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『係恋』第2回

  完璧な男・森村
 私は、過去から現実に戻ると、髪の毛先に手を当てていた。あれ以来、ショートカットにはしていない。ここ近年は肩までのボブスタイルで落ち着いている。もう十年もたったのだ。
 時計を見ると、約束の時間を十分程度過ぎていた。その時、中川さんが息を切らして入ってきた。この程度の遅刻は大したことではないと思うが、約束を守ろうと走ってきたことに、彼女の誠実な人柄を感じた。まさにキャリアウーマンといった印象の女性だ。
「遅れてすみません。お客様からクレームが入りまして」
「いいえ。お仕事、大変そうですね」
「ええ、まあ。この度は、千春に会いに行っていただいて、ありがとうございます」
「いいえ。お力になれるかどうか……」
「そんなことはありません。千春にとって、霧島さんは、頼みの綱なんです」
 頼みの綱という言葉は正直重かった。私が取材に動くことで、この事件の解明に力を貸すことができるのだろうか。早くも胃がきりきりと痛んだ。
 その後、料理とワインが揃ったタイミングで、彼女は静かに話し出した。
「千春が罪を犯す前に、何とかしてあげられなかったのかと、悔やまれてなりません」
 中川さんは、自省の念を抱いているように眉をひそめた。
「千春さん、離婚されたんですね」
「ええ。事件の翌日に書留郵便が届きまして、その中に、手紙と千春の名前だけが記入してある離婚届、今回、霧島さんへ渡す取材費や資料などが入っていました」
「森村さんは、すぐに離婚に応じたんですか」
「はい。千春の手紙の内容を伝えました。もう二度と会わない。会いにもこないでほしい。待っていられても困る。刑期を終えても森村君の元へは決して戻らない。と」
 私はその辛辣とも思える訣別の言葉を、噛みしめるように、手元のノートに筆記した。
「それは千春さんの本心ではないような気がしますが」
「ええ。彼を想っての強がりなのか。本当に忘れようとしているのか……」
「今、森村さんは、どうしていらっしゃるんですか?」
「会社を辞めて鎌倉の実家へ戻りました。私が千春からの離婚届を渡した後、すぐに退職願いを出して会社に受理されました。美緒ちゃんは司法解剖した後、いったん荼毘に付され、彼の実家で密葬をおこなったようです。その後、私は森村君に連絡をとっていませんが、たぶん、そのまま実家にいるのだと思います」
「そうですか……先ほど電話でお伝えしましたとおり、千春さんからの依頼は、前の奥様たちの自殺の原因の調査でした。森村さんを含めて、もう一度、人間関係を整理したいのですが、詳しく教えていただけますか」
「わかりました」
「差し支えなければ、お話を録音させていただいてもよろしいでしょうか?」
「結構です。事実を述べるだけですから」
「ありがとうございます」
 私はレコーダーをテーブルの上に置いて、録音ボタンを押した。一方の中川さんも分厚いシステム手帳をトートバックから出した。仕事、プライベートなど、いろいろと書き込まれているようだった。その時、バッグの内側に、スマイルマークが描かれたキーリングがちらりと見えた。それは伝説のロックバンド『ニルヴァーナ』のボーカルであるカート・コバーンがいたずら書きしたと言われているものだ。目が×マークで舌を出している。
「そのキーリング、ニルヴァーナのスマイリーフェイスですよね」
「よく知っていますね」
「洋楽好きな友達が、そのイラストのTシャツを着ていました」
「私は学生時代に好きだった人が、これをつけていて……私のお守りなんです」
「彼から、もらったんですか」
「ええ、まあ。そんなところです」
 中川さんは、はにかんだ。女は思い出が好きだ。キャリアウーマンがふと垣間見せる少女の顔。思い出の品を持ち続けている淡い恋心に共感し、私は思わず笑みがこぼれた。
 その後、中川さんの話は延々と一時間に及んだ。
     *          *          *
「森村君は鎌倉市生まれ。私と同じ年ですから三十五歳です。一人っ子で、ご両親はともに教師。県内有数の進学校から、K大学へ現役合格したという典型的なエリートです。幼い頃から真面目で成績優秀、人気者で、いつも学級委員に選ばれるような優等生だったようです。そして、誰もが認める相当なイケメンです。しかも、シンプルなアイテムを、さりげなく着こなすファッションセンス。高校時代はファッション雑誌にも載ったことがあるそうです。それがきっかけで、隣の女子校にファンクラブができて、追っかけをしていた子がたくさんいます。今の森村君も相変わらず、かっこいいままです。後で写真をお見せします。でも、本人は至って謙虚なので、同性からも好かれていて友達も多いです。いつも落ち着いていて、物腰が柔らかくて、キレるというのを見たことがありません。私も仕事の悩みを相談したことがありますが、いつも真剣に聞いてくれて、的確なアドバイスをくれます。心が広く、やさしい人です。
 森村君と私は同期入社で、東京の本店に配属になりました。デパートといえば女の職場で、正社員、契約社員、メーカーの派遣社員、テナント従業員を含めて、一店舗あたりの女性の数は数千人を超えます。彼の入社には会社中が色めき立ちました。でも、すでに婚約していたため、彼を狙っていた女性たちは、すぐに白旗を上げました。
 森村君が最初の奥様である山本麻美さんと出会ったのは大学時代で、同じサークルだったみたいです。入社一年目の秋に結婚しました。早いですよね。私は結婚式の時に彼女を見ただけなんですが、もの静かでおとなしい印象でした。小柄でぽっちゃりとしていて、どちらかというと地味な感じ。森村君のようなモテ男は、意外にもこういう古風なタイプの子が好きなんだと、周りは妙に納得していました。そして、結婚して二年後、二人の間には長女の美緒ちゃんが生まれました。その三年後に、次女の奈緒ちゃん。しかし、次女の奈緒ちゃんは生後三ヶ月の時、不慮の事故で亡くなってしまったんです。麻美さんはショックからノイローゼ状態となり、自殺してしまったとのことでした。
 そんな傷心の森村君を救ったのは、婦人服売場の派遣社員だった工藤由衣さんです。彼女は千葉県出身で年齢は私たちより四つ下です。短大卒業後にアパレル会社のS社へ入り、うちのデパートに販売員として配属されました。性格も明るく仕事のできる女性で、売上予算は必ずクリアしていました。販売は天職、笑顔の可愛い魅力的な子でした。由衣ちゃんは当初から、森村君のファンでした。麻美さんが亡くなったことで機会が巡ってきたんです。私は由衣ちゃんに頼まれて、食事会を設けました。彼女の明るさによって森村君は元気を取り戻していったと思います。それから、二年後に再婚しました。その時期に、私は本店から札幌支店へ転勤となりましたので、実際の二人の様子はよくわかりませんが、由衣ちゃんのメールなどを読む限りは、上手くいっていたと思います。ところが、わずか一年後、由衣ちゃんは自殺をして亡くなりました。何の兆候もなかったので、ものすごく驚きました。ただ不眠が続き、心療内科に通院していたという話を後で聞きました。
 森村君の相次ぐ不幸に会社側が配慮し、環境を変えた方がいいと、札幌支店へ転勤になりました。三年前のことです。そして、再び、私と一緒に仕事をするようになりました。そして、私が担当している婦人服売場の契約社員が千春でした。会ったからわかると思いますが、千春はとても目を引くスレンダーな美人です。
 千春は紋別郡滝上町の出身です。保育士になるために進学を決めて、札幌へと出てきました。契約社員として入社し、私の部下になりました。その二年後に森村君が転勤してきました。千春はすぐに森村君に恋をしました。千春は母子家庭で父親がいません。八歳上の森村君は包容力があり、とても魅力的だったと言います。私は千春にせがまれて、森村君と引き合わせました。事前に過去に二度、奥様が自殺していることは話しました。千春ははっきりと言いました。「今度こそ、私が幸せにしてあげたい」と。そして、去年、森村君は千春と再々婚しました。千春は専業主婦向きです。料理や家事は大好きですし、ミシンで何でも器用に作ります。美緒ちゃんが千春にどれくらい懐いていたかはわかりませんが、結婚に反対していたとか、反抗的だったということは聞いたことがありません。あまり美緒ちゃんと接する機会はありませんでしたが、前に見た印象としては、恥ずかしがり屋で、もじもじしている時と、よくしゃべり、テンションが高い時とがありました。顔や雰囲気は、亡くなった麻美さんに似ていると思います」

アンダークラスの女・エリ
 私は家に帰ってから、録音した中川さんの話を、二度再生して聞いた。併せて、SNSに投稿されていたという森村淳氏の写真を見た。なるほど、クールでミステリアスな雰囲気を持った噂通りのイケメンだ。最終更新日はクリスマスで、大通公園のホワイトイルミネーションの写真がアップされていた。「特別な日」とあった。幸せの象徴のような写真に、いったい誰が二十日後の惨事を想像できただろうか。
 私は以前、著書を執筆するにあたり、多くの母親に話を聞いた。将来を悲観するあまり、我が子を殺し、自らも死のうと思ったことがあると語った母親は、一人や二人ではなかった。しかし、誰もがその命の重さに、ぎりぎりの所で踏みとどまる。親には子供の人生を絶つ権利などない。千春さんは、その一線を越えてしまった。十歳という大人になりかけの少女の母親となり、相当な悩みや気苦労があったのだろうか。殺意を抱くきっかけとなる重大な出来事が起こったのだろうか。私もかつて完全に理性を失い、その一線を越えたことがある。今回、千春さんと出会い、彼女の殺人に至る心理を追うという作業は、私に課せられた贖罪でもあるような気がした。人は時として、いとも簡単に狂気に取り憑かれる。私は頭の中で、千春さんと森村氏の人物像を膨らませているうちに、いつの間にか眠りに落ちていた。翌朝、目を覚ますと、全身が疲労感でいっぱいだった。私は一晩にいくつも夢をみる。そして、必ずと言っていいほど、その日にあった強烈な事象が形を変えて現れる。だから、夢の残像が、目覚めたばかりの脳と肉体を圧迫し支配していた。
 私は寒風の中、暗い都会のビル街を走っていた。雪のない見知らぬ遠い街だ。高層ビルが連なっているのに、灯りひとつ点っていない。車も走っていない。人影もない。辺りはしーんと静まりかえっている。私の足音だけがアスファルトに冷たく響く。迷って、迷って、不安に駆られ、ひたすら走った。完全に方向を見失った。ついに息が切れて立ち止まった時、向こうからひとりの男性が歩いてきた。咄嗟に、私はその人物が、森村氏だと思った。駆け寄ろうとしたが、疲れた足は根が生えたように動かなかった。
 慌てて森村さんの名前を呼んだ瞬間、目が覚めた。寝起きとは思えないような早い動悸を抱えたまま、白い天井を見つめた。そこに、はっきりと覚えている夢を再生した。相当に心が急いている。すぐにでも取材に飛び出していきたかった。しかし、私はいつもの現実に、大きなため息をつくしかなかった。仕方なく起き上がり、出社の準備を整えた。
 私の職業欄は、某コールセンターの「契約社員」だ。「フリーライター」とは間違っても書けない。ライターを生業とするのは難しい。この世の中、本当にやりたいことを仕事にしている人は、どれくらいいるのだろう。お金を稼ぐために皆どこかで妥協し、ため息をついて働いている。やりがいなどは後回しだ。当然、生活が優先される。毎日、電話の声に向かってひたすら詫びて頭を下げる仕事だ。一方的に激昂し、狂ったように暴言を吐きまくる人たち。これが理性を有する人間なのだろうかと、つくづく悲しくなる。この仕事も長くなるが一向に慣れることはない。私は引きずるタイプなので、それは想像以上にストレスだ。帰宅してからもぐったりとし、バイタリティーはすでに吸い取られている。前作以降、なかなか筆は進まない。その間に時代は移り変わり、集めた資料はすぐに過去となり、書きかけの原稿はボツとなる。書きたいテーマが、山のようにあるのに進まない。今の夢は、取材や書くことに没頭したい。時間がほしい。それだけだ。
 勤務先に頼み込んで、来週の水曜日から五日間、たまっていた有給をとらせてもらうことにした。こんな時のためにと、どんなに体調が悪くても、無欠勤、有給未消化を貫いている。それでも、あまりに急な申請であったため、いい顔はされなかった。代務できるところは、同僚の田中聡美さんが引き受けてくれることになった。
 聡美さんは十七歳年上だが、いちばん話が合う大切な友達だ。彼女はライター夏目啓太郎氏の学生時代の元カノで、去年、ひとり息子の成人を機についに離婚した。聡美さんを忘れられず、独身を貫いてきた夏目氏と再婚するのかと思われたが、限りなく仲のよい友人というスタンスを維持をしている。専業主婦歴二十三年というブランクから仕事探しに困っていた彼女を、このコールセンターに誘ったのは私だ。ストレスは多いが時給は悪くない。
「エリちゃん、東京に取材かぁ。行くって言ったら、光輝君、喜んだでしょう」
「ええ、まあ」
 南城光輝。私の恋人だ。
 光輝は私の運命を大きく変えた。高校二年生の時に出会ってから、もう十年になる。昨年、彼は東京へ転勤になった。二、三年は札幌へ戻らないだろう。
「光輝君と結婚して養ってもらえば、ライターに専念できるのに」
 聡美さんが笑いながらも、本気で言った。確かに、光輝は家事を強いたりするタイプではない。仕事にも理解がある。しかし、楽をしたいという理由で結婚するのはずるい。一時は執筆に没頭したいがために、市内の実家に戻ろうかと思ったこともある。結局はそれもまた多大なストレスであるため踏みとどまった。幼い時から、私はいつも両親に、姉と比較されて育ってきた。二人の愛情はいつも姉に注がれていた。現在、大病院で看護師として働く姉は自慢の娘だ。一方、売れないノンフィクションを書いているだけで、何の取り柄もない私は、早くエリートを見つけて結婚しろと言われている。だから、闘うよりは逃げるが勝ちと家を出た。結局は今のまま、契約社員として時給制で働くのが、好きなライター業を続けられる手っとり早い方法だ。
「でも、聡美さんから、専業主婦を勧められるとは思ってもみませんでした」
「なんか、それもありかなぁって思うのよ。確かに二十三年間、どんなに具合が悪くても一日として家事を休まなかった。だからといって、夫も息子も別に感謝してくれないし、家族らしい楽しい会話があるわけでもない。でも、ずっと孤独で寂しかったけど、とりあえず生活の心配はなかったのよ。ようやく離婚して、家政婦扱いされる生活からは解放されたけど、手に職がないから生活はきつきつ。どっちが幸せなのか微妙でしょう? 世の中の主婦が、DVやモラハラに耐え続けて、ついには家庭内別居してまでも仮面夫婦を続けなければならない理由がよくわかるわ。女って、つくづく損な生き物よね」
「確かにそうですね。いまだに男女格差って感じます」
「それなのに女は男と対等に働かないと社会的に認められない。専業主婦はお気楽だとバカにされる。政府は経済活性化のために女性も働けって、やたらとキャンペーンをうってくるでしょう? それなのに、やれ子供をたくさん産め、しっかりと母親しろ、いい女、妻でいろって言う。さらに子供の健やかな成長のために、食育と教育の手を抜くな。嫁として介護するのは当然って、どれだけ女はがんばればいいのかしらね」
「聡美さん、まさか離婚したことを後悔してないですよね」
「もちろん、してないわよ」
「それは夏目さんと自由に会えるようになったからですか」
「まあね。もう二度と損な女には生まれたくないって、いつも思うんだけど、啓太郎といる時だけは女でよかったって思うのよねぇ」
 聡美さんは結局のろけると幸せそうに笑った。離婚を決意し、一歩を踏み出した聡美さんは、随分と自立した女性に見える。一方の私はライター業も、腰掛け契約社員も、光輝との関係も、全てが中途半端のままだ。
     *          *         * 
 今日もまた、森村に脅迫メールが届いた。
 正確には、森村の過去の写真が添付されたメールだ。そして、必ず英語でのひと言が添えられている。今回は、『Unemployment』、失業しただ。いつも弱点をしっかりとついている。どうして、こんなプライベートなことまで知っているのだろうと、彼は常々不思議に思っている。たとえ探偵を雇って調べさせたとしても、なかなか探り出せないようなマニアックな情報が盛り込まれていることもある。かなり痛いところをえぐってくる。そうかといって、ものすごい恐怖感を与えているわけではない。金品を要求されたり、何かをしろと指示されたり、これをするなと禁止されたことはない。そのため、本当の目的は何なのかわからない。いつもあなたを見ていますよ、という軽いアピールなのだとしたら、いい加減うんざりだ。最初に届いたのは大学二年生の時だから、もうかれこれ十五年になる。なかなかのしぶとさと根性だ。犯人はしつこい粘着質タイプの人間だと思っていたが、ここまでくると軽く習慣化しているのではないかと思う。ついつい脅迫メールを送ってしまう。送らずにいられない。ストーカーの域を越えて依存症なのかもしれない。いずれにしても閑人だ。今更、犯罪だと騒ぐ気もない。犯人探しをしようとも思わない。面倒くさい。ただ写真をばらまかれるという不安はいつもつきまとう。たまに「誰だ!」と返信してやりたくなる。
 そんなことを考えながら、彼は実家近くの海岸を散歩していた。三十半ばにして、こんなふうに暇を持て余すとは思ってもみなかった。彼は会社の同期の中でも断トツの出世頭だった。よりによって妻が殺人犯になってしまうとは。離婚によって、すぐに赤の他人とはなったが、それですむ話ではない。そして、殺されたのは、近くにいながら遙か遠くから、ぼんやりとしか見ていなかった娘だ。最初の妻と同じ目をした娘。あまりにも凄惨な事件であるはずなのに、六年前、三年前と、妻二人の葬儀の喪主をつとめた悲劇の夫には、もう運命を嘆く力など残っていなかった。死に次第の境地とでも言おうか。麻痺してしまっている自分につくづく呆れるだけだった。事件から一ヶ月がたち、ようやく周りのことが少しずつ落ち着きはじめた頃、彼は肩の荷も、守るものも、将来への不安もなくなっていることに気がついた。こうして頬に当たるのは、冷たい海風なのに妙に心地いい。自らをずるい人間だと思った。全てを札幌の街に、あの白い雪の中に放り出してきた。逃げてきたにすぎない。とにかく疲れていた。今はこの生家のある鎌倉で、年のせいかすっかり丸くなった両親に多少は憐れんでもらいながら、のんびり過ごすのも悪くないと思っている。もう自慢の息子でも何でもない。リセットするためのモラトリアムが与えられた。何という人生だろう。脅迫状を十五年間ずっと送り続けた人間の執念が実り、まんまと不幸になっている気がする。最愛の人を失った。仕事も社会的信用も失った。それなのに脅迫メールは一向にやまない。どん底に落ちるまで、いや死ぬまで続くのか。
 森村は海風に頬を殴られ、情けなく波打ち際にしゃがみ込んだ。そして、湿った砂を指先で集め、やりきれない思いのままに強く握った。無作為な造形はすぐに波が打ち消し平らに戻した。
「久しぶりね」と女性の声がした。
 森村が振り返ると、そこにいたのは中学時代に付き合っていた遥香だった。突然のことに驚き、最初は寂しすぎた男が見た幻影かと思った。彼女はとても清楚な美少女で男子の間で静かな人気があった。森村もどこか儚げで大人っぽく見える彼女に好意を抱いていた。それぞれの想いは自然と態度や視線で伝わる。二人が恋人同士になるのには、さほど時間がかからなかった。森村ファンの女子生徒たちは一斉にため息をついた。
 そして今、二十年ぶりに冬の海で見る彼女は、以前にもまして美しかった。大人の女だった。長い髪、ほっそりとした体型は、当時そのままだ。特に好きだったのは、その長いまつげと濁りのないきれいな目だった。いつも瞳がしっとりと潤っていて、会う度にまぶたに口づけたい衝動に駆られたものだ。
「遥香、どうしてここに?」
「友達が一昨日、ここで見かけたって聞いたから」 
「俺に会いに来たってこと?」
「ええ」
 彼は昔から遥香の「ええ」という大人びた返事が好きだった。心地よい響きだ。
「正直だね。哀れな男を慰めにきてくれたの?」
「逆よ。慰めてもらいたくて来たの」
 遥香はそんな思い切った行動ができるタイプの女ではなかった。いつも受け身だった。きっと今日も一晩じゅう悩んだ末に来たのだろう。
「何かあったの?」
「夫が殴るのよ」
「そんな最低な奴とは別れなよ」
「子供の将来のことを考えたら、母子家庭になるわけにいかないの……」
「俺が慰めたら、少しは気が紛れる?」
「ええ。だから来たの」
 海岸沿いの小道に彼女の乗ってきた黒いレクサスが見えた。そこそこの暮らしはしているのに幸せではないのか。そう思いながら、森村は手についた砂を丁寧にはらいながら言った。
「じゃあ、これから天国にいこうか」
「えっ?……あっ、あの……」
「そこも、ええって言わなくちゃ」
 彼女はようやく、くすっと笑った。その笑顔は森村の記憶に男を呼び込んだ。急速に彼女を欲した。苦しい時、悲しい時、過去を振り返る。一方で未来に目をつぶる。森村は卑怯であっても過去へ逃げるのも悪くないと思った。無知のまま抱き合ったあの頃に戻りたい。夏なのに震える遥香は、この上なく美しかった。

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