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『ガールズ・クライシス』【1】
【あらすじ】
自称可愛げのないブスな少女ジュリは六歳の時に両親が離婚。明るいフェミニストの母と二人で暮らしてきた。小六の時、偶然母を助けた青年、広大(コウちゃん)と同居することになる。母よりも十歳年下で頼りない広大は、気弱に母に片想いをしている。ジュリは、優しくておっとりとしている広大とは大の仲良しで、兄妹のように会話も弾み楽しく過ごしている。
そんなある日、ジュリは勘違いから広大に対して盗みを疑い、怒りをかって偶発的に殴られてしまう。ショックに大泣きするが、翌日目覚めるとは気持ちは一転する。なんとジュリの顔が突然美化していたのだ。それをきっかけに、若い男に殴られると顔が美しくなるという法則に気づき、広大に暴力を求めるようになる。責任を感じる広大をよそに、どんどん性格も明るく前向きになっていくジュリ。そして、上級生の美島に恋をする。その一方で、暴力=美という功罪に依存していく自分に葛藤し、落ち込み、思い悩む。女という弱者、外見美への執着、暴力への迎合、そして母性。ジュリは日々考える。「どうして女に生まれてきたのだろう」と。女という性、宿命からは逃れられない。
思春期を迎えた少女ジュリが日々感じるジェンダーとその悲哀。おもしろくも、ほろりと後味の複雑な青春物語。
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どうして、女の子に生まれてきたのだろう。
目覚めてすぐに哲学的なことを思った。あと少しだけ、夢と現実の間を行ったり来たり、曖昧な微睡みの中をさまよいたかった。それなのに、品行方正な朝の光とともにパッとまぶたが開き、逃れられない現実がすっと入ってくる。だから、今朝も目覚まし時計を寸止めした瞬間から、風船が一気に膨らむほどのため息が出た。これも呼吸の一環、生きている証だと思うことにしよう。偉人の格言を真似てみる。
生きることは、悩み続けることである。
本日も然り。いくつものため息が低い天井に当たり、私の上に降り積もった。そう、雪みたいに、しんみりと冷たく染み入る。
雪の感触をリアルに想像できる私は、生粋の北海道女だ。
そして次の瞬間、すぐに違うことを考えてしまう私は、生まれながらにして女だ。
女はいつも連想の数珠繋ぎ。思考がぽんぽんと飛び、話は転がる。夢は膨らみ、じわじわと不安が広がる。時には被害妄想。悲劇のヒロイン。
鏡よ、鏡よ、鏡さん。
いつの時代も女は鏡を見るのが好きだ。(最近はナル系男子も好きらしい)。決め顔や髪型、身なりを映しては、こと細かくチェックする。自画自賛で収まらない時は、画像に納め、SNSで拡散し、評価を求める。賞賛を欲しがる。果てはインスタの女王。ナルシシズム大いに結構。かの白雪姫の魔女が固執したほどの暴走に発展しなければ、個人の自由だから別にいいと思う。多少盛ろうが、修正しようが、嘘のベールをまとおうが。ちなみに私が唯一執着するのは足だ。おかげさまで、足だけは細くてきれいだと誉められる。だから、ついついその気になり、ウインドーなどに映して眺めてしまう。あれあれ、やっていることは同じか。しかし、私は洗顔の時以外、鏡をまじまじと見ることはない。必要もないし、見たくもない。単純明快。
私は自他ともに認めるブスだ。
ブスと人は簡単に言うけれど、この顔に生まれたくて生まれてきたわけではない。私が産声を上げた時から、相当なハンデを背負っていることを、世間には理解してほしい。だからこそ、侮蔑ではなく、やんわりとした同情と、さりげない気遣いをお願いしたい。
話は戻る。つまりは、その大嫌いな顔を鏡に映す必要に迫られているのだった。
そう、顔を……グーで殴られた。
パーではなくてグーだ。ジャンケンではパーの勝ちだが、殴るに関してはグーの方がはるかに強い。ダメージは大きい。変な理屈をこねたが、つまりは右側の頬が腫れていないか確認しなければならない。洒落にならないほどの青あざになっていたらどうしよう。学校に行けない。
ブスに輪をかけて不幸な少女です。
そう自らアピールして歩くようなものだ。先生が虐待を心配して、あれこれ聞いてくるかもしれない。転んだなんて見え見えの嘘は通用しない。いっそのことマスクで隠そうか。それもわざとらしい。
どうして、女の子に生まれたのだろう。
きっと男だったら、ケンカの勲章とか、やんちゃによる名誉の負傷とか、ボクシングの練習ですとか、あれこれ言い訳ができるのだろう。ところが女は到底無理だ。そんなこんなで、朝から手厳しい難題と向き合うことになった。もう、布団から出たくない。一日を開始したくない。このまま、柔らかに沈んでいたい。札幌の五月は、まだまだ温かい布団が手放せない。私をやさしく包んでくれるありがたい存在だ。私は昔から寝るのが何よりも好きだ。暇あれば寝ていたい。だから毎日十時間以上は睡眠をとる。現実逃避する。いつかは寝るのが惜しいほど、現実に夢中になれる日がくるのだろうか。
目覚めはあんなにすっきりだったのに、わずか数分で胃がぎゅーっと雑巾を絞るみたいに捻れて気持ちが悪くなった。どうして、脳内の葛藤が胃にくるのだろう。人間の体の仕組みは不思議だ。手足のツボ、ふくらはぎなどが、自律神経や内蔵とつながっているらしい。小学生で早くもストレス性の胃炎だなんて、この先が思いやられる。
コウちゃんのせいだ!
昨日、私はコウちゃんから見事なまでにグーの一発をくらったのだ。もちろん、こんなことは初めてだった。
コウちゃんはママの恋人だ。
と思う。ママより十歳年下で、性格は温厚、おっとりとしている。おまけに童顔イケメン。断じて暴力的な人ではない。そんな無害な人を私は怒らせた。
事の発端は、私の机の引き出しから五百円硬貨がなくなっていたことだった。
「コウちゃん、私の机の中にあった五百円、使ったでしょう?」
私は、ちょっと断定的に言ってしまった。
コウちゃんは、珍しく口を尖らせて、向きになって言い返してきた。
「使ってないよ」
「正直に言ってくれたら、怒らないけど」
私は別に、それほど責めているということもなかった。
「だから、使ってないって」
「じゃあ、どこに消えたのかなぁ」
「知らないよ」
私は、少々しつこかった。
「本当に怒らないから」
「知らないって言ってるだろう!」
「じゃあ、誰が盗んだの?」
「いい加減にしてくれ!」
コウちゃんの声は耳をふさぐ子供の叫びに似ていた。きっと「盗んだ」という言い方がよくなかったのだ。いや、泥棒呼ばわりされることに、何かトラウマがあるのかもしれない。確かに私も悪かった。気がつくと、怒りに震えた短気な拳は、見事に私の右顔面をとらえていた。ちなみに、コウちゃんは左利きだ。
バコッ。
沈むような音が奥歯にずしーんと響いた。口の中が少し切れて血の味がした。かなり痛かった。
殴らなくても……。
十二歳の小学生が言う戯言に、真面目にキレる二十七歳もどうかと思う。精神年齢が相当に低い証拠だ。現に、生意気でませている私とは話が合う。対戦ゲームをすると声を出して一喜一憂し、勝つまでやめない。単純で子供っぽい、大人の残党のような人だ。
しかし、そんな人間性をわかっていても、さすがに殴られるのはショックだった。それとこれとは話が別だ。次元が違う。暴力は最低な行為だ。許せない。私は悲しみのあまり、奥の部屋へ走ると、二段ベッドを駆け上がり顔を伏して大泣きした。
コウちゃんが殴った!
わーわーと二時間泣いても涙は止まらず、石のように悲しくて動けなかった。殴られるのが、こんなにつらいとはじめて知った。世の中ではDVや児童虐待が問題になっている。涙の日々を送っている女性や子供が大勢いるのに、その数は一向に減らない。抑止効果のある啓蒙活動をもっと行うべきだ。
いったい行政は何をやっているのだ!
そんな政治批判にまで考えが及んだ。頭が次々と社会に対する怒りを辿っていった。このこまっしゃくれた感じが私の本質だ。顔だけでなく性格も見事にブスだった。そのかわいげのなさと救いようのなさに、さらに涙が出た。
ベッドから出るに出られず、そのまま晩ご飯を食べ損ねた。空腹は悲しみを増幅させる。私はひっくひっくと泣きじゃくり、ぐーぐーと鳴り続けるお腹を抱え、悲哀にぐしゃっと押しつぶされて、そのまま眠ってしまった。頬がひりひりする、心もひりひり……。結局、泣き疲れて、十三時間も眠った。
そのせいか、今朝はいつも以上にすっきりと目覚めた。日が変われば、心の傷は癒えるかと思いきや、それはずっしりと重く、心の奥の方をぐりぐりとえぐったままだった。私はベッドの上段からふらふらと下りてきた。何も知らないママはベッドの下段で口を半開きにして、いい女台無しで熟睡している。ママは大通駅にあるコールセンターで働いている。契約社員だ。美人で愛想よし、スタイルよしで、ミセスモデルみたいだと思う。声だけの仕事がもったいない。
いつも、お仕事、お疲れさま。
私は自慢のママに会釈し、起こさないようにそっと部屋を出る。今週、ママは遅番出勤だからあと数時間は寝ていられる。
私はリビングでテレビをつけた。朝の情報番組ではテンションの高い女子アナが、目をぱちくりさせながら、天気を伝えていた。
「今日は雲ひとつない快晴でしょう」
私の心は曇天、いや土砂降りだ。
私は口を尖らせ、つるつるピカピカの美人アナウンサーに対し、軽く八つ当たりの文句を言った。そして、寝ているコウちゃんの方を襖越しにじろりと睨んだ。ひっそりとしている。起きてくる気配はない。私とは顔を合わせずらいのだろう。
どの面下げて、私の前に出てこられるのだ!
私はむっとしたまま、足の裏に力を入れて洗面所へと踏み入った。いよいよ、殴られた顔の確認だ。試合後のボクサーみたいにあからさまに腫れていたらどうしよう。やはり学校を休んでしまおうか。そんなことを思いながら、バサバサのロングヘアを耳にかけ、右目でそっと洗面台の鏡をのぞき込んだ。
えっ? きれいに……なってる?
私は正面に向き直った。私の顔は昨日と明らかに違っていた。目がくっきりぱっちりと二重になり、まつ毛もバサバサと長くなっていた、ような気がした。
嘘。なんか、ちょっと可愛い……。
そんなわけがない。気のせいだ。殴られて、泣きすぎて、少し顔が変わっているだけだ。でも、冷静に考えて、醜くなることはあっても、美しくなるなんてことはあり得ない。そんな不可思議な現象が起こるはずがない。一体、どういうことなのだろう。私は顔の部位をひと通り指でなぞってみたが、答えが出るはずもなかった。
はいはい、まずは落ち着こう。
昨夜は風呂に入り損ねていたため、一旦、頭を空っぽにしてシャワーを浴びた。すぐに育ち盛りの体が空腹を思い出した。そのまま、鏡を素通りしてリビングへ戻った。そして、いつものように自分で朝食の用意をした。フルーツグラノーラに牛乳をかけるだけのお手軽朝食だ。私はそれを食べながら、冷静に考えた。昨日からの一連の流れを何度もリピートした。サクサクサク。先刻の鏡に映った自分の顔を思い浮かべた。咀嚼は脳を活性化させる。サクサクサク。
そうだ。寝ぼけていたのだ!
私は立ち上がると、また洗面所へいって鏡をのぞいた。
やはり可愛い……。
顔が違う。向こうにいるのは、私だけど、私ではない。自惚れではなく、可愛くなっている。そう言えば、芸能人はよく過去の顔と現在を比較される。きれいになっていると、整形疑惑などと騒がれることがある。私も世間同様に彼女たちを疑惑の目で見ていた。しかし、成長とともに女の顔は本当に変わるのかもしれない。私にもその時期が訪れたのではないか。確かに、先々月、初潮もきたし、胸も膨らんできたし、そろそろ思春期だし。まあ、いい方に変わったのだから、快く現実を受け入れよう。
私は再び食卓へ戻った。昨夜食べ損ねた分を取り返すべくお皿に半分、グラノーラをおかわりした。
*
一年前、コウちゃんは、地下鉄の階段で転倒したママを、かっこよく受け止めた。
突如現れた勇者のようだった。
らしい。そこまではよかったが、残念なことに、コウちゃんはその反動で足を骨折してしまった。巻き添えをくった形だ。張本人のママは無傷だった。責任を感じたママは治療費を負担し、コウちゃんが治るまで面倒を見ることを申し出た。もちろん、ママのせいなのだから、当然と言えば当然だ。コウちゃんは一人暮らしで頼る人もいなかった。
退院後、松葉杖のコウちゃんは、自宅アパートの階段の上り下りが大変なことから、しばらくの間、我が家で暮らす事になった。うちのマンションにはボロいがエレベーターはある。一時的対応として、奥の六畳間にあった二段ベッドを押し入れから離し、布をパーティション代わりに張った。つまり、私たち親子のテリトリーの向こう側、押し入れの上段がコウちゃんの部屋になった。全く来客扱いをされていないひどい待遇だが、男特有の遊び心がうずくのか、コウちゃんは思いの外、粗末な寝床が気に入っていた。
我が家の押し入れに住みついたおかしな青年。
そして、同居をはじめた初日、コウちゃんは大袈裟なほど、ママの料理をおいしいと絶賛した。思わず「グルメリポーターか」とツッコミを入れたかったが、まだ心を許すほどの仲でもなかったため自重した。その後、納得したのだが、コウちゃんは男の一人暮らしで相当ひもじい思いをしていたらしい。絶食の後、塩すらもついていない白米おにぎりが、ものすごくおいしいと感じる、という類だ。ママは料理が決して下手ではないが、一手間二手間かけるという向上心はない。だから、ごく平凡なメニューをごく普通の味で作る。しかし、コウちゃんにとっては、手作りの温かい家庭料理というだけで十分だっだ。ママは幼い頃から、何をがんばっても、実姉と比較され、親に誉められたことがなかった。結婚後も夫から誉められなかった。だから、ママは、コウちゃんの「おいしい」という単純な言葉が嬉しくてたまらなかった。おだてだとわかっていても、特上のご褒美なのだ。
気の強い女ほど単純だったりする。
実のところ、ママは女らしい外見を裏切り、自分で稼ぎたいという男気のあるタイプだ。だから、コウちゃんのように従順で、虚勢を張ることなく、気弱で頼ってくるような草食系男子が好きなのだ。(何で、正反対だった父親と結婚したのだろう?)。一方のコウちゃんもママの偉大なる母性にぞっこんだ。ちなみに私はママと顔が似ていない。間違いなく、父親似だ。ぼんやりと記憶にある父親の顔は偏差値40以下だった。ママも、私の顔を見る度に、思い出したくもない男の顔を、ちらちらと思い出さなければならない。申し訳ないと思う。その点、コウちゃんは相当なイケメンで、戦隊ヒーローの主役ができそうだ。可愛い感じで、偉そうでないところが、ママの癒しなのだと思う。ママは男に強さや生活力を求めていない。思いやりと優しさがあればそれでいいと言い切る。
そんなコウちゃんは見事なまでにフリーターだ。
かなりのヘタレ君なので、バイトは長続きせずに転々としている。骨折した時も長期療養のため、案の定クビになってしまった。つまり、いつも金欠病のため、我が家の居候は願ったりかなったりだった。巻き添えにしてケガをさせたしまったママは、実は疫病神ではなく、彼にとって救いの女神だったのかもしれない。かれこれ同居をはじめて半年がたつ。とっくに足は完治しているのに、居心地がいいのか、出ていく気配はない。ママも追い出す風がない。そして先月、ついにコウちゃんは借りていたアパートを解約して、本格的に我が家に腰を据えてしまった。ママへの依存度がさらにアップした。でも、ママは、コウちゃんがいると幸せそうだから許す。私も何となくほんわかしている。
*
またまた話は戻る。私は、突然、可愛くなった。
目覚めた時のどんよりとした不安が笑い話のように、俄然、学校へ行きたくなった。何か自慢がある時の登校への高揚感は凄まじい。早く級友に食いついてほしい。反応してほしい。そんな前向きな気分で家を出た。
見事な北国の五月晴れだった。厳寒から解放されて大きく伸びをした青空と、額からぽかぽかと伝わる橙色の陽気が、顔も花もほころばせた。今年の札幌は桜の開花が少し遅く、遅咲きの八重桜は今ようやく満開になっていた。私はその香の下を通り過ぎた。足を止めて見上げる。八重桜は色が濃く、衣装も豪華で美しい。何でも桜というのは、私たちを意識してか下向きに咲いてくれるらしい。健気でしおらしいから、心惹かれるのか。
さくらー、さくらー、と思わず口ずさみそうなウキウキ感のままに学校へ着いた。友達の反応は想像以上にあからさまだった。教室に入ったとたん、おしゃれ女子のノンちゃんが、すぐに声をかけてきた。
「ジュリちゃん。なんか、急に可愛くなった」
ノンちゃんの言う通りだったが、一応、謙遜した。調子にのるにはまだ早い。確証は得ていない。
「えっ? そんなことないと思うけど。でも、ありがとう」
素直にうれしかった。こんなふうに容姿を誉められることなど、一生ないと思っていた。人生何が起こるかわからない。だから、その日はずっと浮かれ気分で、やたらとガラス窓にぼんやりと自分を映して眺めた。それにしても、一旦は思春期だからと結論づけたものの、やはり疑問は残る。大人になるにつれて、少しずつきれいになっていくのならばわかる。それが今朝、突然、はっきりと認識できるほど、顔が美化するなんて、やはり、あり得ない。
まっ、まさか?
ぽっと灯が点るように、その考えが浮かんだ。それは、頭の中でもこもこと大きく膨らみ、下校する頃には、ずっしりと重い確信に変わっていた。
家に帰ると、コウちゃんが神妙な面もちで、リビングに正座していた。昨日の今日だ。しかし、すでに私は悲しくもなく、格別に腹が立ってもいなかった。コウちゃんの暴力よりも、唐突な顔の美化の方が重要案件だった。
コウちゃんが頭を下げて「ごめん」と言いかけた瞬間、私は遮るように言った。
「ねえねえ。コウちゃん。お願いがあるんだけど」
「えっ、何?」
「もう一度、殴ってくれない?」
「ひゃーっ」
コウちゃんは、空気を飲み込むような変な声を出した。「俺が悪かった。謝るよ。ごめん。寸止めするつもりが運悪く当たってしまった。本気で殴るつもりはなかった。本当にごめん」
「謝る必要ないよ。お金を盗んだって、疑った私が悪いんだもん。怒って当然。だから、もう一度、殴って」
「だから、反省してるから、そんな冷や汗の出る当てつけを言うなよ」
「当てつけてないよ。そんなに本気じゃなくていいから、殴って。お願い」
私はとにかく殴ってほしくて、可愛らしく懇願してみた。
「五百円返すから、勘弁してくれ」
「やっぱり、盗んでたの?」
「断固として盗んでないけど、殴らないといけないなら払う」
「もう、コウちゃん、まどろっこしい」
「どっちがだよ」
「私ね。コウちゃんに殴られて、ちょっとだけ、きれいになったの」
「言っている意味がわからない」
「コウちゃんには、わからないかもしれないけど、ほんと微妙に顔が可愛くなったの。よーく見て。目とか二重で大きくなってない?」
「えっ? まあ、確かに……何となく……って、どう考えても、そんなのあり得ないだろう」
「だって、それしか理由、考えられないもん」
「絶対にない。殴られて可愛くなるなんて、現実逃避のための妄想だ」
「だから、それを確かめたいの」
「いやだ」
「お願い」
「いやだ」
「じゃあ、殴ったことをママに言う」
「えっ?」
「ママは男の暴力は絶対に許さないの。ちなみに離婚の理由もそれだから」
「それは……困る……」
「殴るか、ママにチクられるか。どっちか選択」
コウちゃんは、首をひねり、真面目に数分考えた。そう、真面目に。
「殴るのは無理だ。いいよ。ママに言って」
「ママはコウちゃんのこと嫌いになっちゃうよ」
「仕方ない」
「追い出されちゃうかもよ」
「自業自得だ」
「もうっ。そういう変な四字熟語は知ってるんだから」
私はここで引くわけにいかなかった。「じゃあ、殴りたくなるように、コウちゃんを怒らせてみようかな」
「俺は自慢じゃないけど、滅多に怒らない」
私は腕を組み、口元にいやらしい笑みを浮かべて言った。
「いつになったら、まともな仕事につくの?」
「うっ……」
「二ヶ月と続いたためしがないじゃない」
「ちょっと、イラッとした」
「でしょ、でしょ」
「ちょっとだよ」
「男のくせに、根性も気合いも足りないのよ」
「それはわかってる」
「このままだと、一生結婚できないよ」
「自分でも嫌というほどわかっているだけに、なんか腹が立ってきた」
「いい、いい。その感じ。若者が働きにくい社会、それを作っている政治に対する不満も一緒にぶつけてみよう」
「ずいぶん範囲を広げたな。でも、確かにイライラしてきた」
「その勢いで、一発、お願いします」
「わかった。今回だけだぞ」
コウちゃんはやっぱり単純で扱いやすい。
パシッ。
今回はグーではなくパーだった。自分が望んだとはいえ、そこそこ痛かった。でも、ダジャレじゃないけど、コウちゃんが効をそうした。
【2】につづく