見出し画像

『ガールズ・クライシス』【3】

 恋をした。
 中一の終わり、終了式の日だった。遡ること、二日前の放課後、我が三組ではクラス替え前のお別れ会が開催された。有志たちが歌、ダンス、物まね、コントなどの特技を披露するというものだった。
 私と友人のゆうこちゃんは、これといった特技もなかったため、後方の席に並んで座り、観客に専念していた。プログラムの後半、小型のアンプがセッティングされ、男子三名によるバンド演奏が始まった。その時、私は腹部に疼痛を感じた。まさか、大音量に刺激されたわけではないだろうが、予定より一週間も早かったため、少々慌てた。
 私はゆうこちゃんに耳打ちした。
「生理がきちゃったみたい。ちょっと、トイレにいってくるね」
「一緒にいってあげるよ」
「ごめん、ありがとう」
 私とゆうこちゃんは、そっと席を立ち、かがむようにして教室を出た。素早い対応だったため、スカートを汚さなくて済んだ。それにしても女は厄介だ。こんなことを月に一度、四十年間続けていかなければならない。その後、教室には時間にして五分程度で戻ったと思う。それだけのことだった。
 そして、終了式の日。皆が帰ってしまったがらんとした教室で、私とゆうこちゃんは、おしゃべりをしていた。その時、突然、男子三人に囲まれた。エビナ、ヨシダ、ニシザワだ。彼らは最後にバンド演奏をしたメンツだった。太っちょのニシザワが廊下に人がいないのを確認してドアを閉めた。すると憎しみに顔を歪めたエビナとヨシダが、バッグからガムテープを取り出し、私たちに襲いかかってきた。そう、ガムテープを髪の毛につけるというリンチだった。私は突然のことに完全にフリーズした。手も足も動かなかった。次から次へとちぎられるガムテープを、いくつも髪の毛にべたべたと容赦なくつけられた。それは粘着力が強く、容易にはがせるものではなかった。頭にベージュの短冊をいくつもぶらさげた私は、まるで妖怪だった。
 男からの暴力。
 私は父親を許せなかったママの気持ちがようやくわかった。男は短絡的だ。言葉で伝える前に暴力という手段に出る。そこに何らかの誤解が生じている可能性があったとしてもお構いなしだ。
 どうやら、私は三人から多大な恨みをかっていたらしい。私が何をしたのだろう。わからない。それまでは、席も近く、わりとよく話をする男子たちだった。それが、この豹変ぶりだ。私はこの惨状から逃げることもできずに、一方的にやられるしかなかった。
 刹那、ゆうこちゃんが「やめて。いやーっ」と大声を出して泣き叫んだ。私は、はっと我に返った。ゆうこちゃんも髪の毛にガムテープをつけられてうずくまっていた。ゆうこちゃんは、私と違って、やさしくて弱々しい女の子だった。私はとっさにゆうこちゅんの前に立ち、強い口調で問いかけた。
「私たちが何をしたというの!」
 エビナが拳を振りあげんばかりの勢いで怒鳴った。彼は背は低いが成績がよく弁が立つため、必然的にリーダー的存在だった。
「この二ヶ月間、どれだけ必死にギターの練習したと思ってんだよ」
 私は心底、何を言っているのかが分からず首をひねった。
 エビナは近くの机を威嚇するように叩いた。
「それなのに、オマエら途中で教室を抜け出して、俺たちの演奏を聞かなかっただろうが!」
 演奏?
 そこで、ようやく私は彼らの怒りの理由がわかった。
 お別れ会→かっこよくバンド演奏→ギターの猛練習→いよいよお披露目→私、途中でトイレにいく→俺様たちの演奏を聞かないとは何事だ。
 そんな図式だろう。この仕打ちの理由がわかり、私は拍子抜けした。私が数分程度、教室を離れたことが、彼らにはとんでもなく重大なことだったのだ。しかし、演奏が聞きたくないとか、退屈だとか、反旗的な理由で席を立ったわけではない。女としての緊急事態だった。だからこそ、こちらにも歴とした言い分があった。だからといって、真実を言うのは、女性として恥ずかしく、すでにどうにかなる雰囲気でもなかった。
 ゆうこちゃんはショックのあまり座り込んで、しくしくと泣いていた。これが普通の女の子の姿だ。私は心からゆうこちゃんに申し訳ないと思った。私のせいだ。私がひとりで行動していれば、巻き添えにすることもなかった。私だけが傷ついて終わっていた。私はこの状況に対する答えが出せず、姿なき民衆に問いかけていた。
 理由はどうあれ、演奏を聞かなかったことを謝るべきですか? 
 制裁を受けるほど、酷いことをしてしまったのですか? 
 私はリンチを受けて、当然の人間ですか? 
 私は断罪されるべき、悪人ですか?
 皆さん、聞かせてください。答えて下さい。
 私が回答を待っている間に、エビナとヨシダは、再び、ガムテープをビリビリと引きちぎった。
「オマエらのこと絶対に許さないからな」
 ものすごい執念だった。しかし、この場を逃れるためだけに謝るのは、暴力に屈するようで、どうしても嫌だった。
 女は、男と違って大変なのよ!
 大声で言い返してやりたかった。彼らより、体格も腕力も劣っていることが歯痒かった。口答えは許されないような空気。昔からずっと、女性はこんな風に虐げられてきたのだ。女であることが、くやしくて、情けなくて、泣きたかった。いっそ泣いてボロボロになってしまえば、彼らもその達成感に清々して終わるのかもしれない。でも、私はゆうこちゃんのように、素直に泣けなかった。十三歳にして、すでに、かわいげのない女だった。泣くものか。絶対に泣かない。私は男の前でなんか泣かない。暴力に屈しない。強がることが、より彼らを激高させているとわかっていても。
 ガラーッ。
 その時、教室後方のドアが大きな音を立てて勢いよく開いた。緊張に包まれた空間にひゅーっと冷たい風が流れ込んだ。すらりと背の高い男子が、見張りのニシザワの制止を振り払い、ずんずんと強引に入ってきた。そして、威圧的ではない、さらりとした口調で言った。
「大の男たちが、女によってたかって、バカじゃないのか」
 彼は重い足音を響かせながら、近づいてくると、私たちの前に立った。大きな背中だった。
 エビナが、顔をくしゃくしゃにして叫んだ。
「関係ねぇーだろうが」
「関係ないけどさ。あーあ。恥ずかしい。こんな物使って卑怯だな」
 彼はエビナの手から、すっとガムテープを奪い取って近くの机に置いた。エビナが唖然としている背後から、ヨシダが応戦しようと手を出した瞬間、彼はその手をがしっと掴んだ。とたんに眼光が鋭くなった。
「おまえらの演奏を聞こうが聞くまいが、個人の自由なんじゃないの? 自分たちが猛練習をしたからって、何で人に強制して聞かせなければならないわけ? まるで、ジャイアンのコンサートだな」
 ヨシダはしどろもどろに言い返した。
「最低限の礼儀だ。演奏中に席を立つなんて失礼だろうが」
「礼儀? ジミヘンやクラプトンだって、そんなこと言わないって。どんだけギター演奏が偉いんだよ」
「うるせぇ。いたたた」
 彼はヨシダの手を軽くひねった。手からガムテープが落ちて床に転がった。
「僕はボクシングと空手をやってるんだけど、このまま力を入れると、ギターが弾けなくなるかもよ。それとも、先生にチクってほしい? 暴力行為は内申点にひびくと思うな」
 正義のヒーローは淡々と語り、それだけで三人をねじ伏せてしまった。
 エビナが、観念したようにヨシダとニシザワに小さく言った。
「もう復讐は終わったからいい。帰るぞ」
 バンド野郎たちは、すごすごと退散していった。
 復讐とは何とも大袈裟な大義名分をはっきりと宣言されたものだ。今後も私は恨まれ続けて、またリンチされるのかもしれない。
 それでも、私は目の前の暴力から解放されてほっとしていた。
「あっ、ありがとうございます」
 私がヒーローに向かって言うと、正義の背中は振り返った。とたんに私の顔は真っ赤になった。彼が正真正銘のイケメンということが判明した。顔をまともに見られない。恐怖に固まっていたはずの心臓が、ドキドキと喉元に響くほど、大きな音をたてていた。これこそが、あの吊り橋効果というやつか。
「誰だって、こんな理不尽な状況は止めるよ。髪、大丈夫?」 
「あっ、はい」
「昨日、委員会で、たまたまここの席に座った時、机の中に本を忘れちゃってさ」
 彼は机の中から『催眠術のかけ方』という本を手に取った。そして、「じゃあ」と左手を挙げて、何もなかったかのように出ていった。私は、その大きな背中に執着した。ひょっとして、私は背中フェチかもしれない。
 視界から彼が消えると、私は、しゃがみ込んでいたゆうこちゃんに手を差し伸べた。指先が微かに震えていた。
「ゆうこちゃん、ごめんね。私のせいで」
「ジュリちゃん、悪くないよ。あいつらに女の子のデリケートな部分が、わかるわけないもん」
 ゆうこちゃんは私の手を握り立ち上がった。私たちは、ガムテープをいくつも頭に着けたまま、とりあえずイスに座った。
 私からは大きなため息が出た。
「トイレにいっただけなのに、恨まれているなんて考えもしなかった」
 ゆうこちゃんもすかさず同調した。
「ほんと。一方的で恐かった。私、男嫌いになりそう」
 うんうんと私は首を縦に振りながらも、頭の中は突然現れたヒーローのことで一杯だった。
「ねえ、ゆうこちゃん。さっき助けてくれた人、知ってる?」
「うん、知ってるよ。ひとつ上の学年。三学期の途中に東京から転校してきたんだって。背が高いから、うちのバレー部の顧問が勧誘したけど断られたみたい。イケメンだよね。しかも、名前もすごいの。美しい島と書いて、みしまさん」
「名は体を現すっぽい。上級生だから、奴らもビビったんだね」
 私はそう言いながら、自然と笑みを浮かべていた。人間は、たったの五分で悲しみから立ち直り、形だけは笑える。
「ジュリちゃん危なかったよ。美島さんが、忘れ物をしてくれて、助かったね」
「うん。でも、みんな報復が怖くて見て見ぬふりなのに、今時、あんなに堂々と反論できる人がいるなんて、ちょっと驚いた」
 私は美島さんに賛辞を送りながら、ふわふわしていた。背が高くて、ボクシングと空手をやっていて、催眠術の本を読んでいる。ん? 催眠術?……まあ、いいか。
 私とゆうこちゃんは、落ち着きを取り戻し、お互いの髪についたガムテープを取り合った。相当な量の髪の毛が抜けた。剥がせない所は泣く泣くハサミで切った。奴らはさぞかし愉快だろう。私は何ひとつ言い返すことも、やりかえすこともできなかった。勝ち負けをつけるならば負け。
 女として完敗だった。
 ゆうこちゃんは、午後からバレー部の練習があるため、そのまま体育館へ向かった。私は奴らが床に転がしたままにしていったガムテープを拾ってカバンに入れた。このくやしさを忘れないためにも、敢えて持ち帰ろうと思った。ここまでは威勢がよかった。
 札幌は三月に入り、少しずつ雪解けが始まっていた。気温が高くなってくると雪はシャーベット状になる。シャリシャリと靴を埋めながら歩くイメージだ。その感触が小さい頃から好きだった。しかし、今回のリンチで嫌なイメージと気持ちがこの感触と重なってしまった。記憶は風景や気候、しいては五感と結びつく。毎年否応なしにこの候になると思い出してしまう。人はあまりにもたくさんの嫌な記憶が、その街に結びつくと、生まれ故郷を捨てるのかもしれない。人の心はもろい。奴らは何ということをしてくれたのだ。怒りとやり切れなさが入り交じり、不安定な靴底に込められる。足を取られバランスを崩す。寒風に決壊寸前の涙腺が刺激される。ぐっとこらえる。
 まだ、泣かない。
 家に着くと歯を食いしばりガムテープをバックから取り出した。先は気づかなかったが、よく見ると芯の内側に今日の日付が油性マジックで書かれていた。なるほど、男三人、額を寄せあって、「あの女、許さねぇ」となって、ガムテープのリンチを思いたって、現物を用意して、「決行の日付を刻もうぜ」と盛り上がったわけだ。ある意味自己陶酔的、ものすごい怨念だ。  
 私はその日付をじっと見続けた。ついに女としての苦い涙がこぼれた。
 強がっても、ひとりになると、やはり涙は出る。誤解だったのに反論できなかったことが悲しかった。抵抗できなかった女の弱さがくやしかった。あんな奴らのために流した涙がもったいなかった。
 何年か経てば、奴らはリンチしたことすら忘れるだろう。
 男は都合よく忘れる。でも、女は逆だ。それに私は悲しいことばかりを鮮明に記憶してしまう気質だ。だから、ずっとこの日を忘れないだろう。五十年たっても、きっと彼らの名前をしっかりと覚えている。彼らが想像する以上に、私は深く傷ついていた。この先もガムテープを目にする度に、その惨めな光景を思い出し、嫌悪し、気持ちが悪くなるのだ。結果的にわざわざ凶器を持ち帰るという中途半端な強がりが、自分の首を絞めていた。でも、男なんかに負けない。屈したくないと強く思ったのだ。そういうところが、私はママに似ている。私って、一生、独身のタイプかも、と思ったりする。いけない、いけない。悲観的になってはいけない。
 もっと、きれいになってやる。
 なぜそういう結論に達したのかはわからない。しかし、暴力野郎たちを見返してやろうと思った。この思惑は完全に矛先がずれていた。しかし、そんな見当違いが十三歳の私にはちょうどよかった。このまま、傷ついて下を向いていては、あいつらの思う壷だ。冗談じゃない。毎日、幸せな顔を見せつけて、何のダメージもありませんでした、というところをアピールしてやる。
 その前に髪をどうにかしないと。
 髪の毛が不自然に切断されてしまったため、仕方なく美容室へ行った。改めて、大きな鏡の前に座ると、酸欠になりそうなくらい長い息が出た。小さい頃から、ずっとロングヘアだった。ブスをごまかすには、それしかないと思っていた。しかし、切断された位置の長さに合わせて切ると、どう考えてもショートカットになってしまう。さらば、女の命。唯一の救いは、この一年半、コウちゃんマジックを発動し、ブスのコンプレックスからは、そこそこ解放されていたことだ。今なら、ばっさりいける。それでも、ハサミがジョキッと音をたてた瞬間は、首筋に寒気が走った。
 女であることがくやしい。
 最初はむかむかと腹が立っていた。しかし、黒髪がバサッバサッと床に積もる頃には、美島さんのことばかり考えていた。つらい場面は早送りして、美島さんの登場シーンをゆっくりと何度も再生していた。彼が現れなかったら、私は不登校になるほど追いつめられていたかもしれない。リンチ野郎たちのせいで男というものに絶望した一方で、美島さんの男らしさに希望の光を見た。プラスマイナスゼロ。いや、どちらかというとプラス。思いの外、髪を切ってさっぱりした。とたんに、自分の本心が飛び出した。
 私は、恋をした。
 あの瞬間、教室で、キューピッドの矢は私に射さっていたのだ。その後、美容室を出て、家に向かう足取りは妙に軽かった。風は冷たいが春はそこまで来ている。もう少しで、このシャリシャリの雪は解ける。跡形もなく消える。花のつぼみと同じような膨らみが、私の体内にあった。
 女としての芽生え。
 その夜、コウちゃんが仕事から帰ってくるなり、とても失礼な発言をした。
「ジュリ、どうした? 失恋でもしたのか?」
「気分転換。やっぱり、変? 長い方がよかったかな」
「いや、ロングは誰でもできるけど、ショートが似合う女子は限られる」
「私は?」
「似合う。かなり、イケてる」
「本当?」
「うん。可愛さがアップした」
「よしっ!」
 何が「よしっ!」なのかはわからないが、小さくガッツポーズをしていた。ショックから立ち直るためにも、気持ちを反対側へ向けるのだ。卑怯な男たちは視界から消して、麗しきヒーローだけを見つめる。
 このまま、ずんずんと素直に恋をしよう。
 やはり帰ってきたママが、私のイメチェンに目をぱちくりして言った。
「思い切ったね。ショート似合う」
 いつもながら、ママはすごいと思う。干渉したいところをぐっと堪えている。敢えて、何があったのかを聞かない。私も今日のことは言わないつもりだ。意外と子供は学校でのいじめは親に言えない。心配をかけたくないというよりは、学校で嫌われるような人格だと思われたくないのだ。さらに追い打ちをかけるように、根ほり葉ほり聞かれたくないというのもある。
 翌日、目が覚めると、また一段と、いやものすごく可愛くなっていた。
 奴らのリンチせいだった。何という因果なのだろう。心は深く傷つき、悲しくて悔しいはずなのに、さらに可愛くなった自分が鏡の中で微笑んでいた。心と体、いや顔のギャップに、またまた胃がきりきりと痛んだ。
 その日の午後、春期講習のために塾へ行くと、何と休憩室の長いすがオーラを放ち、光り輝いていた。
 ヒーローの美島さん?
 人は幻を見ているのではないかと疑う時、目をこすってみたりするものだ。ゴシゴシゴシ。案の定、涙腺に痛みが走った。何という幸運だろう。
 神様、ありがとうございまーす。
 その中性的な優しい顔だち。長いまつげ。すっと通った鼻筋。薄くて艶やかな唇。自然に漂う笑み。利発そうな表情。童顔のコウちゃんとは対照的。美島さんは大人っぽい雰囲気のある正統派のイケメンだ。まぶしい。目がくらむ。
 私はドキドキしながら近づいた。私の顔を覚えているだろうか。
「あ、あのう……」
 美島さんは、手にしていた携帯から目線を上げた。
「ん? ああ!」
 美島さんの瞳が大きく開いた。私を覚えてくれていた。まあ、昨日の今日ではあるが。
「昨日は助けていただいて、ありがとうございました」
「あの後、何ともなかった?」
「はい、無事でした。ここの塾に通っているんですか?」
「いや、一日体験というのに来てみただけ」
「そうでしたか」
「髪の毛、切る羽目になったんだね」
「は、はい」
「引きずらない?」
「えっ?」
 引きずるという大人びた言葉にどきりとした。「大丈夫です。意外と打たれ強いですから」
「そうなんだ」
「はい」
 私は言ってしまってから、女の弱々しさをアピールすればよかったと後悔した。しかし、もう遅い。まあ、猫をかぶっても、すぐに本性はバレる。それにしても、本当に美島さんは、何から何までかっこいい。顔がにやけてしまうのを隠すために、私は手にしていたハスカッブ味の天然水を差し出した。甘酸っぱい恋の味だ。
「あっ、あの」
「ん?」
「これ、助けてくれたお礼です。よかったらどうぞ」
「気を遣わなくていいよ」
「たかが、水ですから」
「そう。じゃあ、遠慮なく。ごちそうさま」
 大きな手がペットボトルを受け取った。この力強い手が欲しい。頬っぺたにぴたっとくっつけて目を閉じたい。それは温かく、安堵の湿布のようにじわじわと皮膚を伝わって全身を包むだろう。
「ボクシングと空手をやってるんですか?」
「ああ、あれ、嘘」
「えっ?」
「はったり」
「そうだったんですか」
 私は思わず吹き出してしまった。「それじゃ、催眠術は?」
「やば……本のタイトル、見られていたんだ」
「はい」
 美島さんは苦笑いしながら声を潜めた。
「そっちの方はやってみようとしてる。内緒だけど」
「かけられるんですか」
「どうかな。まだ、試していないから」
 美島さんは、茶目っ気のある表情をしたが、瞳の奥に寂しさを隠しているように見えた。何か事情がありそうな気がした。催眠術とは何やら怪しかったが、そこはあばたもえくぼ。変わり者というレッテルはぺりぺりとはがされた。逆に、私は美島さんと秘密らしきものを共有した気分だった。少しだけ近づけたようなお得感。しかし、このまま美島さんのパーソナルスペースに、入っていけるほどのずうずうしさは持ち合わせていなかった。いくら、助けてもらったからといって、それをきっかけに恋愛へと発展するなんて、いくら何でも都合がよすぎる。予定調和のドラマじゃあるまいし。しかも、これ以上、引き留めるだけの話がない。渋々、撤退だ。
「それじゃ、あの……」
「あいつらに、また暴力をふるわれたら言いなよ」
「えっ?」
「暴力、大嫌いなんだ」
 美島さんは眉間に皺を寄せて厳しい顔をした。明らかに暴力を憎んでいる表情だった。それにしてもまさかの展開。彼の方からするりと寄ってきた。
「ありがとうございます。心強いです。私、恵本樹里と言います」
 お礼がてら、ちゃっかり自己紹介をした。すると、うっすらと涙がうかんだ。どうしてだろう。感極まるとも違う。きっと、こんなふうに、男の人からやさしくされたことがないのだ。そう、免疫がない。
「僕は美島準。何かあったら連絡して。携帯の番号を教えておくから」
 それは、願ったり、かなったりだった。
「は、はい。お願いします」
「打たれ強いとか言ってたけど、やっぱ、ダメージ受けてるじゃん」
「えっ?」
「泣きそうな目をしてる」
 ええ。泣きそうです。うれしくて。
 キューピッドの矢が、今回限りの大サービス。追加でどさっと十本束になり刺さった。一気に燃え上がった恋心。十三歳にして、この人のためなら、命を懸けてもいいと思った。たとえ火の中、水の中。もう、何でもできる。
 ママ、私は意外と破滅型。つくすタイプの女なのかもしれません。
 その夜、ママがカレーピラフを作った。洋食だけど、おふくろの味。何を隠そう、恵本家ではセレモニーの度に何かと登場する料理だった。ピラフというだけあって、そこそこ本格的だ。洗って水切りしたお米を、バターとカレー粉で炒め、チキンスープで炊き上げる。私が第一位に認定しているメニューのため、ママは勝負料理と位置づけている。その料理が、あまりにもいいタイミングで食卓に出てきたので、私は初恋の事がバレたのかと思って少々焦った。
 まあ、初恋記念を祝う親がいるわけないか。
 食卓の話題は、コウちゃんのお花屋さんのバイトが、見事に半年続いたことだった。パチパチパチ。しかも、コウちゃんの日頃の勤務態度と、仕事に向かう姿勢を見た社長から、正社員として働かないかと打診されたらしい。コウちゃんは、夕食をもぐもぐと食べながら、そんなにうれしそうでもなく、話題のひとつ程度に言った。それを聞いたママも大袈裟に驚くわけでも、特段に喜ぶわけでもなく、ふんふんと頷いた。
 ひょっとして、カレーピラフは コウちゃんの正社員への昇格祝いなのか? 
 大人はわからない。本心を素直に言わない。なかなか表情に出さない。この二人はどうなっていくのだろうと余計な心配をする。
 その夜は、なかなか寝つけなかった。美島さんの顔が見たい。もっと話がしたい。会いたい。それまでは「胸が張り裂けそう」とかいう表現を、あり得ないと笑い飛ばしていたが、まさにそんな感じだった。慣用的表現は侮れない。私は早くも重症のようだった。思い切って、美島さんに電話をしてみようか。いや、緊急事態があったら電話するようにと言われた。格段、何もない。
 奴らがまた暴力をふるってくれたら、今すぐにでも連絡できるのに。
 私は、そんな最低なことを考えていた。恋というのは判断力を鈍らせる。果てには精神を蝕み、狂わせ、暴走させる。それにしても、美だけではなく、恋というさらなる欲求を満たすために、私はまた暴力を求めていた。倫理無視の不条理な領域へと、ずるずると引っ張られている。少し頭を冷やした方がいいかもしれない。このままではいけない。
 女としてのプライドを取り戻そう。
 翌日、私は図書館へ行った。フェミニズム関連の書籍を片っ端から借りて読むことにした。棚に並んだそれらしきタイトル本をぱぱっと五冊ほど手に取り、受付カウンターにどさっと置いた。刹那、背後から小さく声をかけられた。
「よく会うね」
 そ、その声は。
 振り向くと、美島さんの笑顔が二十センチ上空に浮かんでいた。もはや、これは祈った者勝ちだ。会いたくて会いたくて、昨夜ベッドで悶絶し続けたことは無駄でなかった。
 神様、重ね重ね、ありがとうございまーす。
 美島さんは今日も気絶しそうなほどかっこよかった。数秒のほんのりな恍惚を味わった後、はっと冷静になり、とたんに冷や汗が出てきた。借りた本のタイトルを見られてしまっただろうか。
 私は愛想笑いをしてごまかそうとした。
「本当によく会いますね。あはは……」
 そう、十三歳にしてフェミニズム本のてんこ盛りはよろしくなかった。美島さんの視線の動きで、しっかりとタイトルをチェックされているのがわかる。受付の人は私のプライバシーなどお構いなしで、本のバーコードを次々と読みとっていく。他人の目に触れてますけどぉ、と訴えたいが、そもそもタイトルを見られて困る本を借りるな、ということだ。私は目の前に積まれた本を両手で覆いたかった。
 教訓。今度から名作もカムフラージュのために混ぜるようにしよう。
 いつ、何時、誰に見られるかわからない。危機管理のすすめだ。あー、それにしても恥ずかしい。よりによって、憧れの美島さんに見られるとは。当然のように、フェミニズム論に傾倒している女だから偏屈で生意気という印象を与えてしまう。まあ、その片鱗は十二分にあるのだけれど……。私ががっくりと肩を落としかけた時、美島さんがやはり催眠術関係の書籍を三冊、隣のカウンターに置いた。
 いや、待て。彼も相当にあやしいではないか。この瞬間、変人対決はドローだ。やれやれ。
 私は美島さんと何気なく歩調を合わせて図書館を出た。
「やっぱり、この間のこと引きずってるんだね」
 美島さんは、また引きずるという大人語を使った。
「そんななふうに見えますか?」
「だって、フェミニズムとか女性論とか……強くなろうとしているような気がする」
 なるほど。借りた本のタイトルから、そう思われたのだ。美島さんの見解は「暴力に傷つき、それを払拭するため」だ。しかし、実際は「美の維持と恋のために暴力を求めてしまう自分を戒めるため」なのだ。まあ、本当のことはもちろん言えない。
「そんなに大袈裟なものじゃないです。何となくですから大丈夫です」
「これから、何か予定ある?」
「えっ? な、ないです」
「僕の家、すぐそこなんだ」
「は、はいっ」
 それは美島さんの家へ来ませんかというお誘いだった。
 もしかして……。
 いや、そんな親密な関係になることはあり得ない。そんな淡すぎる期待をしてはいけない。単なる友達を家に呼ぶというスタンスだ。知り合いから友達程度にはランクアップしているという感触だ。極論、友達でも出来過ぎなのだ。
 しっかりと立場をわきまえよう。
 それなのに、人間とは欲張りな生き物で、あわよくば今度は友達以上になりたいと心の奥底で思う。奇跡が起きてほしいと願う。何しろ私は「この人のためなら、命を懸けてもいい。もう、何でもできる」と考えてしまうほどお慕い申し上げているのだ。ませた十三歳だ。
 美島さんの家は、昨年できたばかりの新しいマンションの五階だった。
「母親と二人で暮らしているんだけど、母は体調をくずしていて、今、病院へ行っているはずだから」
 美島さんはそう言うと鍵を出してドアを開けた。ガチャッという音が予感めいて聞こえた。同時に心の扉も開いて、そこに美島さんの匂いが流れ込んだ。この時初めて、女の官能なるものを意識した。体内でつぼみが膨らむ感じだ。
「お母さんが大変な時におじゃましてもいいんですか?」
「もう二年近く、そんな状態だから気にしないで。どうぞ」
「あっ、はい」
 何となく気は引けたが、美島さんのパーソナルスペースに踏み込めると思うとやはり足は前に動いてしまった。勢いだけで、ずうずうしく家に上がり込んだ。しかも、冷静に考えると二人きりだ。ドキドキが最高潮に達して呼吸が苦しくなった。幸せな苦しさもある。
「ここに並んだ本を見て」 
 美島さんがリビングにある本棚を指さした。
「あっ!」
 目を疑った。私がたった今、図書館で借りてきた本がほとんど揃っている。それにプラスして精神論、啓発本、心理学など五十冊以上ある。
「母が買った本なんだ」
「お母さんの……」
「いろんな言論の力を借りて、何とか立ち直ろうとしてた。強くなろうとしてた。でも、だめだった……母は、父親の暴力をきっかけに壊れてしまったんだ」 
「えっ?」
「次第に、反抗期の弟までが暴力に荷担するようになって、ついに精神がおかしくなってしまった。二年たっても病状が改善しないから、母の知り合いを頼って札幌に来たんだ。父親と弟の暴力から、恐怖から逃げないとだめだったんだ。今、二対二の別居状態」
「そうだったんですか。だから、私のことを心配してくれたんですね」
「そういうことになるかな」
「ありがとうございます……実は、うちも父親の暴力が原因で、私が六歳の時に離婚してるんです」
「えっ?」
「うちのママは、負けん気が強くて、逆境をバネにするタイプです。今は一家の主としてバリバリと働いています。私はそんな血を受け継いでいるので、リンチされたことが今はショックでも、たぶん大丈夫です」
「それなら少し安心した」
「でも、今振り返ると、ママも最初から強かった訳じゃありません。当時は情緒が不安定で泣いてばかりいました。でも、我慢して、悩んで、離婚して吹っ切れて、だんだん強くなっていきました。だから……」
「だから?」
「美島さんのお母さんも、いつか乗り越えられるような気がします。現に美島さんが側にいて、こんなに心配してあげているんですから」
 美島さんはふっと笑うと、目頭を押さえた。
「そうだね」
 その目は潤んでいた。すごく、つらかったのだと思う。きっと、誰でもいいから聞いてもらいたかった。それが偶然に私だった。あんなに大きく見えた背中が、弱々しく震えているように見えた。お母さんに対する愛情の深さに羨望すら感じた。
「ありがとう。恵本さん」
 美島さんの大きな手が私の頭をポンポンと二回たたいた。
 やったー。いただきました。巷で噂の頭ポンポン。
 その時、意地悪くも、私の携帯が鳴った。塾の時間をセットしていたのだ。何というタイミングの悪さだろう。せっかくいい雰囲気だったのに。短期間で成績アップをうたう春期講習。サボりたいけど、ママが一生懸命働いて塾代を払ってくれていることを考えると、それはできなかった。
 私は意外と真面目なのだ。
「私、塾の時間なので、そろそろ帰りますね」
「うん」
「年下の私が言うのも生意気ですけど……私でよければ、いつでもグチって下さい。そこそこ、ストレス解消になると思います。私、口はとても堅いです」
「ありがとう」
 男の人の「ありがとう」っていいなと思う。コウちゃんに癒されるママの気持ちがよくわかる。
 その夜、美島さんからメールが届いた。そこには、どうして催眠術に興味を持ったのかが書かれていた。最初はクスッと笑って読んでいたが、次第にその意味の重さに切なくなった。
 以前にテレビで見たらしい。
 知的なバイリンガルとして名高い美人キャスターが、「あなたはゴリラです」という催眠術をかけられ、目も当てられないほど全力でゴリラになっているのを。その時に、ふと精神科に通院しても一向に病状がよくならない母親を、何とかできるのではと思ったそうだ。暴力をふるわれたという記憶は消せない。せめて、そんなことは些細なことと催眠術で思い込ませ、心の傷を軽減できないか。その美人キャスターのように理性を忘れさせてあげたい。そんな単純な思いつきだったという。
 全力でゴリラ。
 優等生的な生き方をしている人ほど、生活に疲弊していて、時々、理性を放り出して、わーっと羽目を外したくなるのだろう。普段はとても真面目で几帳面なママがそうだ。ママは仕事が休みの前日、あえて深酒をすることが年に数度ある。その喜怒哀楽のチャンネル切り替えは見事だ。ガハハとけたたましく笑い、がんがんコウちゃんに説教し、めそめそと情けなく私に抱きつく。そして、仕上げにニューヨークパンクの女王パティ・スミスの曲をかけ英語の歌詞をごまかしながら歌う(「Why you、Why you、Why you……」とシャウトするところは聞き取れる)。そして、そのままソファに倒れ込むように眠る。ママが酔ってとる行動にはきちんと意味があるのだ。酒の力を借りて自宅でバカ騒ぎをする。催眠術でゴリラになる。なかなかどうして、女は悲しい生き物だ。
 私は美島さんのからのメールを何度も読み返し、そのまま携帯電話を抱きしめて眠った。
 その夜、美島さんに催眠術をかけられている夢をみた。当然のように「あなたはゴリラです」と何度も暗示をかけられた。しかし、私は意識がしっかりとしており、何度、囁かれても到底、自分をゴリラとは思えなかった。それでも、一生懸命な美島さんを見ていると、ゴリラになったふりをした方がいいのかなぁと思えてきた。一方で、美人キャスターとは違って仕事の悩みやストレスのない私が、それをやってしまっては洒落にならないという気持ちもあった。
           【4】につづく

いいなと思ったら応援しよう!