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『ラヴ・ストリート』【43】

  ラヴ・ウォーリアーズ
 
五十嵐馨は、ここ数日の聡美の変化を読み取っていた。いつもの元気で明るい母親に戻った。いや、それ以上に、はつらつとしていた。父と大ゲンカしてから化粧もせずに、青い顔をしてぼーっとしていることが多かった。食事もあまり手をつけず、急激に痩せていった。このままでは病気になる。いや、病気なのだと心配になった。しかし、どうしてあげることもできなかった。その一方で、無気力状態で、馨の顔すら見なくなった聡美に対して苛立つことも多かった。完璧な母親に慣れてしまっているせいか、何かを頼んで忘れられていると「消えろ」と汚い言葉が口をついて出た。その度に、聡美はぽろぽろと涙をこぼした。子供の前で泣くような人ではなかった。泣かせてから、ものすごい罪悪感におそわれ落ち込んだ。父親と同じことをしている。いつまで甘えているのだと。
 一昨日、学校から帰ると、家の前に軽自動車が止まっていた。門のところで、背の高い男と聡美が話をしている。はっと思った。聡美が笑っている。ここ数年、見たことがないような笑顔だ。あのクリスタルのオルゴールが回った時のような、きらきらした笑顔だ。馨は何故か慌てて、開いていた隣家のガレージに隠れた。直感があった。
 Kだ! オルゴールのKだ!
 Kは「じゃあ」と言って門から離れると、車のドアを開けた。そして、乗る間際に念を押すように叫んだ。
「日曜日。『カサブランカ』に、11時」
「うん」
 聡美は大きく頷いた。車が走り去った後も、余韻に浸るように、ずっと立ちつくして見ていた。そして、はっと我に返ると、急ぎ足で家に入った。馨は、何故だか、すぐに家に入ることができなかった。しばらく、その場で気を落ち着けてから家へ入った。聡美はリビングにいなかった。寝室をのぞくと、聡美はクローゼットから何枚も洋服を出して、ベッドの上に並べていた。日曜日の服を選んでいるのだとすぐに分かった。会うという約束を聞いただけなのに、激しい胸騒ぎがした。初めて覚えた危機感だった。馨の心は勝手に叫んでいた。
 お母さんがいなくなる。出ていってしまう!
 夕食はいつものように手の込んだ献立に戻っていた。あれほど、食欲のなかった聡美が、おいしそうに食べている。いつもはため息をつきながら食器を洗うのに、鼻歌を歌っている。壊れたオルゴールの曲だ。
 昨日は、美容院へ行ってきた。洋服も新しいのを買ってきた。それは戦闘開始の準備のように思われた。聡美はいよいよ立ち上がったのか。
 そして、今、日曜日の午前十時十分。聡美は新しい服を着て出かけようとしている。父は全く気がついていない。ソファに寝転がって新聞を読んでいる。
 聡美はコートに袖を通しながら笑顔で言った。
「馨。お昼、サンドイッチが冷蔵庫に入っているから食べてね」
「う、うん」
「じゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい・・・」
 いつもなら「夕方には帰ってくるから」と言う。それなのに、今日は言わない。
 父はちらりと聡美を見た。外出の理由を何と聞かされているのだろう。別にどうでもいいといった態度だ。
 聡美が玄関を出ていく音がした。馨はとたんに慌てた。切羽詰まっていた。普段聞けないようなことを、父に勢いで聞いた。
「お父さん」
「ん?」
「お母さんと離婚するの?」
「何で?」
 父は驚いたという顔すらしない。視線は新聞に向いたままだ。
「だって、この間、ケンカしてたから」
「ケンカぐらい誰だってするさ」
「じゃあ、離婚しないの?」
「しないよ」
「何で」
「何でって、する理由がないからだよ。馨のいいお母さんだろう。それに、おばあちゃんのお気に入りなんだ」
 馨は、父が若い女性と歩いている姿を思い出していた。大人は理解できない。心と反対のことばかりしている。愚かだ。小学五年生にだって分かる。父も母も、お互いに好きではないのに一緒にいる。自分のため? 
「前に若い女性と歩いてたよね」
「えっ?」
 父が手にしていた新聞をバサッと鳴らした。
 馨は父の顔も見ずに部屋へ駆け上っていった。そして、上着と財布を持つと家を飛び出した。飛び出してから、どうしようと思った。母を追って、どうするのだろう。行かないでとすがるのか。ただ、どこかで食事をするだけなのに。いや、帰ってこないかもしれない。Kがさらって行ってしまった。カサブランカってどこだろう。誰か知っているかもしれない。馨は、友達といっても佑香しか思い浮かばず、とりあえず佑香の家へ走った。空は青く、この季節にしては、日射しがぽかぽかと暖かかった。
 玄関のチャイムを押すと、出てきたのは佑香本人だった。佑香は驚いている。
「どうしたの?」
 馨は息が切れて、苦しそうな話し方になった。かなり切迫した感じだった。
「お母さんが、出ていっちゃった」
「えーっ」
「Kが連れていった」
「K?」
「オルゴールのKだよ」
「あれって・・・馨くんのKじゃないの?」
「違う。お母さんの本当に好きな人だよ。たぶん」
「嘘」
「本当だよ」
 佑香は少し考えてから、馨に向かって頷いた。
「とりあえず、追いかけよう。どこに行ったの?」
「カサブランカ」
「それ、どこ?」
「分からない」
   *
 霧島エリは、光輝とデートするために家を出た。話題の映画を観ようということになっていた。そして、偶然、家の前で、おろおろしている佑香と馨に出くわした。
「あっ。エリお姉ちゃん」
「こんにちは。どうしたの。慌てて」
「馨くんのお母さんが、いなくなっちゃった」
「馨くんて、この子?」
「どうも」
 馨は五年生だが、佑香より、十五センチも背が高かった。しかし、その体格とは反対に、表情にはまだ幼さが残っており、やはり小学生という感じがした。
 佑香はすがるようにエリの手を握った。
「お母さんが連れていかれちゃったの」
「誰に?」
「Kに」
「よく意味が分からないんだけど。佑香ちゃん、落ち着いて。まず深呼吸」
 佑香はエリに言われたとおりに深呼吸をした。
「前に憧れているって言ってたお母さんなんだけど」
「ああ。聡美さん」
「エリお姉ちゃん、知ってるの?」
「うん。前にお世話になったことがあって。そうか。馨君は聡美さんの」
「でね。本当に好きな人の所へ行っちゃったの」
「えーっ」
 エリは聡美に聞いた元カレの話がすぐに甦ってきた。これが本当なら、ただ事ではない。聡美はついに行動に出た? しかし、慌てるのは早いと思った。馨に向かって冷静に聞いた。
「お母さん、何て言って家を出たの?」
「友達に会うって」
「それだけ?」
「はい」
 佑香が首をひねってから、馨の袖を引っ張り小声で言った。
「ねぇ。カサブランカは?」
「それは、家の前で相手の男が言っているのを聞いただけ」
 エリはそれを聞いて驚いた。
「馨くん、相手の男の人を見たの?」
「はい」
 エリはこれは本当かもしれないと思った。しかし、会っているだけで、出ていったとは限らない。駆け落ち? 聡美に限ってそれはないだろう。しかし、女は時として衝動に負ける。自分を見失う。暴走する。それは自分が身をもって証明済みだ。しかも、こんなに心配している子供たちを前にして放っておけない。
「その男の人は、何て言ってたの?」
「カサブランカに11時って」
「カサブランカ!」
 セイジョに通うエリはすぐにピンときた。しかし、あの喫茶店だとは限らない。
「エリお姉ちゃん、知ってるの?」
「うん。でも、他にもあるかもしれないから、市内の『カサブランカ』っていうお店を探してみる。待ってて」
 エリは携帯電話を出して検索した。しかし、突き当たるのはあの『カサブランカ』だけだった。それらしいお店は他にない。二人の特別な合い言葉でもない限り、あの喫茶店だという可能性は大いにある。しかし、場所を教えたところで、小学生二人で行けるはずがなかった。それに、聡美のことも心配だった。エリが悩んでいる時に、あんなに親身になって励ましてくれた。だからこそ幸せな顔をしているのか見届けたい気持ちもあった。
「そのお店か分からないけど、連れていってあげようか」
「えっ、いいの?」と佑香が嬉しそうに微笑んだ。
「うん、私でよければ。で、馨くんはどうする?」
 馨は少し考えてから、はっきりと答えた。
「行きます」
「じゃあ、行こう」
 エリは、佑香と馨を連れて地下鉄駅へ向かった。その途中で、光輝に電話を入れた。
「もしもし、光輝。まだ家にいる?」
「今、出るところ」
「突然だけど、待ち合わせ場所を変更してもいい?」
「いいけど。どこ?」
「セイジョの前」
「学校に用事?」
「そうじゃないの。ちょっと、事情ができて。長くなるからメールするね」
「分かった。じゃあ、後で」
「うん。待ってる」
 エリは、電話を切ると、改めて緊張感が込み上げてきた。聡美の人生に介入しようとしている。聡美は本当に家族を捨てて昔の恋人のもとへ走ったのだろうか。そうだとしたら、馨を連れて行くことは正しい選択なのだろうか。迷いながらもエリの足は『カサブランカ』へ向かっていた。

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