習のような形で、一ヶ月間ほど札幌に滞在し、夏期講習なるものに参加した。しかし、周りの生徒は上位校を目指し、授業に集中しているため、話しかけることすらままならなかった。結局は、家と塾を往復するだけで、雰囲気もつかめずに終わった。見上げる空は高く、街は見渡せないほど広く、その向こうの世界も果てしないはずのに、独特な空気の濁りに喉と鼻腔が閉じてしまい呼吸が苦しくなった。それが慣れない環境のせいなのか、それとも、不安やプレッシャーという心的なものか。予測すらできないままに踏み出すことになった。
 本来十歳の僕が、高校生のレベルに合わせ、友達関係を築けるだろうか。体格だけは見劣りしていないが、果たして体力、学力、知識はどこまでついていけるのだろうか。そんな、疑念や不安が一気に込み上げて、こちらへ向かう車の中で、早くもホームシックになった。『ふきのとう』の仲間との別れの時は気丈だったというのに、わずか二時間で情けない子供の姿に戻った。花子が見たら、あまりの不甲斐なさにがっかりするだろう。彼女は誓い合った昨夏から、大人の女性のようにあまり感情を表に出さなくなった。僕の勉強の邪魔にならないように気遣い、少し距離を置き、キスをしてもどこか淡々としていた。何か大きな変化があったのか、それとも用心していたのかはわからなかった。そして、今朝の見送りの時も、涼しい笑みを浮かべていた。確かに永遠の別れというわけではないが、泣くとばかり思っていたので僕は拍子抜けした。正直寂しかった。
 そして、夕方に届いた僕の荷物の中から、まるでイリュージョンさながらに、花子はひょっこりと出てきた。僕は驚きながらも、失笑してしまった。なるほど、答えはここにあった。敵を欺くには、まずは味方からだった。花子は中学卒業を待つことなく、まさに脱出を計った。コンルチプのルールに抗った。しかし、心細かった僕にとって、友達であり、恋人でもある花子が来てくれたことは、この上ない大きな喜びだった。先刻の不安が都合よく瞬時に吹き飛んだ。これで何とかやっていける。そう、昔から花子は僕を前向きにさせる。安心させる。
 荷物の整理を手伝ってくれていた祖母も、突然現れた花子を見て思わず驚嘆し、腰を抜かしかけた。しかし、すぐにくすくすと笑い出すと、特に慌てることもなく、とても寛容な態度で言った。
「まあ、可愛い女の子が出てきたこと!」
 祖母は初対面であるはずなのに、前から花子を知っているような、温かい眼差しを向けた。まるで歓迎しているかのようだった。
 花子は顔を赤くし、何度も頭を下げた。そして、絞り出すような声で懇願した。彼女は生まれつき甘え上手の体がある。
「ごめんなさい。驚かせてしまって。でも、こうでもしないと、コンルチプからは一生出られないと思ったんです。助けてください」
「わかったわ。私から村長さんには連絡しておくから。安心していいわよ。征慈さんのお友達なんだから、遠慮しないでね」
「ありがとうございます。あのう、すみません。おトイレをお借りしてもいいですか」
「あらあら、大変。我慢してたのね。こっちよ」
 祖母はまたくすくすと笑った。それは満面の笑みに変わった。花子に迷惑をかけられて、むしろ嬉しそうだった。
 その夜は不思議な食事風景となった。祖母と僕、そして花子。家族団らん。平穏で夢のような時間。昨日は想像もしなかった今日の幸福。予測不可能だから、人生は楽しい。しかし、そのまた逆もあり得るのだ。
 祖母は終始笑顔だった。よく考えてみれば、祖父が忙しくしている間、いつも一人で食事をしていたのだ。
「征慈さん。明日は病院で健康診断を受ける予定だからそのつもりでね。担当の医師は村立病院の高橋院長の弟さん。双子だから驚くほどそっくりなのよ。それから、その後は学校の制服を合わせて、あと靴とか鞄とか、あっ、スマホも買わないとね」
「はい。お願いします」
「花子ちゃんも一緒に行くわよ。お洋服とか下着とか、必要なものを買いましょう」
「私もいいんですか?」
「もちろんよ。ほとんど何も持ってきていないでしょう」
「すみません」
「遠慮しなくていいのよ。私、嬉しいの。孫とデパートでお買い物とかするのが夢だったから」
「私もデパートにいってみたかったです。通販サイトでしかお洋服を買ったことがないから」
「そう、よかった。あとは行きたいところはない?」
「あとは・・・札幌ドーム! ファイヤーズの試合を見てみたいです。私、在原投手の大ファンなんです」
「まあ、私もよ。彼、かっこいいものね。うちの会社はスポンサーをしているからチケットは任せて。征慈さんの入学式が終わって、落ち着いたら見に行きましょう」
「わーっ、楽しみです」
 僕は花子の人懐っこさが羨ましかった。彼女なら、この都会の生活にもすぐに慣れる。楽しめる。友達がたくさんできる。
 しばらくすると、祖父も帰宅した。悪気はないのだが、開口一番、いつも以上にプレッシャーをかけられた。
「征慈、ようやく来たな。待ってたぞ。跡継ぎとして期待してるから、勉強がんばってくれよ」
「はい」
 リビングの向こう、楽しそうに野球の話をしている祖母と花子の気楽さが妬ましかった。僕は、そんな感情を抱いたことを、すぐさま自責した。
 その後、花子は疲れたのか、風呂にはいるとすぐにうとうととし、祖母に促され午後九時には就寝してしまった。あれこれと話したかった僕はがっかりし、仕方なく部屋で荷物の片づけの続きをした。
 昨夏、花子と結ばれた夜の光景を思い出していた。星のない真っ黒な夜に、花子の白くてしなやかな姿態が揺れた。肉体も感情も意識も思春期なりの高まりと興奮があった。萌芽していた花子への想いが一気に開花し満たされた。強い香りを放った。しかし、一方で精神が追いついていかなかった。子供が背伸びをして、いけない大人の真似事をしてしまったような罪悪感が拭えなかった。それでも意に反して、体はどんどんと成長して男性的な筋肉がつき、手に負えないという矛盾が生じた。だから時に感情が高ぶると、衝動的に花子にキスをした。しかし、あれ以来、抱き合うことには歯止めをかけていた。やはり早すぎる。そして今夜、僕は花子の部屋を訪れたくて、うずうずしていた。祖父から何度もかけられる大きなプレッシャー。それに対してやりきれない気持ちになり、イライラして指先が机を小刻みに叩いた。この苛立ちは、再びインモラルの誘惑へと僕を引っ張り込んだ。花子に触れたい。彼女は、こんなにも理性をなくしている僕を嫌悪し、拒むだろうか。確かに手に負えない過度の重責を、女性へ逃げることで紛らわせようとするのは情けない。ストレスのはけ口にしてはいけない。
 その時、突然ドアが開いた。大きめのパジャマを着た花子だった。彼女は僕のサイズに包まれ、とても小さく見えた。昔から花子とは以心伝心のところがある。会いたいと思うと現れる。
「花子、どうしたの? 寝たんじゃなかったの?」
「すぐに目が覚めちゃって・・・今日一日いろんなことがあったから、現実なのか不安になって、征慈の顔を見に来たの」
「安心して。僕はここにいる。夢じゃないよ・・・」
 僕は時を遮断したくなくて、瞬きもせずに彼女を見つめた。「側においでよ、花子」
「うん」
 花子がボディソープの香りをたたせながら近づいてきた。そして、勢いよく僕に飛び込んできた。僕たちは高ぶる感情のままに長いキスをした。昨日も一緒に『ふきのとう』にいたというのに、ずっと離れ離れだった恋人のように、きつく抱き合った。過度の期待に押しつぶされていた僕の感情は、荒々しさとなって体現されてしまった。それでも、余韻に浸っている時間はなかった。元来、慎重で臆病な僕は内心びくついていた。いつ祖父母が入ってくるかもしれなかった。恋愛における早熟な性は、間違いなく祖父母に軽蔑される。
 花子は柔らかな胸に僕を抱きしめた。僕はその偉大なる母性に深く沈み込み、急ぎすぎている時間をゆっくりと巻き戻していった。
「征慈、無理して大人になろうとしないで、甘えていいのよ」
「えっ?」
「もっと、気持ちに正直に」
「うん」
「時には優等生の仮面を外した方がいいよ」
「花子、大好きだよ。ありがとう」
 花子は僕の苛立ちを感じ取ってくれていた。僕は、いつも救われる。この状態がずっと続けばいいと心底から思った。いや、続く。花子が側にいれば、どんなに辛いことも乗り越えられる。そう思いながらも、潜在意識の中で、得体の知れないものが渦巻いている感覚があった。それは苛立ちとも結びつく、今の自分に反駁する黒い影だった。
       * 
 翌日、僕と花子は祖母に連れられてS医大病院へ行った。僕たちが正面玄関前でタクシーを降りて、先に建物へ入った時、ひとりの男性とすれ違った。
「えっ、征慈君?・・・葉子!」
 四十代くらいのその男性は、唇を震わせるように呟くと、石像のように固まった。何か言いたげであり、唇は必死に言葉を探しているようだった。次第に目が潤んできたように見えたのは、陽光のせいだろうか。その時、後方の自動ドアが開き同行者が彼を呼んだ。
「水原先生、車が来ました!」 
「ああ、ごめん。今、行きます」
 その男性は、後ろ髪を引かれるような状態で、花子から視線を外せないままに、車の方へと早足に向かった。
 水原先生? 
 僕が不思議な気持ちで横を見ると、花子はとても清々しい顔つきで彼を見送っていた。二人の間に見えない糸がぴんと張りつめたような感覚があった。何かでつながっている。 
 これは縁なのか? 絆なのか?
「あの人、花子のこと、ヨウコって言ったよね」
「う、うん」
 タクシーの支払いを済ませ、遅れて入ってきた祖母が、僕たちの不穏な様子に気がつき、心配そうに聞いた。
「征慈さん、どうかしたの?」
「いいえ、何でもありません」
 僕は、祖母には知られてはいけないような気遣いが働き、なぜかとっさにごまかした。確かに彼は僕の名前を知っていた。そして、花子を間違えた。
 ヨウコって誰だ?
 僕は再び不安に揺れ始めた。考えまいとすればするほど、ヨウコという名が頭をぐるぐると回り、あらゆる可能性を模索していった。何とか意識を逸らそうとしたが、もはや予感めいたものは払拭できなかった。
 この偶然の出会いは想像以上のスピードで事態を進展させた。
 その夜、その男性は花子に会うために僕の家に現れた。彼は別の病院の医師で、この日は恩師を訪ねてきたとのことだった。そして、偶然に花子を見かけた。どうやら、花子の伯父さんに当たるらしい。妹のヨウコさん、つまり花子の母親はすでに亡くなっている。そのため、花子の今後について話し合いが行われるとのことだった。
 花子にも家族がいた!
 それは驚きだった。Cに分類されている子供は、肉親がいないと聞かされていたからだ。それは向こうの肉親側も同じだろう。今日出会った時の水原医師の態度で明白だった。思わず、ヨウコと呼んだ。明らかに花子の存在を知らなかった。花子は、ヨウコさんが家族に内緒で生んだ子供ということなのだろうか。そして、水原医師は、この松田家を知っていた。かつて、僕の父親と親交があったらしい。
 僕は胸騒ぎがおさまらず、花子の顔を何度も見ては、うろうろと部屋を歩き回り、何も手につかなかった。一方の花子は、今日、買ってもらったばかりのワンピースを着て心をはずませていた。その高揚した様子が、洋服に対してなのか、親族が判明したからなのかは計りかねた。僕は花子が遠くへ行ってしまうような危機感を覚えた。
 水原医師が家に来ると、僕は祖母から部屋にいるように言われた。僕は聞き分けのいい品行方正な優等生の仮面を崩すわけにもいかず、そのまま素直に指示に従った。完全に蚊帳の外だった。話し合いの間中も、僕は二階の部屋で気を揉みながら、ただじっと待っているだけだった。こっそりと下りていって、耳をそばだてることができなかった。真実を知ってしまうことが怖かった。話し合いはたったの一時間、あまりに早く結論は出た。いや、結論ありきの形式めいたものだったのかもしれない。
 急転直下、花子は水原医師の家に養女として迎えられることになった。
       *
 花子が水原家に行ってしまってから一週間が経った。花子は私立女子校の中等部に編入することになった。そのまま、エスカレーター式に高校へ上がれるので、受験の心配もないとのことだった。
 一方で、僕は高校の入学式に臨んだ。体育館にひしめく数百人の人間たち。繁華街の煩雑さとも違う、箱に詰め込まれたような密集した空気感に息が詰まった。この都会で痛感したのは、人間には個々に匂いがあるということだった。それぞれの皮膚、元をたどれば遺伝子からが放たれる異なる匂い。それが複雑に入り交じり、喉を締めつけるような独特の臭いを発する。それは、なぜか僕を憂鬱な気分にさせた。緊張感も相まって、時に偏頭痛を引き起こす。コンルチプの教室で感じていたのは、僕と花子の匂いだけだった。それが心地よく、それが普通だった。まずはこの息苦しさに慣れるところから始まる。背の高い僕は、入場の列の最後尾にいた。斜め左側の来賓席には、笑顔の祖父母が並んで座っていた。その目はやはり期待でいっぱいだった。また、プレッシャーに押しつぶされる。やっと高校に合格したと思ったとたん、次はAランクの大学合格という目標に向かうのだ。その後は祖父の後継、世襲の経営者。自分の可能性を探り、好きな道を選択するという猶予はない。決められたレールの上をひたすら走る。
 教室でも窓際のいちばん後ろの席だった。外の景色がすぐ左側にあるので、ようやく体半分だけ開放感を得た。担任の話は聞いているふりをし、横目で空ばかり見ていた。どこまでも青い。抜けるように高い。白い雲の前をカラスが横切る。ふと、コタンコロカムイは元気だろうかとを思いを馳せる。
 ホームルームの時間が終わると、前席の男子生徒が話しかけてきた。さばさばとして社交的な感じがするいわゆる都会派だ。
「俺、竹山健太郎。中等部から上がってきたんだ。顔見たことないから、受験組?」
「うん。僕は松田征慈」
「どこ中?」
「市内の中学校じゃないんだ」
「ふーん」
 僕は早くも彼に圧倒されていた。
「健太郎はワルだから、つきあわない方がいいよーっ」
 横から女子生徒が割り込んできた。「私は梅野怜香」
「どうも」
 僕は彼女にも押され気味だった。こちらもハキハキとした明るい女子だ。学校慣れした感じから、彼女も中等部から上がってきた口だろう。
「これで、松が揃ったわね」
「松?」と僕は首をひねった。
「ああ、怜香ナイス。松田、竹山、梅野で松竹梅。おめでたいこの三人のLINEグループ作ろうぜ」
「それ、いいわね」
 言うが早いか、二人はスマホを取り出していた。僕は操作がよくわからず、スマホを怜香に渡して登録をしてもらった。名前が功を奏して、初日から連絡できる友達ができて安心した。
 僕はあえて野暮なことを聞いた。
「二人は恋人?」
 怜香は顔を赤くし、手を交差させて否定した。
「そ、そんなわけないよ」
 健太郎は怜香をちらりと見やってから、やはり否定し、補足説明をした。
「中学の三年間、同じクラスだっただけ。腐れ縁ってやつ」
 僕はそれ以上、深く追求する必要もなかった。よくあるパターンで、二人は素直になれていない、好意を持っている同士だった。
 健太郎は照れからか、話を逸らしたくて、今度は、僕に恋愛事情を聞いてきた。
「征慈はカノジョいるのか?」
「いる」
 怜香が身を乗り出してきた。
「えーっ、いるんだぁ。同級生?」
「いや、中三」
「いっこ下かぁ。つき合って長いの?」
「幼なじみで、去年の三月から恋人になった」
「へえーっ、見かけ通りませてるね」
 怜香から見ると、僕は大人っぽく見えるらしかった。
「そうかな」 
 すると、健太郎は軽いジョークのつもりで聞いてきた。
「もうキスとかしたのか」
「うん」
「まさか、それ以上進んでるとか言う?」
「うん」
 健太郎は僕の両肩に手を乗せると頭を下げた。
「師匠と呼ばせてくれ」
 一方の怜香は目を大きく見開いてから、ゆっくりと瞬きし、僕に微笑みかけた。
「征慈は後ろめたさがないから、否定せずに堂々としていられる。本当にその子のことが好きなのね」
「うん、すごく好きだよ。大切に思ってる」
「そんなに淡々とクールに言われると、こっちが照れちゃうーっ」
 僕は怜香の反応を見て、なるほど本心を言い過ぎたと思い苦笑いした。
「こういうことって、はっきり言わないで、そこそこ曖昧に返答するものだったんだね」
 健太郎が体をくねらせて、げらげらと笑った。
「征慈っていいな。何か普通のやつとノリが違う。天然というか、嘘や気取りがないというか。気に入ったよ」
 怜香はさりげなく健太郎の腕に触れるように叩いた。
「気に入ったって、健太郎は何で上から目線なのよ!」
 そして、僕もつられて笑っていた。しかし、怜香が言うように、僕は決してクールなわけではない。所詮、中身は小学生。大人の微妙な駆け引き、受け答えの仕方がわからないだけだ。質問に対してどう謙遜して、どう遠回しにごまかせばいいのかの知恵が働かない。だから、素直に答えることしかできない。しかし、それを好意的に受け止めてくれる健太郎と怜香は、ありがたい存在だった。
 何とかやっていけるかもしれない。いや、やるしかないのだ。
 彼らに教えてもらいLINEの使い方がわかった頃、花子からメールが突然送られてきた。どうやら、花子もスマホを買ってもらったらしかった。これで、毎日、心置きなく会話ができる。お互いの写真がアルバムに増えていく。僕はやりとりした文面を何度も何度も読み返し、写真を見ては微笑み、翌日の活力にした。僕は勉強についていけるかが心配で、部活動はせずに塾へ通っていた。花子も文芸部に入り、早速同人誌を出す準備があるとのことで、お互いに土日もそこそこ忙しかった。だから、花子と会えるのは、いつも日曜日の午後だった。
 花子は前向きに明るく振る舞っていたが、伯父夫妻が突然両親となり、気遣うことも多いはずだ。夫妻にはもともと子供がいない。僕と祖母は、花子が転居する際に、向こうのお宅に寄らせてもらった。花子と養母との間には何ともいえない遠慮と緊張感があり、僕は勝手にはらはらした。だから、外で会うのが気分転換にもなると思った。格言う僕も、祖父母に日々気遣い、そこそこの疲労があった。
 約束の日曜日、地下鉄の大通駅で待ち合わせる。周りの学生たちと何ら変わらない日常に口角が上がる。もう、ここはコンルチプではない。不思議な感じだ。僕と花子はお互いを見つけると微笑み合い、どちらともなく手をつないだ。そして、都会の雑踏の中を歩いた。大抵は祖父の会社が経営するカフェレストランへ行きランチやスイーツを食べる。メールだけでは伝えきれなかったことに、感情をのせて話す。顔を見て、お互いの生活の様子を確かめる。それは贅沢なことだった。
「征慈の学校、共学だから可愛い女の子がたくさんいるでしょう?」
「うーん、どうかなぁ。そんなにいないと思う」
「気になる」
「心配ないよ。僕は花子が好きだから」
 僕が真顔で言うので、花子はいつものように可憐に笑う。
「征慈って、昔から愛の言葉を表情を変えずに、淡々と言うよね」
「友達にも言われた。聞いている方が照れるって」
「でしょう? まあ、私としては嬉しいけど」
「だって、本当に大好きなんだ」
「私も大好き」
「で、結局、周りで聞いている人がいたら、照れてるんだろうね」
「照れるっていうか、引いてると思う」
「確かに」
「いつも、思っちゃうの。私なんかより、ずっと綺麗で魅力的な人が、征慈の前に現れたら、心変わりするかもしれないって」
「それはないよ」
「ううん。人の心は永遠じゃないから・・・」
 花子はどういうつもりで言ったのだろう。戒めだろうか。自分にもこの先のことはわからないという暗示なのだろうか。一方で、僕にも花子から心が離れるようなことが起こりえるのだろうか。この頃、意識や体内に感じる黒い影は何なのだろう。
「私ね。たくさんの友達や、いろいろな人と出会えるのって、贅沢だと思うの。コンルチプでは同級生は征慈だけだったし、周りにも限られた大人しかいなかったんだから」
「僕たちは狭い世界で生きてたんだ。良くも悪くも。でも、結局、こんなふうに飾らないで本心を話せるのは、花子だけかな」
「わかる。何となく周囲に歩調を合わせているところもあるものね。気疲れするというか・・・」
「ご両親とうまくやれてる?」
「まあ、そこそこ。突然、娘ができて、お母さんは戸惑ったと思う。顔がひきつってたもん。時々、可哀想になる」
「そうなんだ。でも、戸惑ったのは、花子も同じだろう」
「まあね。でも、そのおかげでこの世界に存在を認められて、こうして征慈に会える」
 僕たちは会う度に、こんな風にお互いのことを正直に話した。
 店を出ると、また手をつないで街を歩き、遅ればせながら観光スポットで写真を撮った。花子は中学生だから、夕食前までには帰すように気遣う。決して引き止めたりしない。僕は先を急がなかった。これから先は長い。僕たちには未来がある。ゆっくり進めばいい。そう信じた。
       *
 ゴールデンウィーク明け、学校では宿泊研修が行われた。郊外の自然に囲まれた施設に一泊し、スポーツやグループディスカッションなどを通して、生徒間の交流を深めようというものだった。僕のグループはいつもの健太郎と怜香、そして、菜穂の四人だった。菜穂は気持ちをあまり表に出さない口数の少ない女の子だった。喜怒哀楽がはっきりとしていて社交的な怜香とは対照的だった。だからこそ、何となく二人は仲がいいのかもしれない。菜穂がはしゃぐ事をしないのは、内向的な性格ゆえなのか、意図的なのかはわからない。彼女の媚びない態度やその端的な言動は、人からどう見られてもいい、別に好かれなくてもいいと割り切っているかのようだった。だから、僕と組んだ卓球のダブルスでも、手を抜かないが必死に勝とうとはしない。ミスをしても別に謝らない。シーソーゲームになっても一喜一憂しない。負けても悔しがらない。僕は腹こそ立たなかったが、何となく冷めているように見えてしまい、こっちまでテンションが下がってしまった。正直、つかみ所のないタイプだった。
 昼食後は、グループディスカッションが行われた。テーマは『アイデンティティ・クライシス』。招かれた講師は、四十代くらいの饒舌な女性だった。
「私は本日講師を務めます山内です。よろしくお願いします。自己紹介はこの後の回答に出てきますので省略します。では、早速ですが手元のシートを見て下さい。そこに書かれている題目、『私は○○だ』の○○の部分に記入してみてください。この答えがすなわち自己定義=アイデンティティとなります」
 僕は何の迷いもなく『私は松田征慈だ』と書いた。答えが簡単なわりに、皆はザワザワとしていた。ストレートに書くのかひねるのかに分かれるようだ。
 皆が書き終えた頃、次の説明があった。ここからが本題だ。
「書けましたか? たぶん名前を書いた人が多いでしょうか。わかりやすく、私を例にとって説明します。私は山内倫子だ。あと、広義的な書き方もあるでしょう。私は女だ。私は○十三歳だ。A型だ。双子座だ。これらは個人情報的な考え方ですね。あとは肩書きや職業、社会的な立場という観点からも書けます。私は研修の講師だ。心理カウンセラーだ。二人の子供の母親だ。となります。皆さんも思いつく項目が増えたのではないでしょうか」
 僕の頭の中で余計な定義が勝手につけ加えられていった。それはどうしても、松田家というものに紐づいた。それがいかに呪縛のようになっているかが手に取るようにわかる。
「そのアイデンティティを維持していくためには、自己が主張するアイデンティティを承認し肯定してくれる他者が必要です。しかし、承認されなくなれば、自分がどういう人間なのかわからなくなるのです。精神的に不安定となり、一種の心理的危機に陥ります。これが、アイデンティティ・クライシスです。すると、次のような疑問や葛藤がわき起こります。『私たちはいったい何者なのか』、『私は誰なのか』、『私はなぜ私なのか』。これらをふまえて、アイデンティティを現実化させるためには何が必要であるかを考えて、グループ内で話し合ってみましょう」
 答えは明確だった。すでに講師が説明の中で言っていた。「アイデンティティを承認してくれる他者が必要」と。つまり、他者との関係の構築、継続が自分を何者かにしているということになる。しかし、そんな真面目なことを討論するのも何だかつまらない。これは皆同じだった。健太郎は自らの答えを皆に見せて脱線しようとしていた。
「俺の答え、『私は正義の勇者だ』。だめか?」
 名コンビの怜香が、すかさずツッコミを入れた。
「だめだめ。だって他者が承認しないとだめなんでしょう」
「じゃあ、怜香は何て書いたんだよ!」
「私は女子高生だ」
「普通でつまんねぇ。認めるも何もそのまんまじゃないかよ。じゃあ、征慈は?」
「えっ? 僕は普通に自分の名前」
「確かにM製菓の御曹司だもんな。文句のつけようがない。アイデンティティが超確立してて、クライシスとは無関係だ」
 やはり、怜香が賛同する。
「うんうん。征慈は迷いがないね。菜穂は?」
 菜穂はいたって真面目な顔をして答えた。
「私は宇宙生命体」
「範囲広すぎーっ」と怜香が吹き出した。健太郎も笑いをこらえた。
 しかし、次の瞬間、僕の口からは自然と言葉が発せられた。
「承認!」
 まさに彼女は人間を飛び越えているような人だ。いや、この個性の強さは本当に宇宙人なのかもしれない。それにしても、「承認」と間髪入れずに賛同してしまったのは、菜穂からテレパシーでも送られたのだろうか。彼女ならやりかねないと思った。僕の言葉を聞いた刹那、菜穂は口角をふっと上げた。ほくそ笑んだのか否かはわからないが、はじめて彼女の会心の表情を見た。
 翌日曜日。僕は早速、花子にこの研修のことを面白可笑しく話した。花子は昔からこういう類の話が好きなので、とても興味を持って聞いた。
「その菜穂さんっていう人、なんかいいね」
「そうかなぁ。シニカルだから、僕はいつも緊張感たっぷりだけど」
 花子は対照的にとても甘くふふふと笑った。僕はこの笑顔にいつも肉体がざわつく。
「征慈も、私も、結局、誰なのかな。承認って、自己定義を認められるかじゃなくて、他人にどう思われているかにすり替わっている気がするの。周りが松田さん家の跡取りとか、水原さん家のお嬢さんと認識してる。勝手にスクールカーストでランクづけしてる。でも、菜穂さんの言うとおり、名もないただの宇宙生命体だったら、そもそも承認なんて必要ないでしょう? 現実としてアイデンティティが、認められようとするプレッシャーになるのよ」
「確かに。僕と花子だけの時は、他者の承認なんて必要なかったよね」
「純粋にあったのは、『恋と革命』という定義かな」
「太宰治の一節だね」
「ばれた?」
「でも、正論のような気がする」
 何気ない話題のひとつだったが、このことは今後の僕を暗示していた。僕はこのアイデンティティに押しつぶされていくのだ。
       *
 五月の下旬。僕と花子は待望のファイヤーズの試合を見に行った。日曜日のデーゲーム。在原投手が先発することがわかっていた。先日、今シーズン限りの引退を発表したこともあって、球場は超満員だった。僕たちは背番号11のレプリカユニフォーム着て応援グッズを用意し、フィールド席に陣取った。テレビでしか見たことのない風景の中に僕たちはいた。ひとつひとつ夢が実現していく。現世に溶け込んでいく。それは、花子も同じだった。コンパスで描く円が、どんどん外へと大きくなり、行動範囲が広がっていく。僕たちにとって、コンルチプの存在は、一体何だったのだろうと思う。あの、さなぎのようにじっと羽化を待つような生活。生まれながらにして、こちらの世界にいてはいけなかった理由は何だったのだろう。わずか十年で十六歳に達しなければならない必要性とは何なのか。それが当たり前のように言い聞かされて疑問にも思わなかったが、今こうしてこちら側の世界にいると、その不自然さに時々畏怖を感じる。その一方で自由や開放感に歓喜している。現在を優先したい、過去への疑念を打ち消したいと強く願う。
 大歓声の中、在原投手がマウンドに仁王立ちした。野球人生の集大成、圧巻のピッチングだった。終わってみれば、5安打、8奪三振。メジャーに行く前の2007年以来の完投勝利だった。快刀乱麻を断つ。僕はその凛々しい姿に引き込まれ、先刻抱いた自身への不安など些細なことに感じた。花子も同様に在原投手の勇姿を目に焼きつけようと、彼からほとんど視線を外さなかった。小さなジェラシーさえ感じた。
 試合終了後、僕たちはフィールド席で立ち上がり、在原投手と勝利のハイタッチをするために、今か今かと待っていた。そして、大興奮の中、ヒーローインタビューを終えた在原投手がようやく小走りで、僕と花子の方へ近づいてきた。
 花子はぴょんぴょんと跳ねて、子供のようにはしゃいでいた。僕は昔から彼女のこの笑顔を見てきた。僕のものだった。しかし今、この笑顔を、独占しているのは在原瞬だった。
「きゃー、征慈。在原投手が来るよ。かっこいい!」
 四万人の喝采を浴びる在原投手は、誰もが羨む完璧な男だった。強烈なオーラ、みなぎる自信、確固たる信念。美しい顔立ち、均整のとれた体型、たくましい肉体。スポーツマンらしからぬ優雅さ、言葉から受ける知性。都会的なセンス。どう足掻いてもかなわない。花子の様子を見るにつけ、僕は落ち込むほどだった。遠い存在の人間に気後れするとは情けない。
 在原投手は軽快な足取りで僕たちの前にやってきた。そして、いよいよハイタッチしようとした瞬間、僕たちの顔を見て驚愕の表情を浮かべた。公では見たことがないような素の顔になった。この場所だけ時間が止まった。
「征慈?・・・葉子・・・」
 在原投手のつぶやきに、僕の背筋が凍った。あの水原医師の時の再現だった。初対面の僕に向かって、はっきりと征慈と言った。なぜ、このスーパースターが僕の名前を知っているのだろうか。しかも、親密さを示すかのように、呼び捨てにした。花子のことをヨウコと言った。また彼女の母親の名前で呼んだ。再び、花子が僕から引き離されるという錯覚があった。しかし、僕とは対照的に花子は、在原投手が名前を呼んだにも関わらず、驚きもせずに平然としていた。僕には突拍子もない発想が浮かんでいた。
 まさか、花子の父親?
 彼は近くの球団スタッフを呼び寄せて、何やら耳打ちした。その後、在原投手は改めて花子と握手をし、手をとったまま、ぽつりと何かを言った。僕には聞き取れなかった。彼は確かに遠い過去に引き戻されたような、ノスタルジックな眼差しで花子を見つめた。そして、ようやく僕とハイタッチをすると、そのまま外野席の方へと流れていった。
 このことで、勝利の興奮は吹き飛んでしまった。僕はまたしても発覚した因果関係に混乱した。あまりに唐突だった。また、事態が急展開しないか、花子を失ったりしないかと、体の内部が静かに震えていた。またしても、体内で黒い影がうごめいている。
 その後、帰り際に、僕たちは球団の人に呼び止められた。そして、在原投手からのプレゼントが僕と花子に渡された。彼のサイン入りのパーカーとグッズだった。それが僕に対してなのか、花子に対してなのかはわからなかった。しかし、明らかに、何らかの意志がその中に詰まっていると感じた。
       * 
 僕は在原投手の経歴をネットから見ていた。1980年7月5日生まれ。血液型B型。高校は東京にある甲子園の常連であるT高校。卒業後、ドラフト一位で当時の東京ファイヤーズに入団とあった。北海道と接点ができたのは2004年にファイヤーズが本拠地を北海道に移転してからだ。そこで、ヨウコさんと出会いがあったのか? いや、花子が生まれたのは、2004年の3月だ。どうにもわからない。
 一方で、僕の名前を知っていたということは、父親である英慈と友人だった可能性がある。三人の関係性が無性に気になる。もうすぐ中間テストだというのに、全く勉強に集中できない。それならば、早く疑問を解決してしまえばいいと思い立った。僕は祖母が外出中なのをいいことに、父の遺品などがしまってあるという一階の納戸にいった。以前に僕がコンルチプから引っ越してきた時、入りきらなかった荷物を一時的にここに置いていた。その時に古いアルバムや卒業証書、記念品などが、ここに保管されているのと聞かされていたのだ。僕が息を潜めるように納戸の奥へ入ると、すぐに「アルバム」「CD」「衣類」などと書かれた段ボール箱が十個ほど積まれているの見つけた。亡くなってもなお、父は愛され続けていることが伺える。当たり前といえば当たり前だ。そして、その中に「征慈」と書かれている小さな箱があった。
 僕の箱?
 僕は自分のものが入っていると思い、罪悪感もなくその箱を開けた。いちばん上に一葉の写真が乗っていた。その写真は花子だった。いや、花子だったが明らかに年代が違った。裏にはペン字で日付が書かれていた。 
『2007/8/8 YOKO MIZUHARA』 
 この女性は、間違いなく花子の母親のヨウコさんだ。こんなにも花子と似ている。だから、以前の水原医師も、先日の在原投手も驚いたのだ。そして、当然のように、在原投手は花子の存在を知らずヨウコと呟いた。その写真は、よく見ると明らかに『ノチュ』のオープンテラスだった。ヨウコさんは秘密裏にコンルチプで花子を生み、そして、亡くなったということだろうか。そもそも、どうしてここ松田家にヨウコさんの写真があるのだ。どうして、僕の名前の書かれた箱に入れられているのだ。やはり、父親の英慈とも知り合いだったのか。どういう関係にあったのだ。一方で僕は、母親が父親と一緒に事故で亡くなったと聞かされていた。写真ひとつない。名前も聞かされていない。僕の母親は誰だ? 僕はどうしてコンルチプで育ったのだ? 最新医療で早く成長するため? 疑問ばかりが次々と浮かび、脳内を支配してしまった。今まで、考えないようにしていた。考えたくなかった。僕はその写真をスマホに保存した。
 その夜、僕は祖母に、さりげなく母親のことを聞いた。
「僕のお母さんの写真はないんですか?」
「えっ? ええ・・・」
 祖母の動揺ぶりは顕著だった。
「母親の名前だけでも、教えてもらえませんか」
「ごめんね。言えないの。事情があって・・・ごめんね」
 ひたすら謝るというごまかし方が、より僕の不安をあおった。猜疑心が生まれた。
 僕は、父が交通事故死した当時の記事を捜し当てて確認した。嘘は明らかだった。事故は単独事故で同乗者はいなかった。もちろん、亡くなったのは父親の松田英慈だけだった。母の存在はない。祖父母は何を隠しているのだろう。母親を知られてはまずいのか? 周りを秘密で固められ、偽りの年齢を生き、後継者に仕立て上げあげられていく恐怖感、不信感。
 この時、自分の中で何かが壊れる音がした。アイデンティティ・クライシス・・・。
 今まで疑問に思わなかったが、僕は何を強制されているのだ。誰のために努力をしているのだ。所詮、父親の代理なのか。血を維持するだけのために生きていくのか。これだけ科学が進歩し、個人の自由な意志が尊重される二十一世紀という時代になっても、なお世襲に固執しなければならないのか。
 僕はなぜ僕なのか。
 もう、疲れた。我慢していた言葉を口にしたとたん、ついに心の奥に閉じ込めていた黒い影が表出した。そこから精神も肉体も瓦解していくのはあっという間だった。
 折しも、札幌は実に百年ぶりに六、七月に連続真夏日を観測した。予期せぬ猛暑に、いとも簡単に体調を崩した。それでも軽い夏バテだと簡単に考えていた。食欲不振に倦怠感、不眠。そして、ひどい息切れだ。それでも試験が終わり、学校祭の準備に入る頃には、自然に回復するだろうと楽観視していた。僕は花子を学校祭に呼ぼうと楽しみにしていた。しかし、一向に体調が戻らないまま、学校祭の当日、僕は高熱を出して起き上がれなくなった。花子には、謝罪と、体は大丈夫だというような笑顔のメッセージを送って安心させた。その間、僕は熱に浮かされ朦朧としたまま、数奇な人生を振り返った。黒い影にじわじわと浸食され、心身ともに支配された。
 翌日、心配した祖母に連れられ、S医大病院の高橋先生を訪ねた。精密検査をするためだ。先生は、わずか数ヶ月での急激な体の変化に驚き、為す術もなく、がっくりと肩を落とした。そして、僕は余命宣告を受ける。どうやら、僕は生き急ぎすぎてしまったらしい。
 あと、一年。
 昨日は想像もしなかった今日の不幸。予測不可能だから、人生はあまりに空しい。僕は泣きながら謝り続ける祖母の両手をとり、強く握ることしかできなかった。
「僕はもう長くはないのですから、本当のことを教えてもらってもいいですか?」
「えっ?」
「僕は何者ですか? 母親は誰ですか?」
「わかりました」
 祖母は涙にぬれる頬でうなずいた。そして、僕はついにコンルチプの秘密を明かされた。すべてが納得だった。いや、驚く気力も残っていなかったのかもしれない。僕は英慈のクローンだった征慈のクローン。A2という分類の本当の意味を知った。そして、聞くまでもなく花子の謎も解けた。クローンであるヨウコさんのクローンということだろう。
 そう、僕も花子も所詮代役、偽物だったのだ。

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