『ラヴ・ストリート』【44】
シークレット・マリッジ
夏目美代子は、『カサブランカ』の前に立ち、懐かしそうに外観を眺めた。何も変わっていなかった。時が止まっているようだった。温かみのあるレンガの壁。寒風にさらされた木の看板。『喫茶 カサブランカ』と昔の姿のまま明かりを灯す古い電光看板。木製の格子デザインの硝子ドア。向こうから、良介が笑顔で出てきそうな気がした。
啓太郎が、美代子の顔をのぞき込んだ。
「どう? 店の様子は変わった?」
「全然。昔のままだわ」
啓太郎がドアを開けた。ドアベルがちりりんと鳴った。この音も昔のままだった。美代子は何一つ変わっていない風景を目の当たりにし、三十五年という月日は長いようで実はあっという間だったような気がした。不思議な感覚だった。
「いらっしゃいませ」
マスターの保坂だった。六十半ばになっただろうか。白髪に白い髭。昔からおしゃれでダンディな人だった。
「こんにちは」
啓太郎が前で挨拶をした。
「ご無沙汰しています」
美代子は啓太郎の後ろから、少し気後れしながら顔を出し、深々と頭を下げた。感動や懐かしさよりも、老境の入り口にいるという恥ずかしさが先に立った。病気のせいで顔色も悪い。頬がこけて貧相に見える。しかも、若さの絶頂しか知らない保坂だ。いくつになっても自分は女なのだと思った。
「美代子ちゃん。待ってたよ」
保坂は五十半ばの女をちゃんづけで呼んだ。そして、啓太郎の顔を見た。「良介の息子だったんだね。一ヶ月くらい前に初めて顔を見た時、似ているなあと、どきっとしてね」
「そうなんですか?」
啓太郎は嬉しそうな顔をした。良介の存在が分かってからも、写真を見ていなかった。美代子は出産前に、啓太郎の目に触れないようにと、写真の全てを保坂に預けていたのだった。
「その切れ長の目、ふとした仕種、背の高いところ。いちばん驚いたのは声だよ。まるで、良介が喋っているみたいだ。ねえ、美代子ちゃん」
「ええ」
美代子は即答した。啓太郎の声は確かに良介に似ていた。目を閉じて聞くと、錯覚を起こす。
「さあ、どうぞ。好きだった窓際の席へ」
「ありがとうございます」
美代子は、体調の悪さを悟られないように、軽快な足取りで歩いて席に着いた。
「心の整理がついたら、必ず来ると思っていたよ」
「三十五年も、かかってしまいました」
「預かっていた良介の写真。今、持ってくるよ」
「すみません」
当時と変わらぬ場所に、『カサブランカ』の映画ポスターが貼ってあった。保坂は、ジョン・レノンのレコード『ジョンの魂』をかけた。青春の日々が甦ってきた。この曲を聴きながら恋に落ちた。涙をこらえた美代子の両目は、ウサギのように一瞬にして赤くなった。
*
夏目啓太郎は、美代子から、マスターの保坂が父親の従兄弟だと聞いて驚いた。保坂を心の中で勝手に老賢人と崇めていたが、実は血縁関係にあったのだ。美代子は、啓太郎を身ごもったことを一切、良介の両親に知らせなかった。事件で憔悴しているところに、追い打ちをかけてはいけない。迷惑をかけるだけだと思ったのだ。唯一、啓太郎の存在を知っていたのが、保坂だった。保坂と美代子は、ずっと年賀状だけで近況をやりとりしていた。そして、三十五年ぶりに再会を果たした。封印されていた良介の写真を受け取るために。
啓太郎は写真を待つ間、子供のようにどきどきしていた。ここ数日、美代子から、良介のことを全て聞いた。出会いから事件までの出来事。その性格、人柄、容姿に至るまで話は尽きることがなかった。事件に巻き込まれなかったら、ごく平凡な普通の家族だっただろう。父がいて、母がいて、弟妹もおそらく生まれていた。啓太郎は、そんな楽しい想像を初めてした。右横に座っている美代子は、窓からセイジョの校舎を懐かしそうに眺めている。昔を思い出しているのか、時々、ふっと微笑んだ。
保坂が古いアルバムを一冊持ってきた。
「お待たせしました。どうぞご覧下さい」
「ありがとうございます」
啓太郎はアルバムを大事に両手で受け取った。重かった。三十五年分の重みがあった。『ああ無情』の本ではなくて本物の写真だ。啓太郎は、一度、美代子の顔を見てから、二人の間に置いて、ゆっくりと開いた。
大学生の父だ! かっこいいじゃないか。笑っている。隣の母も笑っている。
写真はカラーだったが、随分と色あせていた。それでも、二人の後ろに広がる青い空、濃緑の大きなポプラ、良介が着ている白いボタンダウンのシャツ、美代子のチェックのワンピース、どの色も鮮やかに映った。古い映画の名場面集のようだった。啓太郎より遙かに年下の父と母。アルバムの中で繰り広げられるラヴ・ストーリー。確かに二人は、この時代を生きたのだ。そして、自分が生まれた。
隣で美代子がハンカチで目頭を押さえていた。
「これから田中さんに会うのに、泣いたら顔がぐちゃぐちゃになっちゃうわね」
「泣いてもいいじゃない。久しぶりにお父さんと会ったんだから」
「そうね」
父はアメリカにいる。どこかで生きている。会いに行きたい。母にはもうそんな時間が残されていないのか。どうしてあげることもできないのか。啓太郎は写真の中で笑う父に問いかけた。
大陸も、海洋も、時間も、過去も、全てを飛び越えて会いに来て下さい。
*
五十嵐聡美は、店の前で手袋を脱ぐとコートのポケットに入れた。そして、手で髪の毛を二回撫で整えてからドアを開けた。ドアベルがちりりんと鳴った。マスターの保坂は聡美の顔を見ると「いらっしゃってますよ」と言うように席の方を向いた。
啓太郎が手を挙げた。美代子がにっこりと笑って聡美を見ている。
聡美は慌ててコートを脱ぐと、緊張して席に近づいた。そして、美代子に頭を下げた。
「はじめまして。田中です」
「母の美代子です。どうぞ座って下さい」
「はい。失礼します」
聡美は相当に緊張していたが、美代子の笑顔を見てほっとした。何と可愛らしくて優しい笑顔だろう。女手一つで啓太郎を育ててきたという、たくましさみたいなものが感じられない。ふわっとしたイメージだった。病魔と闘っているふうにも全然見えなかった。聡美は小さく深呼吸をして啓太郎の向かいの席に座った。そして、啓太郎が口火を切るのを待った。
「改めて、こちらが田中聡美さん。結婚することにしたから」
「よろしくお願いします」
「おめでとう。聡美さん」
「ありがとうございます」
「結婚式はいつ?」
「はっきり決めてないけど、お母さんが次に退院したら、すぐに」
「じゃあ、早くよくなって退院しないとね」
「そうだよ」
聡美はそのやりとりをにこやかに見ていた。急なセッティングだったが、美代子が希望を口にしたのを見て、素直に嬉しかった。しかし、同時に罪悪感もあった。嘘をついている。田中ではなく五十嵐聡美だ。しかし、啓太郎と愛し合っていることに偽りはない。真実の姿だ。自分に何度も言い聞かせた。
「きれいな方ね。しかも、こんなに線が細いのにガッツがあるのよね」
「えっ?」
「啓太郎が、聡美さんのことを好きになった理由を聞いたわよ」
「あっ・・・」
啓太郎が焦って聡美を見た。
「小学校の時、智樹くんの盾になって、いじめっ子から守ったんですって?」
聡美は意外な話が出てきたので、すぐに返答できなかった。ものすごい勢いで記憶のページをバーッとめくった。しかし、智樹をいじめっ子から守ったという記憶はない。
美代子はさらに続けた。
「あとは、智樹くんが発表できるように、一生懸命勉強を教えたって」
「・・・小川くんはどこか放っておけない感じでしたので」
聡美は苦笑いで答えた。それよりも、智樹が啓太郎にいろいろと話していたことの方に驚いた。
「啓太郎、すごい女子だと思ったらしいわよ」
「えっ?」
聡美は啓太郎をぱっと見た。啓太郎は照れまくっている。
「それからずっと好きだったんですって。初恋らしいわ」
「初めて聞きました」
聡美は少し赤くなった。啓太郎が小学校の時から自分を見ていた。好きでいてくれたということが信じられなかった。五年間もつき合ったのに、結局、肝心なことは伝え合わないできたのかもしれない。伝えていれば、もっと深い信頼関係が築けたのかもしれなかった。
「聡美さんは、どうして啓太郎のことが好きになったの?」
「ちょっ、お母さんっ」
啓太郎は困っている。
「いいじゃない。ねえ」
美代子はふふと可愛らしく笑った。
聡美はこれが話す最後のチャンスだと思った。伝えておこうと思った。
「中学二年の時なんですけど、万引きした同級生の女子の頬を張り飛ばして、叱りつけたって聞いたんです」
「えーっ。ちょっと、待ってくれよ」
啓太郎は焦って両手で話を制止した。
美代子は飄々とした表情で、その制止を簡単に振り切った。
「あー、あれねえ。そうだったの。謎が解けたわ」
「あれねえって、何でお母さんが知ってんだよ」
「見たもの」
「はあ?」
「家の窓から外を見てたら、女の子と帰って来るのが見えて。啓太郎が何か怒鳴ったと思ったら、ピシッて」
「だからあ」
「殴ると思ったら、すんでの所で止めたの」
「えーっ、殴ってないんですか?」
聡美は思わず啓太郎の顔を見た。
「ええ。一センチ手前で止めてたわ」
「そんな噂を本気にしないでくれよ。俺が女の子を殴るわけないだろう」
聡美はとたんに可笑しくなってぷっと吹いた。ずっと、その武勇伝を信じていた。
「きっと悪いことを悪いって、きちんと叱れる男子ってかっこいいと思ったんです」
「なるほどねえ」
美代子が納得したような顔をして啓太郎を見た。
啓太郎は照れながらも胸を張った。
「だから、つまり、かっこいいってことだよ」
「自分で言ってるわ」
美代子がまた可愛らしく笑った。
ユーモアがあって会話が楽しい母親。それに面白可笑しく返す息子。側にいる聡美の方が癒されて笑顔になっていた。
こんなふうに誰かと笑いながら話をするのは何年ぶりだろう。生きてさえいれば、いつかどこかで啓太郎とすれ違うと思っていた。いや、それだけを夢みて生きてきたと言った方が正しいだろう。そして、啓太郎は自ら捜し出して会いに来てくれた。運命というのはすごい。夢にみた以上の幸せな展開を見せてくれる。今でも信じられない。目の前で啓太郎は笑っている。昔と全然変わっていない。やり直せるかもしれない。
神様はいた。寂しすぎた私を救って下さったのだ。
聡美は、あまりの幸せな時間に現実を忘れ溺れていった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?