『ラヴ・ストリート』【6】
家なき子シンドローム
今野佑香は、暗闇の中、テレビの映像を見て確信を抱いた。小学五年生にもなると想像力がたくましくなる。そこに少女特有の感傷が加わり、瞳の奥の涙がそれを突拍子もない仮想現実、ひいては妄想へといざなう。しかし、佑香がそう思う気持ちも理解できる。佑香は物心ついた時から自分の家族に違和感を感じていた。
私は病院で取り違えられたんだ。
テレビに映っていたのは、国会議員の妻としても有名な女優、新藤美由紀だった。佑香の母は同じ病院で同じ日に佑香を産んだことをよく自慢していた。新藤美由紀の実家が札幌で、里帰り出産をしたのだ。確かに彼女の横には同年代の少女が映っていた。フリルのついた可愛いワンピース。艶やかで真っ直ぐな黒髪にはレースのリボンがついている。優雅な微笑みを浮かべ、お姫様のように手を振っている。佑香は自分の顔の方が新藤美由紀と似ていると思った。あの目、鼻、口元。
私はあの少女と入れ替わってしまったんだ。
佑香は本気でそう思った。裏を返せば、母とはあまりに似ていない。父とも全く似ていない。顔がうんぬんもあるが、その価値観が違いすぎる。佑香は両親だと思いたくないほど二人を嫌悪していた。両親だけではない。祖父母、兄姉、家族全員が嫌いだった。彼らはエイリアンだ。いや、自分が別世界の人間なんだと思った。
今野家は代々、名の通った不良である。祖父母の代から、この家に住んでいることもあり、この界隈ではすこぶる評判が悪かった。祖父が近くで小さな自動車整備工場をしており、父は形式上そこに勤めていることになっていた。しかし、一日の大半を母とパチンコ店で過ごしていた。子供よりパチンコ。半ネグレクト。子供たち三人は幼い頃から野放し状態だった。兄と姉も早くから好き放題のやんちゃぶりを発揮し、あらゆる悪さをやってのけた。「また、今野兄妹にやられたあ」という台詞がよく聞かれた。中学生になってからは、二人とも生活指導室の常連だった。一連の非行は全て網羅している。
しかし、佑香だけは違った。家で静かに人形遊びや読書をして過ごした。勉強も進んでやった。先日の全国統一模試は、国語も算数も満点だった。その結果を見た母は鼻で笑った。
「あんた、うちの子じゃねえよ。どっかから拾われてきたんじゃねえの」
佑香は微笑みを返した。一見、優等生で真面目ないい子の佑香だが、ある意味、心がねじ曲がりつつあった。「うちの子じゃない」と言われて、傷つかずに安心して微笑んでしまうのだから。
そのとおりだもん。
テレビでは新藤美由紀の娘がまだ微笑んでいた。フリルのワンピース。真っ直ぐで艶のある黒髪。レースのリボン。
暗闇の中、佑香は自分の着ている服を見た。アニマルプリントのTシャツ。迷彩柄のパンツ。こんな服を着たくない。あの少女みたいな清楚なワンピースを着たい。余ったヘアカラーで無理矢理に髪を染めないで欲しい。茶髪でバサバサ。
今もこうして家中の電気を消して居留守を強要されている。両親が給食費を滞納しているからだ。いや、払う気がないのだ。恥ずかしくて学校へ行きたくない。担任の河野先生と目を合わすことができない。
カーテンの隙間から外の様子をうかがっていた母がこちらを向き、般若の面のような顔で言った。
「あんたたち、電気をつけてもいいよ。帰ったみたいだから。それにしても今日は随分とねばったよねえ」
「そんなことをしてる暇があったら、もっと教育のためになることをやれってよ」
父が偉そうに腕を組みおどけて笑った。母親が母親なら、父親も父親である。
もう少しの辛抱だ。あの新藤美由紀、本当の母親が迎えにくる。父親は国会議員だ。私は二人の間に立ち、お姫様のように手を振る。佑香は最高のハッピーエンドを夢をみて、現実逃避するしかなかった。
まさに「家なき子」の世界だ。自分はこの家の本当の子供ではない。事情があって今ここにいるだけだ。あらゆる困難を乗り越えれば最後には本当の親が現れる。その親はすばらしい人格者で、あふれんばかりの愛情で抱きしめてくれる。幸せが待っている。世の中にそんなことを夢みている子供たちがどれくらいいるのだろう。
翌日、教室でも佑香は、ぼんやりと家なき子状態にいた。新藤美由紀が母親であることを想像した。そうして休み時間をつぶした。遊ぶ相手もいなかった。
五年生になってから、佑香の友達は一人だけになった。その子も学校を休みがちで、結局、ひとりぽつんと窓から校庭を見ている。低学年のうちは全く影響しなかった噂や悪評、大人の意志が、高学年になると、もろに反映してくる。
昨年、母は何を思ったのか、PTAの役員を引き受けてきた。しかし、校内清掃や校外ボランティアなど何一つ活動に参加しなかった。他の役員の人も諦めて次第に声を掛けなくなった。すると母は、最後に担任の先生に送るプレゼントを買う時に相談がなかったと、佑香の親友だった桃ちゃんの母親に食ってかかった。呼びつけると汚い言葉で罵り、他の役員の前でつるし上げ土下座をさせた。母はこのことを武勇伝のように佑香に話した。
桃ちゃんは佑香のもとを去っていった。母親に佑香とはつき合うなと言われたのだろう。
察しがついた。少し前から兄や姉の噂も広まっていた。覚悟はしていた。いや、それ以前に入学した時から予感はあった。今野家の運動会での素行の悪さは、目に余るものがあった。こうなるのは時間の問題だった。
担任の河野先生だけは、佑香の気持ちを理解してくれていた。いや、憐憫の情に近いのかもしれないが。佑香は給食費の滞納を自分で何とかしようと、先月、お年玉と小遣いの小銭をかき集め、親には内緒で一ヶ月分をどうにか支払った。河野先生は小銭を見てすぐに気がついた。
「お小遣いがなくなってもいいの? 大丈夫?」
佑香の瞳から涙がこぼれた。つらい気持ちを分かってくれる人がいる。だから佑香は絶対に学校を休まない。勉強もがんばる。テストは百点をとる。未来の自分のために。
佑香は学校が終わると校門を反対側に曲がり、遠回りをして帰った。学校にもいたくないが、家にも帰りたくない。住宅街の小道をあみだくじのように、角に当たる度にくねくねと曲がり時間をつぶした。五つ目の角を曲がるとその先は袋小路になっていて、白い洋風の家に突き当たった。
ゴール。佑香は、そう思うとぷっと吹き出した。その家の庭には、秋だというのにまだ花が咲き乱れていた。その中央にはきれいに刈り込まれた芝が広がり、白いテーブルとチェアが置かれていた。家なき子が、ようやくたどり着いた我が家のようだった。幸せに暮らす本当の家。佑香はしばし見とれていた。
中から突然声がした。
「お花が好きなのね」
「はいっ」
佑香は驚き、声の方を見た。この家の夫人、聡美だった。あの新藤美由紀に雰囲気が似ている。それだけで佑香は真っ赤になった。
聡美はゆっくりと佑香に近づいてきた。長くふんわりと巻いた髪の毛。パステルピンクのアンサンブルセーターにグレーのスカート。パールのイヤリングをしている。
「この花たちは、もうすぐ散ってしまうの。よかったら差し上げましょうか?」
「はいっ」
「じゃあ、今、用意するわね。庭へどうぞ。あの椅子に座って待っていてね」
聡美は門の鉄扉を開けて手招きをした。
佑香は慌てて表札を見た。「五十嵐」と書かれていた。
「お邪魔します」
「まあ、お行儀がいいのね。女の子って可愛いわね」
生まれて初めて可愛いと言われ、佑香はさらに赤くなった。聡美からは花のようないい香りがした。母の煙草の匂いとは全く違う。佑香は緊張して両足をきちんと揃え、白いチェアに座った。
聡美は、ピンクの小菊のスプレーマム、黄色いウインターコスモス、紫色のリンドウと可愛らしい花を切り集めた。そして、庭の隅の木箱からハロッズのジャムの空瓶を持ってくるとテーブルに置き、花をアレンジしながら挿していった。聡美の憂いある横顔が、佑香の憧れを一層強いものにした。佑香は聡美と美しい花々を交互に眺めては、うっとりした。