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『僕はCに分類されている』第三章

 第三章 失踪
 2003年、私は高校教師として、紋別市のK高校に赴任した。
「二年生の国語を担当されます、水原葉子先生です」
 私の名前が薄暗く寒々しい体育館に響いた。何百もの好奇の目と、無関心の目が入り交じり、整列を強いられて並んでいた。今日から新しい生活が始まる。教師としての職務を果たす。私は本当の意味での自立をずっと渇望していた。
 私が実家を離れた二日後、入れ替わるように三つ年上の兄が東京から札幌へ戻ってきた。研修先に市内の大学病院を選んだからだ。それはもちろん両親の希望だった。兄は両親から期待されたとおり医師になった。父親の跡継ぎという最低限のノルマは達成した。
 私は中学三年の誕生日から現在に至るまでの約八年間、一度も兄と会っていない。兄は大学進学を機に上京し、その間は札幌の実家に帰ってこなかった。だから、今度は私がその役目を引き受ける番だ。本来排除されるべき異物は、私の方なのだ。私さえ家にいなければ、両親とその愛息という理想の家族が維持される。そう呟いて、雲ひとつない青空を見上げた。犠牲者を演じている自分が、あまりにちっぽけで恥ずかしくなった。それは建前、言い訳だ。本当は兄と会うのが恐かった。どう向き合えばいいのか分からなかった。何もなかったかのように、平静を装うことなどできない。あんな出来事があったのだから。あんな出来事は、この広い世界の中で、どれくらいの比率で起きているのだろう。心の整理がつかないままに、兄と再会しても何の解決にもならない。あの時の少年と少女は、その後、互いに人生経験を積み、心も体もさらに成長している。その変化に驚き、戸惑い、また沈黙するだけだ。時として沈黙は、心の奥底に眠っている感情を目覚めさせ、制御不能にする。
 八年前。私の十五歳の誕生日に、その沈黙が訪れた。私が学校から帰ると、母は買い物に出かけていて留守だった。私はプレゼントのワンピースが、廊下のクローゼットに隠されているのを知っていた。きっと母好みの清楚なデザインのワンピースだろう。それでも、誕生日は愛情を感じられる唯一の日だった。その日だけは、母の視線がずっと自分に向けられているような気がした。だから、早く帰ってこないかと窓から外をうかがっていた。程なくして、急な速度で灰色の雲が流れ込むと、瞬く間に土砂降りとなった。そして、庭に咲き始めていた紫陽花を激しく叩いた。成長に不可欠な潤雨が時として花たちを痛めつける。私はその理不尽さにもどかしさを感じながらも、大人ぶって諦観していた。
 その時、兄が二階から静かに下りてきた。兄は私の誕生日を覚えているだろうか。私は彼の声をしばらく聞いていなかった。進学校へ通う兄とは生活のリズムが異なり、ここ数年は食卓で顔を合わせることがほとんどなかった。しかも、兄は来春の大学受験に向けて、ほとんど部屋から出ることなく猛勉強をしていた。小学生の頃は日焼けし、いつも友達と元気に明るく外を飛び回っていた。しかし、中高一貫の進学校に入学してからは次第に笑顔が消え、眉間にしわを寄せる孤高の哲学者のようになってしまった。兄が通っていた学校は少人数制の男子校で、北海道の至る所からエリートたちが集約していた。兄は親が敷いたレールの上をライバルと同じスピードで、休むことなくひたすら走り続けなければならなかった。兄にとって、それは恐らく限界ぎりぎりの全速力だ。時々垣間見る姿は、追いつめられた逃亡者のようだった。額にぎとぎとした汗をにじませ、視線をいつも泳がせていた。そんな不安定な視線が突然私をとらえた。兄はじっと私の顔を見つめたまま近づいてきた。兄の青白い顔は、次第に血の気を取り戻し、頬が少しずつ紅潮していった。そして、一瞬、昔のような穏やかで温かい表情を浮かべた。兄はいつもやさしく、私がせがむと嫌な顔一つせず、遊びの相手をしてくれた。だから、その表情がものすごく懐かしく嬉しかった。私は沈黙を保ち、その表情を母性すら抱いて見守っていた。兄は私の前で立ち止まると、何か言おうとして言葉を呑み込んだ。刹那、私の唇はふさがれた。
 えっ?
 何が起きたのか分からなかった。激しい雨音が途絶え、空気は静寂を保ったまま張りつめていた。私の肉体は頭からつま先まで無に溶け込み、視界はぼんやりと白い空間を見ていた。そんな中で、唇だけが人間の体温と息づかいを感じとった。脳がかろうじて導き出した答えは、抽象的かつ客観的な二文字だった。
 キス。
 呼吸、感覚、思考すべてが一度に停止した。それは嫌悪という危機を察知する感情を曖昧にし、道徳観念を鈍らせた。私は抵抗、憤怒、罵倒、逃避といった拒絶のための手段をひとつも講じることができなかった。それは同意と似た構図を描いていた。
 ガシャーン。その時、体を引き裂くような音が響きわたった。我に返った兄は、慌てて唇を離すと、脱兎のごとく後方のキッチンから廊下へ回り、ばたばたと階段を駆け上がっていった。私だけがその場にぽつんと残された。床にはケーキの箱、割れた赤ワインが飛び散っていた。ビンの破片は凶器のように光り、その刃先は何かを暗示するかのように、私の方を向いていた。
 その凶器の持ち主は、雨の匂いをまとった母だった。帰宅するなり、私と兄の姿を目にし、あまりの衝撃に、手にしていたケーキとワインを落とした。いや、故意に叩きつけたのかもしれない。母の猜疑心に濁った目は瞬きを忘れ、私を凝視していた。その表情はもはや衝撃や驚愕を通り越し、憎悪に支配されたものだった。母親にとって想像を絶するほど耐えがたく、おぞましき出来事が起きたのだ。鼓膜に突き刺さる破砕音、怪しく光るガラス片、ワインの匂い、屋根を打つ激しい雨、憎しみに充血した母の目。それらは罪悪の象徴として、私の五感に刻まれ、体の内部にとどまり、ずっと痛みを発し続けることとなる。
「お母さん、違うの・・・」
 私は母にそう言いかけて、言葉に詰まった。何が違うのだろう。否定? 何を否定すればいいのだろう。誤解? 何を誤解されたというのだろう。弁明? 何を弁明したいのだろう。頭の中で言葉がぐるぐると回っていた。私はある意味で被害者だ。責められる理由などない。むしろ同情されるべきだ。私は悪くない。
「突然、お兄ちゃんが・・・びっくりして・・・」
 真実を言ったものの、兄の行為に対して明確な拒否の態度をとらなかったことに、妙な後ろめたさを感じていた。母は恋愛に関してはとても潔癖性で、私に対して遠回しに貞操を説いた。いつも小説を引き合いに出し、純愛を描いた青春小説は善、奔放な性を描いた早熟な小説は悪という観念を植えつけた。そんな母親であっても、今の状況を考えれば、救いの言葉を発してくれるのではないかと思った。戸惑う娘を抱きしめてくれるのではないかと期待した。しかし、母の口をついて出た言葉は、私を突き放すものだった。
「自分の部屋にいなさい。お母さん、ここを片づけたら行くから」
 部屋へ行くように命じられるのは、私の存在を消したいという母の気持ちのような気がした。私は汚れたのだと思った。罪悪感、嫌悪感、挫折感といった負の感情を、全てこの時に知ったような気がする。誕生日が来る度にパンドラの箱は開く。
 私はうなだれたまま静かに階段を上がり、部屋に入ると外界を遮断するようにドアを閉めた。まだ雨の音がしていた。悲しいというより悔しい涙がこぼれた。涙は静かに止めどなく流れ続けた。何度、母の言葉に傷つき、このように泣いてきただろう。
 一時間ほどして、母は私の部屋へやってきた。そして、今回のことがなければ、一生知らずに終わっていたであろう真実を告げられた。
「自分を責めるようなことはしてほしくないから、本当のことを言うけど、葉子とお兄ちゃんは、血が繋がっていないのよ」
「えっ?」
「お兄ちゃんはお父さんの子、葉子はお母さんの子」
 私はそれを理解するのに、少し時間がかかった。その場をおさめるための作り話にしては、あまりに事が重大すぎた。
「それぞれの連れ子ってこと?」
「そう考えてもらって構わない。だから恋愛感情を抱いたとしても、それは十分にあり得ることなのよ」
 母親の語気が強まった。それは今回のことを正当化しているようで、私は納得がいかず、少し感情的になった。
「恋愛感情なんて、これっぽっちもない」
「お兄ちゃんの方は、どうなのかわからないでしょう。さっき、お父さんとも電話で話したんだけど、ほとぼりが冷めるまで、お互い離れた方がいいんじゃないかって。実はコンルチプ村というところに知り合いがいてね。短期のホームステイを受け入れているの。とても静かで環境のいい所よ」
「コンルチプ・・・」
「ええ。二ヶ月間だけでいいから、この家を離れて欲しいのよ。夏休みが終わって帰ってくる頃には、お兄ちゃんの下宿先を確保するから」
 母はまた兄を優先した。こんな時でさえ私ではなく、兄の心配ばかりだった。私の傷はどんどん深くなる。救ってくれる気配もない。
「私が行かないとだめなの?」
「だって、お兄ちゃんは受験があるけど、葉子はそのまま高校へ上がれるから、別に影響はないでしょう」
 あまりに短絡的だった。母は思春期の少女がどれほど傷ついたか、全く想像がつかないでいた。それともキスなど些細なことなのだろうか。血の繋がらない兄妹間では起こり得る、ちょっとした事故なのだろうか。私は悲しみを通り越して、諦めの境地に達していた。
「わかった。行く・・・」
「夏休みが終わるまでだから」
 母は勝利し頷いた。そして、私は一学期の途中でホームステイすることになった。出発は一週間後と決まった。母はとりあえず目障りな私を排除することに成功した。こんな言い方はいやだが、加害者ではなく被害者が不利な立場に追いやられる惨めさ。蔑ろにされることへの寂しさ。この時から私は両親に対して、特に母親に対して、はっきりとした不信感を持った。唯一血が繋がっているであろう母親を憎んだ。振り返れば今に始まったことではなかった。母はいつも兄ばかりを優先した。愛情はすべて兄に向いていた。わかってはいたが、それでも同じように愛されたかった。
 その夜、母が無言で部屋にプレゼントのワンピースを置いていった。私が欲しかったのは、誕生日プレゼントではなく、愛情だった。私はワンピースを取り出すと、手で思い切り引き裂いた。それでは気が済まず、ハサミで細かく裁断した。こんなふうに物に当たり、発散できているうちはまだよかった。標的はいつの間にか自分自身へと移行していった。兄の行動に対して、はっきりと拒否できなかった自分を責め、激しく嫌悪した。友達に相談しようかとも考えたが、受け取る側の温度差を恐れた。興味本位の噂話として広まることを危惧した。誰も心から信頼できなかった。振り返れば、いつも友達の前では、元気で明るく差し障りのない人間を演じていた。そんな生き方をしてきたことに対しても腹がたった。かろうじて理性で止めていたが、自分をずたずたに切り裂きそうだった。泣きながらノートいっぱいに「死にたい」と書いた。それでも衝動は収まらず、精神が錯乱し眠れなくなった。夜が怖くなった。嘔吐を繰り返した。食事が採れなくなった。私は学校へも行けず、ベッドに横たわり、コンルチプへ出発する日までを過ごすしかなかった。その間、母は相変わらず兄にばかり気を遣い、私の様子を見に来るのは三度の食事を運んでくる時だけだった。母の表情が敵意に満ちたものに見えた。同性だからわかりあえるというのは理想論にすぎない。針のむしろだった。この家にいたくなかった。仕方なく承諾したはずのホームステイが、いつの間にか現実から逃避できる唯一の手段となった。出発の前夜、父が点滴をするために部屋へやってきた。その姿は、父親ではなく、淡々と処置をする医者だった。父は昔から遠い人だった。厳格で気難しく、近づけないような雰囲気があった。改めて父とは血が繋がっていなかったのだと思った。父と兄は本当に容姿が似ている。そして、私と母は、それ以上に似ている。これが家族を二分するはっきりとした線引きなのだ。母の言葉が思い出された。
「だから恋愛感情を抱いたとしても、それは十分にあり得ることなのよ」
 それが正論ならば、私と父が恋愛関係になってもおかしくないということだ。今、私が起き上がって腕を伸ばし、目の前にいる父を抱きしめ、キスをしても母は同じことを言って納得するのだろうか。そんな馬鹿げたことを考えられるほど、私は狂っていた。視界がぼんやりとかすんだ。点滴が効いたのか、私はようやく深い眠りをにつくことができた。そして、目が覚めたのは、コンルチプだった。私はまる一日以上眠り続けていた。
 コンルチプでの二ヶ月間は、あまりにも穏やかで自由だった。家族というプレッシャーから切り離されてはじめて、愛されなくてはと懸命に優等生を演じて続けていたことに気づかされた。学校も同じだった。誰からも好かれようとして、必要以上に快活な人間を演じていた。家族の前でも友人の前でも、素の自分を出すことができなかった。いつも人に気を遣い、精神的に疲れていた。その挙げ句に自分の家からもはじき出された。私は自分に言い聞かせるしかなかった。もっと、つらい境遇の人は世界にたくさんいる。私は格段に不幸なわけではない。十五歳の少女が考えた精一杯の自己擁護だった。そんな私を、神様が哀れんでくださったのか、コンルチプという思いがけない休息地が与えられた。
 コンルチプでは体が脳が心が外へ出たがった。陽光を欲した。私は新鮮な空気を思い切り吸い込み、大自然の音に耳を傾けた。鳥のさえずり、木々のざわめき、風のささやき、川のせせらぎ。音に誘導されるように、花とハーブが咲き乱れる道をゆっくりと歩いた。時にはベンチに座り、好きな本を読んだ。そして、何よりも心優しい友達に巡り会うことができた。彼には素直な気持ちを打ち明け、涙を見せることができた。それは自分でも驚く変化だった。しかし、二ヶ月は、あっという間に過ぎた。私は、また現実へと引き戻された。札幌の家に戻ると、兄は学校に隣接する寮に入っていた。母は手塩に掛けた大切な息子が目の前からいなくなり、生活に張り合いをなくしたようだった。私が目の前を通ると恨めしそうな顔をして大きな溜息をついた。私は家に居ることが以前にもまして寂しくなった。そうかといって、外界が自由で開放的な訳ではなかった。都会の喧騒に頭痛を感じ、世の中の不道徳を目にしては辟易した。たった二ヶ月間で、教室の空気すら変わってしまったように感じた。みんなと喜怒哀楽がずれないように懸命に合わせた。学校生活もそれだけで疲れてしまい、放課後や休日に友達から誘いを受けても理由をつけて断った。部屋にこもり、そうかといって勉強や読書をする集中力もなく、抜け殻のような時間を過ごした。そんな無駄な時間であっても、経過することによって過去を忘却へと導いてくれるのであればよかった。しかし、空白はスクリーンと化し、ワインが割れる音を何度もフラッシュバックさせた。その日の精神状態によって、それは激しい嫌悪の感情を引き出し、私を煩悶させた。
 翌春、兄が東京の大学へ進学すると、母は何かにつけて兄の元へ行くことが多くなった。その間だけはプレッシャーから解放された。私も高校生になり、皆のように大胆に遊んだり、恋愛してみようかと考えた。しかし、やはり精神的に疲れるだけだった。
 ひとりで部屋にいると、いつも征慈の事が思い出された。無性に話がしたいと思った。花の切り戻しや球根を越冬させる話は、今でも深く心に残り、支えとなっている。もっと、いろいろな話が聞きたかった。私は静かに目を閉じ、コンルチプの風景を思い浮かべては散策した。ルヤンペの森、コタンコロカムイ、天然芝のグラウンド、汗を流す瞬、『ノチュ』のオープンテラス、征慈のやさしい微笑。ところが、想像を繰り返すうちに、コンルチプの風景が執着心とは裏腹に、ぼんやりとかすんでいった。忘れたくないと思えば思うほど現実から遠ざかり、都合のいい脚色と虚構の中で曖昧になっていった。思い出すらも失っていく私は、母親の目から遠ざかることばかりを考えるようになった。それなのに、私の顔はどんどん母親に似ていった。地下鉄の窓に映る自分が、私を冷視する母親の顔そのもので、思わず目をそむけることもあった。どこにいても息苦しかった。故郷でもないのに、コンルチプに帰りたいと思った。私はコンルチプを懸命に探した。しかし、この情報社会にありながら、地名にすら行き当たらなかった。しまいには、寂しすぎる私が作り上げた幻の世界だったのではと思うようになった。私の心は無い物ねだりに疲れ、ついにはコンルチプを諦めた。そして、大学卒業を機に、ようやく私は家から、母から逃げ出すことができた。もう二度と家へは戻らないだろう。オホーツク海から吹きつける冷たい風は、常に疎外感を感じてきた孤独な私に似合っていた。
       * 
 紋別市はオホーツク海に面した人口三万人弱の地方都市だ。流氷の街として有名で、砕氷船ガリンコ号は、全国的にもよく知られている。私は北海道に住んでいながら画像でしか流氷を見たことがなかった。流氷は鳴くという。その声はどんなものなのだろう。喜びなのか、悲しみなのか。長い旅を経て岸にたどり着いた彼らは、何かを教えてくれるに違いない。私は赴任先が紋別に決まった時、そういった期待や願いを頭に思い浮かべた。そして、ようやくこの街に辿り着いた時、流氷は無情にも遙か沖の彼方へと旅立っていた。答えは来年に持ち越しとなった。
 私は寒々しいアパートで、仕事に対する不安と闘いながら荷物を片づけていった。不要なものは全て処分してきたはずなのに、思い出の品に出会っては、その焦燥感に何時間も立ち止まった。そして、何とか形だけ整えて学校の始業式を迎えた。
 私は体育館での全体式を終えてから、副担任を受け持つ二年E組の教壇に立った。いきなり八十の瞳に凝視され、手先と膝がかすかに震えた。私は緊張を解くために、深呼吸をしながら窓側へ、一瞬、視線をずらした。その瞬間、あっと声を出しそうになった。ひとりの男子生徒が、陽光を背負うように浮かび上がっている。端麗な顔立ち、愁いに満ちた表情。私はすぐに向き直ったが、その残像にすら、胸が締めつけられた。当然のように挨拶をする声は、とてもか細いものとなった。
「ふ、副担任の水原です」
「緊張してかんだ。可愛いーっ」
 廊下側の生徒から冷やかしの声が上がり、教室中にどっと笑いがおきた。私は窓際の男子生徒を、視界から外すことができずに、片隅にとどめていた。彼が口角だけで静かに笑っているのが見えた。とたんに、緊張で冷たくなっていた私の頬は、紅潮し熱を持った。私は一瞬にして彼に気持ちを持って行かれ、つられるように微笑んでいた。
「至らないところもあると思いますが、一生懸命がんばります。よろしくお願いします」
 静かな拍手がおき、私は少しだけ緊張感から解放された。私はもう一度、窓際の男子生徒をちらりと見た。この未知の場所で困難にぶつかった時、助けてくれるのは、なぜか彼のような気がした。横で見守ってくれているベテランの山崎先生を差し置いて、そう錯覚した。体の中で眠っていた感情が、とくんと脈を打った。
 私は無難に挨拶を終え、ほっとして教室を出た。ひんやりとした廊下をひとりで歩きながら、耳元まで響く動悸を、まだ感じていた。頭の中で、あの男子生徒のことを考えていた。こんな一瞬で、強烈に誰かに惹かれることなどあり得るだろうか。そう自問しながら冷静になると、つり橋効果のことが思い出された。つり橋で出会った男女は、恋に落ちやすいという有名な学説だ。つり橋を渡る時のどきどき感を、恋愛感情と誤解する。そうだとしたら、私は初めて教壇に立った緊張感を、彼に対する好意と勘違いしたのかもしれない。その考えは妙に私自身を納得させた。
 その日の放課後、掲示物を貼るために教室へ行った。誰もいないはずの教室に油断した顔で入ると、あの男子生徒が自分の席に座り、頬杖をつきながら外を見ていた。私は不意を突かれ言葉に詰まった。私はまだ彼の名前を知らなかった。彼は私に気がつくと立ち上がり、余裕のある笑顔を浮かべて言った。
「やっぱり来ると思っていました」
「あっ、えっと」
「吉川佑介です。先生を待っていたんです」
「私をですか?」
「はい。先生は何か部活の顧問をされるんですか?」
「いいえ。今年は特に予定はありません」
「じゃあ、新しい部を作りたいので、顧問になってもらえませんか」
「えっ? ちなみに何部ですか? 私、スポーツは苦手なんです」
「文芸部です。ボク、作家になりたいんです」
「文学なら、少しは力になれるかもしれません。教えられるかは分からないですけど」
「ぜひ、お願いします」
「じゃあ、山崎先生に話してみますね」 
「ありがとうございます」
 私は何とも言えない緊張感と気まずさから逃れるために、手にしていた時間割を掲示板に貼り出した。佑介は再び席に座った。私は背中に佑介の視線を感じていた。
「先生、実家はどこですか?」
「札幌です」
「じゃあ、独り暮らしか。ここは田舎で退屈ですね」
「いいえ。私、流氷を見たことがないから、楽しみにしています。流氷って鳴くんでしょう?」
「この頃は、あまり鳴かなくなったって大人は言います」
「どんな音ですか?」
「内側から絞り出すような切ない感じの音。鳴くというよりは嘆きという感じです」
「嘆きなんて表現、さすが文学的ですね」
「たぶん、ボクは同世代よりは大人だと思います。そこそこ大変な経験もしていますから」
 彼の意味深長な言い方が気になり、私は佑介の方を振り返った。佑介は愁いに満ちた表情をしていた。それが自然なのか、故意なのかはわからない。どちらにしても、佑介は自分の思う方向に事を運んでいく術を知っている。自信を持っている。それは羨ましく感じられた。
「流氷が接岸したら、ボクが独り占めできる場所へ案内します」
「独り占め?」
「はい。水産加工場の脇道を抜けると、秘密の海岸があるんです」
「でも、吉川君に案内してもらったら、独り占めじゃないですね」
「確かに。じゃあ、ボクは少し離れて存在感を消します」
 佑介は微笑みながら大きく瞬きをした。「ボクは、先生と気が合いそうです」
「そうですか?」
「はじめて先生を見た時、何かを感じたんです。運命みたいなもの」
「吉川君は人をその気にさせるがうまいですね。もう、運命とまで言われたら、部活の顧問を引き受けるしかないです」
 運命とは、それまでの私にとって、避けられない因縁、大きく立ちはだかる壁のようなものだった。しかし、佑介の口から発せられると、それはくすぐったい秘め事のようだった。私の方も運命を感じていたと誤解しそうだった。おそらく佑介に対して好意を抱かない女子生徒はいないだろう。彼には天性の魅力がある。その魅惑的な表情、好意的な発言、すべてが計算されているようだった。私は懐疑的になる間もなく、彼の笑顔に屈した。気があるような口振り、思わせぶりな態度は、才色を自覚している彼特有の遊戯なのかもしれない。それを余裕で受け止めるのも、教師としての度量のような気がした。
 その三日後、文芸部は発足した。活動場所は図書室の一角となった。そこへ佑介はひとりでやってきた。
「吉川君の他に入部する人はいないんですか?」
「今のところは」
「来週の新入生歓迎会の部活紹介で、部員募集をしましょうか」
「ボク目当てで、やる気のない人が入ってくるのは嫌です」
 佑介があまりにまじめな顔で言うので、私は可笑しくなった。
「吉川君はずっと、もててきたみたいですね。でも、入部の動機はどうであれ、文学に興味を持ってくれればいいのではないですか?」
「ボクだけでいいです」
「そういうわけには・・・部活として機能するためには、部員は最低で五人必要って山崎先生に言われてるんです」
「わかりました。あと四人、ボクが連れてきます」
 翌日、佑介は幼なじみの森啓太と小竹真美ら四人を連れてきた。しかし、彼らはすでに野球部に所属しており、佑介に頼まれて仕方なく引き受けたという感じだった。
 それでも、真美は一人っ子で、家に帰っても退屈という理由で、野球部の練習がない時は図書館に顔を出した。彼女は野球部のマネージャーが、適任の明るく元気な生徒で、とても好感が持てた。
「先生、初めてキスしたのはいつですか?」
「えっ?」
「誰にも言いません。ねっ」
 いつも真美の際どい質問に、私は苦笑しながら答えた。
「中三の時、同級生でした」
 私は記憶を勝手に征慈にすり替えていた。
「先生、見かけによらず早い。どんな人だったんですか?」
「ものすごくピュアで、さりげなく側にいてくれる感じの人でした」
「やっぱね。私も昔は外見重視で、断然、佑介ファンだったんですけど、この頃は・・・」
 そこに佑介がタイミング悪く入ってきた。
「なんだ。真美、来てたのか」
「何よ、その言い方。頼まれたから、部員になってあげたのに」
 真美はぷーとふくれた。
 佑介は真美の方は見ずに、私に向かって用件を述べた。
「先生、ノートパソコンを借りたいんですけど」
「それなら職員室へ行って使用届を出してきてもらえますか?」
「はい」
 佑介が再び部室を出ていくと、すかさず真美は私に耳打ちした。
「佑介は先生と二人だけで部活したいんですよ」
「まさか」
「実は無理して来なくていいからって言われてるんです。そもそも文芸部っていうのも、とってつけたような気がします」
「作家志望って言ってたはずですけど」
「嘘ですよ。佑介、あんなにもてるのに結構奥手なんです。実は先生が初恋だったりして」
「それはないです」
「わからないですよー。ということで、お邪魔の私は失礼しまーす」
「あれ、帰っちゃうんですか?」
「これから啓太とゲームするんです。海斗の家で」
「それなら、みんな揃って部活に出てほしいんですけど」
「文句は佑介に言って下さいね。じゃあ、先生、ばいばい」
 この時の真美は、とてもおしゃべりで元気そうだった。しかし、翌日から体調を崩したという理由で学校へ来なくなった。
 その後も部活は私と佑介だけだった。それが何とも気まずく、私は佑介に課題を出すことで、書くことに集中してもらおうと考えた。
「吉川君、学生対象の文学賞があるんですけど、作品ができたら応募してみませんか?」
「文学賞、ですか」
「はい。私でよければアドバイスもします」
 佑介はどちらかというと不納得の表情だった。
「わかりました。それなら、今考えている作品のあらすじを聞いてもらえますか?」
「はい」
 佑介はいつになく真剣な表情で語り出した。
「主人公の少年は、わりと裕福な家庭に生まれ、家族からも溺愛されて、すくすくと育った。しかも、成績優秀でルックスは抜群、女子からももてる」
「それって、吉川君自身みたいですね」
「フィクションです」
「ごめんなさい。どうぞ続けて下さい」
「そんな順風満帆だった少年は十四歳になった時、白血病を発症する。骨髄移植が成功し、生命の危機を脱するが、抗ガン剤投与の後遺症で不妊になる。子孫を残すことはできない。そんな少年も大人になり恋をする。しかし、不妊であることが将来的に恋愛の壁となってしまうのか判断がつかない。好きな人に受け入れられなかった時のことを考えて臆病になっている」
「深いテーマですね」
「少年の心理は描けるんですけど、相手の女性を描けないんです」
「女性にもいろいろな考え方の人がいると思います。だから、吉川君がどんな女性を描きたいか。いいえ、女性にどういう態度をとってほしいか、理想を描いてもいいんじゃないでしょうか。逆に女性の冷酷な面を想像するのもありだと思います」
「先生は?」
「えっ」
「先生は恋人が不妊だって知ったらどうしますか?」
「全然問題ないです。だって、みんな何かしらコンプレックスを持ってるでしょう? 相手が抱えている痛みも含めて、お互いに好きなんだと思います」
「じゃあ、恋人が犯罪者だとわかったらどうですか?」
「犯罪者って、例えば?」
「殺人犯とか」
「それは・・・無理です。相手に恐怖や嫌悪を感じたら、恋愛は成立しないから」
「やっぱり、このテーマは難しすぎるからやめました。もう一つの方にします」
「まだあるんですか?」
「ドッペルゲンガー」
「そっちの方がもっと難しそうですね」
「そうですか? ボクにとっては、より身近な題材なんですけど」
 そう言いながら佑介は、何かを含んだようにクールに笑った。
 その後、文芸部はその存在を聞きつけた女子生徒が入部し、部員は二十人になった。佑介は何となくふくれっ面で、ノートに書きなぐるよう小説を書いていた。
       * 
 オホーツク海沿岸地域は、七月に入っても肌寒い日が続いていた。一学期の終業式を間近に控えた放課後、私は教室で翌日に開催される長距離遠足の看板を作っていた。
 長距離遠足とは毎年夏休み直前に行われる男子四十キロ、女子二十四キロのマラソン大会のことだ。遠足としているのは、途中歩いてもいいから完走しましょうという意味合いが込められている。そうかといって最初から歩いてしまうと、制限時間の午後一時半までには到底ゴールできない。ほどほどに走ることを要求される遠足ということになる。毎年、男子生徒の中には途中まで全速力でトップを走り、皆が通過するまでちょっとしたパーティーを楽しみ、制限時間ぎりぎりにゴールするという輩もいるらしい。二、三日前も佑介が中間点にほど近い啓太の家でジンギスカンをしようと相談しているのを小耳にはさんだ。おそらく佑介たちは、スタートから一気に飛ばして走るつもりだ。
 私は机にベニヤ板を並べ、「←あと○キロ」と鉛筆で下書きされている部分を赤い絵の具で塗っていた。一枚目を書き終えたところで、右の頬に静かな視線を感じた。佑介だった。私を包む空気に音も振動も伝えることなく溶け込んでいた。いつものような強烈なオーラはなく、今までに見せたことがないような清々しい表情をしていた。明らかに何かが違う。彼の中で何か変化が起きている。そう感じた。
「吉川君、いつからそこにいたの?」
「少し前です。先生、髪の毛の先に赤い絵の具がついてます」
「あっ! これリキテックスだからとれないかも」
 私は慌てて髪に触ったため、左手にも赤い絵の具がべっとりとついた。
「あーあ。髪の毛を結んで作業すればいいのに」
「そうね。確かゴムがあったはず」
「ゴムって、ここにある工作用のですか?」
「うん」
「これって外す時、髪に絡んで痛いですよ」
「背に腹はかえられないし」
「じゃあ、先生、手が汚れてるから、ボクが結んであげます」
「いいわよ。手を洗ってくるから」
「遠慮しないで下さい」
 佑介は私の背後に回り込み、髪を両手で束ねた。私は驚いて動けなかった。佑介はすぐに結ぼうとせずに、何度も手櫛ですいてはきれいに整えた。私は恥ずかしく、誰かに見られると誤解されるという心配も相まって、佑介の小さな束縛から逃れようとした。
「先生、動かないで」
 佑介は私の抵抗の意味に気づいているはずなのに、ぎゅっと髪をつかみ私を制止した。私ははっきりとした拒絶が佑介を傷つけるようで邪険に断れず、左手を大きく振った。
「適当でいいのよ。取りあえず前にバサッっと落ちてこなければいいんだから」
「きちんとしていないと嫌なんです」
 佑介はまたゆっくりと丁寧に髪をすいた。背後から首筋に佑介の温かい息がかかった。背後から感じる異性の気配には、独特なものがある。体の中心が女であることを思い出していた。佑介を異性として強く意識した。とたんに動悸が激しくなった。この教室ではじめて佑介を見た時、確かに私は好意を抱いた。美しさに惹かれた。しかし、それは恋愛ではなかった。
「はい。結びました」
 ようやく佑介の手が離れ、私は教師へ引き戻された。
「ありがとう。これで髪を汚さなくてすむわ」
「先生、変わりましたよね」
「えっ?」
「生徒に対して、かつかつの敬語で話さなくなった」
「確かに。ずいぶんと馴れ馴れしくなっちゃったね」
「ボクはその方がいいです。フレンドリーで距離が縮まった感があります。うん、何か、自然で心地いいです」
「そう?」
「はい・・・思わず、愛おしくて抱きしめたくなる」
「えっ?」
「抱きしめたい・・・」
 佑介は得意の愁い顔で感情を込めて言った。「そう言われたことありますか?」
「な、ないかな」
「今、すごく焦りましたよね」
「本当にいたずらっ子なんだから」
「いたずらっ子か。なんか、その言われ方いいですね。じゃあ、先生、さよなら」
「さようなら。明日、遅れないようにね」
「はい・・・」
 佑介は海に反射する太陽のような、きらきらとした笑みを浮かべて出ていった。私は佑介が教室に残していった幸福のような残像を、頭の片隅にとどめながら看板を書き続けた。
 翌日は気温も平年近くまで上がり、さわやかな風が吹く快晴だった。長距離遠足は予定通り、午前七時にスタートした。佑介たちは先頭集団を走っており、十キロ地点で、私もその姿を確認していた。しかし、タイムリミットの午後一時半、ゴールに佑介の姿はなかった。名簿で同じクラスの森啓太、隣のクラスの中尾海斗の三人がゴールしていないことがわかった。最後尾を併走していた教諭が佑介たちを見ていないことから、私は担任の山崎先生と一緒に車でコースを逆走し、おそらくパーティーをしていたであろう啓太の家へ向かった。道路にもやはり彼らの姿はなかった。啓太の家である牧場へ着くと、家屋から少し離れたところにある倉庫から、煙が出ているのが見えた。車を降り、山崎先生が家へ確認しにいっている間に、私はその倉庫へ走っていきドアを開けた。そこには誰もいなかった。中央のテーブルでは、肉が煙をあげて焦げていた。まわりには使用された形跡のある紙皿やコップが三人分あり、側には飲みかけのペットボトルも置かれていた。たった今まで人がいた気配がした。私は倉庫を飛び出し、牧草地を見渡した。倉庫の後方から数十メートル離れた所に、直径十メートルくらいのミステリーサークルがあった。私はその異様な光景にぶるっと身震いした。そして、目を凝らすとなぎ倒された牧草の端にスニーカーの靴底が見えた。人が倒れている。私は無我夢中で駆け寄った。
 それは啓太だった。彼は気を失っていた。
「森君。森君、大丈夫?」
 啓太は私の声を聞き、意識を取り戻した。
「水原先生・・・」
「いったい何があったの?」
「・・・よく、わかりません」
「吉川君と中尾君は」
「佑介と海斗が消えた・・・」
「えっ?」
 啓太は震える指で、空を指し示した。
「空に、大きな光の中に、消えた・・・」
 私は空を見上げた。雲ひとつない真っ青な空だった。眩しい太陽が真上に輝いている。夏の風が牧草の匂いを巻き上げ通り抜けた。遠くで牛たちが、のんびりと草を食べている。広大な緑の牧草地。それを取り囲む原生林。緩やかな稜線。いつもと何ら変わりないのどかな光景が広がっていた。私は啓太の肩に手を置いたまま、ミステリーサークルの中に座り込んでいた。私は再び空を見上げた。きっと、夢を見ている。真夏の悪夢だ。
 佑介が・・・消えた。

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