『係恋』第9回
魅了された男・森村
私は森村さんに頼んでいた嘆願書を受け取り、山本夫人と工藤夫人の分と一緒に弁護士の大堂先生に渡した。これで、ようやく一区切りがついたと感じた。
縁は縁を呼ぶ。縁は自然とできていくものなのか、引き寄せるものなのか。数日前に森村さんへ連絡をした時に、光輝と一緒にいたということにも不思議な縁を感じた。そんなことを思いながら、私は千春さんへの最終報告書を書くためにパソコンを開いた。五日後には判決が言い渡される。その前には完成させておきたいと思った。キーを叩く音とできあがっていく文章に、それなりの達成感を覚えながらも、何か釈然としない気持ちが内側から広がっていった。
これで本当に全てが終わったのだろうか。何かを忘れていないだろうか。見落としていないだろうか。
そんな疑問が次々と沸き起こり、ついに手が止まってしまった。何に引っかかっているのだろう。今回の取材によって浮かび上がってきた社会的な問題だろうか。
LGBTQへの理解。サイコパスと疑われる子供の矯正教育。市民生活に蔓延る謎の宗教団体。ネットによる中傷、脅迫。ギャンブル依存症。妊娠中絶による体と心の傷。この他にも問題は山積している。振り返れば、世にあふれる情報や様々な理論に惑わされた。人間の不可解な思考や行動に翻弄された。しかし、そこから派生した問題が熟考されてはいなかった。このまま単なる事例、意見として片づけられてしまう危機感を抱いた。記憶は薄れ、曖昧なまま、放置されてしまうだろう。正直なところ、人間社会の矛盾に納得がいっていない。せめて、それらをきちんと取材し、現状を伝える必要があるのではないだろうか。しかし、そんな正義感に燃える一方で、偉そうなことを言える人間ではないと後込みする自分もいた。私はいつも無理をしていると思うことがある。実は目立たないようにひっそりと、ごく平凡に、いたって平穏な暮らしをしたいと願っているような気がするのだ。所詮、私はジャーナリストの器ではない。真実を見抜く確かな目を持っているとは思えない。それなのに、どうして私は取材をし、文章に書くのだろうか。時に感情に流され、肩入れしてしまう。人間の本性を見抜けず、演技に騙されてしまう。法に触れない悪と、法に触れる善。その狭間で揺れる。自らも犯罪者に区分されるであろう罪悪感に押しつぶされ、叫びだしたくなる時がある。
そして、もやもやの正体がわからぬままに報告書を完成させた。そう、私は決定的なミスを犯していることに気がついていなかったのだ。
その夜、森村さんから返信メールが届いた。嘆願書を受け取ったお礼のメールを送っていたからだ。そこには今の思いが書かれていた。長年に渡り脅迫し続けた中川さんを今さら憎む気持ちがないこと。そして、元夫として千春さんの裁判を見届け、責務を果たすべきではないかということだった。それを遂行するために、公判を傍聴しに札幌へ来ることにしたという。きちんと千春さんと向き合い話をして、謝りたいとのことだった。そのための仲立ちをして欲しいとあった。
私は裁判当日に仕事があり、一緒に傍聴できないため、その後、森村さんの都合が許せば、お会いましょうと、再びメールを送った。
翌日、会社の契約面談があった。私は更新はせずに三月をもって退職する旨を伝えた。そして勤務後、久しぶりに友人であり人生の大先輩である聡美さんと食事に繰り出した。
「ついにエリちゃんも東京に行っちゃうのね。結婚おめでとう」
「ありがとうございます」
「でも、ご両親て厳しいんでしょう。十年間ずっと、光輝君の存在を秘密にしてきて、突然、結婚とか大丈夫だったの?」
「はい。うちの親は、姉がすべてなので、私はどうでもいい感じです。まあ、光輝の学歴と勤め先だけは聞いてきましたけど」
「ステータス重視なのね。わかりやすい」
「だから親が苦手です」
「実は、私も、啓太郎に一緒に暮らさないかって言われているの。二人とも貧乏だし、住居費、光熱費とか、もろもろ節約できるでしょう」
「それって単純に一緒に暮らしたいってことですよね」
「確かにそうね」
「同棲ならいいんですけど、結婚って契約だから何か重たいですよね」
「あら、早くもマリッジブルー?」
「そうかもです」
「完璧な女でいようとしないことね。よくできた嫁、妻でありながら、母として育児を見事にこなし、女としてもおしゃれで魅力的でいようなんて、ドラマやファッション雑誌が作り出した虚構の世界よ」
「でも、聡美さん、まさにそれでしたよ」
「えっ?」
「女優さんみたいなハイソな奥様」
「形だけでも幸せそうで素敵なママでいたかったのよ。今となっては何だったのかしら。あの白いフリフリのエプロン」
「似合ってて、素敵でしたよ」
「子供が大きくなって、そっぽ向かれて終わり」
「カオル君、大学生ですよね。会うことはあるんですか?」
「離婚してからは一度も会ってない。別れた夫と性格が似てて愛想がないから、もう無理かな。嫌われてるし。あーあ、息子と一緒に飲みにいったりするのが夢だったのに」
「何か妻も母親も切ないですね」
「本当に好きな人と結婚しなかった私が悪いのよ。私にとって、結婚って何だったのかしら。どんどん空しくなっていった。独身でひとりなら寂しくても割り切れる。でも、夫と子供という家族がいるのに、病気で苦しい時ですら、やさしい声をかけてもらえなかった。孤独でいつもふとんの中で泣いてた。いつしか諦めて、麻痺して、悲しいとすら思わなくなったけど」
「さらにブルーになりそうです」
「だから相手によるのよ。例えばね。夕食を作る前にうっかり居眠りをしてしまって、夫が仕事から帰ってきたとするでしょう。ここで男は二通りに別れるの。ソファで眠る妻の顔を見て、ああ今日も家事と育児でへとへとなんだな、いつもありがとうって優しく毛布を掛けてくれる男。もう一方は、仕事で疲れて帰ってきているのにメシもできてないのかよって、舌打ちをする男。私の別れた夫は、まさにこの舌打ちタイプ。いまだにこういう男っているのよ。でも光輝君は確実に毛布君だから大丈夫よ」
「光輝って、そう見えますか?」
「ええ。そんな優しい人に、そうそう出会えるものじゃないわよ」
「そうですね。ありがとうございます。でも、東京へ行ってしまったら、聡美さんと会えなくなるのは寂しいです」
「私もよ」
私は聡美さんと結婚談義を続けながら、鎌倉で森村さんが光輝に言っていたことを思い出していた。
「結婚して、本当に幸せな人って、どれくらいいるんだろうね」
今のところ、私の周りに思い浮かぶ人はいない。
三月に入り、好天続きの札幌は一気に雪が解け出した。排水溝に勢いよく流れ込む水の音と、卒業、別れ、旅立ちの季節が相まって、街は妙に騒ついていた。
そんな中、ついに千春さんに判決が下された。求刑五年に対し、懲役三年、執行猶予五年だった。情状酌量が認められた形だ。千春さんは最後まで一切の弁明をしなかったが、森村さん、麻美さんと由衣さんのご両親の減刑を求める嘆願書が大堂先生によって法廷で読み上げられた。それは千春さんを擁護するものとなった。美緒ちゃんには常軌を逸した行動と育てにくさがあった。千春さんは育児に悩み、将来を悲観し、ノイローゼ状態だったという見解がなされた。それが尊属殺人であるにもかかわらず、恩情ある計らいと思える執行猶予につながった。
その日の夕方、千春さんは拘置所を出た。私はすぐに彼女から電話をもらった。
「千春です。今、拘置所を出ました。この度は本当にありがとうございました」
「いいえ、お役に立てたかどうか。でも執行猶予がついてよかったです。ところで、傍聴席の森村さんに気づかれましたか?」
「はい。来てくれると思っていなかったので驚きました。退廷する時に目が合いました。複雑な心境でした」
「森村さんが明日帰る前に、一度会って話がしたいとおっしゃっていたんですが」
「そうですね。私も会って確かめたいことがあるんです」
「それでは森村さんに、そう伝えておきます。時間と場所などは、森村さんから直接この千春さんの携帯に連絡するようにしていいですか?」
「できれば霧島さんを通して連絡をいただけないでしょうか。二人で会ってもお互いに気まずいので、霧島さんも同席してもらうと助かるんですが」
「そうなりますと、明日は仕事なので、今夜しか時間がとれないんですが、お疲れではないですか?」
「大丈夫です」
「私が一緒にいて邪魔にならないでしょうか。これからのこととか、大事なお話をされるのではありませんか?」
「できれば深刻な話は避けたいです。謝罪とか憐れみとか同情とかは抜きにしてほしいって、事前に伝えていただけませんか。堅苦しいのは嫌です。ごく普通に喋って食事をしたいです」
「わかりました」
こうして私たちは、森村さんを交えた三人で会うことになった。その食事会に、千春さんのある意図が隠されているとは想像だにしなかった。
* * *
森村は光輝と会った日以来、影響されて、ジョン・レノンの『アウト・ザ・ブルー』ばかりを聞いていた。何十回と繰り返し聞いているうちに完璧に歌詞を覚えてしまった。気がつくと何気なく口ずさんでいる。光輝が自身のテーマソングであるという言い方をしたため、とても興味を引かれた。きっと彼の人生とオーバーラップするのだ。母親を亡くし、寂しい思いをしてしていた少年は運命のようにひとりの少女と出会う。そして、孤独やあらゆる悲しみから救われたのだ。それは奇跡に近い。森村を含めたすべての人がそんな出会いを待っている。渇望している。どん底から救ってくれる誰かを。生きる活力を取り戻す手助けをしてくれる誰かを。一緒に歩んでくれる誰かを。
森村は頭の中で曲を流し、その誰かを考えながら、札幌Gホテルの一階ラウンジでエリと千春を待っていた。ホテルの窓から駅前通りの広告灯が見える。肩を寄せて歩く男女が過ぎる。夜はまだ頬が痛いほど寒いのに、柔和なノスタルジーを感じる。少しずつ雪解けが始まってはいたが、街全体はまだ白く、今もはらはらと雪が舞っていた。森村は雪が寡黙な使者であることを知っている。三年前の秋、心通わぬ娘を連れて、途方に暮れたまま札幌の街にたどり着いた。大きなため息が白く凍った。刹那、唇にぽつりと冷たい感触があった。思わず薄明の空を見上げると、それは初雪だった。額に、まつげに、唇に、ふわりふわりとやさしく静かに降りてきた。咄嗟にレイだと思った。姿を変えて会いに来てくれた。慰めに来てくれた。皮膚は冷たさを感じているのに、目頭がみるみる熱くなった。苦衷の痛みが和らいだ。体内に灯が点った。すぐに明媚な札幌の街並みが好きになった。今も雪原に体を投げ出したいという欲求に駆られている。火照った体を覆い尽くして欲しい。雪に埋もれたまま、春には跡形なく消えていたい。せめて、その場所に花が咲いて欲しい。三十男のセンチメンタリズムだ。
そこへ、エリと千春が揃って現れた。千春は見事な令色を浮かべていた。数時間前まで被告だったとは思えないほど華やかにおしゃれをしていた。はっきりと描いたアイライン、赤く艶やかな口紅。カラーリングした長い髪をふわりと巻き、スタイルのよさが引き立つグリーンのストレッチワンピースを着ていた。身長も高く、一見してモデル風であり、客観的に見て、やはり美しい女性だと思った。そう、森村はあくまでも客観的にしか見られないのだった。一方のエリはいたって普通で、ライトグレーのアンサンブルニットに黒のタイトスカート、ナチュラルメイクと、千春とは対照的にとても地味だった。二人は同じ年齢にも、仲のよい友人同士にも見えない。全く異なるタイプの女性二人が目の前にいた。
森村は事前にエリから堅苦しいのは嫌だと聞いていたため、千春にかける言葉に困った。「久しぶり」というのも白々しい。「元気だった?」というのも配慮に欠ける。「こんばんは」も他人行儀だ。そう考えていると、エリから声をかけてくれた。
「お久しぶりです。この度はありがとうございました」
「いや、こちらこそ」
千春が目の奥から、森村へ真っ直ぐな視線を向けて、赤い唇を開いた。
「来てくれてありがとう」
「いや、迷惑をかけたから……ごめ……」
森村は謝罪をしかけてしまい、言葉に詰まった。そのわずかな沈黙が、不穏な空気を察知し、森村を身震いさせた。森村の臆病な部分が早くも顔をのぞかせた。この時点で最後の晩餐は、前途多難であることを予感させた。
森村はオーダーを終えてしまうと、料理がくるまでの間、いよいよ何を話せばいいのか本当に困惑した。天気や世間話をするのも白々しい。ましてや、自分の近況など語りたくない。すると、千春がエリに向かって拘置所のご飯が意外とヘルシーでおいしいというようなことを話し出した。森村は安心して先に運ばれてきたワインをひと口飲み、ほっと一息をついた。すると無意識のうちに、エリに目がいった。
まさにクール・ビューティーだ。
エリの切れ長の目とボブティヘアは知的な印象を与える。男に媚びるところがない。むしろ、遠ざけているようにさえ見える。それなのに時折、目尻を下げて、くしゃっと笑う。そのギャップにやられる。長く細い指で時々髪を耳にかける。ネイルをしていない爪は短く切り揃えられていて清潔感がある。とても痩せているのに、モヘアのセーターから胸が形よく突き出ている。すらりと細い足は、黒いタイツがよく似合う。どちらかというと地味なエリが、ここまで魅力的に見えるのは、光輝に強烈に愛されているからだ。森村はエリを通して光輝を見ていた。光輝はエリをどんなふうに愛するのだろう。光輝はエリの耳元で愛を囁く。その魅惑的な唇でエリにキスの雨を降らせる。力強い腕で包み込み、狂おしいほど抱きしめる。永遠を捧げる場面を想像する。光輝を感じているエリに羨望を抱く。その瞬間、千春からの強烈な視線に気づき、森村は我に返った。
いい年をして、俺は何をやっているのだ。
彼は慌てて千春に目を向けた。やはり何かを話さないといけない。そう思いながらも、やはり言葉が出てこなかった。話題が見つからない。事前に、謝罪、憐憫、同情抜きと言われている以上、そもそもがこの食事会は無意味だった。やり直すという選択肢は、もはやあり得ない。贖罪として慰謝料を払うことを約束し、事件のことを謝って区切りをつけたかったのだ。
森村は千春のことがよくわからなかった。半年間も一緒に暮らしたというのに、子供の存在抜きでは、こんなに息の詰まる関係だったのかと改めて思い知られた。中川に引き合わされ、子供が好きだからと頻繁に家にくるようになった。食事の支度や美緒の相手をしてくれるのがありがたくて、ついつい受け入れてしまった。そして、過去に二度、妻が自殺していることも気にしないと言われ、遠回しのプロポーズを断れなくなった。EDだと嘘をいい肉体関係を持ったこともなかった。だから、千春に中絶した過去があったと聞かされても、ショックを受けなかった。
その前の妻である由衣も同様だった。子供の世話をしてくれる礼の気持ちもあって借金を肩代わりした。その弁済のつもりだったのか、逃れたいためだったのか、そのまま母親になりたいと言われて結婚した。そして、理由も明かさぬままに自殺してしまった。
二人とも一生懸命に子供の母親をしてくれたが、森村の妻ではなかった。森村は演技をもってしても抱くことができなかった。美しい容姿とその若々しい肉体を見ても欲情することはなかった。つくづくひどい男だと思った。だから次々と不幸が訪れる。自業自得、天罰なのだ。そして、それは今も変わらない。こうして再会してみて痛感した。中川が騙して離婚させてくれたことに、むしろ感謝していた。このまま結婚生活を再開させるなど不可能だ。苦痛でしかない。由衣や千春には、麻美と同じ、弱みを握られているような、何か畏怖のようなものを感じていた。
森村には女性を崇拝する気持ちと、嫌悪する気持ちがあった。
その後もエリが何かと気を遣い、千春と話をしてくれたので、森村は聞いているふりをして頷いていた。早く予定の時間が過ぎてほしいと、ちらちらと時計に目をやった。ようやく罰のような宴が終わりに近づき、森村は先に会計を済ませるために、さりげなく席を立った。千春との重い別れの前に、一旦、この息苦しさから解放されたかった。プレッシャーを払拭するための長い息が出た。飛行機の座席を解放された時と同じくらい両足に疲労があった。
何と言って別れればいいのだ。
森村は結論が出ないままに、沈痛な面もちで席に戻った。ありがたいことに、千春は化粧室へいっており、エリだけが席にいた。森村はようやく顔がほころんだ。
「霧島さんがいてくれて助かった。ありがとう」
「いいえ。逆にお邪魔になっていないですか。これからのことも含めて、千春さんと話したいことがあったのではありませんか?」
「情けないことに謝罪以外にないんだ。体裁を繕ってやさしい言葉をかけるのは、あらぬ期待を持たせてしまうだけだと思う。相手を傷つけるだけで、また同じことを繰り返してしまう。もう偽りの結婚はしない。君たちを見ていて心の底からそう思ったんだ」
「そうでしたか……」
「いつ東京に来るの?」
「三月いっぱいで退職して、四月には引っ越します」
「楽しみだな。鎌倉を案内するよ。桜がきれいだといいな」
その時、森村の背後に千春の気配がした。ものすごい殺気を感じ、慌てて振り返ると、千春はバッグの中からナイフを取り出して、刃先をこちらに向けた。完全に目が据わっていた。
「やっぱり、そういうことだったのね」
「えっ?」
森村は目を疑った。ナイフは彼ではなく、明らかにエリに向いていた。エリは訳が分からず完全に固まっていた。刹那、殺意のナイフはエリに向かって突進した。
「危ない!」
森村はとっさにエリへの進路に覆い被さった。ナイフは彼の脇腹をかすめた。千春は怒り狂い、再びナイフを振りかざすと、もう一度、エリを狙おうとした。森村は千春の腕を押さえようと前に出たが間に合わず、ナイフは森村の右大腿部に刺さった。エリはイスの背もたれ部分につかまり、後ろ側に座り込んでしまった。
森村は痛みに耐えながら、つとめて冷静に千春をなだめた。
「何でナイフなんか持っているんだよ。酔っているのか。何を血迷っている。霧島さんは恩人だろう。せっかく執行猶予がついたのに」
「何よ。その幸せそうな顔は!」
「言っている意味が分からない」
「私は、あなたに愛されたくて殺しまでした。霧島さんに取材させたのも、同情をひいて、執行猶予を勝ち取るためだった。見事にその通りになった。これで、ずっと、あなたを束縛できる。私とやり直すと言ってくれるって期待していたのに……」
森村は意外な言葉に驚きを隠せなかった。その本心を見抜けなかった。千春は同情はいらないと言っておきながら、やり直すことを望んでいたのだ。食事の間中、森村がそれを切り出すのをひたすら待っていたのだ。森村は「ごめん」と口を動かしかけたが、傷の激しい痛みで声にはならなかった。いや、偽りの謝罪など声にはしたくなかった。
何を謝る必要がある。どうして、いつも弱みや後ろめたさにつけ込まれ、脅迫や凶器によって気持ちを操作されるのだ。もう、うんざりだ。
森村には明らかに憤怒が浮かんだ。しかし、その感情はすぐに生ぬるい血となって体外に流れ出た。これも自業自得だとすぐに思い直した。
一方で、嫉妬に狂った千春の身勝手な主張は続けられた。
「今日、裁判所で見た時、あまりの変化に驚いたわよ。何なの? その希望に満ちた表情は。わずか二ヶ月の間に何があったというの。死ぬほどさびしい目をしていたあなたが、輝きを取り戻している。明らかに恋をしている。冗談じゃないわ。今度は霧島さんと結婚するつもりなのね」
「そんなわけないだろう」
「だって、あなたのところへ行くんでしょう。聞こえたわよ」
「勘違いだ。霧島さんは、十年間交際している彼と、今度、結婚するんだ。そのために彼の住む東京へ来るだけだ」
「えっ?」
「俺が、今さら恋をするわけがないだろう」
「嘘よ! ずっと、彼女のことばかり見ていたもの」
千春の言う通りだった。森村は確かにエリばかり見ていた。向こう側にいる光輝に想いを寄せていた。森村は声を絞り出した。
「どうしてこんなことをしてしまうんだよ。きちんと気持ちを言葉で伝えてくれたら、誤解だってすぐにわかったのに。感情にまかせて、人を傷つけて、何かが解決するのか?」
「邪魔な人間はいなくなればいいのよ。美緒ちゃんだって、可愛くなくて、邪魔だから殺したのよ」
「そんなのおかしいだろう。君は間違っている」
「正義ぶらないでよ。自分だって、美緒ちゃんがいなくなって清々していたくせに」
森村は美緒に対して愛情がなかったことを否定できなかった。しかし、エリに刃を向けたことは許せなかった。とばっちりもいいところだ。森村は反駁の声を荒げずに、それでいて決別を告げていた。
「俺は君を買い被っていたみたいだ。がっかりしたよ。今日で永遠にお別れだ。最後にひどい男をナイフで刺すことができて、気が済んだだろう。俺は君にこの罪を問う気はない。これが今までに対するせめてもの償いだ。今すぐ、目の前から消えてくれ。早く、早く立ち去ってくれ」
森村は千春をこの場から逃がそうとしたが、それは所詮無理なことだった。近くで目撃していた客が叫んでいた。
「人が刺されてる! 誰か来てくれ」
その声に周りがざわつきはじめていた。フロアに血が飛び散っている。いくつかの悲鳴が聞こえた。近くのウエイターが同僚に向かって「救急車を!」と叫んだ。
「大丈夫です。彼女は少し悪酔いをしただけです。通報しないで下さい」
森村の声はかき消された。店内は騒然となった。千春は駆けつけた店長によって、事務室の方へと連れていかれた。その間、千春の悲痛な叫びが店内に響いた。
「私は幸せになりたかったんじゃない! 今まで不幸だった分を取り返したかっただけよ」
それは孤独や苦難と闘ってきた人々への強烈なメッセージだった。現に理性のたがが外れ、半狂乱になっている千春を蔑視する者はいなかった。誰もがその言動に心を揺さぶられ、固唾を呑んだ。エリも同様だった。彼女は心の奥深くに眠っている自分なのかもしれない。
森村が痛みに耐えきれず、その場に崩れ落ちた。エリは這うように近づいてきて、彼の頬に手を当てた。エリの指先はとても冷たかった。森村はレイも冷たい手をしていたことを思い出していた。懐かしい手の感触だった。エリの涙がひと粒、ふた粒と彼の額に落ちた。それは温かく清らかで、森村は浄化されるような心地よさを感じていた。
「今、救急車がきます。我慢できますか?」
「ああ、大丈夫だよ。最後まで迷惑をかけて申し訳ない」
「森村さんのせいではありません。謝らないで下さい」
「ありがとう……」
肉体の痛みに反して、彼の心はとても満たされていた。光輝の最愛の人であるエリを守ることができた。それと同時に光輝と切っても切れない因縁ができた。この情実をきっかけに、エリの命を守った恩人、特別な友人という立場を手に入れたのだ。
また光輝に会える。
森村は恍惚となった。諦めかけた人生に微かに光が差した。太陽だ。待ちこがれた太陽だ。肉体に傷を負うことと引き替えに、新しい絆が生まれた。それは善人の仮面をかぶった裏切り行為でもあった。ペルソナは穏やかなよき友人だ。いつも親身に向き合い、手を差し伸べ、時に慰め、温かく励まし続ける。一方のシャドーは妖艶で挑発的な愛人だ。むさぼるようなキスを欲する。裏切りも抱懐していれば善、露呈すれば悪だ。決してエリに気づかれてはいけない。さりげなく彼の肉体に触れ、隙あらばぎりぎりの吐息を手に入れる。あの夜のように。森村はもどかしいはずの片恋に魅了され陶酔していた。光輝から注がれる友愛、恩愛を想像し、唇が痺れ赤く燃えた。
森村は、これからの日々、秘めたる想いを抱え、インモラルと闘っていくのだ。
エピローグ・霧島エリ
千春さんは再び現行犯逮捕された。森村さんは告訴の意思がないことを示すために、すぐに示談を成立させた。殺人未遂罪なのか、傷害罪なのか。起訴か否かの判断は検察に委ねられることとなった。森村さんは聴取に際して、ナイフの刃が私に向けられていたことを明言しなかった。私も彼の意思に従った。
その後、私は担当弁護士の大堂先生から前の裁判では伏せていたという新事実を聞かされた。千春さんが八歳の時、二歳だった妹が風呂場で溺死している。また十四歳の時には、母親が交際し同居していた男性が入浴中に心臓麻痺でやはり溺死している。ともに母親は不在だった。重なる近親者の不審な死は偶然なのだろうか。この事実を最初に知らされていたら、私は畏怖を覚え、千春さんからの依頼を受けなかっただろう。
私は取材が終わってからも、ずっと何かが引っかかったままだった。それが今、ようやくわかったような気がした。決定的なミスは、依頼人である千春さん本人を深く知ろうとしなかったことだ。生育環境などの背景をもっと明確にした上で向き合うべきだった。私は当初から千春さんを擁護する立場にいた。それは身勝手なエゴイズムに他ならない。私の著書に対して好意的な評価をしてくれた瞬間から、まるで理解者、同志であるかのような錯覚に陥った。自覚のないままに、彼女の殺人行為に同情的な背景と理由を見つけ出そうとしていた。それはかつて私が犯した殺人未遂の言い訳のようだった。愛する人を守るための犯行だったと結論づけたかった。彼女の味方になることで、罪の呵責から逃れようとしていた。私は自分自身のために走り回ったに過ぎなかった。
千春さんが森村さんを刺した直後に発した言葉が本心であるのだとしたら、私は有利な証言を集めるために、仕事の依頼をされたのだ。自らは語らずという謙虚さを演じ、周囲の情状酌量を求める声によって、端から執行猶予を勝ち取るつもりだった。そして、負い目を感じ続ける森村さんを精神的に束縛し永遠の愛を得ようとした。自身の欲望の達成のために邪魔な美緒ちゃんを殺した。そういう結論になる。しかし、それも本心だと言い切れるのだろうか。森村さんと訣別するために、嫌われて終わるために、悪女を演じたのかもしれない。いや、本当に娘が将来引き起こすかもしれない殺戮を悲観し、森村さんを守ろうとしたのかもしれない。自らの人生を壊しても、犯罪者になることすらいとわなかったと。結局はどちらも私の推測にすぎない。本質を見抜くなど不可能だ。千春さんの真実は、彼女の心の奥底、闇の中にある。
愛は時としてすれ違い、犯罪に形を変える。人間関係はいつも不均衡だ。ヒエラルキーとも違う優劣関係、共依存、相互支配がなされている。森村さんと妻三人の関係はまさにそこに集約される。対等な関係の中にこそ真実の愛が存在する。
森村さんにとって唯一対等な関係だったのは、レイさんだけだった。
森村さんは、あの後すぐに病院に運ばれ、幸いにも命に別状はなかった。腹部の傷は浅かったが、大腿部の傷は神経の一部が切断されていた。右足を多少引きずることになるかもしれないとのことだった。それを聞かされた時、私は涙が止まらなかった。誤解から生じた何とも悲しすぎる結末だった。森村さんは千春さんとの問題だから、気にしないでほしいと気遣ってくれた。しかし、私をかばったために傷を負ったことには違いなかった。私は森村さんの痛々しい足を見る度に罪悪感でいっぱいになった。私は何もしてあげることができない。その無力さに懊悩するしかなかった。数日後、森村さんは東京へ戻り、美香子さんの病院へ再入院した。しばらくは治療とリハビリが必要とのことだった。
光輝が、私に代わり、森村さんの病室へ顔を出してくれている。
千春さんに対する量刑は、殺人という事象を裁いたに過ぎなかった。人為的な事件が起きるには動機があり、背景がある。許されざる身勝手な言い分があり、一方で同情すべき情状がある。その理非の判断は全て客観的な印象と認識でしかない。決して犯罪者の人間性を裁いているわけではない。正常な意識と判断力を持ち合わせているのか。どのような感情を抱いているのか。心底から罪を悔いているのか。本当に改心の気持ちがあるのか。法律で罪は裁けても、人間の本質と心の中は裁けない。そんな社会のジレンマを、私は取材し文章にしたかったはずだった。しかし、何ひとつわかっていなかった。ライターとしての完全なる敗北だった。私は千春さんに罪を重ねさせただけだった。他人の人生に介入するという恐ろしさのようなものを感じた。
来月には東京で光輝との生活が始まる。このように曖昧な気持ちのまま流されていいのだろうか。彼の邪魔にならないだろうか。少しずつ荷造りをしながら、自問を繰り返している。
私は光輝と対等な関係なのだろうか。
了