
『僕はCに分類されている』第一章
第一部 氷の船
第一章 初恋 第二章 分身
第三章 失踪 第四章 逆転
第五章 再会 第六章 甘受
第七章 聖域
第一章 初恋
1980年12月8日。ジョン・レノンが銃弾に倒れ、世界は騒然となった。同日、僕、松田征慈は、北海道のコンルチプ村で、ひっそりと誕生した。
中等部担任の吉野先生は、クラス名簿で僕の誕生日を目にし、当時を思い出したのか、突拍子もない事を言い出した。
「征慈は、ジョン・レノンの生まれ変わりだったりするかもなぁ」
先生はとてつもなく宇宙的な夢想家だ。そして、僕は残念なほどにつまらない現実主義者だ。
この発言は明らかに間違っている。双方の時差を考慮すると、僕が生まれた時、アメリカはまだ前日だった。そう、ジョンは生きていた。だから、僕が生まれ変わりだということは有り得ない。ましてや、そんな非科学的な事象が起こり得るとも思えない。しかし、何故か僕の心はざわついた。生まれ変わりという言葉に、妙な引っ掛かりを感じたのだ。
その頃、世間では前世占いという奇妙なものが流行っていた。テレビでは見るからに怪しい占い師が、あなたの前世は西洋の勇敢な騎士です、と真面目に答えていた。会場では当然のように、どうして日本人なのに西洋の騎士なのか、と失笑をかった。その真偽を議論するまでもないだろう。疑い深い僕は、そもそも占いの類を信じていない。定義上、生年月日、氏名、血縁型が同じであれば同一の性格を持ち、同様の人生を送ることになってしまう。理に適っていない。そこで吉野発言の視点を変え、ジョン・レノンの生まれ変わりが、本当に存在していたらと考えた。果たして、その人物は天命のごとく音楽の道へと導かれ、素晴らしいミュージシャンになり得るのだろうか。おそらく答えはNOだ。むしろ才能を受け継ぐ可能性を秘めているのは、その子孫だと思う。僕はジョンの息子であるジュリアン・レノンの曲をはじめて聞いた時、あまりに似ているその声に衝撃を受けた。まさに生き写しだった。無条件に与えられた系譜、非の打ち所のないDNAだ。遺伝とは何と不思議で神秘的なのだろう。羨望と嫉妬すら覚える。しかし、一方では、逃れたくても逃れられない宿命でもあるのだ。
僕が暮らすコンルチプは、北海道にある人口わずか二百人程度の小さな村だ。四方を取り囲むように険しい山がそびえる。北西に広がるルヤンペの森には、可愛い目をしたエゾリスたちが、ちょろちょろと遊ぶ。樹洞には森の守護神であるシマフクロウが棲んでいる。村を二分するように流れる清流シュウトルマップ川には、氷河期からその姿を変えない渓魚オショロコマが、夕焼け色の体側を輝かせ無防備に泳いでいる。村は山をすり鉢状にくりぬいた形に開かれており、なだらかな丘陵地には季節の花とハーブが風に香る。五月は特に美しく、満開の芝桜が丘一面をピンク色に染める。点在する公共施設や住宅は田園風景をイメージしてデザインされており、村全体が童話の世界を模したような景観になっている。空気は南極大陸に匹敵するほど澄みわたり、水道水は清流を源泉としているため、名水なみにおいしい。まあ、小さな村の出身者は誰もが故郷の自然を賛美し、この程度の自慢をするものだ。ビル街に暮らす都会の人間から見れば、どこも似たり寄ったりの退屈な田舎にすぎないだろう。
しかし、コンルチプは明らかに他の過疎地と一線を画していた。この情報社会にありながら地図にも、ネットにも村名がない。つまり、外部にその存在を知られていないということになる。しかも、険しい山を隔てているため、近隣の町の住人ですら偶然にたどり着くことはないという。常識的に考えて、この日本に、そんな閉鎖的な集落が存在するだろうか。かつて、そんな疑問を抱いた僕は、村長に質問をしたことがあった。
「コンルチプは、どうして地図に載っていないのですか? インターネットで検索しても何も出てきません」
村長は答えを用意していたかのように、くつくつと笑いながら言った。
「まあ、エリア51の神秘に似ているね」
「エリア51?」と僕は思わず首をひねった。
「アメリカにある秘密基地の名称だよ。聞いたことがないかなぁ。不時着した円盤が保存されているとか、宇宙人が捕らえられていたとか」
僕は宇宙人と聞いてピンときた。以前にテレビで見たことがあった。国家としては正式に認めていない軍事基地で、立ち入り禁止区域になっているらしいと。
僕は村長の曖昧な返答に、当然納得がいかず、さらに畳みかけた。
「この村は国家機密ということですか?」
「まあね」と村長は、やはり笑っていた。
どう考えても、この平凡でのどかな村が、そんな仰々しい国家機密であるわけがない。その時は軽い冗談だろうと子供ながらに笑い飛ばした。しかし、成長と共に分別がついてくると、村長の例えが何となく現実のように思えてきた。なぜならば、この村には不可解な自然現象や、独特な社会制度があったからだ。
僕は外の世界を知らない。
生まれてから十四年間、僕は一度も村外へ出たことがなかった。そもそも、この村には外へ通じる道がない。村を囲む四方すべてが断崖絶壁で、脱獄防止の塀のように威圧的な形相をして睨みつけている。噂によると、どこかに外部へ抜けるトンネルがあるらしい。その場所は一部の大人しか知らない。僕は小学三年生の夏休みに、ひとり探検ごっこと称して、そのトンネルを探し回ったことがある。しかし、それらしい場所を見つけることはできなかった。いっそのこと川をたどって村外へ抜けてみようかとも考えたが、流れが速く、断崖をくり貫いた洞窟に通じているため、溺れる恐怖に足がすくんだ。ちっぽけな冒険に挫折した僕は、そのまま川辺に寝ころび、オレンジ色の夕日に照らされて、めそめそと泣いた。間違いなくこの川は海へとつながっている。僕は美しく輝く海を写真や映像で見たことがあった。波の音も聞いた。しかし、潮の香りというものを、想像することができなかった。今思うと、探検ごっこの主旨は、トンネルを発見するということよりも、向こう側にある広大な海を見てみたいということだったような気がする。それにしても、トンネルの場所が、村民全体に周知されていないというのは、どういうことなのだろう。自分の意志では、この村から出られないという暗黙の掟なのだろうか。緩やかな拘束なのだろうか。だからといって、大人たちから監視や規制を受けたことはない。欲しい情報はメディアやインターネットを通じて、いつでも簡単に手に入る。未成年でいるうちは、どうしても村外へ出る必要を感じていないのも事実だった。大人になれば、嫌でも出ていく日がやってくるだろう。
僕は雪に触れたことがない。
コンルチプは気温が氷点下になっても、雪が降らなかった。北海道全体が真っ白の雪景色となっても、ここに降るのは何故か冷たい霧雨だった。それは地上に下りてから急速に凍てつく。野原も木々も道も、全てが霜や氷で覆われ、光やキャンドルの炎を幻想的に反射する。特に氷壁はプリズムのような効果をもたらし、楕円形をした村全体はまるで巨大な氷の船のように見える。この村の名前の由来だ。アイヌ語で、コンルは「氷」、チプは「船」を意味する。それはクリスタルの芸術作品のようで、とても美しい。しかし、村に全く雪が降らないのは、気温や気象条件から考えて、やはりおかしい。その疑問を吉野先生にぶつけてみたが、村長と同じように「ここは特別」と笑うだけだった。僕はいつも首をひねりながら、灰色の冬空を見上げる。これが僕の知っている空だ。ぐるりと山に囲まれた丸い空だ。生まれた時から、ずっと見てきたこの空を、誰が疑うだろう。そもそもコンルチプは、衰退とは無縁の新しい村だった。六十代前半の村長夫妻が最年長で高齢者はいない。しかも、これだけの自然を有しながら、基幹産業が農業や林業ではなく、最先端バイオテクノロジーの開発研究だった。その拠点が、村立病院と併設している巨大な研究所だ。大人たちの多くは、白衣を着て、そこに勤務している。詳しい研究内容はよくわからないが、それが本当だとすると、ここは近代的なテクノポリスということになる。
僕には家族がいない。
最大の謎が僕の存在だ。大きなくくりで言えば、この村の児童養護施設『ふきのとう』で一緒に暮らす子供たちだ。僕たちには生まれた時から親がいない。まあ、そのような事情を抱えた子供たちは、全国のあちこちにいるだろう。しかし、僕らは皆、村立病院で誕生している。自分の母親の情報があってしかるべきだ。それなのに不明とされている。出生に何か秘密があるのだろうか。そんな疑問を抱いた時は、すでに子供なりの遠慮を持ち合わせていた。大人たちに面と向かって、露骨に質問をする事もはばかられた。以前、テレビで養護施設の運営は大変だという特集を見たが、僕らは真逆で、とても恵まれていた。毎月十分すぎるほどの小遣い、衣料品、学用品などが配布された。その他にも、欲しいものリストの提出があり、書籍、CD、ゲームソフト、スポーツ用品などはもちろん、許容範囲であれば、高額な電化製品も買ってもらうことができた。各人それぞれに「あしながおじさん」がいるらしい。きっと彼らは社会的地位があり、多大な寄付をし、社会貢献に余念がないのだろう。
そんな僕はCに分類されている。
この村の住人はF、A、Cに分けられている。Fは外部からの移住者で、村長をはじめとする大人たち全てとその家族。AとCは村立病院で誕生した子供たちだ。生後すぐに村を出て肉親と一緒に暮らしている者がA、『ふきのとう』の子供たちがCに該当する。現在一歳から十四歳までの子供たちが十二人ほど在籍している。親がいないことは小等部への入学時に告知されるが、子供ながらにうすうす事情は察しているため、さほどのショックはない。少し肩を落とす程度だ。学校は小等部、中等部、高等部に分かれており、中等部へ進級する時に、『ふきのとう』に隣接する学生寮『ポプラ』へ移り、それぞれに個室が与えられる。僕は高等部を卒業するまでのあと四年間を寮で過ごす。一方、Aに分類されていても、例外的に家庭の事情でこの村に残っている者がいる。同級生の在原瞬だ。瞬とは生まれた時から、ずっと一緒で兄弟のように育った。僕らは施設の最年長でもある。瞬は来年、中学卒業と同時に親元に引き取られていく。秘密のトンネルを抜け、向こう側の広い世界に飛び出す。長年の夢であるプロ野球選手を目指し、野球の強豪校へ進学する。
僕は、まだ当分ここにいる。
*
1995年は、全く予期せぬ天変地異で始まった。阪神淡路大震災だ。僕と瞬は、テレビによって映し出される被災地の惨状に言葉を失った。傾いた高層ビル、崩れ落ちた高速道路、火災により焼け野原と化した住宅地。同じ日本国内で起きていることとは思えなかった。まだ白い煙が立ち込める焼け跡に、二十代くらいの女性が呆然と佇んでいた。そこには、結婚を約束した恋人が住んでいたという。
「どうやって生きていけばいいのか、わかりません・・・彼にもう一度会いたい・・・」
朝もやをつんざく悲痛な叫びだった。どんなに医療が進歩しても、僕ら人間は死というものに対して永遠に無力だ。非情なる運命に屈するしかない。幻でもいいから、もう一度彼に会わせてあげたい。僕はそう思って、はっとした。どうして、そんな思いにかられたのかわからなかった。僕はまだ十四歳で、愛する人の死を、遠い未来の想像として語っているにすぎなかった。それとも、何か予感めいたものがあったのだろうか。突然に愛する人を失った悲しみ。計り知れない絶望感。大震災は、僕を必要以上に動揺させた。
夜、ベッドに入ると、言いしれぬ不安に身悶えした。僕は自分が死ぬことを想像した。考えまいとしていた家族の姿を追い求めた。目に見えぬ絆を手繰り寄せては、体に巻きつけた。寂しかった。瞬には父親がいる。しかし、僕には愛する人も、愛してくれる人もいない。今、僕が死んだら・・・。しばらくの間、寂しさと闘う夜が続いた。それでも、身も心も凍てつかせていた冬がいつの間にか姿を消し、希望に似た柔らかな春風が左の頬をくすぐる頃には、いつもの淡々とした自分に戻っていた。中学生なんて、所詮、その程度のものだ。自分の運命を悲しんでも、嘆いても何も変わらない。僕につながるDNAはなくても、僕のDNAをつなぐことはできる。
いつか愛する人が現れる。
そうは思ってみたものの、現実は相当にシビアだった。中等部の生徒は、僕と瞬だけで完全に男子校状態だ。担任もずっと四十男の吉野先生で、唯一、小等部に二十代後半の絵里子先生がいるくらいだ。絵里子先生は美人というわけではないが、紅一点ゆえの人気があった。しかし、僕にとっては、憧れでも、好意を抱く対象でもない。だから、現実の恋愛なんて夢のまた夢だった。
僕だって人を好きになってみたい。
瞬と二人だけのがらんとした教室は、僕のため息でいっぱいになっていた。瞬はため息をつかない。きっと、つく暇がないのだろう。瞬には野球という目標がある。小等部の時から、基礎トレーニングと、ピッチング練習を、毎日欠かさずにこなしてきた。そして、中等部に進級してからは、村の草野球チームに所属し、大人と対等に練習をしている。190センチの長身から投げ下ろす150キロのストレートは、大人を相手に三振の山を築く。僕は昔から、そんな瞬の姿を羨ましそうに見ているだけだった。瞬は男の僕から見ても相当にかっこいい。すでに大学生と言っても通用するような大人っぽい顔つきをしている。童顔の僕とは真逆だ。それだけではない。野球で鍛えられた体は、彫刻の青年像のように均整がとれていて優美だ。甲子園に出ようものなら、女性ファンが熱狂するだろう。かつて瞬の父親がそうであったように。公にはなっていないが、瞬の父親は、東京ジャガーズの在原修投手だ。在原投手は長年クローザーを務め、最多セーブの日本記録を樹立した。しかし、今年は持病の肘痛が悪化し、長期離脱という不本意なシーズンを送っている。年齢的なこともあり、ここ数年、引退かと噂されている。瞬は顔、体格、ピッチングフォームのどれをとっても本当に父親そっくりだ。瓜二つと言っていい。まさにDNAだ。
一方の僕には家族がいない。今のところ、瞬のような夢や目標もない。これといって、秀でた才能も特技もない。瞬を横目で見ては、また少し卑屈になり、寂しさと闘う。そんなことの繰り返しだった。
そんな覇気のない日々を過ごしていた僕に、突然、初夏のさわやかな風が吹いた。
いつものように始業のチャイムが鳴り、吉野先生のサンダルの音が教室に近づいてきた。先週、彼のサンダルのベルト付け根部分が切れそうになっているのを見てから、先生の足元が気になっていた。教室のドアが開くと、僕は先生の顔を見ずに、まずは足元を注視した。
あっ。
声には出さなかったが、僕の口の形は、明らかに丸く開いていたと思う。僕が目にしたのは、紺と白のギンガムチェックのキャンバススニーカーだった。清潔そうな白色のソックス。細くすらりとした足。膝丈のスカート。セーラー服。僕ははっと顔を上げた。
切れ長の涼しい目。細い顎のライン。ポニーテール。
一瞬、僕は彼女と目が合った。激しい動悸が、喉元を突き上げて気道を塞いだ。定期的に止まる呼吸を取り戻すために、僕は意図的に咳込んだ。全身をものすごい勢いで、血が巡っている。普段は冷たい耳、指先、大腿部までもが、かっかと熱くなり、胸元がじわりと汗ばんだ。僕は隣の席にいる瞬の反応を、横目でちらりと見た。瞬はゆっくりと瞬きをしてから、ふっと口角を上げた。それは瞬が時々見せる勝利を確信した時の表情だ。僕は焦った。この時点で一歩、いやかなりの遅れをとっていた。
吉野先生は、にやにやと笑いながら、黒板に彼女の名前を大きく書いた。
「札幌から転校してきた、水原葉子さんだ」
彼女は恥ずかしそうに俯き、弱々しく立っていた。前に組んだ手が少し震えている。僕は、その白く細い指に向かって、思わず自分の手を伸ばしたい欲求にかられた。僕の両手で包み込みたい。それは生まれたての小犬に触れる時の感情に似ていた。
「夏休みが終わるまでの二ヶ月間、山村留学生として、このコンルチプで生活することになった。よかったな。女の子が来て嬉しいだろう」
吉野先生が、がははと笑った。確かに小等部には何人かの留学生が来たことがある。大抵は病気の療養が目的だった。この村は有害物質が排除された酸素の濃い理想的な環境で、病気による免疫力の低下や、化学物質アレルギーなどの症状緩和が期待されるらしい。彼女もおそらく病気の療養と思われた。そうでなければ、都会の中学三年生が、受験を控えた大切な時期に、わざわざこんな田舎に来るわけがない。
「短い間ですが、よろしくお願いします」と、葉子は少し戸惑いながら深く頭を下げた。
葉子の結んだ髪が、右の肩越しにさらりと流れた。背は160センチくらいと、女の子にすれば高い方だろうか。ものすごく痩せていて細い。
吉野先生が無神経に僕らを紹介した。
「あのデカいのが在原瞬、野球バカ。こっちのひ弱そうなのが松田征慈、本の虫。じゃあ、席はケンカしないように二人の真ん中にするか。二人とも間を開けろ。机ひとつ分な」
僕と瞬はケンカをしたことなどない。しかし、言われるがままに机を左右に離した。吉野先生は教室の隅に置いてあった机を運び、手でささっとほこりをはらった。
「葉子、座っていいぞ」
「はい」
葉子は足音も立てずにすーっと移動し、僕の右隣にちょこんと座った。かすかに女の子のいい匂いがした。とたんに頭がくらくらとし、目がかすんだ。経験したことのない症状が、あちこちに出ていた。僕は今どんな顔をしているのだろう。心臓の音が聞こえてしまうのではないか。僕がはらはらしていると、吉野先生がいつものように、豪傑な語り口で話を始めた。
「いいか。この間から勉強をしている『源氏物語』を例にとって話すぞ。今の状況は、光源氏と親友の頭の中将、そして、ヒロインの夕顔が登場という感じだな」
「また面白くない例え話ですかぁ?」
瞬はそう言いながら苦笑いしていた。瞬は先生をはじめとする大人に対し、生意気でどこか憎めない口をきく。それが不思議と反感を買わずに受け入れられるキャラクターだ。一方の僕はいつも堅苦しく、真面目な話しかできない。だから、そんな瞬が羨ましい。僕はいつも好かれたくて、言葉を選び、人の目ばかり気にしている。会話に入れず、優等生の顔をして黙って聞いているだけだ。僕は瞬を見る振りをして、ちらりと葉子を見た。葉子は姿勢を正して先生を注視していた。育ちのよさと真面目さがうかがえる。
吉野先生はジェスチャーを交え、情感たっぷりに話しはじめた。
「出会いは偶然じゃない。必然なんだ。一方の男が忘れられないでいる女性が、後にもうひとりの男の大切な女性になったりする」
「それって、親友同士で、ヒロインを取り合いって事じゃん」
瞬は思いの外、真面目に感想をもらした。いや、瞬はもともと真面目なのだと思う。
「日本人というのは、相手をおもんばかる、強いては譲るなどという、自己犠牲の美学があるよな。うんうん」
「心の赴くままに、グイグイいくのはだめなんですか?」と、瞬はすぐに返した。
吉野先生はもったいつけてから、おどけた顔で断言した。
「ぬけがけも、ありだ!」
緊張していたはずの葉子が、隣でふふと笑った。僕はその砂糖菓子のような甘い笑顔に、早くも卒倒しそうだった。
吉野先生は意味深長に笑いながら、出席簿にチェックを入れた。
「まあ、三人仲良くやってくれってことだよ。以上、朝のホームルーム終わり」
「なんで源氏物語だったんだよ」と、瞬はぽつりと言ってから、またふっと口角を上げた。
葉子も目を細めたままだった。僕だけが笑うタイミングを逸していた。なぜならば、その例え話を真剣に受け止めていたからだ。設定はあまりにリアルだ。僕がその状況に置かれたら、友達に彼女を譲るようなことはしない。葉子が当然のように瞬に惹かれていくのを、ただ黙って見ているような気がする。そう、何もできずに・・・。
僕の嫌な予感はよく当たる。
先生が教室を出ていくと、瞬は葉子に対し、ぶっきらぼうに話しかけた。
「何でこんな田舎に来る気になったの?」
「心の療養かな」
「都会育ちの人って、デリケートなんだ」
「そうだったみたい・・・」
葉子は視線を右下に落としてから、寂しそうに笑顔を作った。その曖昧で不安な笑みが、僕の心を揺さぶった。後から気がついたのだが、葉子は困ると視線を右下に落とす。伏せた長いまつげが、きらきらと輝く瞳に影を作る。僕はすでに、葉子から目が離せなくなっていた。その日はずっと、ふわふわとした状態で、地に足が着かなかった。
初恋。
それは木漏れ日のような心地よい目映さで、静かに波打つ高揚感だった。どんなに時代が移り変わっても、栄枯盛衰を繰り返しても、恋愛は源氏物語の時代から何ら変わらない人生のテーマだ。僕はいよいよそこに足を踏み入れた。
その夜、当然のように、僕はなかなか寝つけなかった。教室で垣間見た葉子の表情が、次から次へとスライド写真のように切り替わり、白い天井に映った。たった一日でこんな状態だ。これから先、僕はどうなってしまうのだろう。恋は宇宙ほど果てしなく未知だ。とりとめのない妄想のエスカレーションが続く。ドーパミンが多量に分泌される。結局、眠れないままに夜は明けた。
僕は朝食もそこそこに、重い頭を抱えて学校へ行った。僕は気の抜けた朝の教室が好きだ。登校時間の三十分前には席に座って、好きなポップスを音楽プレーヤーで聞いたり、ぼんやりと考え事をしたりする。天気のいい日は、窓から外の景色を眺める。初夏の風が気持ちいい。二階にある教室からは、瞬が朝練をしているグラウンドが見える。村立病院が、巨大な研究所が見える。その隣に葉子がホームステイしている病院長の邸宅が見える。葉子はどんな目覚めの朝をむかえたのだろうか。そう考えた端から、僕は不意打ちをくらった。
「征慈君、おはよう・・・」
葉子だった。今日は髪を下ろしている。さらさらとした長い髪が朝の光にきらめいた。
僕は心の準備ができておらず声が上ずった。
「あっ、おはよう」
「征慈君、早いのね」
葉子が微笑みながら近づいてきた。確かに僕の名前を呼んだ。二回も呼んだ。僕の一日が葉子の笑顔で始まった。誰がこんな至福の時を想像しただろう。僕はあまりの恥ずかしさに座っていられず、立ち上がると窓辺へ移動し、視線を外へ向けた。葉子の可愛らしい声は僕の背中をくすぐった。
「この村は本当に空気が澄んでいて気持ちがいいのね。車が全然走っていないからかな。ものすごく静かで、小さな囁きまで、村じゅうに聞こえそう」
「狭い村だからね。そうだ。この村に来た時、どの方向から入ってきたか、覚えてる?」
「それが眠っていて、目が覚めた時には着いていたの」
「何だ残念。トンネルがどこにあるのか、知りたかったのに」
「トンネル?」
そう言いながら、葉子は僕の隣にきて、遠くを見た。幸福な香りが漂った。
僕は胸が高鳴り、一瞬、視界がぼやけた。
「この村には外部につながる道がないんだ。唯一あるのが、そのトンネル。秘密の場所にあるらしいよ」
葉子は冗談だと思ったのか、ふふと笑った。
「ここは不思議な村なのね」
「そうだよ。不思議だらけ。北海道全域に、大雨警報が出ても、ここには霧雨程度しか降らないし、台風が直撃したこともない。いつも穏やかなんだ」
葉子は、村を囲むようにそびえ立つ断崖を、ぐるりと首で追った。
「それは周りを山で囲まれているからなの?」
「どうかな。たぶん、それだけじゃないと思う」
葉子は、きれいな首筋を伸ばし、澄み切った青い空を見上げた。
「空かな・・・空が、とても低い気がするの」
「そうなんだ・・・」
「何だか手がとどきそう」
葉子は細くて白い手を空にかざした。僕は自分がとても狭い世界にいると思い知らされた。この見える範囲の空しか知らない。葉子の知っている空とどれくらい違うのだろう。それでも葉子と一緒に見るコンルチプの空は、いつもより一段と青く大きく見えた。美しいと思った。好きな人と時間を共有する事が、こんなに幸せで、贅沢で、かけがえのないものだとは知らなかった。葉子のためなら、この笑顔を守ることができるなら、僕は滅茶苦茶に壊れてもいいと本気で思った。その頃、R.E.M.の『THE ONE I LOVE』という曲をよく聞いていた。その切ないメロディと歌声、移ろう心情を表す歌詞は、僕の気持ちと重なった。葉子を想う度に自然と頭の中で流れた。
そんな僕の気弱な片想いとは対照的に、遅れて登校してきた瞬は、葉子に対する好意を堂々と態度に表した。教室に入ってくるなり、挨拶代わりに葉子の頭をくしゃりとした。瞬のごつごつした指が葉子の髪に絡み、葉子の頬がみるみる紅潮するのがわかった。気持ちを秘めているだけの僕は、敗北感でいっぱいだった。しかし、今、ここでの位置関係が明確になったところで、この先の物語に展開はない。葉子のここでの生活には期限がある。わずか二ヶ月の間に恋愛沙汰がおきるわけがない。僕はそう高をくくっていた。ところが、わずか一ヶ月もたたないうちに、僕の人生を大きく変えてしまうような、その出来事は起こった。
*
初夏の風が吹き抜ける午後の教室、いつものように吉野先生の授業は本題から脱線していた。
「絶滅危惧種の生物って、北海道にも結構いるよな・・・そう言えば、コタンコロカムイって、今何歳なんだろう。わかるか、征慈」
先生はいつも、生物や天体などの雑学になると、僕に質問をしてくる。実のところ、僕は聞かれるのがうれしかった。
「確か寿命は二、三十年くらいって図鑑で読んだことがあります」
「さすがは物知り博士の征慈だな」
それを聞いた葉子が不思議そうに首をひねった。
「コタンコロカムイって何?」
僕は右隣に座っている葉子の方を向いて答えた。
「シマフクロウ。今では北海道には百羽程度しかいないって言われてる。ルヤンペの森の守護神なんだ」
「この村の森にいるのね」
刹那、瞬が反対側から、葉子の視線を奪ってしまった。
「葉子はまだコタンコロカムイを見たことがないんだ」
「うん」
「それなら見に行こうよ」と、瞬はいつもの自信に満ちた瞬きをした。「じゃあ、練習が終わる六時半。家に迎えに行くから」
「あっ、うん」
葉子は考える間もなく、うんと言わされた感じだった。瞬はいとも簡単に約束をとりつけた。僕は無邪気を装って、一緒に行きたいと言えなかった。入り込めないような雰囲気だった。何かが起こると思った。
しつこいようだが、僕の嫌な予感はよく当たる。
六時間目が始まる前、葉子が教室を離れた隙をみて、瞬はいたって冷静な態度で言った。
「俺、葉子に告白しようと思ってるんだ」
「告白?」
僕は不意打ちをくらい言葉に詰まった。
「好きだって言う」
「そうなんだ・・・」
瞬が葉子を好きだということは、普段の態度を見れば一目瞭然だった。瞬は本当に自分の気持ちに正直だった。素っ気なくぶっきらぼうのようだが、言いたいことは伝える。僕のように人の目を気にしない。余計なことに惑わされない。自分をしっかりと表現できることは、随分と魅力的に見える。葉子は何と返事をするのだろう。僕は激しく揺れ続けた。
授業が終わると、瞬はいつものように野球グラウンドへ向かった。葉子はゆっくりと教科書をカバンにしまいながら、時々、視線を窓の外へ向けた。瞳にはルヤンペの森が映っていた。その美しい横顔に浮かぶ静かな微笑は、コタンコロカムイと瞬のどちらに向けられているのだろう。僕は複雑な心境を顔に出さないように、さりげなく話の口火を切った。
「コタンコロカムイって、アイヌ語でフクロウの意味なんだ。見た目はほのぼのとしているんだけど、言い伝えでは、善人と悪人を見分ける能力を持つものがいるらしいよ。まさに、この村のコタンコロカムイがそうだと言われている」
「善人と悪人を見分けるって、どんなふうに?」
「善人を見る時は眼を開けていて、悪人を見る時は顔を背けて眼を閉じるらしい。そもそも夜行性だから、日中眠ることもあるだろうし、真偽は定かじゃないけどね」
「征慈君が見た時は?」
「もちろん、いつもぱっちり眼を開けてるよ。凛々しい顔をしてる。そうだ。前に僕が撮った写真があるからあげようか」
「いいの?」
「喜んで。確か視聴覚室に置いてあったはず。今とってくるから待ってて」
僕は言うのが早いか、小走りで教室を出た。それまでは気分が沈んでいたはずなのに、とたんに足取りが軽くなった。葉子にさりげなくプレゼントを渡すことができる。しかも、僕が一眼レフで撮った自慢の写真だ。一階の突き当たりにある視聴覚室に着くと、廊下に面した窓が全て暗幕で覆われ、ドアに鍵がかかっていた。職員室へ鍵を取りに行こうとした時、中からどんと壁に何かが当たるような音がした。確かに人の気配がする。隣接する映写室の鍵が開いていたため、僕はそこから入って中を確認しようとした。視聴覚室へつながる内ドアの小窓から、案の定、中をのぞき込む事ができた。
あっ・・・。
僕はその衝撃に息が止まった。薄暗がりの中、瞬と小等部の絵里子先生が抱き合いキスをしていた。絵里子先生が背伸びをしながら、瞬を壁に押しつけているような体勢だった。絵里子先生は瞬のワイシャツのボタンを引き裂かんばかりに外すと、鍛え抜かれた胸筋に唇を押し当てた。そして、自らもサマーセーターを脱ぎ捨てた。瞬の肉体にむさぼりつくような仕種は、獲物を捕る雌のライオンを連想させた。この時までの僕は、女性という存在を女神のように神聖なるものだと思っていた。しかし、その衝動的な行為は、動物が有性生殖である以上、本能として起こり得るのだ。絵里子先生の手が瞬の首にまわると、二人は再び激しくキスをした。
「大人になるのが怖い・・・」
葉子の消え入るような声が僕の首筋をかすめた。僕は凍りついた。後ろを振り返ることができなかった。よりによって葉子が、こんな汚れた世界を垣間見てしまった。葉子にだけはこんな場面を見せたくなかった。僕が背を向けたまま言葉を探しているうちに、葉子の足音は寂しげに離れていった。僕は心の整理がつかないままに、遠ざかる葉子の足音を追った。頭の中はぐちゃぐちゃだ。
僕が教室へ戻ると、葉子は窓から空を見上げていた。涙をこぼすまいと、瞳の奥に力を入れているのがわかった。僕は涙をためている女の子を前に、気の利いた言葉が見つからなかった。
「僕が連れていってあげるよ。ルヤンペの森・・・」
そう言うのが精一杯だった。葉子は萎れた草花のように力なく頷いた。細くて弱々しくて折れそうだった。せめて支えになりたい。
僕たちは学校を出て、ルヤンペの森へ向かった。しばらくは無言のまま、それでいてお互いの速度を測るように、ゆっくりと並んで歩いた。夏草の匂い、風に揺れるハーブ、色とりどりに着飾った花たち。道端には淡紅色の撫子が咲いていた。僕はそこで足を止めた。
「花の切り戻し、って知ってる?」
葉子はゆっくりと首を横に振った。僕はしゃがみ込んで撫子に手を添えた。「花が咲き終わった後、茎を三分の二くらいのところで切ってあげるんだ。そうすると、また蕾をつけて、もう一度花を咲かせる。ここの撫子たちはまさに二度目の花だよ」
「花って二度咲かせることができるの?」
「種類にもよるけどね。切らないと普通に種を付けて終わる。植物って、小さいのに未知の能力を秘めていると思わない?」
「そうね」
葉子は僕の横にしゃがみ込み、撫子の花を愛おしそうに両手で包み込んだ。表情が少し和らいでいるのがわかった。僕はルヤンペの森に着くまで間、植物のたわいもない話を続けることにした。
「あと面白いのが秋植えの球根。ヒヤシンスとかチューリップとか。球根が冬の寒さを経験しないと、春に花が咲かないんだ」
「えっ? 寒さが必要なの?」
「うん。それで秋に植えるんだ。だから、ヒヤシンスを室内で水栽培したい時は、わざわざ球根を冷蔵庫に入れて、一度、冬のような寒さを経験させる必要があるらしいよ」
「普通に土に植えるだけで、自然と花が咲くのかと思ってた……」
「ちょっとした神秘だよね。球根のどの部分が、寒さを感知して記憶しているんだろう」
「まるで感覚とか、意志とかを持っているみたい」
「なんか人間に似ているよね。しかも、メッセージを送ってくれている感じがしない? 切り戻せば、もう一度花が咲きますよとか。厳しい寒さを経験するからこそ、花を咲かせることができるんですよ、とか」
「もう一度やり直すこともできるし、つらい経験も必要ってことね」
「その通り。ちょっと、偉そうに語っちゃったけど」
「いい話ね。聞いてよかった」
葉子がようやく微笑んだ。心なしか頬に赤みが戻っている。
僕はその瞬間、愛おしさが汪溢し、密かな情慾を唇に感じた。葉子への想いはすでに頂点に達していた。しきりに心が叫んでいる。
葉子のためなら何でもする。道化を演じることもいとわない。
しかし、僕はこの想いを、葉子に伝えることはない。いや、伝えてはいけない。どうして、抑止してしまうのだろうか。こうして一緒にいながら、自分はどこか別の世界、異次元にいるという錯覚に陥る。田舎育ちというコンプレックスや、単なる羞恥心ではない。それとは違う、得体の知れない何かが、歯止めを掛けている。
その後、僕のくだらない話でも少しは気が紛れるのか、葉子は少しずついつもの表情を取り戻していった。僕は高揚する気持ちを抑え、必死にいい友人を演じていた。
僕らは草木が青々と茂るルヤンペの森に着いた。森はいつもと変わりなく静穏な表情をしていた。小動物たちの気配がする。
「時々吹く風によって葉が擦れ合うと、小雨を連想させる音をたてるんだ。ルヤンペはアイヌ語で雨の意味」
「雨・・・」と言いながら、葉子は目を閉じて耳を澄ませた。
そのまま、僕たちは鬱蒼とした中を進んでいった。いちばん大きな木に、コタンコロカムイが棲んでいる樹洞があった。
「あれっ、留守みたいだ。少し待ってみる?」
僕に対して、葉子は迷いなく頷いてくれた。僕はその様子に安堵し、近くにあったベンチにどさっと腰を下ろした。葉子も十センチ離れて遠慮がちに座った。コタンコロカムイを待つ間、僕は無言の時間を何とかやり過ごそうと、あれこれと考えを巡らせた。しかし、やはり瞬と絵里子先生の話題を避けて通れないと思った。きっと、森の香が動揺する気持ちを鎮めてくれる。そう信じて、僕は唐突に話を切り出した。
「瞬のこと、好きだったの?」
葉子は伏し目がちのまま、意外と冷静に答えた。
「そういう気持ちはないと思う・・・」
「好きだから、ショックを受けたのかと思った」
葉子は少し迷ってから、小さな声で言った。
「男の人って、簡単にキスとかできるのかなって」
「えっ?」
「愛情じゃなくて、好奇心とか、軽い気持ちで」
「そ、そんなことないよ。キスは好きだからするんだよ」
否定しながら、僕は赤面していた。真面目すぎるかなり恥ずかしい回答だった。
「じゃあ、瞬君は絵里子先生のことが好きなの?」
「それは・・・たぶん、好きとかじゃなくて・・・」
「それなら、どうして?」
「あれは完全に先生から誘惑している感じだったし、瞬も男だし・・・」
僕は相当に歯切れが悪かった。なぜか瞬をかばっていた。
「じゃあ、征慈君も誘惑されたら、そういうことするの?」
「僕は好きな女の子としかしない」
僕は真面目な顔で向きになって答えていた。僕は一体、葉子にどう見られたいのだろう。品行方正な優等生? そう思った瞬間、僕は男として見られたいと思った。どうせなら、男として裁かれたい。
「僕が今、葉子に突然キスをしたら、横っ面を張り飛ばしてくれる?」
「えっ?」
「嫌悪感いっぱいに、拒絶してくれる?」
「もしも拒絶しなかったら、それって端から見たら、受け入れてるってことになるのかな」
葉子が仮定的な言い方をしたにもかかわらず、僕はそれが現実に起きたことだとすぐに察した。
「思いがけなく、キスされたことがあるんだね」
葉子は黙ったまま答えず、いつものように視線を右下に落とした。葉子はされたことはないと嘘をつくこともできないでいた。
「その人のこと好きだったの?」と、僕は酷な質問を続けた。
「恋愛感情を抱くような相手じゃなかった。ただ突然で、驚いて動けなかっただけなの」
僕は葉子を傷つけたその男に激しく嫉妬した。その一方で、なぜかその男に成り代わって憎まれたいと思った。きっと、葉子はその男を憎みきれていない。誰かを憎めば、葉子は自分を責めなくてすむ。そんな気がした。大人びた衝動が走った。僕は葉子の髪に指を絡めると、頭をぐっと引き寄せた。
その愛しい唇に、キスをした。
僕の妄挙に森の木々たちが一斉にざわめいた。それは警鐘のように聴覚を支配した。僕は葉子の唇が抵抗するのを待った。だから、愛し合っていると錯覚してしまうほどの長いキスだった。僕はその甘美な吐息に溺れかけていたが、心が苦しくなり唇を離した。
「どうして、僕を殴らないの?」
「殴るなんて・・・できない・・・」
「無理矢理キスしたんだよ」
「征慈君は・・・そんな人じゃないから・・・」
僕はそんな人だった。葉子が好きで好きで、ずっとキスしたくて、葉子の心の隙間につけ込んだ。卑怯な男のやり方だ。
「僕の頬を思い切り叩けよ。いや、叩けるような強い女性になってくれよ」
僕は葉子の折れそうな細い手を握ると、僕の頬にぴしゃんと音をたてて当てた。冷たい手だった。葉子の瞳には涙がたまっていた。はっきりとした態度がとれない葉子が、歯がゆくて、抱きしめたくて、頬にあったその手を、ぎゅっと強く押しつけた。刹那、葉子の瞳から涙がこぼれ落ちた。
「だから、涙なんか見せたらだめだって。男はつけあがるだけだよ」
葉子の瞳から次々と涙があふれた。僕の頬に触れている彼女の手は、何かを言いたげに震えていた。僕は葉子の心に影を落としている過去のキスを、消してしまいたかった。
僕は葉子の唇に、もう一度、強くキスをした。
葉子はやはり拒否しなかった。やさしすぎる。弱すぎる。僕なんか傷つけていいのに。滅茶苦茶にしていいのに。
僕の瞳からも涙が一粒こぼれた。僕はきっと夢をみている。
「あっ……」
葉子の震える唇が、僕の赤い唇に小さく言って、右へスライドするように静かに離れた。葉子の視線は、僕の後方に向けられていた。僕はその先を振り返った。いつの間にか僕の背後の枝に、コタンコロカムイがひっそりと姿を現していた。相変わらず、その姿は神々しかった。彼は黄色い大きな眼で、こちらをじっと見ていた。偽善をも見破る鋭い眼光。悟言を語るであろう嘴。破邪顕正を使命とする荘厳な表情。鳥類の中で、ここまで人間に顔つきが似ているものがいるだろうか。全身にまとうマーブル模様の羽根と、冠をイメージさせる耳羽が、芸術的な美を感じさせた。コタンコロカムイが、ヴォーという鳴き声を発した。
「何てきれいなの・・・」
葉子はそう言ったきり、森の守護神に心を奪われ無言になった。僕は葉子の憂いある横顔を見て、また涙をこぼした。どうして僕たちは、キスをしたのだろう。コタンコロカムイの眼には、僕たちの間に一瞬だけ芽生えた、小さな恋心が映った。僕は涙の跡が残る葉子の美しい頬を見ていた。何もなかったと思えるほどの、静かすぎる夏の夕暮れだった。夜会の準備に集った森の住人たちの気配だけが、かろうじて時を認識させた。
コタンコロカムイが突然、音を立てずに飛び立った。僕たちは、はっと我に返った。心細い涼風が刷新するように通りすぎた。
僕は斜陽に羞恥の色をぼやかしながら、下を向いてぽつりと言った。なよなよしたいつもの僕だった。
「帰ろうか」
「うん・・・」と言った葉子も、心許なく下を向いていた。
僕らはとても気まずく無言で帰途についた。川辺ではカエルが合唱を始めていた。僕がそちらを見やると、葉子もそれに気がつき、一緒に同じ方向を見た。それだけで僕たちは会話をし、心を通わせているようだった。僕はずっとキスしたことを、葉子に謝るべきなのか考えていた。しかし、許しを請うことは、憎まれることを否定してしまうことになる。恋愛のプロセスに対する好奇心以上に、男友達としての信念があったことを重んじたかった。言い訳になるかもしれないが・・・。こんなふうに葛藤していると、あっという間に院長宅についてしまった。本当にちっぽけな村だった。
「征慈君、おやすみなさい」
葉子ははっきりとして声で、僕の目を真っ直ぐに見つめて言った。僕は暫し瞬きを忘れた。その澄んだ瞳は、僕を責めていないように感じられた。凛としていながら、母性すら漂うやさしい視線に、僕はどきまぎし、思わずどもってしまった。
「お、おやすみ」
僕は激しい動悸を喉に感じながら、葉子の後ろ姿が家に入るのを見届けた。それから、わーっと叫びたい気持ちを全て靴底に込め、どたどたと響かせるように駆け足で寮に戻った。丁度、瞬が出かけようとしていているところだった。僕は息が切れているのを悟られないように、つとめてさらりと言った。
「あっ、葉子からの伝言。ルヤンペの森、風邪気味だから、行けないって」
「えーっ、嘘だろう。つまんない」
僕はあのまま絵里子先生と体験したであろう瞬の肉体をじっと見た。見た目には何も変わっていない。
「まだ夜風は冷たいし、仕方ないよ」
「俺、葉子に避けられたのかな」
「そんなことないと思うな。彼女、体弱そうだし」
瞬は仕方なく靴を脱ぎ、気持ちを切り替えているのがわかった。それから、割と真面目な表情で僕に聞いてきた。
「俺って、結構かっこいい方だったりしないか?」
「瞬は相当かっこいいよ。甲子園に出たらもう大騒ぎ。全国から女性ファンが殺到」
「そうだよな。別に焦る必要もないよな。もう、いいや」
「えっ? 告白は?」
「やーめた」
それを聞いて僕は、ほっとしていた。瞬の気持ちを知っていながら、出し抜いてルヤンペの森に行ったどころか、キスまでした。相当な裏切り行為だった。恋は盲目、友情にさえ簡単に亀裂を入れる。
その後の夕食時、僕と瞬は共に無口だった。二人ともテレビを見ている風を装っていたが、それぞれに違うことを考えていた。おそらく僕たちは、お互いに少しだけ大人になった。僕は葉子とキスをして何かが変わっただろうか。愛する人と交わしたキスは、夢のように甘く、それでいて切なくて、もどかしくて、心がちぎれそうだった。お互いにこぼした涙は、何を意味していたのだろうか。
その後、瞬は葉子をデートに誘うことも、好きだと告白することもなかった。葉子の方も、いつもと変わりなく僕に接していた。僕の葉子に対する想いは日に日に募ったが、気持ちを表現し伝えることに、やはり歯止めをかけた。僕らの小さな世界は、波風が立ったようで、結果的に友人関係のままだった。僕にできることは、葉子を静かに見守ることだけだった。
夏休みに入ってしまうと、僕の方から葉子を誘えるはずもなく、偶然に会えることを期待して、役場にある図書館に足繁く通った。功を奏して葉子と会えた時は、どちらから誘うわけでもなく何となく村を散策した。葉子はいつものように、天文や動植物の話を目を細めて聞いてくれた。僕は葉子のしぐさにドキドキし、滑稽なほど饒舌になった。そして、喫茶店『ノチュ』へ立ち寄り、オープンテラスでアイスクリームを食べた。行き場のない片想いと渦巻く衝動を鎮めるように、アイスクリームは舌先に冷たく、それでいて甘かった。
夏休みの最終日。葉子が札幌へ帰る日が来た。僕と瞬はプレゼントとして、花とハーブの寄せ植えを用意していた。朝九時になると、僕たちはプレゼントを持って、葉子のホームステイ先である院長の家へ向かった。僕は三人で写真を撮ろうとカメラを持参していた。しかし、僕らは完全に肩透かしを食った。すでに葉子の姿はなかった。昨夜、突然に母親が迎えにきたとのことだった。あまりに呆気ない幕切れだった。さよならを言うどころか、僕の手元には写真すら残らなかった。
それからの僕は、空を見上げて過ごした。星のない夜は、時々不安になった。葉子は夢だったのではないか。寂しすぎた僕が作り出した幻想ではないかと。しかし、葉子の唇の感触は、確かに残っていた。目を閉じる。あの時のキスを思い出す。甘く切ない気持ちになる。
会いたい。また会える。いつか会いに行こう。
翌春、瞬が村を旅立っていった。十五年間ずっと一緒だった親友もいなくなった。僕は募る寂しさと闘いながら、三年後の高校卒業を、指折り数えて待った。大学進学のために、コンルチプを出ていく日を夢見て勉強に励んだ。見知らぬ都会に思いを馳せた。そして、十八歳、高三の夏。僕は明かされずに来た、出生の秘密を村長から告げられた。それは想像を絶する衝撃で、あまりに残酷な現実だった。この村の分類であるF、A、Cが意味するもの。FREELANCE、ALIVE、そしてC。
「空がとても低い気がするの」
葉子の言葉が思い出された。ずっと信じてきたコンルチプの空は偽物だった。その日、僕は絶望という言葉の意味を知った。いつか、この村を出て行く日が来るのだと思っていた。未来を切り開くために、出ていくつもりだった。葉子に、もう一度会えると信じて疑わなかった。そんな淡い望みは、この低すぎる空に跳ね返された。森の上空に、コタンコロカムイの雄姿が見えた。彼の翼ですら、この空には勝てない。彼もまた、この村に棲み続けることを宿命づけられた、同士なのかもしれない。