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『ラヴ・ストリート』【9】

アン王女とショートカット
 霧島エリは、顎のラインまで伸びてきた髪の毛を指でつまみ長さを確かめた。そろそろ髪の毛を切ろうと思った。ショートカットにしてから少しでも伸びると気になり、すぐに切りたくなる。もう髪の毛を伸ばすつもりはない。油断すると心に広がっていく光輝への想いを髪の毛と一緒に切り捨てている。
 エリが家の前の道に差し掛かると、背の高い男が立っていた。側に自転車がある。向かいの今野家を訪ねてきた教育委員会の人間だと思い、目を合わせずに素通りしようとした。
「すみません。霧島エリさんですよね」
「はい」
「フリーライターの夏目と言います」
 啓太郎は、すぐに名刺を差し出した。「その制服、セイジョですよね」
「はい・・・」
 エリは名刺を受け取っていた手を素早く引っ込めると、少し後ずさりした。
 啓太郎はエリの警戒した様子を察したのか、自らも一歩下がって笑った。
「制服マニアじゃありません。うちの母がセイジョなので知っているだけです」
 エリはさらに怪しみ、家に駆け込めるように玄関フードの扉に手を掛けた。
「何かご用ですか?」
「一年前。一千万円を拾って届けましたよね」
「えっ?・・・はい」
エリは啓太郎の予期せぬ質問に首をひねった。
「その時の状況を教えていただきたいのですが」
「状況って・・・道に落ちていたのを拾って届けただけですけど」
「朝、登校するために地下鉄の駅に向かって歩いていると、歩道の脇にバッグが落ちていたんですよね」
「はい」
「で、中を開けてみると大金が入っていた」
「はい」
「で、すぐに交番へ届けた」
「どうして、そんなことを確認してるんですか?」
「パチンコ店であった強盗事件について調べているんです」
エリは驚き、一瞬、目を大きく見開いたが、すぐに普通の顔を作った。しかし、激しい動悸がして声が出にくい感じになった。
「ああ。その事件で盗まれたお金でしたよね。おかげで指紋まで採られました」
「結局、犯人の指紋は出なかったんですよ。事件も未解決のままです」
「そうだったんですか」
 エリは初めて知ったような口ぶりだったが、報道されている限りの情報は全て知っていた。動悸はさらにひどくなっていく。喉が締めつけられて苦しい。
「あの事件、謎が多くて」
「謎ですか?」
 エリは扉から手を放した。謎・・・。
「ええ。それで何か手がかりはないかと、いろいろと聞いて回っているんです」
「私はお金を拾っただけで事件のことは分かりません。警察に聞いて下さい」
 エリは迷惑そうな表情を作り、啓太郎を遠ざけようとした。
「そうですよね。分かりました」
 啓太郎は、何故か、あっさりと引き下がった。そして、自転車にまたがるとエリに頭を下げた。「お忙しいところ、ありがとうございました」
「いいえ」
 啓太郎がペダルに足を掛けたのを見て、エリはほっと胸をなで下ろした。しかし、啓太郎の次の言葉で、事の重大さを再認識することになった。
「やっぱり最後の目撃者に当たってみることにします」
「最後の目撃者?」
啓太郎は少しずつ走り出していた。
「ええ。公園にいた男女が最後に犯人を目撃しているんです。では」
「あ・・・」
 こちらから質問を返す間を与えずに、啓太郎はその場を走り去ってしまった。エリは引き留めて確認したい衝動に駆られ、啓太郎の大きな背中をずっと見つめていた。
 最後の目撃者。
 あの時に出た咄嗟の嘘が、最後の目撃者という存在を位置づけてしまったのだ・・・・・・。
 エリの心臓は壊れそうなくらい激しく動いている。その震動が体を伝わって耳元で響いた。しかし、啓太郎の姿が夕暮れの中に消えてしまうと、それは余計な心配のようにも思われた。もう啓太郎と会うこともないだろう。
 私は別人だ。私はショートカットの女の子なんだから。
 幼い頃から、ずっとロングヘアーだった。女の子はおしとやかなイメージがいいという母親の好みで、姉ともどもそうさせられていた。ピアノを習わされたのもその類の発想だ。エリは親に気に入られたくて自分の意志を捨て、全て言うとおりにしてきた。その方が無難な気がしていた。
 しかし、一年前、光輝と出会ってしまった。別人になる必要があった。どうしようと迷っていた時、通りかかった店先のワゴン内に『ローマの休日』のDVDを見つけた。小学生の頃、遊びに行った祖父母宅で、その映画を見たことがあった。
 アン王女が身分を隠して街に飛び出して庶民の生活を楽しむ。はらはら、どきどきの連続だ。そして素敵な恋をする。彼女はきらきらと輝いていた。小学生のエリでも十分に楽しめた。アン王女を素敵な女性だと感じたのは、彼女が王女に戻ることを承知ではめをはずしているからだった。タイムリミットまで精一杯、普通の女性になる。ラストの女王としての立ち振る舞いに凛としたものを感じた。
 その中でもいちばん印象深いのは、アン王女が街の美容院で髪を切るシーンだ。
 アン王女はどうして髪を切ったのだろう。
 一見、ただの気まぐれか好奇心のように思える。しかし、それには深い意味があった。きっと自分を変えたかったのだ。変わろうとしたんだ。一歩踏み出してみる。恋をしてみる。
 エリは光輝と出会い、『ローマの休日』に誘発されて、すぐに髪を切った。別人になった。変わろうとした。一歩を踏み出した。それが綻びの原因になるとは知らずに。
 エリは手にしている啓太郎の名刺を見て、再び言い知れぬ不安に駆られた。光輝とエリを繋ぐ見えない糸に、啓太郎が足を引っかけて転んだ。そのまま何事もなかったように、すっと立ち去って欲しい。いつまでもその場所に立ち止まって原因を探ろうとしないで欲しい。糸の存在を見つけないで欲しい。切らないで欲しい。
 エリは家へ入った。リビングから大学生の姉と母親の笑い声が聞こえる。居心地の悪い家。エリは父、母、姉、家族全員を、そっち側の人間と位置づけていた。敵ではなく、自分が絶対になりたくない人間だ。家族や周りの人間に、そんなことを感じている同志は、世の中にたくさんいると思う。そもそも、そんなふうに思ってしまう自分が悪いのだ。だから、この状況を不幸だとも思わない。
 すぐに二階の自分の部屋へ入りドアに鍵を掛けた。この空間だけが救いだった。カバンをベッドに放ると勉強机に向かって座った。そして、一番上の引き出しの鍵を開け、キルティングのポーチを取り出した。不安になるとその感触を手で確かめたくなる。
 拳銃がここにあることを、彼は知らない。
 エリはポーチから拳銃を取り出した。デザートイーグル44マグナム。カラスの濡れ羽色をしたボディ。殺傷能力を誇示するようにずっしりと重い。エリはしっかりと拳銃を握ると立ち上がった。そして後ろを振り返った。壁には鏡が掛かっている。その中にショートカットのエリが映っている。エリは鏡の自分に銃口を向けた。
「バンッ」
 口で銃声を真似てみる。

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