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『僕はCに分類されている』第六章

 第六章 甘受
 
2003年、高校二年生の夏、ボクは長距離遠足の最中にUFOにさらわれた。いや、自らの意志で失踪した。それまでのボクは、ごく普通の、いや、かなり幸せな高校生だった。家族から溺愛され、友達にも恵まれ、女の子には相当もてた。成績はいつも上位であったため、多少羽目を外しても先生方からは大目に見てもらっていた気がする。そんな満ち足りていたボクに足りないものは唯一恋愛だった。その数年前、ボクが病気で死を覚悟した時に痛感したのは、誰かを強烈に愛したいということだった。それなのに、その後も誰かに恋いこがれる気持ちにはならなかった。もしかすると、ボクにはそういう感情がないのではないかとさえ思いはじめていた。そんな時に、新任の女性教師がやってきた。
 水原葉子。
 大学を卒業したばかりの彼女は未完成な大人の女性で、ものすごい美人というわけではないが、とても繊細で透明感があった。時々垣間見せる寂しげな表情が胸をぎゅっと締めつけた。そもそも教師ということ自体が神秘的であり魅惑的だった。それは女神やニンフたちが描かれている画集を見た時の感覚に似ている。思わず手を伸ばしたくなるような身近な誘惑でありながら、実際は遠い理想の世界なのだ。先生との出会いで、ボクの中に眠っていた雄の部分が覚醒した。リビドーが体内を全速力で波打つように駆け巡った。
 始業式が終わった放課後、ボクは教室で先生が来るのを待った。自分の気持ちに正直で、思い立ったらすぐに行動に移す。それはボクのいいところであり、悪いところでもある。とにかく優等生的に接し、お気に入りの生徒になることから始めることにした。たぶん、異性に好かれるはお手のものだ。ボクはいつもちやほやされてきた。話しかける女子が皆、頬を染めるの知っている。そのしおらしい様子を見ていると、いたずら心いっぱいのエロスがひょっこりと顔を出す。相手から一方的に好かれたくて、エロスはすぐさま金の矢を放つ。恋心をくすぐるような意味深長な言葉をはく。思わせぶりな態度をとる。ずるいと言えばずるいが、いつも成功を収めてきた。しかし、今回の相手は難攻不落の女性教師だ。しかも、清純で真面目そうなタイプときている。そうそう簡単にはいかない。
 葉子先生が教室へやってくると、ボクはさして文学に興味がないのにもかかわらず、作家を志していると嘘を言って文芸部の顧問を頼んだ。もちろん、先生は教師としてすぐに快諾してくれた。これはあくまで第一段階であり、本当に欲しているのはボク個人に対する好意、愛情だ。エロスはいつものように現れ、先生に向けて金の矢を乱射してくれた。しかし、それはものの見事に跳ね返され、何とボク自身に刺さってしまった。それはそれでいい。ボクは望んだとおりの強烈な恋に落ちた。
 ボクは文芸部を発足させるために、友達に頼み込み、形だけの部員になってもらった。もちろん、他の部との掛け持ちをする幽霊部員ばかりを選択したため、部活に現れるはずはない。先生と二人だけの活動がボクの目論見だった。放課後に先生と毎日顔を合わせることができる。無条件であの寂しげな横顔を独占できる。歪んだ口実でも構わなかった。ボクは先生と時間を共有したかった。少しでもいいから話がしたかった。先生のことが知りたかった。何よりも片想いは気が楽だった。ボクには骨髄移植の後遺症である不妊の懸念があった。十代の今はさほど重要なことではないが、この先、ハンディキャップとして、いやコンプレックスとしてのしかかってくるだろう。近い将来どのように乗り越えていいのかわからない。だからこそ今は、不安と葛藤をする必要のない一方的な想いを選択した。それが気持ちに拍車を掛けた。とにかくボクは放課後が待ちきれなかった。
 図書室の奥、窓側の席がボクらの場所だった。
 ボクはお気に入りの本を読みながら先生が来るのを待つ。先生はあれこれと雑務が多く、なかなか時間通りには来ない。顔を出さない日もある。ボクはドアが開く度にどきどきする。がっかりする。勝手な夢想にふける。窓から差し込む夕日に慰められながら、待たされる感じがたまらなくよかった。最初のうちは先生の好きな小説の話を聞かせてもらったりと、柔らかな時間を過ごした。一端のデート気分だった。
 葉子先生が初日に話してくれたのは、卒論のテーマにも選んだという『源氏物語』についてだった。
「中学の先生の影響で興味を持ったんです。古典文学でありながら、現代にも通じる人間模様と複雑な心理描写。そこに時代を超越した甘美さと、カタルシスを感じずにはいられないんです。作者である紫式部は、近未来から平安時代へタイムスリップしていった人のように、錯覚する時があります」
 ボクは先生の人生観や恋愛観を垣間見たようで、しばし恍惚となった。皆は真面目一方で授業をする先生の姿しか知らない。ボクは部員でいることの役得感に相当満足していた。
 しかし、こんな幸せなひとときは続かなかった。しばらくすると先生から小説を執筆することを提案された。丁寧な個別指導から、いきなり自習を言いつけられたような落差があった。ボクはゆっくりと話ができる最後のチャンスと思い、小説のテーマにこじつけて恋人が不妊だったらどうするか、という質問を先生に投げかけた。教育者的な模範解答とも思えたが、不妊と恋愛は関係ないと言い切った先生の言葉がうれしくて、ボクは家に帰ってからベッドにもぐり身悶えした。気持ちはどんどん高揚し、卒業したら本気で先生に告白しようとまで考えた。そして、二人だけの時間はわずか数週間で終わった。ボクがいつも図書館にいることが人づてに伝わり、図書館へ様子を見に来る女子が日に日に増えた。そして、文芸部の存在を知るやいなや、入部したいと申し出る者が次々と現れ、部員はあっという間に十五人になってしまった。先生と二人になることができる口実を失ったボクは頬をふくらませ、愚痴のような小説を大学ノートに書き始めた。『ユウスケの日記』だった。一行目で十四歳だったユウスケは、二行目でいきなり十七歳になっていた。死を覚悟した少年は病気を克服し、恋をしていた。それでも、ここまでのボクは微笑ましいくらい純情な高校生だった。しかし、このわずか二ヶ月後、ボクは正反対の人間に変貌する。もともと人間は内面にそういう非情なる魂を隠し持っているのかもしれない。忌まわしい出来事をきっかけに、顔面に固く貼りついていたペルソナが、一気に剥がれ落ちた。
       *
 一学期の定期テストが終わった日の夕方だった。親友の啓太が明らかに思い悩んでいる顔をして訪ねてきた。ボクは二階にある自分の部屋へ招き入れた。啓太はバッグから真新しい野球のグローブを取り出した。それは以前、ボクが父から誕生日にもらったグローブだった。
「これ、前に佑介が入院する時に預かっていたグローブ」
「そんなのすっかり忘れてたよ」
「あの時、深刻な顔してたけど、何か意味があったんだろう?」
「万が一の時は、形見に使ってほしいなって」
「やっぱり、大変な病気だったんだな」
「白血病。実は今でも、薬は飲み続けているんだ」
「そんな大事なこと、三年も経ってから言うなよ」
「今だから言えるんだよ」
「そうか……」
 啓太の顔はこの上なく寂しそうだった。「このグローブを返そうと思って」
「よかったら使ってくれよ。体力的にもう部活はできないから」
「俺も野球ができなくなる」
「まさか野球部を辞めるのか?」
「辞めざるおえない。佑介の友達もな」
「意味がよく分からない」
 啓太は下を向き肩を震わせた。
「海斗を殺す」
「殺す?」
「ああ」
 中尾海斗というのは隣のF組の生徒で、啓太と同じ野球部だった。
「何があったんだよ」
 啓太は目に涙を浮かべていた。
「さっき、真美に会ってきた。海斗のヤツ、真美を騙して・・・レイプしたんだ」
 ボクは一瞬耳を疑った。確かに真美はゴールデンウィーク後から、体調を崩したという理由で突然学校へ来なくなっていた。その本当の理由にボクは愕然とし、それと同時に激しい怒りが込み上げてきた。
「何て酷いことを」
「海斗のヤツ、俺も遊びくると真美を油断させて自宅に誘ったんだ・・・卑劣なヤツだよ」
 ボクは海斗の顔を思い浮かべた。別の中学出身で隣のクラスということもあり、ボクはほとんど話をしたことがなかった。いわゆる目立つタイプではなく、その存在はかなり薄かった。まさか内面にそんな恐ろしい顔を隠し持っているなどとは思いもしなかった。ボクらが気がつかなかったのだから、真美に警戒心がなかったのは当然だ。ましてや、啓太も一緒だと嘘を言われれば、安心して遊びに行くだろう。
「本当に海斗を殺す気なのか」 
「真美を絶望から救い出すにはそれ以外にない・・・」
 啓太はずっと真美のことが好きだった。だから、絶対に許せないという気持ちは痛いほどわかる。しかし、殺害という手段を選択することには、当然のように賛同できなかった。結果として、啓太が犯罪者になってしまっては、真美をさらに傷つけることになる。
「啓太が警察に捕まったら、真美の側にいてあげられなくなるだろう」
「でも、海斗が生きている限り、真美はずっと恐怖に支配され続ける。部屋から出られない。時には自分を責めて、死にたいと思いながら生きていく。時が解決するなんて部外者の詭弁だと思わないか」
 部外者という言葉が胸に刺さった。ボクらは幼稚園からの友達だ。真美は男勝りで明るく、元気すぎるくらいの女の子だった。その彼女が絶望の淵をさまよっている。
「啓太の気持ちはわかった。少し考える時間がほしい。だから、一時的な感情で、絶対に早まったことをしないって約束してくれないか」
「わかった」
 啓太はボクに話したことで、少し冷静さを取り戻していた。「佑介、ごめんな。いやなことに巻き込んで」
「何言ってるんだよ。真美はボクにとっても大切な友達だよ」
 それは偽りのない気持ちだった。
 その後、啓太が帰ってから、ボクは海斗の卑劣な行為について改めて考えた。その状況を想像する度に吐き気がした。確かに人間には性的欲求があるが、その対極に理性もある。理性は人間だけが有する特権だ。いや、理性があるから人間なのだ。だから海斗はもはや本能のままにしか行動できないだだの獣だ。しかも、理性はないくせに狡猾さは持っている。そんな人間の顔をした下劣な獣は、恐ろしいことに世界中に生息している。不幸な性犯罪は後を絶たない。突然、暗黒の森に引きずり込まれた女性たちは常にその気配に怯えながら、出口の見えない樹海を裸足でさまよい続ける。声を上げることもできない。こんなに不条理なことはない。真美を救う方法はないのだろうか。
 その晩、ボクは戦慄がはしる夢をみた。海斗が放課後の教室で牙をむいていた。たくさんの女子生徒が血に染まり床に倒れている。そして、今まさに海斗は薄気味悪い笑みを浮かべ、葉子先生を追い回していた。ボクはドアの小窓からその様子を見ているが、体が動かない。声が出ない。先生がドアを開け、ボクの元へと逃げてきてほしいとひたすら願っていた。しかし、先生はボクの存在には全く気がつかず、目の前の恐怖から逃げるのに必死だった。いつの間にか教室は鬱蒼とした森へと変わっていた。教室という狭い空間から、いたる所に死角が存在する広大な自然の中に放り出され、ボクの不安は果てしなく増幅していた。そして、緊迫する中、ざわざわという音がする方へ目を向けると、先生が海斗に追われ、逃げている姿をとらえることができた。ボクは重い体を引きずるようにその後を追った。しかし、すぐに二人の姿は見えなくなった。どれくらいの間、ボクは森の中をさまよっていただろうか。ボクが疲れ果てて、その場に座り込んだ瞬間、カラスのけたたましい鳴き声が聞こえた。そちらの方向へ目をやると、ぐったりと横たわる葉子先生の姿があった。周りに咲いていた白い花が見る見る赤色に染まっていった。何という悲劇だ。最愛の人を守れなかった。ボクは狂ったように頭を掻きむしり叫んだ。わめき続けた。法と秩序はどこにあるのだ。ボクの悲鳴にも似た叫びは静かな森をつんざいた。
 ようやく悪夢から覚めた時、ボクは泣いていた。啓太と同じ気持ちだった。海斗に対する激しい憎悪と確かな殺意があった。理性を持たない獣を野放しにしておくことはできない。第二、第三の被害者を出す前に抹殺する必要がある。悪は絶つ。ボクは正義という名を借りた魔物に取り憑かれていた。
 その日、ボクは学校に着くと、すぐに啓太を屋上に呼び出した。そして、雲ひとつない快晴の下、ボクが出した結論をはっきりと伝えた。
「海斗の処刑に同意する」
「処刑か。ふさわしい言い方だ。ありがとう、佑介・・・」
「そのかわり、絶対に一人で実行しないでほしい。必ずボクが立ち会う。いや、協力する。だから、もう少しだけ待ってほしい。学祭が終わるまでには手段を考え出すから」
「わかった」
 啓太はボクの言葉に力強くうなずいたが肩が震えていた。一方のボクも正直混迷していた。犯罪者を葬るために、啓太が犯罪者になるという矛盾が生じる。もちろん、共犯となるであろうボクも同様だ。家族をも巻き込み、これからの人生を棒に振ることになる。愛する人と会えなくなる。そんな最中、ボク宛に匿名の手紙が届いた。
「突然のお便りをお許しください。私はある医療機関に精通する者です。その病院に、良介という名の少年が入院しています。彼はあなたのドナーです。かつてあなたの病室にとてもよく似た少年が訪れたことを覚えていないでしょうか。あれから三年、彼はあなたと同じ病気を患い、ドナーが必要な状態です。今度はあなたの力をお借りしたいのです。よろしけれぱ、下記アドレスまでご連絡ください。なお、この手紙はご両親に内緒でお送りしています。ぜひ、ご協力をお願いします。」
 
何とも唐突な手紙だった。正直、手紙の匿名性には疑問を感じたが、病室に来たボクによく似た少年という点には妙な信憑性があった。三年前、危篤状態に陥り、熱に浮かされて見た自分は、幻影でもドッペルゲンガーでもなく、この世に現存していたボクのドナーだったのだろうか。もしも、この手紙が事実だとすると、それだけ緊急性を要しているということになる。ボクは騙されるのを覚悟で、書かれていたアドレスへメールをした。すると、野本と名乗る人物からすぐに返信が来た。
「ご連絡ありがとうございます。それでは重要ファイルを添付してお送りします。内容をよくお読みいただいた上で最終的にドナーとして、ご協力をくださるか否かを、ご決断願います。なお、どちらを選択されましても、知り得た内容を一切他言しないこと、ファイルおよびメールの削除を確実にしていただくようお願いします。ドナーに同意していただける場合は再度、ご連絡をください。」
 
ボクは武者震いがした。ドナーになるだけのことなのに、なぜか重要ファイルの閲覧と確実な削除だ。そもそも良介という少年がボクのドナーだとしたら、両親はその存在を知っているはずだ。なぜ今回の件はボク個人相手に、しかもこのように厳秘で行われているのだろうか。一旦、足を踏み入れたが最後、二度とそこからは抜け出せないような恐怖を感じた。今までのボクならばここで後込みをしていただろう。しかし、今は海斗の殺害を実行しようとしている残酷な人間だ。殺人よりも恐ろしい現実など有り得ない。そう考えると自然に手が添付されている重要ファイルを開いた。そこにはコンルチプという村で行われていることのすべてが記されていた。その驚愕の内容は、ボクの人生観、倫理観を一変させた。理想を隠れ蓑にした歪んだユートピアがそこにあった。しかし、その幽閉された小さな世界が、希望、野望、欲望、すべてを満足させてくれる気がした。
 ボクは文芸部員になってはじめて本気で執筆をした。海斗の殺害は失敗が許されない。決心が揺るがないためにも完璧な犯行計画が必要だった。それは『ユウスケの日記』の本編として書かれた。第一章はボクと海斗の失踪。第二章は分身との融合。第三章は医療技術を駆使した野望だ。本当に作家志望だったのではないかと思うほどの情熱で第一章を一気に書き上げた。
 ボクと啓太は連日のように海斗への処刑について綿密な打ち合わせを重ねた。そして、学校祭のフィナーレであるキャンプファイヤーの場で決起集会をした。陽の沈んだ校庭の真ん中では、生徒たちが輪を作り無邪気に盛り上がっていた。標的である海斗もその輪の中にぽつんといた。ボクらはその姿を視界の隅にとどめながら、中央で大きく舞い上がる炎を見つめていた。ぱちぱちと音をたてて燃えさかる炎は我々の怒りのようでもあり、凄絶な処刑を予感させるものでもあった。いよいよ決行までのカウントダウンが始まった。魔物に取り憑かれてしまったボクが作り上げたとてつもない物語は、一週間後に行われる長距離遠足を舞台に現実へと姿を変える。ボクと啓太は、海斗にジンギスカンパーティーの計画を持ちかけて、スタートから全速力で半分を走るという約束をした。準備は整った。
 そして、いよいよ長距離遠足の日をむかえた。朝、緊張の中で目覚めたボクは真っ先にカーテンを開けて空を見上げた。天は快晴を選択した。もしも、どしゃぶりで遠足が中止になっていたら、その後のボクの人生は変わっていたのだろうか。
 ボクは階下へ下りていき、両親と最後の朝食をとった。二人はボクにとって理想の両親だった。たぶん、ボクも理想の息子だったはずだ。二人の愛情を裏切らなかった。いつもと変わりない初夏の朝。きらきらと輝く美しい朝日が差し込んでいる。白い窓枠がフォトフレームのような演出をした。そこに収まっている写真は、毎日食事をしながら当たり前のように眺めていたオホーツクの海だ。ボクはこの景色を懐かしく思い出すことだろう。トーストとハムエッグをたいらげ、甘すぎるミルクティーを飲み干すと、ボクはとびきりの笑顔で母親に礼を言った。
「ごちそうさま。美味しかった」
 母は目を細めてふふと笑った。父は真面目な顔をして新聞を読んでいた。ボクは父にも無言で礼を言った。不思議と感傷的にはならなかった。不安になるほどの想像力を持ち合わせていなかったのだ。所詮、十七歳は子供の部類に入る。時として、子供は意味も分からず残酷なことを平気でやってのける。事の重大さを知るのはずっと後のことなのだ。
 ボクはいつもより一時間早く家を出た。数歩歩いたところで、やはり生家への惜別の念にかられた。その外観を目に焼きつけたくて後ろを振り返ろうとした時、啓太の姿が目に入った。とっさに女々しいところを見せられないと思った。ボクは僅かな未練と訣別するようにしっかりと前を向き、大きな足音を立てて啓太の所まで走った。
「おはよう、啓太」
「おう」
 ボクらは集合場所まで差し障りのない馬鹿げた話をした。無理をして笑い合った。啓太はいちばん大切な友達だった。幼い時からいつも一緒だった。
 スタート地点には全学年の男子生徒が集まっていた。伝統行事とはいえ決して評判はよくない。フルマラソンと同じ四十キロを走ることは相当な体力的負担であり、しかも早起きを強いられ、生徒たちのほとんどは不機嫌だ。そんなざわめきと緊張の中、予定どおりの七時に遠足はスタートした。ボクらは陸上部の連中に引けを取らないほどのスピードで走った。野球では俊足を自負していたボクだったが、運動不足がひびき、五キロ過ぎからはかなりペースダウンした。それでも何とか啓太と併走し続けた。海斗は少し遅れているようだった。
 十キロ地点に差し掛かった時、沿道から声援をおくる葉子先生を見つけた。苦しさに顔を歪めていたボクは一気に口角が緩んだ。速度をゆるめて先生と言葉を交わしたかった。
 本当に好きだった。好きで好きでたまらなかった。
 ボクは昨日の午後、先生の髪に触れるという願ってもない幸運の機会を得た。手櫛ですいた柔らかな感触と、ほのかなシャンプーの香りがよみがえってきた。思い切り抱きしめたかった。時を無理矢理にでも止めたかった。ここではじめて感傷的になり、うっすらと涙が浮かんだ。ボクは先生の前を通り過ぎるまで未練がましく、その愛しい顔を凝視しつづけた。
「吉川君、がんばって」
 葉子先生の最後の言葉だった。それは鼓膜から脳へと響いた。何度もその声を再生しては強烈に記憶へと刻みつけた。官能にも連動させて肉体の奥に深く植えつけた。もう二度と先生と会うことはない。ボクは向こう側の世界へと走っていく。
 さようなら、葉子先生。ボクにとって、ただひとりの女性だった。
 ボクたちは九時少し前に、海斗は十五分遅れて中間地点である啓太の家の牧場に着いた。用意してあったスポーツドリンクを飲み、息が落ち着いたところで、啓太がシナリオ通りに話を切り出した。
「なぁ、海斗。あそこに森があるだろう。野生の大麻がたくさんあるって知ってた?」
 海斗は思った通り興味を示した。
「大麻! 本当か?」
「ああ。何回か試したけど、よかったよな。佑介」
 ボクはその言葉を受けてさらにあおった。
「ちょっと味わったことのないハイな気分。そのテンションなら、勢いで残りも全速力で走れるかもな」
「オレもやってみたいな」
 海斗が話にのった。思惑通りに事が淡々と進んでいくことに、ボクは予言者のような優越感をもった。
「じゃあ、食事の前に森へ行こうよ」 
 ボクは牧場の向こうに広がる森へ、海斗を連れ出すことに成功した。予定した場所まで来ると、ボクは憎しみいっぱいの表情で話を切り出した。
「大麻なんてあるわけないだろう」
「はあ?」と海斗は怪訝な顔でボクを睨んだ。
「真美にしたこと、絶対に許さないからな」
 海斗はひひと醜く笑った。
「知ってたんだ」
「ひどいことをしたと思わないのか」
「ひどいってほどのことでもないと思うけど」
 海斗の罪悪感のなさに、ボクは怒りが爆発した。
「薬を飲まして無理矢理に襲うことがか!」
「別に減るものでもないし、案外そのつもりで家に来たかもよ」
「オマエは本当に最低な奴だな!」
 たぶん、ボクが人生の中で怒鳴り散らしたのは、この時がはじめてだろう。しかし、海斗は萎縮するどころか開き直って応戦してきた。
「ふん。偉そうに何様のつもりだよ。人気者だか何だか知らないけど、いつも自分がいちばん正しいって顔をしやがって。そういうヤツがいちばんムカつくんだよ」
 その時、啓太が背後から海斗の首に紐をかけて叫んだ。
「ムカつくのはオマエだ!」
 海斗はそのまま引っ張られ、後頭部からひっくり返った。海斗はあまりの苦しさにじたばたともがいた。しかし、命乞いする声も出させないくらいに、啓太は一気に絞めあげた。
「地獄に堕ちろ!」
 ボクは啓太の行為を直視しているふりをして、実は焦点をぼやかして曖昧に見ていた。ボクは啓太ほど強くなかった。この筋書きを考えておきながら、無責任にもこの場から逃げ出したかった。海斗の体が人形のようにだらりと地に滑り落ちた。処刑は敢行された。ボクたちはこの瞬間から真面目な高校生ではなく非道な殺人犯になったのだ。
 その後、ボクたちは沈黙したまま、前日から準備してあった深い穴に海斗の遺体を落とした。啓太は穴の中へ入り、ゴム手袋をすると海斗の人差し指を切断した。ボクは直視できなかったが、啓太は血のしたたる指をビニールに包むと、氷の入った水筒に入れた。遺体の一部を保存しておく必要があった。ボクは震える手で水筒を受け取りリュックに入れた。ボクたちは遺体と一緒に証拠となるもの全てに土をかけていった。その日はさわやかな初夏の気候だったが、全身からギトギトとした苦い汗が吹き出した。ボクたちは海斗を土に埋め終わると、捜索されてもわからないように入念に倒木や葉でその上を覆った。カラスが数羽、周りの木々にとまってボクらを見ていた。彼らは唯一の目撃者だった。そのうちの一羽がカラスとは思えないようないい声で鳴きながらバサバサと飛び立った。大事件が起きたと知らせるように上空を旋回し、やはりいい声で鳴き続けた。ボクと啓太はお互いの顔を見てうなずき合った。ボクはあまりに臆病で、直接手を下すことができなかったが、啓太とは同罪だった。殺人犯。もう後戻りはできなかった。
 ボクたちは再び倉庫へ戻り、罪に汚れた手を入念に洗い、羊肉や野菜を焼いてわざと焦がした。そして、紙コップにコーラを注ぎ、皿と割り箸を並べて、今まで食事していたような雰囲気を演出した。これで全てが終わった。吉川佑介の人生が終わった。ボクは用意してあった私服に着替え、リュックを背負った。向こう側へ出発する準備が整った。啓太は泣きじゃくっていた。
「佑介、ごめんな。巻き込んで」
「巻き込まれたんじゃない。自分の意志だよ。真美と幸せになれよ」
 ボクは啓太の涙に濡れた右手をつかみ、無理矢理に別れの握手をした。時計を見ると予定時刻を十分過ぎていた。ボクらは倉庫を走って出た。啓太は牧場内に熊手でミステリーサークルを作りはじめた。ボクはその様子を横目で見ながら、人気のない狭い農道を約束の場所へと走った。二十分くらいでその黒いワンボックスカーを見つけた。ボクに手紙をくれたのは野本咲子さんという四十代の女性だった。コンルチプ村にある『ノチュ』という喫茶店の経営者で、病床にある良介の仮親だった。良介を助けたい一心で村のルールを破り、ボクに直接接触してきたのだった。ボクは車に乗り込むと睡眠薬を渡された。有り難かった。今日という日を、罪の重さを忘れたくて、ボクはすぐにそれを飲んだ。全速力で走り続けた肉体はすでに限界だった。ボクは激しい疲労と精神的なダメージに後部座席で丸くなると、すぐに深い眠りに落ちた。
 コンルチプへ到着したのは夜だった。ボクは咲子さんに起こされて目を覚ました。そして、慌てて車を降りると、覚めきらない意識のまま、暗闇の中を倦怠感にもつれる足で良介が待つ病院へ走った。息を切らして病院へ駆け込んだ時、対応に出てきた看護師がボクを見て驚愕の声を発した。今まさに生死をさまよっている良介と同じ顔の分身が現れたのだ。
「ボクは良介のドナーです。すぐに骨髄移植を」
 ボクはすぐにカウンセリングルームへ通された。担当医が駆けつけ、彼の指示のもと、すぐに検査のための採血が行われた。その間中、問診票に既往症などを書かされた。同じ白血病を発症し、現在も服薬しているボクが果たしてドナーになれるのか。
 しかし、その判断が下されることなく良介は息を引きとった。間に合わなかった。ボクは病室へ入ることを許された。良介は痩せ細り、頭髪が抜け、顔が薬の副作用でむくんでいた。これはボクだ。三年前に死んでいたはずのボクだ。それでも病魔から解放されたからなのか、良介の口元には安堵の笑みが浮かんでいた。ボクは何もできないまま、まだ少し温かい良介の頬に手を当て、静かに泣くしかできなかった。
 その後、ボクは父とは旧知の仲だという高橋院長の家へ身を寄せた。数日後には知らせを受けた父が血相を変えて駆けつけてきた。ボクはここへ来た目的、失踪事件の真相、海斗の殺害に至る経緯をすべて正直に話した。
「ボクは犯罪者なんだ。迷惑はかけられない。だから、もう二度と家へは戻らない」
「確かに殺人なんて決して許されることじゃない。本当なら思い切り殴りつけているところだ」
「殴ってくれよ」
「いいや。お父さんもそれ以上の罪を重ねてきた」
「良介のこと?」
「そうだ。佑介にはお兄ちゃんがいて、わずか一歳で亡くなったことは知っているよな」
「うん」
「小児白血病だったんだ。お母さんは自分を責めた。お爺ちゃんも伯父さんも白血病で亡くなっているからね」
「遺伝するってこと?」
「遺伝的な病気だという絶対的根拠はないが可能性はある。お母さんが佑介を身ごもった時、また同じことが起こるのではとものすごく精神を乱したんだ。胎教にも影響するほどだった。そんな時、高橋の研究のことを思い出した。お父さんは確実なドナーとして良介を誕生させることを決意したんだ。今のように臍帯血保存や末梢血幹移植の技術が確立していなかった頃の話だ」
「良介は本当にドナーになって助けてくれたんだ」
「ああ。それなのに、私は良介をひとりの人間として見ていなかった。ドナーとして会ってから連絡を取らなかったどころか、体調を含めた個人的なことを知ろうとはしなかった。だから、命をおとしてしまった。その罪は計りしれない」
「それなら、ボクが償う。良介として彼の分までここで生きていく。犯罪者の佑介は死んだものと思ってほしい」
「親にとって残酷な宣言だな」
「この村で最先端医療の研究をしたいんだ」
「ここで何が行われているのか全て知っているのか」
「うん。家を継ぐことはできないけど、医療には携わっていきたいと思ってる。遺伝性の難病を患った双子の友達がいるんだ。一刻も早く、彼らの病気の原因と治療法を見つけたい」
 父はしばらく黙ったまま葛藤を続けていた。父はボクが白血病になった時に備えて、この村の医療技術にすがり、良介を誕生させた。そして、その思惑通りにボクの命は彼によって救われた。しかし、何の因果だろうか。ボクはその真実を知ったことで、正義という名のもとに無謀な犯罪に手を染め、自らの存在を抹殺してしまった。道徳や倫理を冒とくすると必ず人生に歪みが生じる。父は運命に勝てなかったのだろうか。
「わかったよ、佑介」
 父は現実を受け入れるように目を伏せてから頷いた。
「ごめんなさい」
 ボクは謝るしかなかった。別れの時が来た。父の頭にはずいぶんと白髪が増えていた。ボクは父を尊敬していた。父のような医師になりたいと思っていた。母が自慢だった。いつも笑顔で誰に対してもやさしかった。もう、父と母に会うことはないだろう。両親はずっと行方不明になった息子を待ち続ける哀れな親を演じていかなければならない。それがボクたちに科せられた罰であり、良介に対するせめてもの償いなのだ。
 この日からボクは、良介になった。その事実を知っているのは、高橋院長と一部の病院関係者、村長、そして咲子さんだけだった。良介の死は伏せられ、しばらくはボクが入院している体を繕っていた。その間にボクは良介の性格、人間関係を頭にたたき込んだ。
 気持ちが一段落し、久しぶりにテレビを見ると、ボクたちの失踪事件はちょっとした騒ぎになっていた。策略どおりUFOの件ばかりがクローズアップされ、要の殺人事件は全く気づかれる気配がなかった。あとは真美が学校へ戻ってきてくれることを祈るばかりだった。
 三ヶ月後、ボクは良介として学生寮へ戻った。誰ひとりとして偽者だと疑わなかった。それくらいボクと良介は瓜二つだった。それでも、良介を演じることには限界があった。友達からはこぞって性格が地味でナルシストっぽくなったと言われ、苦笑するしかなかった。ボクはここにきてから退院するまでの三ヶ月間、闘病のふりをして研究所にこもり、その医療技術の指導を受けながら、一縷の望みをかけて実験に没頭していた。それは奇跡的に成功し、一年後には、はっきりとした形となっていた。ボクは確信した。ボクと啓太はもはや殺人犯ではない。そして、ボクはいつしか愛しい彼女と恋をするだろうと。
 高校を卒業すると正式に医学研究生となった。高橋院長の元で医学を学びながら、研究にも参加した。同時に寮を出て小さな家で一人暮らしを始めた。未来に向けて、彼女の好きそうな家具やファブリック、すずらん柄の食器を揃えた。白血病は寛解の状態を維持し、その後の定期検診でも再発の兆候はなかった。その後、二十歳になった時、意を決して不妊検査を受けた。やはり生殖能力は失われていた。ボクは半ば開き直り、そこそこ気に入った女性から声がかかるとベッドを共にした。研究所には二十代から三十代の女性十数人が仕事のために待機しており、彼女たちの遊び相手として、ボクは引く手あまただった。しかし、愛のない冷たいベッドはボクの心を空しくさせた。早朝、女性の部屋から帰る時、人工的に清浄されて澄み切った空気が、きれいすぎて逆に息苦しく感じられた。低すぎる空が落ちてきそうでわめきたくなった。無性に泣きたかった。あまりに憂鬱な日は、仕事帰りに児童養護施設『ふきのとう』へ立ち寄った。入所児童のひとりである三歳の花子に会うためだ。花子はいつもボクの姿を見つけると一目散に駆けてくる。そして、ボクの腕の中へゴールしたとたんに満面の笑みを見せる。彼女の屈託のない笑顔に救われる。ボクは花子を抱き上げては父親のように頬を寄せ、柔らかい髪の毛を撫でる。花子はその行動で素直な気持ちと意志を伝えてくる。ボクと手をつないだまま放さない。見せたいものの方へ、ボクの手を引っ張っていく。お気に入りのリボンを差し出す。ボクは陽を通すと褐色になる細くて柔らかい髪にリボンを結んであげる。横顔がどことなく葉子先生に似ている。そんな花子の成長が楽しみだった。花子が三歳ということは、ボクがこの村に来て四年が経とうとしていた。ちょうどその頃、院長から正央と隆治が相次いで亡くなったことを聞かされた。ボクは自分の無力さを嘆くしかなかった。ボクは病院勤務の合間に、彼らの病気についても研究をしていたが、何の糸口も見つからないままに、二人を失ってしまった。そんなジレンマと挫折もあり、ボクは時々不眠に陥った。そんな夜は暗闇に潜む魔物たちの囁きから逃れたくて、女たちの間を泳ぎ続ける空しい日々をおくった。 
       * 
 2007年、三月下旬のことだった。自宅でベッドに入り読書をしていたボクは、急患との連絡を受け、真夜中に村立病院へ向かった。病院内は緊急手術に向けて慌ただしく人が動いていた。数十分後、運び込まれた患者の顔を見てボクは心臓が凍りついた。
「葉子先生・・・」
 夢をみている。こんな形で会えるわけがない。いや、そもそもこの異境で再会するなどあり得ない。
 ボクの強い想いが奇蹟を起こしたのか?
 しかし、突きつけられた現実は奇蹟と喜べるようなものではなかった。先生は腹部をナイフで刺され、その傷は肝臓にまで達していた。出血性ショックによる意識不明の重体。先生の身にいったい何が起こったのだろうか。どうして、このコンルチプに運び込まれたのだろうか。目前で起きていることを理路整然と解することができず、ボクは半狂乱となり叫び出しそうだった。この時点でボクは院長の元でしっかりと医学を学び、村立病院での医療行為を許可されるまでになっていた。最近では外科手術の助手をも務めていた。しかし、今はとても冷静に対応できそうになかった。ボクにとって先生は患者ではなく最愛の人だ。あらゆる繋がりを断ち切って生きてきたこの四年間、淡い初恋の思い出だけが孤独でさびしい日々を支えてくれた。ボクはいつも先生の面影を探し求めていた。夢でしか会えなかった。その不可能が現実となった代償として、先生の命数は今尽きようとしていた。ボクは愛する人の死という恐怖に対して激しく震えた。
 葉子先生に付き添ってきたのは、母親の美子さんと医師である兄の臣吾さんだった。父親はアメリカの病院へ赴任中とのことだった。母親の美子さんは、葉子先生とあまりによく似ていた。年齢より若々しく美しい。この時点で、すでに予感するものがあった。彼女は最良のドナーになりえるだろう。先生の肝臓は損傷が激しいため、すでに院長と臣吾さんは生体肝移植手術の準備に入っていた。肝硬変や肝臓ガンではなく、外部損傷による緊急の移植など全くの想定外だった。そのため、ドナーとなる美子さんは、成功の確率を上げようと部分切除ではなく全摘出、つまり完全移植を申し出ていた。それは自らの命を娘に捧げるということだった。もちろん倫理上において許されることではない。しかし、通常ではあり得ないことが、このコンルチプでは可能だった。平常心を取り戻せないボクは、形式的な同意書に署名をもらうという簡易な役目しかできなかった。
「移植に関する同意書です。よくお読みになった上で、こちらにご署名をお願いします」
「はい」
 美子さんは書類を全く読まずに力強くサインをした。迷いのないことが母親としての覚悟なのだと思った。彼女はすでに自らの灯を放棄し、冷たい気をまとっていた。
「葉子のことを、よろしくお願いします」
「はい」
 ボクは同意書を受け取ったが、ほとんど視線は美子さんの顔に向けられていた。輪郭、目、鼻、唇。まさに葉子先生そのものだった。先生の三十年後の顔なのだ。
「肝臓は非常に再生能力の高い臓器です。脳死判定が難しい日本の現状では、ほとんどにおいて、生体肝移植が実施されています。それでも完全移植、自らの死を選択されるのですか」
「親なら誰もが思っています。子供のためなら自分はどうなってもいいと。ただ、法律がそれを認めていないだけです。ここに着くまでに、息子ともじっくり話し合いました」
「わかりました。同意書をお預かりします。葉子先生に何かお伝えすることはありますか?」
「葉子先生?」
「あっ、すみません。ボクはかつて先生の教え子だったんです」
「まあ、何という巡り合わせなんでしょう」
 美子さんははじめて母親らしい表情を浮かべた。「葉子はどんな先生でしたか」
「何事にも一生懸命で、生徒思いのやさしい先生でした。ボクは先生を尊敬していました」
「ありがとうございます。わずか二年の教師生活でしたけど。あの失踪事件さえなかったら、まだ教師を続けていたのかもしれません」
「失踪事件て・・・あれがきっかけで教師を辞められたんですか?」
「はい。心労が重なり、精神のバランスを崩していったようです」
「そうでしたか・・・」
 今更ながらにして、ボクが先生の人生を狂わせたのだと知って愕然とした。失踪の余波が先生にまで及ぶとは想像だにしなかった。いちばん大切な人を苦しめていた。
「私はずっと葉子が嫌いでした」
 美子さんは突然、その心情を吐露した。「自分のことが嫌いだからです。そう言えばおわかりになるでしょう。あの子を愛するということは、自分を愛するようなものなんです」
「鏡を見ているような感覚だったんですね」
「葉子が思春期に入った頃から顕著でした。私の冷たい態度があの子をどれほど苦しめたことでしょう。考え抜いた末に誕生させたというのに」
「しかし、今、命を懸けて守ろうとしているではありませんか」
「ドナーとして命を全うすることは、倫理を犯した人間としての定め、罪滅ぼしなのかもしれません。この世に同じ人間は二人必要ないのです。お願いですから、葉子には、私の死を知らせないでください。重荷になりたくないんです」
「わかりました」
 ボクは時計をちらりと見て、まるで催促するかのようにイスから立ち上がった。「それでは、麻酔をします。処置室へご案内します」
「はい。先生・・・葉子をお願いしますね」
「最善をつくします」
 これが美子さんと交わした最後の会話だった。
 その後、移植手術は見事に成功し、葉子先生は一命を取りとめた。そして、もうひとつの奇跡が起きていた。美子さんの命の灯を受け継ぐように、小さな希望の光が、先生の体内に現れたのだった。ボクにとってのさらなる研究テーマがそこにはあった。医療は限りなく進歩を続ける。
 手術後、葉子先生は無菌室に運ばれ、ずっと深い眠りの中にいた。ボクは隔てているガラス窓にへばりつき、今すぐにでも、髪を撫で、頬をさすり、キスで目覚めさせたい衝動にかられた。しかし、先生が目覚めたその時、ボクは何者でいればいいのだろうか。昔の教え子に瓜二つの良介でいるべきなのか。それとも素直に吉川佑介として接するべきなのか。前者でいようとすれば相当な覚悟と演技が必要になる。常に正体がばれないようにあれこれと気遣い、会話する事もままならないだろう。後者はいたって自然だ。昔のように楽しく会話し、治癒のためにいつもサポートすることができる。しかし、当然、守り通してきた秘密、失踪に至る経緯と罪を話さなければならない。先生が真実を問わないはずがない。ボクは犯罪者として嫌悪されるのだろうか。愛する人に嫌われるのは耐え難いことだ。
 その日の夕方、美子さんは荼毘に付された。先刻までボクと会話していたことが嘘のようだった。人間の命は尊く儚い。わずか一時間で肉体の全てが燃え尽き骨だけとなった。娘を想う心はどこをさまよっているのだろう。兄である臣吾さんは、医師として母親から臓器を摘出し、妹へと移植するという過酷な仕事をやりとげた。そして、母親の亡骸を抱きコンルチプを後にした。ボクは何もできずに、ただ無言で遠くから頭を下げ、心から感謝した。
 最愛の先生を救ってくれてありがとうございます。
 怒濤の一日が過ぎた。帰り際、ボクは院長に呼ばれ、葉子先生がここに運ばれることになった経緯を聞かされた。ボクが無菌室を出た後のケアを担当することになったからだ。そして、ボクは先生の出生の秘密、在原瞬の存在を知る。
 あの在原瞬だ。
 完全試合をいとも簡単に約束した天才。全てを兼ね備えた最上級の男。自信家であり努力家。その美貌。彼に惹かれない女性はいないだろう。ボクはかつて小児病棟で握手してもらった時の大きくて力強い感触を覚えている。悔しいが、葉子先生にはふさわしい男だった。在原と先生は結婚の準備を進めていたらしい。そんな最中、事件は起きた。在原のかつての恋人がマンションで待ち伏せをして先生を刺した。そこへ訪ねてきた在原の父親が、すぐにスキャンダルを回避するため、院長へ連絡をした。そして、極秘でコンルチプへ緊急搬送されることになった。連絡を受けた母親の美子さんが駆けつけ、在原側に責任を問わない代わりに、二人を二度と会わせないという条件を出した。事実上の破談、別離だった。そもそも在原に罪はない。ほんの少し恋人との別れ方が下手だっただけだ。それよりもボクを驚かせたのは、在原と葉子先生がコンルチプの出身で同級生だったということだ。もちろん、Aに分類されている二人は、この村の秘密を知らない。ボクと葉子先生が何らかの因縁でつながっていたということは驚くべきことだった。
 嘗て、ボクは葉子先生の気を引きたくてこう言った。
「はじめて先生を見た時、何かを感じたんです。運命みたいなもの」 
 ボクは予言者だ。
 午後八時過ぎにようやく病院を出た。想像を絶することが次々と起こり、精神的にも肉体的にもくたくただった。それでも、いつものように、夕食をとるために喫茶店『ノチュ』へ寄った。丸一日ほとんど食事をしていなかったが、あまり食欲を感じなかった。咲子さんは注文も聞かずに和食膳を出してくれた。
「疲れたでしょう。こういう時はさっぱりした食事がいいのよ」
「何があったか知っているんですね」
「ええ。驚いたわ。あの葉子ちゃんが・・・」
「先生を知っているんですね」
「先生?」
「高校時代の先生だったんです。副担任で、部活の顧問」
「そんな偶然もあるのね」
「はい。ボクも目を疑いました」
「葉子ちゃんはね。中三の時に体調をくずして、ひと夏の間だけど院長宅にホームステイをしていたの。よくここのオープンテラスで征慈君とアイスクリーム食べてたなぁ」
「征慈君?」
「同級生。瞬君は野球ばかりしていたから、征慈君といることが多かったかな」
 ボクははっと思い出した。ボクが良介と入れ替わった後、何度も病院へ見舞いに来てくれた松田征慈だ。温かくてやさしい人だったが、ボクは正体がばれるのを警戒して自然と距離を置いた。そして、ある日突然、彼はクライアントの要望でこの村を出ていった。ボクは先生の過去を垣間見る度に心を揺らしジェラシーを感じた。
 ボクは葉子先生のことを知っているようで、何も知らない。
 その後、手術から数日間は移植において最大の懸念である拒絶反応が全く見られなかった。つまり、手術は大成功に終わった。このことはコンルチプ初の臨床例であり、研究の成果を見事に実証するものとなった。今回の成功はクライアントへの最大級のアピールとなるだろう。臓器移植の依頼も増えるに違いない。
 三日目の朝、先生はぼんやりと目を覚ました。駆けつけたボクはキャップとマスクを着用していたため、全く先生に気づかれなかった。
「ここはどこですか?」
「コンルチプの村立病院です」
「コンルチプ?」
「はい」
「どうして」
「在原投手のマンションで刺されたんです」
「あっ・・・」
「覚えていますか?」
「はい・・・」
「犯人は在原投手の関係者の方だったようです・・・在原修氏がスキャンダルを回避したいと希望されまして」
「回避ということは、相手には迷惑がかかっていないんですね」
 相手という遠い言い方に、ボクは先生の気遣いを感じた。
「はい。これからも事件が公になることはないでしょう」
「そうですか。よかった・・・」
 ボクはもう二度と在原と会えないという約束がなされたことを伝えることができず、可能性を秘めた言い方をした。
「彼とはしばらく会えないかもしれませんが」
「もういいんです。神様がやめなさいと言っているんだと思います」
 先生は表情一つ変えず、病室の白い天井を見つめたまま言った。苦しい眠りからようやく目覚めて、わずか数分で別れを決意する。在原瞬はそんなに簡単に諦められる相手なのだろうか。それとも、諦めたくなるほど今回のことは相当なショックだったのだろうか。
「傷は痛みませんか」
「大丈夫です」 
 先生は無理をして目尻を下げ、穏やかな顔をつくった。いっそ泣きわめいて取り乱してくれた方がよかった。体の傷と心の傷。気丈に振る舞う先生がいじらしくて、ボクの方が思わず泣き出しそうだった。
「何かあったら、遠慮なくナースコールを押してください。では」
 そう言うが早いか、ボクは病室を退出していた。はじめて病院を嫌な場所だと思った。どんなに消毒しても、清潔に保っても、空気中にあらゆる負の要素が漂っていた。
       *
 術後の経過は順調で、先生はリハビリとしてベッド周りの歩行を少しずつ始めていた。そして、二週間後には一般病棟の個室へ移った。いよいよ、ボクは担当医師として先生と対面することになった。ボクが恐る恐る病室へ入ると、先生はベッドで上体を起こし窓から外を見ていた。懐かしい横顔だった。先生には朝の光が似合う。ボクは一瞬にして恍惚となり緊張感を忘れた。
「おはようございます。担当の吉川です」
 葉子先生はボクの方を振り向くと驚きのあまり息を止めた。瞬きを忘れた。唇が小さく開いたまま固まっていた。素顔の先生は頭の中にあったイメージよりとても幼く見えた。それは年齢の壁を一気に忘れさせ、より近くなったように錯覚させた。
「吉川君?」
「先生!」
 そう言ったとたんに押さえつけていた感情が込み上げ涙が浮かんだ。ボクは生徒に戻ってしまい深々と頭を下げていた。やはり良介を演じることなどできない。
「すみませんでした」
「よかった。生きていてくれて・・・」
「えっ?」
 ボクは先生の意外な反応に顔を上げた。先生は何ともいえない柔和な笑みを浮かべていた。ボクは母親のような寛大さにすでに感服していた。
「顔をよく見せて」
 葉子先生はボクの顔をじっと見つめた。「大人っぽくなったね」
 ボクは先生の動かない視線に赤面していた。一方で体は激しい衝動に震えていた。
「あんなに迷惑をかけたのに責めないんですか」
「迷惑?」
「騒がせたし、心配かけたし」
 ボクは小学生レベルの説明しかできなかった。
「確かに。そうね」
 先生はふっと笑った。その表情は昔のままだった。笑っていてもどこか寂しさが漂っている。「中尾君はどうしているの?」
「アイツも生きています」
「そう。安心した」
 ボクは詮索されないことがかえって不安になり、自ら切り出した。
「失踪の理由を聞かないんですか?」
「聞いてほしいの?」
「いいえ」
「それなら無理に聞かない」
 それは配慮というよりは、これ以上のダメージを抱えきれないという気弱さのような気がした。先生は自分のことで精一杯なのかもしれない。過去を問われないということは願ってもないことだった。ボクの方に風が吹いてきている。
「いつか、話せる時が来たら真実を話します」
「ええ」
 ボクは失踪のことが曖昧になったことで、ほっとしていた。これで先生と心置きなく会話をし、励まし、支えていくことができる。それだけではない。ボクは二十一歳になっていた。もはや教師と生徒の関係でもなければ、この先、医師と患者でもなくなる。一人の男として先生と向き合える。ボクの気持ちは随分と高揚していた。何年ぶりかでエロスが現れ、金の矢を先生に向けて放った。しかし、相変わらず矢は先生に命中せず、ぱらぱらと雨のように地面に落ちた。
 北海道ファイヤーズは開幕ダッシュに成功し首位に立っていた。もちろんエースの在原瞬は圧巻のピッチングで負けなしの五連勝。もともと球威で圧倒するピッチャーだが、今季は迫力とすごみがさらに増していた。打者を打ちとる度にマウンド上で発する雄叫びが、嘆きに聞こえるのはボクの勝手な妄想だろうか。在原はいとも簡単に葉子先生を手放した。野球生命が絶たれるのを覚悟してでも、葉子先生を失いたくないとは思わなかったのだろうか。天秤にかけた時、野球が勝っていたという事なのだろうか。結果的にボクへとチャンスが巡ってきた。ボクはもう子供ではない。葉子先生を守っていく自信があった。しかし、そんなボクの気持ちを先生は知らない。在原瞬の新聞記事を読んでいる先生を、遠目に眺めては複雑な心境になった。いっそのこと、在原瞬を恨んでくれればいいのにと思った。葉子先生は日々何を思って生きているのだろう。ボクはその真意を計り兼ねていた。心が置き去りになっている一方で、体は少しずつ治癒していく。
 五月初旬、村の丘陵では芝桜が満開となった。ちょうどその頃から葉子先生は、一日に数分程度外気に触れることを始めていた。ピンク色の花絨毯の中に、ベージュのショールをまとった葉子先生がたたずんでいた。花の香に陶酔するかのように両手を広げ、官能的に瞼を閉じる度に、ボクはその光景に溶けてしまいたいと思った。その幸せ色の小さな花を、二人で抱き合いながら、体中にあびたかった。いつしか、そんな日が来ることを夢みた。
       *
 入院してから二ヶ月、葉子先生の退院が決まった。先生は通院の必要性も考えて、しばらくの間、この村に住むことを希望していた。それはボクにとって願ってもない猶予期間だった。吉川佑介に戻れないボクは、一生コンルチプから出ることができない。葉子先生が、この村を出ていかないように、心も体もボクのものにする必要があった。猶予期間は長ければ長いほどいい。ボクは病室を訪れる度に、その期間を延ばそうと、コンルチプの良さをアピールした。
「ここは空気もきれいだし、療養には最高の環境です。術後は感染症がいちばん心配なんです。風邪ひとつでも油断できません」
「そういえば、以前、ホームステイした時に、酸素が濃いって聞いたことがあるわ」
「ここだけの話ですが・・・この村はバイオームなんです」
「バイオームって、確かドーム型の温室のことよね」
「はい。イギリスのエデン・プロジェクトで作られたものが有名ですが、コンルチプはそれよりもはるか前に作られています。温室というよりは、ドームの中に村があると考えて下さい。中は準無菌室に近い状態です」
「まさか村全体が屋根で覆われているってことなの?」
 葉子先生は目を丸くして窓から空を見上げた。
「はい。見た目にはわからないと思います。空が普通に見えていますから。屋根は研究によって生み出された特殊素材で、透明な熱硬質性プラスチックです。だからといって村全体が人工的に作られているわけではなく、既存していた自然や小動物たちはそのままの形で残されています」
「でも、屋根があるなんて思えない。少し空が低く感じられるだけだわ」
「雪が降らないのはその屋根のためです。ドームは密閉された空間ですが、常に空気清浄器が作動していて、意図的に酸素濃度を上げています、また紫外線を遮断したり、放射能を除去することもできます。ある意味で、シェルターと考えてもらってもいいでしょう」
「シェルター・・・」
「しかし、雨も降れば風も吹く。もちろん、風速も雨量も調節しています。まあ、気温だけは敢えて北海道らしく、外界と同じになるように設定しています」
「どこから見ても、ドームだとはわからないわね」
「はい。おそらくこのような技術が駆使されているのは、世界でもここだけです。最先端の技術、医療が集約されたテクノポリス。だから、病気の療養には最適な場所なんです。しかも、作られたのは実に四十年前です」
「でも、どうして世界に誇れるような高度な技術を持ちながら、村の存在が全く知られていないの? インターネットで検索したけど、地図どころか、全く情報がなかったわ」
「研究者たちが秘密裏に計画して作った村だからです。皆自身の研究の集大成のためにやってきました。ここコンルチプはあらゆる分野の傑出した才能が集結し、知恵と知能を持ち寄って築き上げた理想の世界なんです。バイオームもその遠大な研究のひとつです」
 ボクはコンルチプのことを、広報担当さながらに自慢していた。虚飾のプロパガンダ。まるで、自分がなし得た偉業のように。
「何だか、少し恐いね」
「恐い?」
「ええ。理想の世界が正しいとは限らないから」
 理想という概念をやんわりと否定されたことが、饒舌に語っていたボクを不安にさせた。勝手に飛び込んだ異境の価値観に、ボクは流されているのだろうか。まさか、越えてはいけない一線を見失い、理想と現実の区別すらつかなくなっているのだろうか。
「意外でした。誰もが理想を賛辞するとは限らないんですね」
「たぶん、私はそこそこ不完全な世界で、ごく普通に暮らしていければいいと思っているんだわ」 
 不完全な世界。その謙虚な願望を聞いた瞬間、ボクは感情を押さえることができなくなった。
「先生。退院したら、ボクと一緒に暮らしませんか?」
「えっ?」
「特別な意味はありません。一階の部屋がひとつ空いているんです。ルームシェアだと思ってください。院長のお宅だと何かと気を遣うと思うんです」
「確かにそれはあるけど」
「そうかといってひとりで暮らすとなると何かと無理しがちです。大きな手術の後だから、ボクが側で見守りたいんです。あと薬の副作用もありますから、食事や生活面でのアドバイスもできると思います。力になりたいというか・・・」
「でも、道徳的にどうなのかな。人はそうは見ないと思うの」
「男女の関係と誤解されるってことですか?」
「吉川君の将来だってあるし」
「この村に道徳なんてありません。だから人の目を気にする必要がないということです。心のままに、何も考えず、したいようにすればいいんです。先生はボクが嫌いですか?」
「そういう訳では」
「それなら、完治するまで遠慮なく頼ってくれませんか。ボクは医者です」
「ありがとう」
 ボクは先生のありがとうを承諾と受け取った。その夜、家に帰った僕は有頂天だった。リビングなどの共有部分をぐるりと見渡し、葉子先生のスペースを確認した。どの場所にもそれは存在し、まるでこの暮らしを予感していたかのように、あらゆる物が周到に用意されていた。ボクはリビング奥の部屋を片づけ、大切にしまってあったすずらん柄の食器を出した。
 翌週、退院した葉子先生は大きなスーツケースをひとつ持ってボクの家にやってきた。初夏の風が薫る中、先生の純白のブラウスがやけに眩しかった。ボクはこの象徴的な白色を、この先ずっと忘れることがないだろう。
 こうして、ボクと先生の穏やかな同居生活が始まった。朝、鳥の声とともに目覚めると、確かに愛する人の気配がする。早く会いたくて、足早に階下へ下りていく。リビングにはパンの焼けるいい匂いが広がっている。キッチンに笑顔の葉子先生がいる。
「吉川君、おはよう」
「おはようございます」
 夢ではない。ボクは理想の暮らしを手に入れた。完治するまでという期限つきのルームシェアは建前だった。先生の気持ちを手に入れ、恋人の関係になってしまえば、期限などあってないようなものだ。一緒に暮らせば、毎日向かい合って笑顔で会話をすれば、葉子先生はボクを愛してくれると信じた。ボクはいつもちやほやされてきた。ボクが微笑むと女の子は頬を染めた。わがままも笑って受け入れてくれた。皆、ボクを好きになってくれた。先生との暮らしはルームシェアである以上、プライバシーを尊重し、干渉しないのが前提だった。しかし、朝と夜は時間が合えば、一緒に食事をしたり、世間話をすることも多かった。だから、ボクは葉子先生に医師としての毅然たる姿を見せたり、誘惑の微笑を向けたり、子供のように甘えたり、突然沈黙しては熱く見つめたりした。しかし、葉子先生は一向にボクを男として見てくれる気配がなかった。先生はいつまでたっても絵画の中の女神、遠い存在のままだった。閉ざされた扉の向こう、何を考えているのだろう。在原瞬を思っているのだろうか。ボクはこんなに近くにいながら、体を気遣う医師、元教え子、所詮ルームメイトでしかなかった。次第にボクは焦り出した。
 いつになったら、在原瞬を忘れてくれますか。どうしたら、ボクを愛してくれますか。
       * 
 ボクが先生と一緒に暮らしはじめてから半年が過ぎていた。明るく開放的な夏は過ぎ去り、冷たく閉塞的な冬が希望を凍てつかせ始めていた。葉子先生は移植手術後の懸念である感染症や強い副作用などもなく、すでに普段と変わりない生活を送っていた。そこで本人の希望もあり、十二月から試験的に『ふきのとう』の臨時職員として働くことになった。出勤した初日、帰宅した先生は花子から託された手紙をボクに手渡した。まだ上手くない不揃いのひらがなで「あそびにきてね」と書かれていた。ボクは先生との時間が惜しくて、あまり花子に会いに行かなくなっていた。葉子先生はボクが罪深いとでも言いたげに微笑んだ。
「花子ちゃん、寂しがっていたわよ」
 ボクは苦笑いしたが、次の瞬間、葉子先生が花子たちと遊んでいる姿を想像し、はっとした。とんでもないニアミスが起きていた。ボクは慌てて辻褄の合わない返答をした。
「先生。子供たちを相手にして、体力的につらくないですか。無理して働かなくていいんですよ」
「楽しいから」
「それならいいんですけど・・・」
 確かに、その時は考えすぎのような気がした。しかし、その後すぐに、ボクの不安は現実のものとなる。ほんの少しの油断が瓦解を招いていく。
 クリスマスまであと一週間となり、中央広場の大きなもみの木にはイルミネーションが灯っていた。さらにそこを取り囲むように置かれたアイスキャンドルの炎が村全体に反映し、それと相まってとても幻想的で美しかった。一方で、ボクの心は明かりを失い、寒さに震え、その寂しさは頂点に達していた。葉子先生に対する一方通行の愛情が行き場をなくし、ため息と一緒に冷たい床に転がっていた。先生の心から在原瞬の面影を排除できると思っていた。簡単なことだと自惚れていた。しかし、半年たった今も、先生の視線はボクではなく遙か遠くを見たままだった。もう少し時間が必要なのか、それが可能なのか。ボクの心は揺れ続けていた。そんな不安定な状態の中、ボクはさらに徹底的なダメージをくらった。『ファイヤーズ優勝記念号』という雑誌がリビングのマガジンラックに無造作に入れられていた。先生の配慮が足りない訳ではなかった。ボクがこんなにも強烈な想いをよせていることを、在原瞬を敵視していることを、先生は知らないのだ。雑誌をめくると、否応なしに巻頭を飾っている在原瞬の記事が飛び込んできた。それはインタビューというよりは、彼の思いを綴った手記のようだった。
「リーグ優勝、そして日本一。涙が出るほど、うれしかった。それくらいに今年は相当な覚悟で試合に臨んでいた。ファンの大歓声に支えられ、チームのみんなに背中を押され、ある意味で孤独なマウンドに立ち続けることができた。人間が抱える寂しさ、くやしさ、苛立ち、焦り、罪悪。そんな思いのすべてを一球一球に込めて投げた。それは、まるで質問を投げかけているようだった。神様はどのように人々の運命を決めているのだろうと。
 ストレートを投げた。愛情に恵まれた幸せな人、いつも孤独で寂しい人。 
 カーブを投げた。思い通りの人生を送る者、レールから脱線していく者。
 スライダーを投げた。努力が報われる人、何ひとつ報われないない人。
 フォークを投げた。頂点に立つ者、ただただ転落していく者。
 ストライクとボールの判定は紙一重だった。
 今シーズンは特別な人を想い投げ続けた。この腕がちぎれてもいい。その人の幸せを願い、夢のような魔球を投げたかった。テレビの中の自分を見ていてほしかった。活躍し続けることが、その人のためにできる精一杯のことだった。」
 
これは在原瞬が葉子先生へ宛てて書いた恋文だ。
 先生はこの想いをどう受け止めたのだろうか。先生さえその気になれば元の鞘に収まることは容易だと思われた。何ということだ。先生がこのコンルチプにいることで安堵していた自分が滑稽だった。ボクは雑誌を破り捨てたい衝動をおさえるのに必死だった。こんな日がいつまで続くのだろう。それでも、ボクは優等生の顔を崩さなかった。ボクが冷静でさえいれば、一緒に暮らすという生活は維持される。毎日、顔を合わせ、会話することができる。焦るな。そう自分に言い聞かせた。
 ボクは快晴の日曜日、久しぶりに施設から花子を散歩に連れ出した。花子の天真爛漫な笑顔はいつもボクを救う。その日の花子はウサギのような白いふわふわのコートを着ており、天使のように可愛らしかった。灰色の冬空の下、ボクたちはクリスマスツリーのある広場まで手をつないで歩いた。花子の手はとても小さいのに、いつもぽかぽかと温かい。指先から伝わる彼女の体温がボクの心に小さく火を灯す。今は種火であっても、それはいつか焦がれるほどに大きく燃え上がるだろう。いや、そのために彼女はこの世界に誕生したといっても過言ではない。 
 ツリーに到着すると、花子に抱っこをせがまれ、電飾やオーナメントを顔の近くで眺めた。花子はときどき柔らかく冷たい頬を、ぴたりとボクの頬につけては笑った。スキンシップによる情緒の安定は子供側だけのものではない。大人のボクにも必要だった。ボクは花子が可愛くて切なくて、何度となく、ぎゅっと抱きしめた。
 ボクたちは散歩を終えると、昼食をとるために『ノチュ』に立ち寄った。花子には食物アレルギーがあるため、そのことを熟知している咲子さんが、特製のお子様ランチを作ってくれる。ボクも花子に合わせて同じ物を食べる。咲子さんがカウンターで笑って言った。
「一端のデートみたいね」
 三歳の花子がデートの意味をわかっているとは思えないが、マシュマロのような笑顔でふふと笑った。花子には女の子らしい気品と可憐さがある。彼女はボクにとっての大きな夢であり、小さな理想だ。
「花子はサンタさんに何をお願いしたの?」
「いぬのぬいぐるみ。ほんものみたいでこーんなにおおきいの」
「花子は犬が好きだもんな」
 ボクはぬいぐるみが欲しいとかなり前から知っていた。『ふきのとう』の児童には、それぞれにスポンサー、つまりはクライアントがいる。そして、花子のスポンサーは実のところ、このボクだった。ちなみにもうひとり、花子と同じ年のカイトのスポンサーもつとめている。ボクはこの村では良介ということになっているが、花子に対してだけは佑介でありたくてユウと呼ばせている。
「はなこ、ユウのこと、だーいすき。おおきくなったら、けっこんする」
「もちろんだよ」
 花子にとってボクはいつもいちばんだ。ボクだけに向けられたストレートな言葉と愛情に、いつも満足している。だから、その小さな唇が艶やかに成長し、ボクと対等に会話する日を心待ちにしていた。そう、葉子先生に再会するまでは。
 花子を施設に送りとどけてから家に戻った。届かぬ想いにもどかしさを感じる一方で、先生が側にいることの喜びは大きかった。先生はあえてボクの生活リズムを邪魔しないようにしていたが、共用部分はいつもきれいに清掃してあり、さりげなく食事が用意されている気遣いもうれしかった。ボクは先生が作る家庭的な料理が好きだった。そして、休日の午後はどちらともなく声をかけてお茶を飲んだ。ボクは気づかれないように横顔を眺め、想像の中で静かに愛し合った。時折みる夢の中で激しく愛し合った。
「おかえりなさい」
 奥の部屋から先生の声がした。リビングから垣間見えた部屋で、先生は段ボール箱に荷物を詰めていた。
「荷物をどうするんですか?」
「年が明けたら、時期をみて『ふきのとう』へ移ろうと思っているの」
「えっ?」
「いつまでも、吉川君に頼ってばかりもいられないから」
 突然のことに、ボクは恥ずかしいほどうろたえた。
「ボクは頼られるほど先生の力になれていません」
「いいえ。心強かったもの。感謝の気持ちでいっぱい」
「それなら、これからもずっと、ここにいてください」
「子供たちの側にいて、少しでも母親代わりになりたいの」
「ここからだって十分に通えると思います」
「添い寝しないと寝られない子もいるのよ。カイト君とか」
「カイト!」
 ボクはとたんに理性の回路がプツンと切れた。「あいつはだめだ。危ない」
「危ない?」
「添い寝なんてとんでもない。何をされるかわからない。恐ろしい血が流れているかもしれないんです」
 ボクは本気で葉子先生が汚れると思った。葉子先生のことになるとボクは分別をなくす。
「どういうこと?」
「とにかく、だめなんです」
「カイト君て、中尾君と同姓同名のうえに顔も似ているでしょう? もしかして、何か関係があるの?」
 もちろんボクは即答できなかった。ついに恐れていたキーワードが飛び出した。決別へのカウントダウンがはじまった。とたんに、いつもは聞こえない時計の音が鼓膜に響き、時限タイマーのようにボクを追い詰めた。
「わかりました。全てを話します」
 ボクは手にしていた菓子の入った紙袋をテーブルに置いた。「いつものようにアフタヌーンティーしませんか。咲子さんにスコーンをおみやげをもらってきたんです」
「紅茶の準備をして待ってるわ」
「お願いします」
 ボクは重い足どりで二階の部屋へ上がっていき、『ユウスケの日記』を開いた。ついにこの日が来てしまった。再確認のために最終章を読み返した。読み進めながら、本当にこの筋書きでいいのかと、気弱なボクは自問を繰り返していた。一方で、内面に潜む冷酷なアイツが決行を促していた。アイツはどの人間にも存在する。孤独で寂しがり屋のアイツを止められるのは満ち足りた愛情だけだ。それを手に入れられないとわかった以上、もう止められない。ボクは意を決して階下へ下りていった。
 食卓には、ボクが先生との生活のために用意したすずらん柄のティーポット、ペアのカップが並んでいた。すずらんの花は先生のイメージだ。花言葉は「再び幸福が訪れる」「純愛」。ボクと先生に重なる。今までの穏やかな生活の象徴だった。
 ボクはいつものように、先生と向かい合って座った。先生はポットから熱い紅茶をカップに注いだ。湯気が寂しく僕らの間に立ち上った。
「どうぞ」
「いただきます」
 ボクはカップに手を伸ばしかけたが、冷たくなっている指先が微かに震えていることに気がつき咄嗟に止めた。心を見透かされるのを恐れた。慌ててスコーンを手に取りピーナッツクリームをべたべたとたくさんぬった。そして、もくもくと食べた。ボクは先生の顔を見ることができず、視線を落としたまま話を切り出した。 
「先生・・・」
「はい」
「お願いがあります」
「何?」
「全てを話したら・・・キスしてください」
「えっ?」
「さっき、ボクに対する感謝の気持ちがあるって言ってくれましたよね。お礼とかそんな感じで構いません」
 先生はボクのわがままに戸惑っていた。ボクは半ば懇願するような情けない震える声だった。「ボクの告白がどんな内容であっても、最初で最後のキスをください」
「・・・わかったわ。約束する」
「ありがとうございます」
 ボクはさらにスコーンを頬張り、熱い紅茶を一口飲んだ。約束をした先生とのキスを一瞬想像し、払拭するかのようにふーっと長い息をついた。そして、ようやく口を開いた。
「中尾海斗は生きています。UFOに連れ去られたことになっていますから」
「やっぱりあれは森君の作り話だったのね」
「いいえ。十年後、真実になります。海斗は失踪当時と変わらぬ姿で戻ってきます。全く年をとらない浦島太郎のように」
「浦島太郎って、意味がよくわからない」
「まずは、この村の秘密から話さないとだめですね」
「やっぱり、ここには秘密があるのね。何かが隠されていると、ずっと思ってきたわ」
「人間は疑問や不可解なことがあっても、日常の生活に支障がなければ、無理して探ろうとはしませんよね」
「探るのが恐かったのかもしれない・・・」
 伏し目がちで不安に揺れる先生の表情は美しかった。ボクは告白の後に訪れる甘美なキスを瞳の奥で再び想像しながら、話を切り出した。 
「ここは地図にない村です。まさに禁断の領域。そして、ボクは佑介ではなく良介と呼ばれています」
「ええ」
「ボクは瓜二つの人間、良介に成り代わったんです」
「どうして?」
「良介が死んだからです。彼はもうひとりのボク、分身でした」
「分身って、双子なの?」
「いいえ。ボクの体細胞からつくられたクローンです」
「クローン!」
「この村はクローン技術を人間に応用する研究のために創建されたんです。羊のドリーが世界的な話題となって騒がれる遙か前から、人クローンの実験が行われていたんです」
「実際に人間のクローンがこの日本で誕生していたなんて」
「先生が施設で世話をしている三歳のカイトはまさに中尾海斗のクローンです」
「なぜ彼のクローンが? 中尾君はどこなの?」
「アイツは啓太の牧場近くの森です。土の中」
「土の中って・・・まさか・・・」
「あの日、ボクたちの手で埋葬したんです」
 ボクはついに海斗を殺害したことを告白した。
「どうして、そんなことを」
「人間のクズ。いや、鬼畜だからです」
「何があったの?」
「アイツは真美をレイプしたんです」
「小竹さんを・・・」
「だから、啓太が処刑しました。しかし、海斗のクローンは生きています。啓太は殺人など犯していない」
「でも、中尾君と三歳のカイト君は別人だわ」
「いいえ。DNAは同一です。あの小さなカイトは啓太が疑われた時のための保険です。真美を社会へ復帰させるためには海斗を抹殺するしかなかったんです」
「どうして、あの時に相談してくれなかったの?」
「先生という立場では、良識ある大人の対応しかしてもらえないからです」
「大人の対応ではだめなの?」
「警察沙汰にすれば真美は矢面に立たされる。内密に処理しようとすれば海斗をつけ上がらせる。結局、真美の傷は癒えない。それに、海斗が心底悔いて謝罪し生まれ変わるという保証がありますか? 性犯罪者の再犯率がどれほど高いか。先生としてではなく、女性という立場で考えてください。被害者が友人だったら、家族だったら、大切な娘だったら、そして自分自身だったらと。真美は自殺しかねない状況だったんです」
「心は法律では裁けないと思ったのね」
「はい。海斗が死んでくれるのが最善の方法でした。ボクも一緒に失踪すれば、殺人として疑われる可能性が低くなると踏んだんです。しかも、啓太は罪に問われずに真美をずっと側で支えていくことができる。すべて計画どおりでした。今頃、啓太と真美は幸せに暮らしていることでしょう」
 ボクは一気に喋り過ぎ、息が苦しくなった。
「その一方で、吉川君は幸せなの?」
 ボクははっとした。即答できなかった。ボクは啓太と違って全てを捨てた。交友関係も絶った。綻びが生じることを恐れ、啓太とすら連絡をとっていない。この隔絶した地で良介として生きている。自分が選択したとはいえ、あまりに孤独な日々だった。そして、今、先生からの愛情を手に入れることもできずにいる。
「それなら、先生は今、幸せですか?」
 先生も即答しなかった。ボクとの生活は平穏であっても幸せではないのだろう。ボクは姿を現すことのない在原瞬を相手にしてるというのに、いつまで経っても勝利できないでいた。そんな自己への苛立ちが、ボクをまた非情な人間へと押しやった。ついに、ボクは禁断の凶器を取り出した。
「先生もクローンなんです」
「えっ?」
「お母さんの」
「嘘でしょう・・・」
「本当です。先生のお母さんは習慣流産と不育症に苦しんでいたそうです。妊娠しても出産できない。跡取りを期待されノイローゼ状態だった時、友人である高橋院長が見かねてクローンの研究を打ち明けたそうです」
「私が、母のクローン・・・そんな・・・」
「お兄さんは、お父さんのクローンです」
「兄も・・・血がつながっていないというのは、そういうことだったのね」
 先生は両手で頭を抱え下を向いた。長い髪がさらりといい香りを放った。
「お母さんは先生を嫌っていたわけではありません。常に自分自身を見ているようで居たたまれなかったんです。そのことが先生を苦しめたと詫びていらっしゃいました」
「母に会ったことがあるの?」
「はい。先生がここに運び込まれた時です」
「そう・・・母がそんなことを・・・確かに自分を愛するのって難しい」
「しかし、先生とお母さんは別な人格です。同じDNAイコール同一の人物ではありません」
「確かに母と私は正反対だった・・・」
 先生は細く長い指を頬に当て、遠い過去を呼び起こすかのように窓の外に目をやった。静かな呼吸が全てため息のようだった。ボクと暮らして半年、いつも切なそうに遠くを見ていた。在原瞬の腕の中に帰りたいと切に願っているのだろうか。そう考えるとボクは敗北の惨めさに唇が震えた。
「先生、全てを話しました・・・約束のキスを下さい」
 先生にはすでにボクの声が届いていないようだった。先生は明かされた真実と解明できずに放置されたままだった疑問を、ひとつひとつを重ね合わせていく作業に没頭しているのだろうか。ボクは先生の領域に入れないことにもどかしさを感じた。外野にぽつんと佇むボクは、同級生を殺害したおぞましい犯罪者でしかなかった。
 かつて高校の図書館で先生と交わした会話が克明に思い出された。その時は自分が殺人犯になってしまうとは夢にも思わなかった。
「じゃあ、恋人が犯罪者だとわかったらどうですか?」
「犯罪者って、例えば?」
「殺人犯とか」
「それは・・・無理です。相手に恐怖や嫌悪を感じたら、恋愛は成立しないから」
 先生はあの時きっぱりと言った。だからこそ、ボクの本性を知ってしまった今、嫌悪感でいっぱいのはずだ。軽蔑しているに違いない。いくら約束であっても、キスすることを拒みたいだろう。
 ボクは立ち上がり、先生に駆け寄ると強引に肩を引き寄せ、その愛しい唇に口づけた。先生は拒否をしなかった。ボクはあらゆる愛の言葉を舌先に閉じこめたまま、強く唇を押しつけた。頭の中が空っぽになった。心からは複雑な感情が消え去り真っ白になった。体だけが赤く熱く燃えた。はじめて本物と思える官能に達し溺れた。ボクは先生に愛されたかった。たったそれだけだった。別れのキス。ボクは静かにゆっくりと唇を離した。終わった。全てが空虚のままに終わった。
「このまま、先生と穏やかにここで暮らしたかったです。朝起きると笑顔の先生がいる。一緒に食事をしながら、たわいもない話をする。ひとりで寂しかった家に明かりが灯っている。先生はどう思っていたかはわかりませんが、ままごとの同棲みたいで、ボクは楽しかった。幸せだった。この生活がいつまでも続けばいいと思っていました。ボクは高校時代から、先生のことが、ずっと好きでした」
「すべてを聞いてしまった以上、ここで暮らすのは無理だわ」
 きっぱりとした裁決のような否定だった。それがボクの自尊心を傷つけ、暗影を投じた。悪魔がほくそ笑みながら背中をどんと押していた。
「無理なのは最初からわかっていました。先生は在原瞬のものになっていましたから。先生はここに運ばれた時、妊娠していたことに気がついていましたか?」 
「妊娠? 私が?」
「はい。妊娠八週目の小さな命が宿っていました。しかし、先生自身が危険な状態でしたから、残念ながら・・・」
「赤ちゃんがいたなんて・・・」
 先生は腹部に手を当て、長い髪をくしゃくしゃにして混乱した。その困惑した表情が美しく、ボクは暫しの間、恍惚となった。その一方で、心の底に封じ込めていた在原瞬へのジェラシーが、暴走の後押しを続けた。先生が煩悶すればするほど、サディスティックな性癖がさらに先生を追い詰めようとうずいた。
「羊のドリーの妊娠によってクローンの生殖能力は証明されましたが、人クローン同士の受精は、おそらくはじめての症例です」
「クローン同士って・・・」
「在原投手も父親のクローンです」
「瞬も・・・」
「だから、このコンルチプで育ったんです。父親の在原修氏は少年期から肘を酷使したことで、プロ入りの時点ですでに限界だったんです。肘をかばうあまり、実力の八割程度しか出せずにいました。プロ入りしてすぐにこの村の計画を聞き、自分のクローンを誕生させることにしたんです。契約金をほとんど投資したそうです。そして、瞬という名のもうひとりの自分は見事にその夢を果たしたんです。やはり、自分はここまでやれたのだと」
「瞬のお父さんも、私の両親も間違っている。恐ろしいエゴを夢や希望という言葉にすり替えているだけよ。所詮、詭弁にすぎないわ」
「先生たちはまだいい方です。ALIVEに区分されていますから。一人の人間として戸籍をもち人権を与えられ普通に生活できます。しかし、CLONEに区分されている者は、戸籍も与えられず、一生ここで本体の緊急時のスペアとして生きていくんです」
「スペアって、人の心はどうなるの?」
「実際に臓器移植などに利用された者はいません」
「これから先、ないと言えるの? この美しい景色の裏ではそんな不条理なことが行われていたなんて信じられないわ」
「だから、この村の存在は公になっていないんです。バイオームになっているのは、環境やエネルギーの研究のためもありますが、その一方で衛星写真に映らないようにするためでもあるんです。法と秩序という制約の下に研究を果たせなかった学者、研究者、有志が秘密裏に集まりました。そして、賛同した一部の富裕層が資金援助し、医療を中心としたバイオテクノロジーの研究が世の中の何倍ものスピードで進んでいったんです。この村にクローンとして生まれた育った子供たちは、決して犠牲者ではありません。次世代を担う立役者なのかもしれません。先生にとってつらい話ばかりだったと思いますが、これが真実です」
 瓦解とはこういうことをいうのだろう。先生が幼いカイトに向けたささやかな母性に、ボクは動揺し、虚偽で固めていた防護壁に自ら小さな穴をあけてしまった。そこからはもう手がつけられなかった。わずかな穴から亀裂が生じ、次から次へと崩れ落ちると、全てを破壊してしまった。先生にとって優等生だったはずの吉川佑介は本性をさらけ出した。先生の顔は驚愕や悲哀を通り越し、人形が醸し出すような美しい無表情になっていた。ボクが一時だけ支配した赤く燃える唇は、色を失い生気をなくしていた。しかし、絶望に近い悲しみの中にありながら、先生の瞳から涙がこぼれることはなかった。その違和感にボクは揺れた。偽りのない真実を正論と履き違え、ありのままを語り過ぎたのではないか。
 息苦しさに耐えられなくなったのはボクの方だった。
「少し外の空気を吸ってきます。今、ボクは側にいない方がいいようです」
 ボクはラックにかかっていたダッフルコートを着た。そして、椅子の背もたれ部分にあった『ユウスケの日記』をまるめてポケットに入れた。ボクはそのまま、すぐにリビングを出ようとしたが、やはり未練がましく先生の方を振り返ってしまった。先生はまだ泣くことができずにいた。いつも涙を我慢してきた女性なのだと思った。とたんにボクは気弱になった。
「先生。無理矢理キスして、ごめんなさい」
 先生は視線を上げなかった。
「拒否することもできたわ」
「そんな言い方をされたら、誤解したくなります」
 おそらく先生は堕落したボクを憐れんだのだ。ボクに対してほんの少しでも愛情があったわけではない。「ボクは変わりましたか?」
「ごめんなさい。わからない・・・」
 先生は寂しそうに呟いた。先生は変わった。心も体も大人の女性になっていた。涙も見せない。ボクのキスを甘受できる心の余裕がもどかしかった。
「それでは、いってきます」
「ねえ、吉川君」
「はい」
「クローンは人間なの?」
「歴とした人間だと思います」
 ボクは背中で言うと、想いを断ち切りたくて勢いよく家を飛び出した。外は凍てつくような寒さだった。村は寒さでいたるところが凍りついていた。ボクは白い息をはきながら、何かに導かれるようにルヤンペの森へ向かった。四年前、この村に来たばかりの頃、ボクはコタンコロカムイのことを咲子さんから聞き、いてもたってもいられずに森を訪れた。制裁、報復と、どんな理由づけをしたとしても、ボクが海斗を殺害したことにかわりはなかった。当然、罪の呵責に苛まれていた。誰にも問うことができないボクへの裁決を、コタンコロカムイに下してほしかった。ボクはコタンコロカムイの姿を見つけると恐る恐る前に立った。彼は眼を開けてしっかりとボクを見た。何度も瞬きを繰り返したが、顔を背けることはなかった。ボクは救われた。その後も何度か会いに行ったが、ボクを癒すような柔らかい表情を見せてくれた。
 ボクはポケットから『ユウスケの日記』を出して、道すがらに冷たい手先でめくり最終章に目を通した。海斗の殺害計画を機に書き始めたこの小説は、未来を予測して書かれたフィクションだった。しかし、それは計画書のような役割をしており、ボクは何かに導かれるように、あらすじ通りに生きてきた。だから、小説というよりは周到に用意されたシナリオ、違った意味での自叙伝だった。ボクと海斗の失踪、良介という分身との融合、クローンという医療技術を駆使しての野望までが、四年前に書かれていた。そして、数日前に、ボクは加筆していた。愛する人との再会とその別れだ。ボクはその部分を読み返した。
「ボクは、海斗の殺害、この村の秘密、そして、葉子先生がクローンであること、妊娠していたことを、偽りなく正直に告白した。しかし、まだ言っていないことがふたつあった。ひとつ目は、先生の母親が肝臓移植のドナーとなるために、自ら命を捧げたこと。そして、もうひとつは花子の存在だ。長距離遠足の前日、ボクは教室で先生の髪を結んであげた。その時、しっかりと毛根のついた髪の毛数本がボクの指に絡みついた。孤独を覚悟していたボクへの贈り物だった。ささやかな希望。ボクはそれを研究所へ持ち込み、その毛根から奇跡的に体細胞の培養に成功した。それほどまでにコンルチプでのクローン技術は卓越していた。そう、花子は先生のクローンだ。ボクは初恋を諦めきれず、この村のクローン技術に賭けたのだ。ところが、もう二度と会えないはずの先生が突然、夢のように現れた。しかし、先生は在原瞬の子供を宿していた。もちろんショックだったが、それでもボクは構わなかった。ボクの愛で先生の傷を癒すことができると思ったからだ。しかし、ボクは先生の側にいて幸せな反面、どんどんつらくなっていった。ボクがどんなに愛を注いでも、先生はボクを愛してはくれない。心に在原瞬がいる。ボクは葉子先生から愛されることを諦め、真実を話すことにした。殺人を犯したことを。先生のような実直な人間が、非情なるボクを許容できるとは思えない。時間の経過とともに心のどこかで嫌悪するようになるだろう。愛されないのであれば我慢できる。しかし、嫌われるのは耐えられない。いっそ嫌われるくらいなら、この手で・・・。ボクはこの半年間、一緒に暮らすことができて幸せだった。心の底から、先生を愛していた。」
 ルヤンペの森は全体が樹氷に覆われ、氷の花がきらきらと咲いていた。ボクが森の中へ入っていくとコタンコロカムイはいつものように樹洞でじっと身構えていた。ボクは彼の正面に立った。反応はあまりに早かった。コタンコロカムイはボクの顔を見るなり顔を背け、すぐさま眼を閉じた。ボクはその衝撃にぶるっと震えた。心臓の音が喉元までどくんどくんと響き、呼吸を追いつめた。ボクは目の前に突きつけられている現実を打ち消そうと、必死に都合のいい解釈をした。夜行性だから昼間に眠っているだけかもしれない。ボクは自分自身の擁護を続けながら、コタンコロカムイが眼を開けるのを待った。陽が傾くまで待った。しかし、コタンコロカムイは決して眼を開けて僕を見ようとはしなかった。
 コタンコロカムイ。ボクは先生に嫌われたくなかっただけなんです。
 ボクはそう心で呟くと、言い訳に終始し、自己嫌悪に陥った子供のようにうなだれた。それから顔を再び上げることなく、夕日に赤く照らされた道を辿って帰途についた。
 家には明かりが灯っていた。それは愛する人が家で待っていることを知らせてくれる幸せの象徴だった。ドアを開けるとクリスマスリースのベルが音をたてた。リビングに入るとふわっとした温かさが冷えきった体を包んだ。いつもと何の変わりのない空間だった。生活の匂いがする。テーブルの上には、飲みかけの紅茶がそのまま置かれていた。ボクと先生の二人だけの時間、日曜日のアフタヌーンティー。ボクはそんな楽しかった光景を思い浮かべながら、奥の部屋を覗いた。葉子先生が冷たい床に横を向いた状態で倒れていた。ボクは動じることなくリビングの棚にあった救急箱を開けた。自己注射薬であるエピペンが使用されず残っていた。間に合わなかったのか、使用しなかったのか。ボクはひと呼吸おいてから葉子先生の部屋に入った。先生の好きなラベンダーポプリの香りがした。ボクは先生の背中側にひざまづき、ゆっくりと先生の体を上に向けた。その愛しい髪を、瞼を、頬を、唇を指先で順になぞった。若干体温は残っていたが、呼吸はすでになかった。ボクは別れのキスをしようと先生の頬に手を当てた瞬間、違和感を覚えた。その表情に苦しみはない。むしろ微笑が浮かんでいるように見える。まさか誰かに向けられた笑顔なのか? そう思った瞬間、ボクは背後に強烈な視線を感じて、はっと振り返った。
 誰だ! 
 パソコンの画面に、男性の顔が大きく映し出されていた。それは経済雑誌のインタビュー記事だった。M製菓副社長、松田英慈氏。ボクは激しい動悸を抱えながら、その画像をくいるように見つめた。
 これは松田征慈だ! 
 ボクは立ち上がり、パソコンの画面を手のひらで叩いた。とんでもない思い違いをしていた。先生が孤独と絶望の中、会いたかった人間は松田征慈だ。先生はいつ替え玉である彼の存在に気がついたのだろう。まさか、ずっと心の支えにしていたのだろうか。そうだとしたら、在原瞬に嫉妬し続けていたボクは、ただの道化師だ。今となっては先生に確かめることもできない。真実は永遠に霧の中だ。
 ボクは力なく床に崩れ落ちた。その瞬間、コートのポケットから『ユウスケの日記』が落ちた。裏表紙側から、はらりと開いた。最終頁、物語はそこで完結していた。
「ボクは悪魔の唇で、先生に最後のキスをせがむ。先生は甘受する。ボクはおそらく初めて味わう本物の官能に心も体も震える。そして、初恋は終わる。先生を永遠に失う。ボクは再び、先生のいない人生を歩んでいく。そして、十年後。ボクは、先生とそっくりな花子と恋に落ちるだろう。」
 先生の母親である美子さんが最期に言った言葉が思い出された。それが全てだった。
「この世に同じ人間は二人必要ないのです」
 ボクの瞳から涙がこぼれた。もう我慢ができなかった。ボクは先生に縋りつき、狂ったように泣きわめいた。泣いて泣いて、壊れるほど泣いた。コタンコロカムイは全てを見抜いていた。
 ボクは本当の悪人になったのだ。

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