
『係恋』第5回
運命の男・レイ
私は早見さんから、美緒ちゃんが退学になった小学校名を教えてもらい別れた。そして、駅に向かって歩きながら次の取材先を模索した。
最後にきて、ついでのように聞かされた話が妙に引っ掛かった。私は肝心な所を見落としていたのかもしれない。森村氏と三人の妻たち、相次ぐ自殺とその因果関係。そんな大人の事情にばかり着目し、殺された美緒ちゃんの視点に立ってみようとしなかった。彼女には三人の母親がいた。生みの母、二番目の母。その二人を次々と亡くした。幼かった彼女には計り知れない動揺や寂しさがあったはずだ。情緒が不安定になることもあっただろう。そして、三番目の母に殺される。
校風に合わないとはどういうことなのだろうか。いくら規律の厳しい私立小学校とはいえ、七歳の子供が退学させられるのだろうか。小学校一年生といえば、社会的な常識、規範、秩序など、全てにおいて発展途上だ。以前、見学にいった公立小学校の一年生はバタバタしていた。先生方も大変な努力をされていると頭が下がった。そんなやんちゃな児童たちだが、数々の失敗をし、時には叱咤され、諭され、そこから学んでいくのだと思った。七歳とはそんな年齢だと思っていた。私の考えが甘いのだろうか。お受験とは学力だけでなく、親の教育の元に、マナーとモラルを完璧に身につけている者しか入学を認められないものなのだろうか。私は由衣さんの自殺の原因が、育児の悩みにあったのではないかと思えてきた。もしも、そうだとすれば、千春さんの犯行動機も報道されている通りということになる。私の著書を読んで連絡してきたのも頷ける。
私はすぐさまF学園の小等部へと向かった。ちょうど下校時間と重なったらしく、学校の前にはお迎えの高級車がずらりと列を作っていた。私は校門のところにある来客用のインターホンを押した。
「突然伺いまして申し訳ありません。フリーライターの霧島と申します。取材をお願いしたいのですが」
「取材ですか?」
「はい。三年前のことなんですが、わかる方はいらっしゃいませんでしょうか」
「その時の校長先生は、すでに退職されています。先生方も一新しております。一体どのようなことをお知りになりたいのでしょうか」
「当時、こちらの学校に入学後、半年で退学になったお子さんがいたのですが、先月、母親に殺されるという痛ましい事件が起きました。その件につきまして、どうしても確認したいことがあります」
「お断りします。個人情報は一切開示いたしません。お帰りください」
予想通りだった。個人情報の管理に厳しいのは当然だ。しかも、その内容によっては学校の名前にも傷がつく。どうしようかと立ち尽くしていると、背後から声をかけられた。カシミヤのハーフコートを着た上品な女性だった。
「あのう……失礼とは思ったんですが、通りすがりに、今のお話の内容が聞こえてしまいまして」
「あっ……すみません。お騒がせしまして」
「今の話って、森村美緒さんのことですよね」
「そうです。ご存じなんですか?」
「はい。入学時はうちの子と同じクラスでした。先月、ニュースで見た時、名前も歳も同じだからまさかとは思い、とても気になっていたんです。やはりそうでしたか」
「私は札幌在住のフリーライター、霧島エリと申します」
私はすかさず名刺を出した。「今回、取材でこちらへ来たんですが、どうして美緒ちゃんが、こちらの学校をわずか半年で退学になったのか教えていただけないでしょうか」
その母親は辺りを見回し小声で言った。
「ここでは何ですから、場所を変えませんか」
「あっ、はい。ぜひ、お願いします」
「私、城ヶ崎と言います。ちょっと待っていてください」
城ヶ崎さんは門を入っていくと、女の子を連れて戻ってきた。
「娘です」
「こんにちは」と、彼女は大人びた表情で挨拶した。美緒ちゃんと同じ十歳だ。
「こんにちは」
「霧島さん、どうぞ車に乗ってください」
「すみません。失礼します」
私はずうずうしく紺色のBMWに乗せてもらった。
「子供をこのままバイオリン教室に連れていくんです。待ち時間が一時間程度ありますので、よろしかったら、その間にお話しできますけど」
「お願いします。突然、ご無理を言って申し訳ありません」
車で十分程度走り、私たちは音楽教室に着いた。駐車場に車を止めると、娘さんを入口まで送り届け、そのまま近くの喫茶店に入った。そして、奥まった席に座り、私は心なしか小声で切り出した。
「今回はご協力ありがとうございます」
「いいえ」
「美緒ちゃんが退学した理由なんですが、個性の強いお子さんで校風に合わないからというのは本当でしょうか」
「ほぼ合っていると思います。学力はずば抜けていて、天才のレベルだったらしいです」
「個性が強いというのは、具体的にどのような性質を指しているのでしょうか」
「うちの子は恐いと言っていました」
「恐いですか?」
「はい。私もそう思いました。気性の激しさではなく、ぶるっと震えのくる恐さです。典型的な例で言えば、校庭でウサギを飼っているのですが、耳をもって振り回して投げつけたそうです。それも笑いながら。霧島さんはどう思いますか? 七歳の子供だから、そんなに悪気はない。まだ分別が身についていないだけだと思いますか?」
それを聞いた私も同様に身震いした。想像以上のことが起きていた。
「客観的な印象ですが、七歳ともなれば命の大切さはわかっているように思います。特に女の子は母性がありますから、教えられなくても、自然に小動物には慈愛を抱くものではないかと。ぬいぐるみが好きなように」
城ヶ崎さんは、私の意見を聞いて大きく頷いた。
「私もそれが普通だと思います。しかし、動物虐待のような行動ですから、相当な波紋を広げました。中にはおもしろがった男の子もいたそうですが、女の子は皆泣いて、もうパニックです」
「それで退学になったんですか?」
「いいえ。一旦は猶予が与えられました。すぐに美緒ちゃんの母親が呼び出されて、家庭でのしつけに力を入れてほしいと、担任から要望があったそうです。しかし、それからも校庭の花をすべてむしってしまったり、壁を赤い絵の具で塗ったり、人のお弁当に虫を入れたりと、問題行動が続きました。クラスの父母からは次々と学校にクレームが入り、ついには退学となったみたいです」
「学校側からの説明はあったのですか?」
「はい。二学期の父母会の時に、校長自らが教室へ来て、経緯の報告をしました。親たちは一様に、退学は当然だと同調しました。確かに、私もそのままでは子供に悪い影響を与えかねないとの不安はありました。しかし、校長と担任の発言に、真の教育者なのかと不信感を抱いたのも事実です。原因を母親の教育不足、愛情不足だと決めつけたんです。全ての責任は家庭にあると断言し、この学校から出ていってもらいました、というような報告でした。自分たちの保身のためのようにも見えました。母親の相談にのり、一緒に問題を解決しようと努力する姿はありませんでした」
「確かに公的な専門機関や相談窓口、カウンセリングを紹介したりすることはできたかもしれませんね。児童心療内科などもありますし」
「今、冷静に考えればそう思います。お弁当に虫を入れられた子のお母さんから聞いたのですが、美緒ちゃんの母親は、涙ながらに、何度も頭を下げて謝罪したそうです。至らなくてすみませんと。その時に、再婚したばかりの後妻さんだと、知ったとのことでした。隣で美緒ちゃんは、にやにやと笑うばかりで、反省する様子はなかったと言います。若い母親が可哀想になって、それ以上、責める気にはなれなかったそうです」
「再婚してわずか三ヶ月しかたっていないのに、子供が問題を起こす度に呼び出され、愛情不足だと責められる。酷な話ですね」
「その一方で、ほっとしたと、もらす母親たちも多かったです。問題のある子供は排除。選ばれし者だけが集まる、平和で安全なシェルター。それがエリート名門校だ、と豪語する母親もいました」
「安全なシェルターですか」
「その翌年に美緒ちゃんの母親が自殺したと伝え聞いた時、私は凍りつきました。責めることに終始した学校と、排除する事でほっとした私たち。そして、救いの手を差し伸べることのなかった社会。そんな理不尽さが、ひとりの若い母親を死に追いやったのだと思えてなりませんでした。私だって、その立場になっていた可能性はあるのですから」
城ヶ崎さんは、目を潤ませていた。子供を持つ母親なのだと思った。そして、その時に抱いたもやもやした気持ちを、ずっと誰かに言いたかったのだ。
事態は思わぬ方向へと進み始めていた。私はまるで迷路の真ん中で途方に暮れているようだった。今どこにいて、どの方向に進めばいいのかがわからない。一方で出口を見つけるのも恐くなっていた。残酷な現実を目の当たりにすることになるかもしれない。しかし、そこには千春さんを救い出す光がある。千春さんはやはり「第三の女」だった。いや、「三番目の母」というべきだろうか。
* * *
森村は遥香との逢瀬を終えた後、Nホテルへ向かった。岸田美香子と上層階にあるレストランバーで待ち合わせていた。彼女は男友達よりも近しい理解者、同志だ。何でも隠さずに話すことができる。二人は親友であっても男女の認識はある。しかし、決して恋人へ発展することはなかった。これはアンリトン・ルールだ。そして五年前、ついに美香子は二つ年下の医師と結婚した。実家の病院の跡継ぎとなる婿養子だが、まだ子供には恵まれていない。美香子の結婚を機に二人は完全に飲み友達となった。
「ジュン、体調はどう?」
「その挨拶、さすが医者だね」
「職業病かしら。いやだわ」
「食欲もあるし、普通だよ」
「何かいいことがあったの?」
「どうして?」
「顔色がいいし、何かすっきりしてる」
「今夜は月が明るいからじゃないかな」
「いいえ、そんな単純なものじゃなさそう。何ていうのかしら。いつもの色気が復活してる。あっ、まさか第四の女、出現?」
「なるほど。そうかもしれない」
「どこで知り合ったの? また中川さんのお節介な紹介?」
「まさか。中二から高一まで付き合っていた元カノ。家の近くで偶然に会って」
「まあ、初恋の相手。それは燃え上がるわ」
「残念ながら、美香子と同じ。夫持ち」
「あらら。でも、彼女の方はその気になっているかもよ」
「それはないよ。懐かしさを楽しんで心の隙間を埋めているだけかな。きっと、結婚なんて紙だけの契約にうんざりしているんだ」
「そこまで達観したのなら、レイ君でよかったのにね」
「痛いところついてくるなぁ」
「たった一歩を踏み出すだけだったのに」
「俺はモラルの敗北者さ」
レイの存在を知っているのは、美香子と最初の妻である麻美だけだった。そして、なぜか脅迫メールの送り主だ。
森村は高校二年の梅雨時、罹患したおたふく風邪が悪化して総合病院に入院した。四十度近い高熱が何日も続いた。入院して五日目にようやく熱は下がったが、さすがに頭がくらくらしていた。それでも無理をして飲み物を買おうと病室を出たが、案の定めまいを起こし、ふらついてよろけた。その時、通りかかったレイが腕をつかんだ。森村の手から財布が落ちた。
「大丈夫?」
森村ははっとして息をのんだ。それくらい美しい少年だった。眉目秀麗とはこのことだ。
「あっ、ごめん」
森村は反射的に体を離し、壁に寄りかかった。顔がみるみる赤くなるのがわかった。耳元まで響くような激しい動悸。それが体調によるものなのか、目の前の少年美に対してなのかはわからなかった。
レイは財布を拾うと屈託のない笑顔を向けた。
「まだふらついている。ボクがかわりに買ってきてあげるよ。何?」
「オ、オレンジジュース」
「ベッドで待ってて。病室ここでしょう?」
「うん。悪いね」
「病気の時は、お互い様だよ」
レイは入院生活が長いのか、ナースたちとすれ違う度に声をかけられていた。森村はその様子を見て、警戒心なくベッドに戻った。彼が入院患者でなかったとしても、あの憂いを帯びた笑顔には、騙されるだろうと思った。森村がプロンズ像のような凛々しい男性美を有しているとするならば、レイはガラス細工で出来た中性的な美少年だった。
「ジュース買ってきたよ。これでいい?」
「ありがとう。助かった」
「名前は何ていうの?」
「森村淳」
「ジュンか……ボクは鈴本玲。レイって下の名前で呼んで。十七歳だけど留年したから、まだ高校一年生」
「同じ年なんだな」
「えーっ、ジュン、老けて見えるね」
「どういう意味だよ」
「大人っぽくて、かっこいいってことだよ」
「それなら許す」
「一目惚れした」
森村はメドゥサを見たかのように一瞬にして石になってしまった。動けない。これがクラスの野郎だったら、キモいことを言うなと、すかさず返すところだ。しかし、森村はレイの真っ直ぐに向けられた視線に縛られ、冗談として受け流すことができなかった。明らかに動揺していた。その時、助け船を出すように看護師長が顔をのぞかせた。
「こら、レイ君、ちょろちょろしない。マスクも外しちゃ駄目でしょう。点滴の時間よ。病室に戻って」
「はーい。また後で来るね」
「うん」
レイが出ていった後も、森村は動悸が喉元まで突き上げて、息ができなかった。彼はオレンジジュースを開けて一口飲んだ。その酸っぱさがリンパ腺に、きゅっと染みた。明らかに心が揺れていた。窓から見える泣きそうな曇天が雨を予感させた。高熱が続いたことで全身が乾き切っていた。体の中に染み入るような官能を潤す雨を欲していた。
夕食後の面会時間になると雨が降ってきた。静かな病室を雨音が包んでいた。すると、そこに軽快な足取りで、レイがやってきた。先刻、気になるひと言を残した罪悪感などはみじんも見せず、ごく普通の男友達というさらりとした印象に、森村は安堵した。何を狼狽えていたのだろうと苦笑が漏れた。
「おたふく風邪が、うつってもしらないよ」
「大丈夫だよ、予防接種してるから。でも、それやばいね。この年でかかると子供できなくなるって聞いたことがある」
「片方は腫れが弱かったから、何とか使えるかもって、医者がフォローしてた」
「そうなんだ。ボクはたぶん全滅だよ。去年、骨髄移植した時に、抗ガン剤を多量に投与してるし、放射線照射も受けたから」
「骨髄移植って……」
「白血病」
「それで留年したんだね」
「そう。だから学校つまらない。年下の知らない奴らばかりで、気の合いそうな奴もいないし。しかも、新学期が始まって二ヶ月でまた入院。今年も留年したら、学校を辞めようかな」
「入院、長引きそうなの?」
「どうかなぁ。去年みたく重症ではないみたいだし。でも、いつ死が訪れるかわかならないって、覚悟はしてる」
「死って、嘘だよね……」
「ほんと。もちろん生きる予定だけど、精一杯。でも万が一の時のことは、いつも考えてる。だから後悔しないように、やりたいことはすぐにやることにしてる。我慢をしない。いつも自分の気持ちに正直に行動する。怒られても、ひんしゅくをかっても……本当に一目惚れなんだ……」
レイは仕切りのカーテンを素早く引くと、森村にキスをした。キスをしたいと思ったらすぐに行動に移す。なるほど有言実行だ。森村は冷静にそう考え、その暴挙を甘受した。もはや驚きはなかった。こうなることを期待していたみたいに柔らかい唇でそれを受け止めた。一方のレイは大胆なくせに緊張からか、冷たく固い唇を震わせていた。
「殴られるかと思った……」
「どうして?」
「普通、気持ち悪がるでしょう?」
「死ぬかもしれない、っていうから同情したんだよ」
森村は容赦なく言い放った。そして、クールな表情のまま、目元だけにやさしい笑みを浮かべた。レイは、そのやさしさを隠したサディスティックな言葉に身悶えした。係恋の相手にようやく出会えた。その喜びにレイは満面の笑みを浮かべた。
「生きててよかったぁ」
レイはもう一度、森村に抱きつくと、長いキスをした。レイの冷たかった唇は、次第に赤く膨れ燃え上がった。雨は土砂降りになり聴覚を支配した。森村は甘いキスと雨音に肉体が張り裂けそうだった。遥香とは味わったことのない危険なエクスタシーだ。萌芽の段階でこの絶頂感だとしたら、この先にはどれほどの官能が待っているのだろう。そんな期待をする一方で、森村はしきりに自問し続けていた。
同性に対してこんなに興奮するなんて、高熱で頭がやられてしまったのか? いや、潜在意識が雨の音によって目覚めたのか?
違う。レイが魅力的すぎたのだ。
森村を現実に引き戻すように冷たいグラスが頬に貼りついた。
「冷た……」
美香子がけらけらと笑っている。
「今、レイ君との思い出に浸っていたでしょう」
「ごめん」
「私たちって本当に似たもの同士よね」
「ああ」
美香子も一つ年下の女子生徒とつき合ったことがある。森村も美香子もバイ・セクシャルという認識はなかった。偶然にも魅力的な同性に出会ってしまったのだ。現に、森村はレイ以外に男性を好きになったことはない。
覚悟を決めた男・森村
夕方、私は光輝の部屋に戻り、パソコンで子供の発達障害について調べていた。美緒ちゃんの行動がそれに当てはまらないかを確認していた。そちらの方向へ考えを引き戻したかった。生まれつき脳の一部の機能に障害があるとすれば、それは本人の意思ではない。育て方の問題でもない。障害がそうさせていると、母親の罪悪感を取り除くことができる。しかし、どんな文献や医師の解説を読んでも、やはり美緒ちゃんの行動とは合致しなかった。実のところ、城ヶ崎さんの話を聞いた瞬間から、よからぬ憶測が頭をよぎっていた。考えまいと何度打ち消しても、その言葉が頭を離れなかった。
サイコパス。奇しくも前年に女子高生と女子大生が続けざまに殺人で逮捕され、世間を騒がせていた。犯行の動機はともに「人を殺してみたかった」だ。そして、兆候として必ずといっていいほど、小動物への虐待が目撃されていた。美緒ちゃんもそういった行為が続いていたのであれば、千春さんがこの報道を目にすることによって、将来に対する不安感を抱いたという可能性はある。しかし、美緒ちゃんのうさぎへの虐待は、三年前、七歳の時だ。新しい母親がきて、一時的に精神が不安定だったのかもしれない。その後、回復していることも十分考えられる。やはり、二番目の妻である由衣さんのご両親に直接会って、話を聞かせてもらう必要があった。電話だけで済ませる取材は極力しないようにしている。これは師匠夏目氏の教えのひとつだ。
私は取材を申し込もうと、不在で会えなかった由衣さんの実家に電話を入れてみた。すぐに母親が出た。最初は私を不審がっていたが、話しているうちに、千春さんの救いになるのであればと、取材を了承してくれた。ちょうど明日は、パートが休みということで、午後から自宅へ伺うことになった。
その時、ちょうど光輝が帰ってきた。思った通り、東京で流行っているというスイーツをおみやげに買ってきてくれた。私はあえて仕事の話をしなかった。ただ静かに光輝の顔を見ていたかった。その表情のひとつひとつを、見逃したくなかった。私は今日の取材を通して、不馴れな子育てに奔走した由衣さんに感情移入し、女として落ち込んでいた。光輝にすがって無性に泣きたくなっていた。男もこんな気持ちになることがあるのだろうか。少し前、男脳と女脳、女は地図が読めないとか、男女は思考回路がそもそも違うというようなことが話題になっていた。だから、私が落ち込んでいる理由を光輝に話しても、なぜ泣きたいような気持ちになるのかは、理解できないのかもしれない。世の中の女性は、こんな風にひとりで悩み事を抱え込むのだ。
私たちは向かい合って、夕食とスイーツを、もくもくと食べた。私は淡々と食器を洗い、入浴し、洗濯物を干した。その後、私は何となく泣きたくて、ベッドに入ってからも、やたらと光輝にしがみついていた。
「エリ、なんか落ち込むことがあったんだね」
光輝はそう言うと強く抱きしめてくれた。つくづく優しい人だと思う。
「どうしてわかるの?」
「だって、感情を押し殺しているから。出会ってから十年、もう、わからないことなんてないよ」
「実はものすごく重大な秘密を隠していたりするかも」
「そうなの?」
「うん。別の顔があったりして」
「確かに。時々出会う」
「えっ?」
光輝は笑いながら吐息で私の頬にキスをした。私たちは抱き合い海の底へ静かに沈んでいく。私はまだ払拭できていない。私たちが共犯者であることを。
* * *
森村は二階の自室から、冬の真っ黒な夜空を見上げていた。星ひとつない。美香子がレイの話を持ち出したため、彼はすっかり感傷的になってしまった。その時の会話が繰り返し思い出された。
「そこまで達観したのなら、レイ君でよかったのにね」
「痛いところをついてくるなぁ」
「たった一歩を踏み出すだけだったのに」
「俺はモラルの敗北者さ」
思い出さないようにしても、目覚めた時から、森村の心はレイの事でいっぱいなのだ。それを日常の煩雑さでごまかしてきたにすぎない。
レイと運命的に出会ってから三日後、森村は退院した。その後も森村はレイにせがまれるままに、一ヶ月間、病院へ見舞いに通いつめた。いつも好きな音楽や映画の話から始まった。話が途切れると、心を見透かすように見つめ合った。熱く視線を絡ませた。隙あらば、ベッドの仕切りカーテンを引き、手を握り、髪をくしゃくしゃにしてキスをした。会話を再開しても我慢できずに、またすぐに唇を合わせた。無性にレイの吐息を欲した。逢瀬を重ねる度に、指先が肉体を求めて、もどかしそうに首筋や背中を這うようになった。
森村は学校でも授業は上の空で、四六時中、レイのことばかりを考えていた。遥香の時とは明らかに精神状態が違う。同性が故に、お互い優劣が存在しない。恋愛の定義も通用しない。テクニックというものが滑稽にさえ感じる。まさに一縷の直情なのだ。男女間の恋愛はどうしても機微な駆け引きが生じる。外見や評判、見栄とプライド、我慢や忍耐、強いては価値感の押し付け合い。全てにおいて諦念を抱かないために、あれこれと工夫を凝らし、新しい刺激を取り入れようとする。マンネリと飽きを恐れる。ゴールを目指そうと、継続することに躍起となる。記念日やサプライズの演出など陳腐でしかない。森村は正直言って辟易するところがあった。それに比べて、マイノリティ、インモラルな愛はスタートの地点からすでにマイナスの感覚がある。ゴールもない気がする。だからこそ、相手に対する過度な期待、ましてや要求など最初から皆無なのだ。そこにあるのは常識や偏見と闘う純粋な気持ちだけだ。決して好奇心や気の迷いではない。森村は確信していた。
レイを愛している。
そして、ついにレイが退院する週末、森村は彼の家へ遊びにいくことになった。レイの両親は駅前でレトロな雰囲気の喫茶店を営んでいて、日中は家にいなかった。もうすぐ夏休みという浮ついた時期であり、何かを予感するように、暑い日が続いていた。
その日も太陽は、じりじりと焼けていた。
森村はレイの家に着くなり、先にシャワーを浴びて、裸のままベッドに横たわっていた。レイの部屋は画廊のような白い空間だった。ポップアートが何枚も飾ってあり、それ以外はほとんど何もない。活気ある若者のイメージとはほど遠かった。そこには孤高の画家が晩年を過ごすアトリエのような静かな空気が漂っていた。病と闘ってきた精神が関係しているのだろうか。それとも、レイの性質ゆえなのだろうか。外気温は真夏日だというのに、不思議と暑さを感じなかった。二年前、遥香と初めて体験した時に感じたのは、血気に逸った肉欲だった。しかし、今、心と体を満たしているのは結実した幸福感だ。
そこに、がりがりに痩せたレイが入ってきた。すぐに目にとまったのは、肘の内側にある無数の点滴の痕だった。そこだけが青や黄色の痣となっていた。病魔と闘ってきた肉体が痛々しかった。森村は愛おしくて、すぐにレイを引き寄せて抱きしめた。身長は変わらないのに、あまりに体が軽く、本当に消えてしまうのではないかと錯覚させた。森村は思わず感傷的になり涙腺が緩んだ。
「レイ。何だか、折れてしまいそうで怖いよ」
「そんなに柔じゃないよ。ボク、何をされても、何が起きても、感動するよ……」
森村は健気なレイにやさしく口づけた。ついに背徳の門をくぐった。行き着く方法も知らなかった。非凡な演出が必要なのかもわからなかった。しかし、出会ってからのもの悲しさと、これまでの時空の共有が混ざり合い、慈愛が一気に高まった瞬間だった。無我夢中で求め合った。時間を忘れた。気がつくと太陽が沈みかけていた。日没を終了の合図としなければ終わりそうになかった。夕暮れの切なさに心が狂おしくて、森村はレイを胸に強く包み込んだ。レイが額を強く押しつけてきた。
絶対に失いたくない。
恋愛が昇華し成熟したことは戸惑いでもあり、ごく自然なことのようにも思われた。レイと正面から向き合い、恋人と認め、あらん限りを尽くして愛し抜く。いつの間にか森村に内在していたモラリスト的な思考や態度は瓦解していた。
「カノジョと別れるから」
「えっ?」
「俺はレイだけのものだから」
「うれしいな。幸せで死んじゃいそうだよ」
「洒落にならないから死ぬっていうなよ。俺が死なせないから」
「ジュン、好きだよ。愛してる……」
レイはとたんに男性的な断面を見せつけた。森村はその大胆な姿態に感嘆を漏らした。
森村はどんどんレイに溺れていった。レイは自由奔放で、森村を時には振り回し、困らせる。最高の笑顔で悩ませる。華奢な肉体で魅了する。圧倒する。二人は夏休みも頻繁に会い、恋人のようにデートをして過ごした。誰もその関係を疑わなかった。端からは、とても気の合う友達にしか見えなかった。
あれから十八年が過ぎた。森村は久しぶりに古い学習机の引き出しを開けた。そして、奥にしまってあった男性ファッション雑誌を取り出した。街角スナップ。今でいう読者モデル撮影会が渋谷で行われた。ここぞとばかりに、ファッション好きの男子は万全のコーディネートをきめて集合していた。そこを偶然通りかかった森村とレイはおもしろ半分に乱入した。森村はラルフローレンのポロシャツにホワイトジーンズ、レイはTシャツに古着のジーンズだった。二人ともいたって普通のファッションだったが、その美少年ぶりが相乗効果となり、トップページを二人で独占した。ボトムは色違いだったがリーバイスの501と隠れたペアにしていた。二人はこういったペアをさりげなく取り入れていた。つき合ってから一年。それくらい二人の仲は親密なものになっていた。森村は高校に入ってからも相当にもてたが、すでに遥香というカノジョがいたため、思いの外、周りは静かだった。しかし、雑誌の影響で学校祭に他校の女子高生が押し掛ける騒ぎとなった。森村はすでに前年の夏以降、遥香とは会わなくなっていた。大学受験に向けて勉強に専念したいなどと、見え透いた嘘を言って離れていった。遥香は森村の気持ちを察したのだが、まさか雑誌に一緒に写っている男友達が、彼の心をさらってしまったとは想像だにしなかった。
森村にとってレイとの関係はとても心地よいものだった。最高の友達であり、魅力的な恋人であり、規制にとらわれない刺激的な人間だった。この関係は誰にも知られることなく、表面上は穏やかに二年が続いた。森村は大学へ進学し、レイも病気が再発することなく寛解の状態を維持したまま、高校最後の年を迎えていた。
森村は大学で『デザイン研究会』というサークルに入った。レイがアンディ・ウォーホルやキース・ヘリングが好きで、よくデザイン画を書いていた。森村はそれを見て影響を受けた。もともと絵心があり、美術は得意だった。そのサークルで岸田美香子と出会った。美香子は総合病院のひとり娘で、名門女子校出身のお嬢様だった。相当な美人だったが気取りがなく、さばさばとした性格で、とてもアグレッシブだった。森村は他の男友達よりも刺激的でつき合いやすい彼女を、とても気に入っていた。一方の美香子も、森村のどこか神秘的でセンシティブな部分に魅力を感じていた。二人はすぐに親友になった。部室でもよく話し込む姿が見られた。そのため、周りも自然と二人を恋人と公認していた。
その年の秋、森村が書店から出てくると、向かい側の歩道を、美香子が可愛らしい女子高生と歩いているのが見えた。その少女は美香子の出身校の制服を着ていたので、すぐに後輩だとわかった。二人は笑い合うと交差点で手を振って別れた。美香子は横断歩道をこちらに向かって渡ってきた。
「美香子」
「ああ、ジュン。偶然ね」
「今、すごく可愛い後輩と歩いていたね」
「目ざといなぁ……あれは後輩じゃなくて、私のカ・ノ・ジョ」
美香子がウインクをしてみせた。
「また冗談を」
森村はぷっと吹き出した。
「本当よ」
「信じられない……」
「あーあ、ついに言っちゃった。何か、こんな雑踏の中でジュンの顔を見たら、ほっとして、急にカミングアウトしたくなったの」
美香子は至って真面目な顔をしていた。森村は驚きとともに嬉しさが込み上げ、思わず美香子を抱きしめたくなった。彼女とはただ単に気が合うだけではなかった。本当の同志だった。彼は気分が高揚し饒舌になった。
「誰かに言いたくなる気持ちわかるな。秘密でいい、認められなくてもいい、二人だけがわかっていればいい。でも、そう思っていても、衝動的にこの交差点で叫びたくなる。無性に大声で宣言したくなる」
「今の私はまさにそんな感じ。隠していて、ごめんね」
「俺も恋人、男なんだ」
「えっ?」
「そういうこと」
「やだーっ。そうなの」
「これから、飲みにいこうか?」
「いくいく。今夜は私がおごる。おごらせて」
「助かる。金欠なんだ」
美香子は嬉しくて森村の腕に手を回してきた。森村もそれを快く受け入れた。森村と美香子は恋人のように腕を組んで街を歩いた。一見して、スクリーンから抜け出したような、とても似合いの恋人だった。この二人が恋愛におけるアウトサイダー同士と誰が想像するだろう。森村はそのまま美香子に連れられ、おしゃれで雰囲気のいいワンショットバーに入った。そして、いちばん奥まったところにある薄暗い席に座った。この席なら人に話を聞かれることはない。二人はバーボンのロックで乾杯し一気に飲み干すと、お互いの顔を見て微笑んだ。
美香子は長い髪を掻き上げて小悪魔的な表情をつくると、グロスで輝く唇を突き出して言った。
「今日は思い切り聞かせてもらうわよ。ジュンから、どうぞ」
「わかった」
森村の心は喜びに満ちていた。禁忌というのは恋愛にとって媚薬だが副作用がある。秘密でいることに耐えられなくなり、時に体内で暴れ出す。理性ではどうにも手が着けられず、まさに言葉や行動で外部に放出されようとする。森村はその副作用が出る時期にきていた。美香子も同様だった。
森村はレイとの出会い、刺激的で官能的な日常、そして、遥香という恋人がいたことまで全てを赤裸々に話した。一方の美香子も高校の卒業時にカノジョに告白され、その可愛さに惹かれ付き合い出したこと、春休みに軽井沢の別荘にいき、より濃厚なつき合いになったことを告白した。
美香子は早いペースで飲み、陽気に語り、相当に酔っていた。そのくねくねした姿は、色香にあふれ、男を欲情させるには十分だった。
「どうして世の中って、男と女しかいないのかしらね」
美香子はろれつが回っていなかった。
「あっ……そうだ……ジュン。今度、彼女に会ってみてくれない?」
「どうして?」
「私よりイケメンに興味があるのか、実は知りたいの。誘惑してみて。我ながら、いいアイディア。来週、ホテルの豪華スイートルーム予約するから、お願い来て」
「ちょっと待ってくれよ」
「適役だわ」
何とも無謀なことを言い出すお嬢様だった。それでも森村は、この無謀な提案を真に受けてはいなかった。美香子は相当に酔っていたため、時間がたてば、きれいさっぱり忘れると思っていた。しかし、翌日、あっけらかんとした美香子に時間とホテル名を告げられた。森村はさすがに困ってレイに相談した。とてもではないが、簡単に行動に移せるようなことではなかった。すると、レイからは意外な返事が返ってきた。
「いいじゃん。やりなよ」
「簡単に言うなよ」
「彼女のジレンマはわかるし、それで二人が深くつながれるなら、素敵なことだよ」
「俺が他の女と会って、誘惑して、嫌じゃないのか」
「心はボクのものだから、冒険しにいったくらいで動揺しないよ」
「面白がってるだろう」
「後日談、楽しみにしているから」
レイはくくっと笑った。
翌週、森村は美香子にホテルの最上階のスイートルームに呼ばれ、夏帆を紹介された。恋愛ゲームに出てくるような童顔の美少女だった。好奇心旺盛な美香子がはまる理由がわかる。ゲーム並みのバーチャル・リアリティだ。夏帆は、中学生の遥香を思い出させた。あんなに遥香が好きだったはずなのに、どうしてレイに簡単に心変わりをしたのだろう。病院の廊下で腕をつかまれたあの一瞬、恋に落ちるまで数秒とかからなかった。
レイ……。
森村は美しい女たちを目の前に、レイのことばかり考えていた。こんなにもレイのことが好きでたまらない。重症だ。二年がたっても、さらに、どんどん好きになっている。この想いはいつまで続くのだろう。永遠の愛を願いながらも、法的にも社会的にも認められない現実と闘う。いつか道徳の前に平伏す日がくるのだろうか。
「ジュン。先のことを考えたら駄目だよ。今を、刹那を生きないと」
レイの口癖だ。一度は死を覚悟した者にしかわからない強い意志だ。森村はレイの方がずっと達観した大人に感じ、手を引いてほしい、そちらへ導いて欲しいと思う時がある。
こうして、森村は夏帆の前で憂いのある顔を見せた。結果的に、夏帆は森村に夢中になってしまい、美香子の恋はあっけなく終わった。彼女は苦笑いするしかなかった。もちろん、森村と美香子はずっと親友のままだ。秘密を共有した同志だ。
後日談を聞いたレイは、夏帆が森村を好きになってしまうのは当然だ、と言って笑ってみせた。しかし、明らかにジェラシーを感じている表情をしていた。森村はそのふくれっ面が可愛くて、我慢できずにすばやく彼の頬にキスをした。一瞬の出来事だった。そこは街のど真ん中にあるコーヒー専門店、道路に面した全面ガラス張りのカウンター席だった。その決定的瞬間を、通行人の何人もが目撃していても不思議ではないくらいにオープンな空間だった。あまりに突然の公然としたキスに、レイは珍しく顔が真っ赤になった。森村はその様子を見て愉快そうに笑った。人目もはばからない森村の行動が嬉しくて、今度はレイがテーブルの下で手を繋いできた。森村は雑踏に目を向けたまま、その手を強く握り返して言った。根拠のない自信が背中を押していた。
「行くとこまでいくか」
「うん」
この時の森村は幸せの絶頂だった。この先の過酷な運命など考える余地もなかった。