『ラヴ・ストリート』【26】
真夜中の人魚姫
五十嵐聡美は、壊れて飛び散ったオルゴールの破片を泣きながら集めた。惨めだった。
何がきっかけで、夫と激しい口論になったのかも忘れていた。忘れるくらいだから、大したきっかけではなかった。それなのに、今まで鬱積していたものが突然爆発した。心のバランスも、体のバイオリズムもくずれていたのだろう。それに様々なストレスが加わり、最近は精神状態が最悪になっていた。泣きながら大声で夫を罵倒した。結婚十二年目にして初めてのことだった。
「少しは感謝してくれたことがあるのかよ!」
従順な妻を演じた挙げ句が、この不良のような言い回しだった。夫はそこそこ反論したが口では聡美にかなわない。後半は聡美が一方的に十二年間分の文句をまくし立てた。もう、歯止めがきかなかった。それでも馨が聞いて傷つくような屈辱的な事実、核心の部分は口にしなかった。それ故に、単なる主婦の不満のようにも聞こえた。
聡美は自分のシャドーが、こんなに激しい女であることを知っていた。ただ、ひたすら理性で押さえつけ、良い妻、良い母、良い嫁を演じ、ごまかしてきたのだ。もう限界だった。力の限り叫んだ。
「こんな家、いつでも出ていってやる!」
刹那、夫が聡美の頭を片手で押さえつけ、ソファに向かって投げ飛ばした。
「随分、いい気になってるようだな」
うつ伏せでソファに倒れ込んだ聡美は、あまりの惨めさに言葉を発する気力を失った。接着した前歯が取れて、口元から転がった。それにも気づかなかった。涙だけが流れ続けていた。これが現実だ。やけっ婚の罰だ。悪いのは自分だ。
廊下から、馨が飛び込んできた。そして、出窓に置いてあったクリスタルのオルゴールを手に取ると、リビングの床に叩きつけた。
ガシャーン。心が割れる音だった。
馨は夫を睨みつけている。その瞳は潤んでいる。夫は居たたまれなくなり、コートを手にすると夜の街へと出ていった。馨は二階の自分の部屋へ駆け上がりドアを閉めた。聡美は馨にいちばん見せたくない姿をさらしてしまった。
グレート・マザーになんかなれない。もう、ならなくていい。なりたくもない。疲れた。
聡美はソファから起き上がると、砕け散ったオルゴールを見て、うわあと大きな声を出してさらに泣いた。オルゴールの破片を集め、泣いて、泣いて、涙が涸れるまで泣いた。
いつか、どこかですれ違う。いつかなんて、そんなに待てない。今すぐカレに会いたい。もう一度だけ会いたい。もう一度会えたら、死んでもいい。
聡美は涙が涸れると少し冷静になった。もう一度、何が原因で錯乱状態に陥ったのかを考えてみた。夫が九時過ぎに帰宅しひとりで夕食を済ませた。聡美は食器を洗いながら、テレビを見ている夫に向かって、馨と休日に冬靴を買いに行って欲しいと頼んだ。馨もそろそろ、母親と一緒に歩くのを嫌がる年齢だと思ったからだった。夫は「どうせ俺が選ぶものは気に入らないくせに」と吐き捨てて断った。明らかに棘のある言い方だった。それに対して聡美は何と言ったのだろう。すでに記憶が飛んでいた。気がつくと、馨が幼い頃、風邪をひく度に喘息を悪化させて入院していた頃の話になっていた。寝ずに看病していた聡美は、夫に数時間だけ馨についていて欲しいと頼んだ。しかし、夫は休日出勤しなければならないと言って断った。その後、着替えをとりに家に戻る途中、夫がパチンコ店に入っていくのを見た。聡美はそのことを涙ながらに話していた。夫は「大した病気じゃないのにいつも大袈裟だった」と開き直った。聡美は話をすり替えられた気がした。夫が嘘をついてパチンコしていたことを責めているのではない。馨のことを心配するのが親ではないのか。寝ないで看病している妻をせめて言葉だけでも労ってくれるのが夫ではないのか。そういうことを言いたかった。しかし、仕舞いに夫は「夢でもみたんじゃないのか」と嘲笑で返した。聡美はついに逆上した。我を忘れて叫んだ。次から次へと今まで言えなかった不満を夫へぶつけた。
夫婦なんて、もともとは他人だ。価値観が違いすぎる。血の繋がった家族ですら心底分かり合えるのは難しい。だから、夫が一方的に悪いわけではない。自分にだってたくさん非はある。所詮、夫に愛されていないのだ。かけがえのない存在でもない。そこそこきちんと家庭を守り、家事をこなす、まあまあ合格点の妻といったところだ。そう考えてしまうのは、自分も同じことを夫に対して常日頃から思っているせいだ。
やはり、いつもと同じ結論に達する。別に不幸なわけではない。世の中、こんなものだ。こんなケンカは、日常茶飯事、どこの家庭でもおきている。皆どこかで折り合いをつけて生活している。
玄関のドアが開く音がした。夫が帰ってきた。時計は夜中の二時を回っている。足音は直接寝室へと入っていった。前に見かけたあの女性のところに行ったのかもしれない。それはそれでいい。聡美は強がりではなく本当にそう思っていた。その方が気が楽だった。いっそのこと、その女性がこの家に乗り込んできてくれないか。そうすれば、この家を出ていけるのに。そんなずるいことまで考えた。
オルゴールをどうしようか。
聡美はナイフのように尖ったガラスの破片を手に取った。怪しく光る刃先を見つめるだけで、内なる衝動がにわかに動き出す。こんな光景をどこかで見たことがある。真夜中にナイフを見つめて想い迷う女。小学生の時に読んだアンデルセン童話の『人魚姫』だ。
人間の王子に恋をした人魚姫は、魔法使いに頼んで美しい声と引き替えに人間の足を手に入れる。しかし、王子から真実の愛を得ることができなければ、海の泡となってしまう。人間の姿になった人魚姫は、王子の寵愛を受け幸せな日々を送っていたが、王子は非情にも隣国の王女との結婚を決めてしまう。その夜、泡となる覚悟をしていた人魚姫のもとに姉たちが会いに来る。日が昇る前に、王子の心臓をナイフで突き刺せば人魚に戻れると。人魚姫は震える手にナイフを握り、王子の寝室へ入る。しかし、王女をしっかりと抱き眠る王子の顔を見ると殺すことなどできず、海へ身を投げる。そして泡となってしまう。
悲恋ではあるが、女の子が憧れる物語の一つだ。美しくて儚い。しかし、聡美は小学生でありながら、少し違和感を覚えた。王子は隣国の王女が現れるまで人魚姫をいちばん大切にし愛していた。人魚姫が想いを成就できると確信した瞬間、突然、王子の心変わりだ。
それは身勝手なのでは? さんざん愛の言葉を囁いて、その気にさせておいて。
聡美は人魚姫の純真さに女としての憧れたのも確かだった。しかし、心の奥底では、王子をナイフで突き刺し人魚に戻ることを期待し願っていた。その時から、すでに激しい女の片鱗が顔をのぞかせていた。
今、私が人魚姫だったら・・・聡美は、そう考えながら、ようやく立ち上がった。キッチン下の箱から紙袋を持ってくると、オルゴールの破片をひとつひとつ確認しながら入れていった。
海の泡なんて冗談じゃない。ナイフで迷わず、王子を刺す。でも、海へは帰らない。人魚に戻るつもりもない。真っ赤なドレスを着て、颯爽と街を歩く。正真正銘、強い人間の女なって。
聡美は全てを袋に入れると、ドアを閉めて掃除機をかけた。ソファの上に折れた前歯があった。そこで初めて前歯が取れていることに気がついた。もう歯なんて、どうでもいいと思った。外が白みかけてきた。日が昇る前に決心をした。
王子をひと思いに刺す。もう一度だけ会えたら。
聡美は何事もなかったように朝食の支度をした。そして、七時に夫と馨を起こした。
どんなに悲しくても朝は来る。全てを放り出したい気持ちを抑え、同じスケジュールを淡々とこなす。聡美がした唯一の反抗は、おはようを言わなかったことだけだ。夫はむすっとした表情で朝食を食べる。馨も無言で食べる。いつもと何も変わりない。言わなければ聡美の前歯が取れていることにも気がつかない。
夫と馨が家を出ていった。聡美はどうでもよかったはずの前歯をつけてもらうために歯科医院へ予約を入れた。食器を洗い、洗濯物を干し、掃除機をかけた。完璧に家事をこなすことが夫への当てつけなのだ。
九時半に歯科医院へ行った。欠けた自分の歯をもう一度接着した。次回取れた時は接着面が合わなくなるので、自分の歯ではなくプラスチック製のものに替えるとのことだった。聡美は歯が取れてどれだけ落ち込んだかを医師に愚痴った。忙しい医師に失礼だとは思ったが愚痴る相手もいなかったのだった。白髪で若干頭髪も薄い医師は、優しく頷き、うんうんと聞いてくれた。「自分が思うほど人は気にして見ていないから安心していいよ」と何度も慰めてくれた。大きなマスクの上から見えている優しそうな目がたまらなく嬉しかった。恋に落ちる瞬間の気持ちを少し思い出した。聡美は優しさに飢えていた。治療ために口をだらしなく開き、この上なく恥ずかしい顔をしながら涙が出そうになった。
治療を終えた聡美は駅前でパンをたくさん買い自宅へ向かった。住宅街の道路と並行に小さな川が流れている。その川べりをゆっくりと歩いた。昨日の大雪が嘘のように、日射しが暖かく、積もった雪を急速に解かしていた。まだ十月だ。次に雪が降るのは、十一月の半ばだろう。川は増水し流れが速くなっていた。その音が心地よかった。
水の流れは女のリビドーと似ていると思う。男のリビドーが荒れ狂う暴風雨なら、女は静かに流れる川、もしくは凪の海のイメージだ。しかし、爆発した時のエネルギーは暴風雨を凌ぐかもしれない。
聡美は川の流れを見つめている女子高生を見つけた。学校の授業時間だ。聡美は心配になり、顔が見える距離まで近づいた。人間は瞬時に匂いを嗅ぎ分ける能力がある。野性動物が持つ本能の名残なのだと思う。敵か味方か。自分に近い人間か。遠い人間か。
ここにも自分と同じ目をした人魚姫がいる。見えないナイフを持っている。
「元気がないのね」
「えっ?」
「彼氏とケンカでもした?」
聡美は咄嗟にそう思った。元カレと別れた時、創成川の辺にたたずみ、こんなふうに川を見ていたからだ。あの時、きっと、誰かにやさしく声を掛けて欲しかった。
*
霧島エリは、聡美に優しい声を掛けられ、張り詰めていた心の糸がぷつんと切れた。とたんに涙があふれてきた。
聡美はAラインのコートが似合う上品な女性だった。若々しいが子供のいる母親だとすぐに分かった。泣いているエリの冷たくなった手を両手で包んでくれたのだ。母親特有の愛情表現だと思った。その温かさがじわっと広がり、しびれていた指先に感覚が戻ってきた。もう、子供のように涙を止めることができなかった。
「私の家、すぐそこなの。一緒にやけ食いをしましょう。温かい飲み物を入れるわ」
エリは素直に頷いた。そして、涙をふきながら聡美についていった。入り組んだ小道の突き当たりに白い家があった。聡美は鉄製の扉を開けると、エリの背中に手を回し招き入れてくれた。
エリは玄関を入ってすぐに、家の香りにあっと思った。
「この香り」
「ああ、そこにあるポプリよ」
前に佑香が持っていたポプリと同じ香りだった。
「ひょっとして、佑香ちゃんが言っていた憧れのお母さん?」
スリッパを出していた聡美の手が止まった。
「佑香ちゃんを知っているの?」
「家が向かいなんです」
「向かいって、ワンピースのエリお姉さん?」
「はい」
「世の中、狭いわね」
「そうですね」
エリは、自分が笑顔になっていることに気がついた。
「私は五十嵐聡美と言います」
「聡美さん」
「その呼ばれ方、先輩っぽくて気持ちがいい。どうぞ、お入り下さい」
エリはコートを脱いでソファに座った。佑香が憧れるはずだ。家の中はモデルルームのようにおしゃれで、インテリアがベージュで統一されている。部屋のあちこちに、さりげなくアレンジメントフラワーが置いてある。
聡美はすずらんの絵がついたティーセットを運んできた。そして、熱い紅茶を入れてくれた。
「どうぞ。体が温まるわよ」
「ありがとうございます」
聡美はベーカリーショップの袋を無造作にひっくり返すと、バサッバサッとパンを出した。パンは十個もある。
「頭に来ることがあると、いつもパンをやけ食いするの。エリちゃんもどんどん食べて」
「はい。いただきます」
エリは聡美の意外な一面を見てふっと笑った。朝食を食べていなかったので有り難かった。そして、紅茶が緊張感をほぐした。
聡美はパンをちぎって食べながら、唐突に話し出した。
「私、年賀状の数だけ見ると友達が多いなあって思うの。でも、悩み事を相談したり、何でも打ち明けられる友達って実はいないのよね」
「私もそうです。恥ずかしいところは見せたくないし」
「でしょう? 楽しいことは簡単に共有できるのに、つらいことはなかなか伝えられないし、相手も受け止めてくれそうにない」
「本当の友達に巡り会える人って、そうそういないと思います」
「本当の恋人にもね」
エリは、聡美の的を射た言葉に全てを見透かされているようで、うなだれるしかなかった。
「・・・はい」
「肯定しちゃうの?」
「えっ?」
「エリちゃんを悩ませている彼は、本当の恋人じゃないの?」
「彼は・・・仕方なく私とつき合ってきたんだと思います」
「仕方なく?」
「はい」
「彼がそう言ったの?」
「言われなくても分かります。最初から分かっていました」
エリは今まで誰にも言えなかった本心を打ち明けた。不思議だった。聡美の前では素直になれる。会ったばかりなのに、いちばん近い存在のように感じた。
「エリちゃんが、彼を好きならいいじゃない」
「えっ?」
「私は、そんな簡単なことに気がつかなかったの。中学から五年間もつき合ったのに」
「五年も」
「ええ」
聡美は遠い昔に想いをはせているようだった。「私たちにはアンリトン・ルールがあったの」
「アンリトン・ルール?」
「暗黙の掟。きちんと確認し合っていないけど、お互いが分かっている決まり事」
エリはそれを聞いてどきっとした。光輝と自分の間にもそれは存在していた。
「何だったんですか」
「結婚というゴールはない。家族にはならないってことかな」
「お互いに愛し合っていてもですか?」
「ええ。彼は、紙入れ一枚の制度にこだわるのが嫌だったのかもしれない・・・私は、理解できずに彼のもとを去ったの。夢が壊れた気がした。若かったのね。今、考えたらそんなことはどうでもよかったのに。彼と一緒なら幸せだった」
「今のだんな様じゃ、だめなんですか」
「残念ながら。結婚する相手が本当の恋人とは限らない。大人のずるいところよ」
「私と彼にもアンリトン・ルールがありました」
聡美は意外な顔をした。
「そう・・・どの恋人にも、存在するものなのかな」
「随分それに縛られていたような気がします。共有している秘密がばれた時に別れなければならないって」
「共有している秘密?」
「はい」
「深い事情は分からないけど、元の二人には戻れないの?」
「えっ?」
「エリちゃんの努力で、ばれてしまったという秘密を、また共有し続けることはできないの?」
エリは聡美の言葉に魂が震えた。迷い凍てついていた唇に血が通い出し、じんじんと痺れた。赤く膨れ上がった唇は、もう二度と会えない光輝の存在を欲している。迷いは一瞬にして消え、何があっても光輝を守るという強い気持ちを取り戻していた。
「聡美さん。ありがとうございます。私、決心がつきました」
「さっきと違って前向きな顔になってる。エリちゃんには、今の気持ちを大切にして欲しいな。私みたいに後悔しないで欲しい」
「はい・・・私、本当の恋人のためなら命を懸けられると思います」
エリに確かな殺意が芽ばえていた。
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