『ブラックペッパー・コーヒー』
喫茶『ル・シアン』。ブラックペッパー・コーヒーの意味するものは? 恋愛はなくてもいいものと、自己完結してきた強がりな女性の、ピリッとスパイスの効いたラブストーリー。
【登場人物】
遠山千春(32)WEBライター
久住 修(29)喫茶『ル・シアン』のマスター
マリー (45)カクテル・バー『レッド・リップ』のママ
永井良子(50)心理カウンセラー
小竹彩花(20)インテリア雑貨店販売員
幸江 (72)喫茶店の常連客
善太郎 (80)喫茶店の常連客
里奈 (27)バーの常連客
M:モノローグ(独白)
SE:サウンド・エフェクト(音響効果)
SE 都会の喧噪、行き交う車。寒風が吹く。店先からはクリスマス音楽。
千春M「十二月。ここは札幌の中心街、大通公園。雪がはらはらと舞っている。オレンジ色の斜陽が、高層ビルの隙間に沈んでいく。街路樹はイルミネーションでおしゃれをし、寒さに震える私たちを手招きする。その中に点在する寂しい目をした人たち。心に空白を抱えたまま、北風に背中を押されて、さまよい歩く」
SE ドアが開く。
永井「遠山千春さん、どうぞお入りください」
千春「失礼します」
SE ドアが閉まる。かすかに加湿器(沸騰蒸気タイプ)の音。
永井「私は心理カウンセラーの永井と申します。よろしくお願いします」
千春「こちらこそ、よろしくお願いします」
永井「どうぞ、ソファに楽な姿勢でお座りください。家でくつろぐような感じで」
千春「それでしたら、クッションを抱えて横座りでもいいですか?」
永井「そういうユーモアは大好きです。私どものカウンセリング・ルームは、肩の力を抜いてお話できるように、家のリビングみたいな感じにしているんです」
千春「(微笑み)確かにそんな感じですね」
SE 紅茶カップを置く。
永井「どうぞ、ハーブティーです。リラックスできると思います」
千春「ありがとうございます。いただきます(飲む)。おいしい。体が温まります」
永井「今日は冷え込んでいますね。えっと……クリニックの方からカルテが届いています。不安を取り除く薬と、睡眠薬を処方されたんですね」
千春「はい。眠れない日が続きまして、自分ではどうしようもなくなりました」
永井「お辛かったですね。今夜から改善するといいのですが……それでは、お話を伺います。別に悩みでなくてもいいんです。今話したいこと、何でも結構です。千春さんのペースで」
千春「はい……えっと……私、自分はしっかり者で、物事を割り切れる、強い人間なんだと思っていました……」
永井「心の中にある不安の正体が何なのか、わかっていらっしゃるようですね」
千春「はい。ぼんやりとですが自覚しています。それはたぶん、ブラックペッパー・コーヒーです」
永井「それはコーヒーの種類ですか?」
千春「はい。外国発祥のそういうスパイス・コーヒーがあるみたいです。コーヒーにブラックペッパー、ハチミツ、ナツメッグを少々と、お好みで塩やミルクを入れて味を調えるそうです。まだ飲んだことはありませんが」
永井「ピリッとする感じなんでしょうかね」
千春「そうみたいです。ネットの情報ではコクが出て美味しくなると書かれていました……永井先生。この話、ちょっと長くなってもいいですか?」
永井「もちろんです。時間はたっぷりとあります。どうぞ」
千春「きっかけは半年前でした。夜中に突然、腎臓結石の激痛に襲われまして、どうにも耐えられず、はじめて夜間救急病院に駆け込みました。その時、彩花ちゃんという子と知り合いになりました。彼女は薬の過剰摂取で胃洗浄をされた後、点滴の処置を受けていました。カレシとケンカになり、衝動的に薬を飲んだそうです。ずっと泣いていました。こんなふうに人目を気にせず、声を出して泣ける彼女が羨ましかったです」
永井「オーバードーズですね。若い子に増えていて、大変危惧しています」
千春「彼女は二十歳。同じ干支ですからひと回り下です。私も翌朝の六時まで痛みが収まらなかったので、その間、彼女といろいろな話をしました。でも、心で対話するのではなく、頭で文章を書いていました。私はWEBライターをしていますので、これは記事になると思ったんです。オーバードーズ、夜間救急病院、駆け込む患者たち、それを受け入れ働く人々、垣間見える人間模様。きっと私は、彼女に感情移入することもなく、俯瞰から冷めた目をして眺めていたと思います。上辺だけにやさしさを漂わせた偽善者です」
永井「そんなことはないと思いますよ。職業柄、冷静な視点をお持ちなだけです」
千春「そう言っていただけると救われます。翌日、彩花ちゃんは、病院側から身元引受人が必要と言われました。自殺や再発の抑止なんだと思います。彼女から、家族やカレシには知られたくないと懇願されて、私が引受けました。それから、ときどき連絡をもらうようになったんです」
* * *
SE 携帯電話(千春)のバイブ音。
千春「はいっ、もしもし。彩花ちゃん?」
彩花「千春さーん、ご無沙汰してます。その後、体調はどうですか?」
千春「近くの病院に通ってるんだけど、様子見の状態。結石が自然に排出されなかったら手術だって。それは避けたいかな。で、彩花ちゃんの方はどうなの?」
彩花「実は来週、部屋を引き払って、実家へ帰ることになったんです。だから、もう一度、千春さんに会いたいなぁと思って。ずいぶんとお世話になりましたし」
千春「急で驚いた」
彩花「私、カレシとはきっぱりと別れました」
千春「えっ? そうなの?」
彩花「はい。会った時に詳しく話しますね」
千春「うん、わかった」
彩花「実は『ル・シアン』という、お勧めの喫茶店があるんです」
千春「ル・シアン?」
彩花「はい。今日仕事終わりの九時に、そこでいいですか?」
千春「いいわよ」
彩花「場所は路地裏で分かりづらいので、地図を送りますね」
千春「了解。じゃあ、後で」
* * *
SE 都会の喧噪、車が行き交う。
千春M「喫茶『ル・シアン』。この店か。近頃ブームの昭和レトロな雰囲気……ん? 何、この貼り紙。『当店のマスターは年中不眠症で、機嫌が悪く、無愛想です』……って、軽いジョーク?」
SE 古風なドアベルの音。店内にピアノジャズ(ビル・チャーラップ・トリオなど)が流れている。
久住「(クールに)いらっしゃいませ」
千春「(頭を下げて)どうも」
彩花「(向こう)千春さーん、こっちです」
千春「彩花ちゃん。久しぶり。(近づきながら)髪切ったんだね」
彩花「はい。すごくさっぱりしました」
千春「この数週間の間に、何があったの? 実家に戻ることにしたって」
彩花「ふふ。お店の入口の貼り紙は読みましたか?」
千春「見たわよ。マスターが年中不眠症で、機嫌が悪くて、無愛想だって」
彩花「あのイケメンがそのマスターですよ」
千春「そうなの? マスターって渋いシルバー世代を想像したけど、あんなに若い人だったのね。私より少し年下かなぁ」
彩花「今の推しです」
千春「推し?……あっ、それでカレシと別れたの?」
彩花「はい。何であんな口だけのどうしようもないヤツが好きだったのか。謎です」
千春「確かに話を聞く限りでは、ヤバそうなカレシだったら、心配はしてたけど」
彩花「ですよね。今は仕事終わりにここへ寄って、マスターの不機嫌な顔を見て、コーヒーを飲むのが癒しなんです」
SE (久住)近づいてくる靴音。
久住「ご注文はお決まりですか?」
千春「このル・シアン・ブレンドをお願いします」
久住「お砂糖とミルクはお使いになりますか?」
千春「いいえ」
久住「かしこまりました」
SE (久住)遠ざかる靴音。
千春「なるほどね。あのアイロンの効いたダークグレーのシャツ。黒のソムリエエプロン。確かにイケてる」
彩花「さすが千春さん。わかってますね」
SE (久住)ミルを回して豆を挽く。
千春「静かで、音楽が心地よくて、いいお店だね。何か落ち着く。コーヒーのいい香り。で、お目当てのマスターとはどんな話をするの?」
彩花「ほぼ話しません。貼り紙通りです。話しかけても面倒くさそうな顔するし、機嫌悪いし、厳しめな答えが返ってきます」
千春「寡黙な人というわけでもないのね」
彩花「はい。バカなことを言うと、時に叱られたり、論破されたりします。でも、それがちょっとクセになるんです。ふふ」
千春「(笑って)ひょっとしてドM女子?」
彩花「それに近いかも。千春さん、気がつきません? 周りにも塩対応されたい女子が結構いるの」
千春「ホントだ。みんなマスターに視線が向いてる。その緊張感を欲してる感じ」
彩花「はい。あのクールさがたまらないんです……ちょうど一ヶ月くらい前かな。仕事帰り、雨の夜でした」
* * *
SE (街路)ザーッと勢いよく降る雨。
彩花「傘がなかったので駅まで走っていました。その時偶然に、カレシが女の子と歩いているのを見ちゃったんです。相合い傘でしっかりと腕を組んで。私、パニックになって路地裏に逃げ込みました」
SE (彩花)バシャバシャと走る足音。
彩花「(苛立って)もう、土砂降りじゃん。最悪。(転んで)きゃあ。もう転んじゃったし。痛たたた」
SE 土砂降り。どんどん激しくなる。
彩花「(涙声になってくる)雨まで私をバカにして、なんなのよ! ……私、すごく惨めじゃん……わーっ(大泣き)」
SE (遠くで)古風なドアベルの音。(久住)足音が近づいてくる。持っている傘に雨が当たっている。
久住「あなたはバカですか?」
* * *
SE (ル・シアン)ピアノジャズが流れている。
彩花「マスターにそう言われたんです。傘は差し掛けてはくれてましたけど」
千春「なかなか初対面で手厳しい言葉だね」
SE (久住)靴音が近づいてくる。コーヒーカップを置く。
久住「お待たせしました」
千春「(焦って)あ、ありがとうございます」
久住「どうぞごゆっくり」
SE (久住)靴音が遠ざかる。
千春「(笑って)バカですか? のインパクトが強すぎて、彼が近くにきただけでぞくっとした」
彩花「あはは。でも、そのまま店に招き入れてくれて、ふかふかのタオルと熱々のカフェオレを出してくれました。いい香りに包まれて、温かくて甘くて、体の中まで染み渡って。私さらに大泣きしました」
千春「泣きたいのわかるなぁ。雨の悲しい匂いと冷たさとのギャップ」
彩花「帰り際、とどめにマスターにこう言われました」
× × ×
久住「まともな人間になってください」
× × ×
彩花「私ごく自然に、はい、また来ますって答えてました」
千春「で、こうして通っているわけね」
彩花「そういうことです。私って昔からアイドルに夢中になったり、メンズカフェにつぎ込んだり、イケメンの推しがいることで、がんばれる性格なんですよ」
千春「確かに推し活は生活の一部よね。会社にも週末のライブやスポーツ観戦のために、仕事をがんばれてるっていう人が結構いるもの」
彩花「まさにそれです。でも、のめり込み過ぎて依存みたくなっちゃうんですけど。お金も使っちゃうし」
千春「ある意味、私もそうよ。好きなアーティストや小説家の作品は、全部揃えないと気が済まないところあるし」
彩花「そっかぁ。そうですよね」
千春「で、あのマスターには、あとどんなことを言われたの?」
彩花「えっと……」
× × ×
久住「友達のようにべらべらと喋りたいなら当店ではなく、二階のカクテル・バーへどうぞ」
久住「こんなに静かな店内で話は筒抜け。恥ずかしくないですか?」
久住「中身のない話を永遠に聞かされると頭痛が悪化します」
× × ×
彩花「でも、私、ブラックペッパー・コーヒーは出されていないんですよね」
千春「ブラックペッパーって、コショウのこと?」
彩花「そうです。そういうコーヒーがあるみたいです。マスターには無言のメッセージがあって、二度と来てほしくない客には、無料でブラックペッパー・コーヒーを出すらしいです」
千春「それって本当の話?」
彩花「前に隣り合わせた人が言っていました」
女性客「(向こうで)すみませーん。コーヒーのおかわりをいただけますか」
久住「(向こうで)かしこまりました」
彩花「うーん、あの無愛想さがたまらん。あんな風でいながら、一度来た客の顔をちゃんと覚えてるんですよ」
千春「そういうところは仕事に対して真摯なのね。でも、不眠症で不機嫌。何が彼を眠らせないのかな」
彩花「千春さん、早くもライター目線になってますね」
千春「実はもう手帳を開いてこんなにメモしてる。私、アナログ人間だから」
SE スマホ(彩花)のバイブ音
彩花「あっ、私、そろそろ帰らないと。母親が函館の実家から出てきてるんです。親に頭を下げて、お金を出してもらって、借金を完済しました。めっちゃ怒られました。それで実家に連れ戻されるんです」
千春「そうだったのね」
彩花「だから安心してください。今回のことはいい勉強になりました」
千春「後悔してる?」
彩花「めっちゃしてますよ。何で借金をしてまで、男に貢いでしまったんだろうって。でもまあ、その時はそれなりに楽しかったんだとは思います」
千春「でも、自分で気づいて、解決してやり直すってすごいよ」
彩花「私は千春さんみたいな理性のある大人になりたいです。きっと、私のような失敗はしないんでしょうね」
千春「無駄に歳をとってるから冒険できないだけよ。いまだに上司から理不尽に叱責されて、やけ酒をあおったりもするし」
彩花「そうなんですか? それなら二階のお店『レッド・リップ』がおすすめです。嘘つきマリーさんというママがいるカクテル・バーです。二階の店もここと同様に、それが病みつきになった女子で、いつも満席ですよ」
千春「無愛想なマスターに、嘘つきマリーさんとか。そういうコンセプトが売りの系列店?」
彩花「私も気になってマリーさんに聞いたけど、こことは何の関係もないらしいです」
千春「おもしろいね。興味をそそられる」
彩花「でしょう? 最後に千春さんにいいネタを提供できましたね」
千春「ありがとう。二階にも寄ってみる。私はもう少しここでゆっくりしていくね。今日は会えてうれしかった。何かあったら連絡ちょうだいね」
彩花「はい、千春さんも。いろいろとありがとうございました。では」
* * *
SE (カウンセリング・ルーム)かすかに加湿器の音がしている。
千春「永井先生。私は全くもって、彩花ちゃんの気持ちなんて、わかってあげてなかったんです。男ごときに騙されて、振り回されてって、どこか蔑んでいました。私は絶対にこんな風にはならないと。そして、親身に接して、大人の懐の深さを見せつけて、優越感に浸っていたんです。愚かな人間です」
永井「自分を責めないで下さい。私も母親世代、同じように感じると思いますよ」
千春「それだけではないんです。彩花ちゃんがその男と別れてよかったと思う反面、この男女のいざこざ物語が終わってしまって、がっかりしている自分もいたんです。私はPVを稼ぐ記事を書くために、人の不幸は密の味なんです」
永井「人間は誰しもそういうところがあるんじゃないでしょうか。結果的に、千春さんは身元引受人になったり、相談相手になったりと、頼れる存在であったことは間違いないと思います」
千春「そうなんでしょうか……彩花ちゃんが帰った後、私は不機嫌なマスターのことをぼんやりと眺めていました。この人は彩花ちゃんに向かって『あなたはバカですか?』『まともな人間になってください』と言った。きつい言い方なのに、それが彩花ちゃんの心を動かした」
永井「それが彼なりのやさしさなのかもしれませんね」
千春「そこなんです。私が発した模範解答的な慰めの言葉は届かなかったのに。だから、『ル・シアン』のことを記事にしようと決めました。そこに集う人間。不機嫌なマスター。貼り紙の意図するところ」
永井「私も話を聞いていて、そのマスターのことが気になりますね」
千春「ですよね。噂のブラックペッパー・コーヒーを出されないように。いや、むしろ出されてみたいと画策しながら、帰り際に話しかけてみました」
* * *
SE (ル・シアン)ピアノジャズが流れている。
千春「ごちそうさまでした。とてもおいしかったです」
久住「お会計はすでにお連れ様からいただいております」
千春「そうでしたか……ここは、素敵なお店ですね。営業時間は何時から何時までですか?」
久住「営業時間は決めていません。何となく昼前に店を開けて、心が切れた瞬間が閉店時間です。突然、休んだりもします」
千春「今、流れている曲はなんですか?」
久住「ビル・チャーラップ・トリオの『デイ・ドリーム』です」
千春「デイ・ドリーム……ごちそうさまでした」
久住「ありがとうございました」
SE 古風なドアベルの音。
千春M「はあ、緊張した。これ以上、話しかけるの無理だ。明日出直そう……何か久しぶりにお酒が飲みたい気分……二階のカクテル・バーへ行ってみようかな」
* * *
SE (レッド・リップ)ドアが開く。店内にはペギー・リーの歌声が流れている。
マリー「いらっしゃいませ。あら、ご新規さんね。『レッド・リップ』へようこそ。カウンター席しか空いてないけどいいかしら?」
千春「はい。お願いします」
マリー「はい、おしぼりとメニューをどうぞ」
千春「ありがとうございます。カクテルの種類がたくさんありますね。えっと……ん? ママと三十分お話ができます。別途五百円」
マリー「なかなか姑息でしょ?」
里奈「(向こうから)ママの適当な嘘話が人気で、取り合いになるからよ」
千春「そうでしたか。じゃあ、お勧めのカクテルとそのお話つきで」
マリー「かしこまりました。今、こちらの里奈さんとお話をしてるので終わったら来ますね」
千春「はい」
里奈「ねえ、マリーさんの出身地はどこなの?」
マリー「深い深い海の底よ。私は人魚だったの。陸の上に住む人間の男性に恋をした」
里奈「(げらげらと笑って)そっかぁ。マリーさんは人魚姫だったんだ」
マリー「魔法使いに頼んで、声と引き替えに人間の足を手に入れたわ。でも、恋が成就しなければ泡となって消えてしまうという条件付きだったの」
里奈「生きているということは、恋は実ったってことね」
マリー「まさか。あんなに尽くしたのに、その男は他の女と結婚してしまったわよ」
里奈「確かナイフで彼を刺すと、人魚に戻れるっていう話だったような」
マリー「私は何の迷いもなく往復ビンタをお見舞いしたわよ。そして、自分の意志で人魚には戻らなかった。派手な洋服と靴を買って、都会の街を颯爽と歩いたわ。そして、ここにたどり着いて、お店を開いたの」
里奈「(げらげらと笑って)きゃあ、すてき」
マリー「女は悲劇のヒロインじゃない。強いのよ。ふふ」
千春M「なるほど。これが嘘つきマリーさんか。年齢はアラフォーくらいかな。透き通るような美しさ。まさに人魚姫みたいな人……」
SE コリンズグラスに氷が触れる音。
マリー「お待たせしました。カクテル名は、ブラッディ・マリーです。どうぞ」
千春「カクテルって色がきれいで、目でも楽しめますね。赤に浮かんだレモンの黄色。この緑の葉は何ですか?」
マリー「うちはバジルを乗せているの。このブラッディ・マリーは、ウォッカとトマトジュースにレモンジュースを少し。お好みによってセロリソルト、ウスターソース、コショウやタバスコを少し入れてアクセントをつけるの」
千春「ウスターソースとタバスコ! 意外なものが入っているんですね。いただきます。(飲んで)おいしい! 思ったより、すごくさっぱりしてますね」
マリー「名前の由来は、血まみれのマリー」
千春「グロい。聞かなきゃよかった(笑う)」
マリー「私はマリー。今後ともよろしくね」
千春「私は千春です。人魚姫の本音が聞けて、スカッとしました。往復ビンタをお見舞いするなんて素敵」
マリー「私は嘘つきで適当だから、本気にしないでよ。千春さんは何をしている人?」
千春「ライターです。主にWEB記事を書いています」
マリー「肩書きはかっこいいわね」
千春「現実はシビアです。一生懸命に取材して書き上げたのに、同業者とネタかぶりしてボツとかよくあります。きっと視点が平凡でひねりがないんです。上司につまんねーやつとよく言われます。社会的な問題を提起するようなジャーナリストには程遠いです」
マリー「好きでその仕事をしているんじゃないの?」
千春「文章を書くのが好きだから、というだけでやっている感じです。結局、PVを稼がないとだめなので、話題の商品とか、おいしいお店の記事が多くなります」
マリー「で、うちの店の取材?」
千春「いいえ。今日は偶然、下の喫茶店に友達が誘ってくれて。で、ここのお店にも寄った方がいいって勧められたんです」
マリー「なるほど。それで、喫茶『ル・シアン』の取材はできたの?」
千春「店の貼り紙を見たからなのか、不機嫌なマスターには話しかけづらくて」
マリー「ライターさんなのに度胸がないのね。彼の名前は久しく住むと書いて久住。私なんか初対面の日にブラックペッパー・コーヒーを出されたわよ」
千春「その話は本当なんですね(笑う)」
マリー「彼はね。以前は普通のサラリーマンをしていたのよ。でも、毎日、深夜まで残業の超ブラック企業。性格の悪い上司の怒号と罵声。心身ともに疲弊して壊れてしまったの。だから、仕事を辞めて、この仕事に就いたのよ」
千春「そうだったんですか……」
マリー「(きょとんとして)嘘だけど」
千春「(ふっと笑って)もっともらしいから、本当かと思いました」
マリー「嘘つきマリーの言うことを信じてはだめよ。ちなみに、うちの店と私のことは、くれぐれも記事に書かないでね。居場所がバレたら、海の底から、恐ろしい魔女が追いかけてくるから」
千春「(笑って)わかりました。明日から『ル・シアン』に通うつもりなので、こちらのお店にも寄らせていただきます」
マリー「今後ともよろしくね」
* * *
SE (ル・シアン)ドアベルの音。ピアノジャズが流れている。
久住「いらっしゃいませ」
千春「ル・シアン・ブレンドをお願いします」
久住「かしこまりました」
SE (千春)パソコンのキーボードで文字を打っている。
千春M「えっと、時間は十二時四十五分。マスターは昼間も不機嫌な顔。昨日も眠れなかったのかもしれない。で、店内に客は十一人、満席。老紳士が二人。老婦人が三人。OL風が六人」
SE (久住)コーヒーカップを置く。
久住「お待たせしました。ごゆっくりどうぞ」
千春「あのう。ここはネットで検索しても出てこない不思議なお店ですね。隠れ家的な感じなんですか?」
久住「そういう意図はありませんが、ひっそりと存在していたいとは思います」
千春「人気店になれなくていいんですか?」
久住「はい。常連の方が増えるのも、できれば避けたいです」
千春「お店をやっている経営者は、それを理想としているのかと思っていました」
久住「いつも来る方が突然来なくなったら、体調が悪いのではとか、余計な心配をしなくてはなりません。そういうのは精神的に疲れます」
千春「実は気弱男子ですか?」
久住「俗語的な言い方は好きではありません」
千春「では何と?」
久住「小心者です」
幸江「(向こうから)久住さん、聞いて下さる? うちの嫁ならひどいのよ」
久住「(幸江に近づきながら)またお嫁さんの悪口ですか? 聞きたくないんですが」
幸江「だって、孫にプレゼントを送ったんだけど、メールでお礼を言ってきたのよ。普通、直筆の手紙で書いてくるのが礼儀だと思わない?」
久住「また昭和の価値観の押しつけですか。今の主婦はフルタイムで働いていて忙しいんです。手紙もメールも変わらないと思いますが」
幸江「そういうけど、私の時代なら姑からこっぴどく説教されてるわよ」
久住「だからって同じ目にあわせるんですか? 自分がお姑さんから強いられてきたことは、受け継ぐのではなく、終わりにすることです。古くさい決め事から解放してあげて下さい」
幸江「あーあ、また久住さんに叱られちゃったわ。あはは」
千春M「あのご婦人。あんなに叱られているのに、楽しそうに笑ってる。本当はお嫁さんをいじめたくないのかもしれない。それが悪いとわかっているのにやめられない。だから、マスターに叱られに来るのだ。そして、笑い飛ばす。それを聞いている周りの人たちもクスクスと笑っている。彩花ちゃんがクセになると言っていたのは、こういうことなのだ……」
千春「ごちそうさまでした」
久住「ブレンドコーヒー五百円です」
千春「コーヒーがお好きで、この仕事をされているんですか?」
久住「いいえ。喫茶店をやっている人間が、皆コーヒー好きとは限りません。この世の中、自分のやりたい仕事に就けている人は、少数じゃないでしょうか」
千春「確かに私もその類ですね」
久住「私はブラックコーヒーが飲めません。砂糖がたっぷりと入ったカフェオレばかり飲みます」
千春「えっ? 冗談ですよね」
久住「本当です。ありがとうございました」
* * *
SE (カウンセリング・ルーム)かすかに加湿器の音がしている。
千春「通えば通うほど、ますます彼がわからなくなりました」
永井「とてもユニークな方ですね」
千春「振り回されている感じというか。手のひらで遊ばれているような。これが女性たちがはまる理由なんでしょうか」
永井「謎めいた人というのは、確かに気になります」
千春「こうなったら、素顔を暴いてやるぞと俄然、闘志に火がつきました。実のところ彼の淹れるコーヒーが、とても美味しかったんです」
永井「腕は確かなんですね」
千春「はい。彼は注文を受けるごとに豆を挽いて、とても丁寧にコーヒーを淹れていました。コーヒーケトルを持つ彼の指は長くて、しなやかでとても美しいんです」
永井「繊細な方なんですね」
千春「そんな感じがします。それからというもの、ほぼ毎日のように、店に行っていました。取材よりも、コーヒーがメインになっていたかもしれません(笑う)」
* * *
SE (ル・シアン)ピアノジャズが流れている。向こうでミルを回す音がしている。
千春M「午後二時。人はまばら。マスターが私のためにコーヒーを淹れている。ちょっとだけ優越感……」
SE ドアベルの音。
久住「いらっしゃいませ」
善太郎「こんにちは。久住さん、これ。前に言っていたボリス・ヴィアンの小説。書庫の奥から見つけましたよ」
久住「これは絶版になっている全集の第七巻ですね」
善太郎「よかったら差し上げますよ」
久住「こんな貴重なものをよろしいんですか?」
善太郎「もちろんです。私もいい年だし、少しずつ断捨離していますから。もらってもらった方が助かります」
久住「では、ありがたく頂戴します。本日はコーヒーとサンドイッチをサービスさせていただきます」
善太郎「それはうれしいです」
千春M「あっ、マスターが口元で微笑んだ。彼の笑顔をはじめて見た。相手が穏やかでインテリな老紳士だから? それともボリス・ヴィアンの絶版になっている本が手に入ったから?」
SE コーヒーカップを置く。
久住「おまたせしました。ブレンドコーヒーです」
千春「この店が若い女性に人気なのがわかってきました。マスターの会話が面白いです。あの貼り紙の効果は絶大ですね」
久住「別にそういう狙いはありません。しかし、最初に人間評価を下げておけば、普通が良いと感じるのかもしれません」
千春「ギャップ萌えというやつですね」
久住「そういう俗語みたいな言い方は好きではありません。それを言うなら、『ゲイン効果』です」
千春「心理学用語ですね。お詳しいんですか?」
久住「本当によく喋る方ですね。今日は頭痛が特にひどいので、もういいですか」
千春「すみません」
* * *
SE (レッド・リップ)ペギー・リーの歌が流れている。
千春「(酔い口調)マリーさん、聞いてますかぁ?」
マリー「はいはい。ちゃんと聞いてますよ」
千春「久住さん、ひどくないですかぁ。そのインテリおじいちゃんとは仲良くて笑顔を見せるのに、私には頭痛を理由に会話をシャットアウト」
マリー「(笑って)千春ちゃん、だいぶ手こずっているわね」
千春「ちなみに手帳に書き留めたマスターの金言集を聞いてもらえますか? 他のお客様と話していたものです」
× × ×
久住「コーヒーを飲みながら、パソコンを開けば、誰でも仕事ができる感は出ます」
久住「ボランティアは二種類に分かれます。ただ純粋に人助けしたい人間と、人助けしている自分が好きな人間。どちらも正解です。結果として人の役に立っているのですから」
久住「大した苦労もないのに、いつも自分は不幸だと嘆いている人と、不幸の連続なのに、大したことないと笑い飛ばしている人。どちらが不幸なのかと考えても、仕方ないと思いませんか?」
久住「風が強く吹くのは嫌ですけど、無風状態も息苦しくて、たいそう気持ちが悪いものです。やはり風は吹いていた方がいいと思います」
久住「誰もがきれいな声で鳴く鳥を好きだという固定観念。ゲロゲロと鳴く蛙の声が好きな人もいます」
× × ×
マリー「なかなかの屁理屈も、文章化すると訴えかけるものがあるわね。あはは」
千春「そもそも、ル・シアンは久住さんのお店なんですか?」
マリー「仕方ないなぁ。教えてあげるわ。実は彼、十勝地方、芽室(めむろ)町のジャガイモ農家なのよ。マチルダという珍しい品種を作ってる。今年は天候不順で収穫が減ってしまったの。だから、期間限定で札幌に出てきて、雇われマスターをやっているのよ」
千春「そうなんですか? 確かにあの無愛想さは、都会の人の冷たさというよりは、大自然に生きる人の素朴なシャイさかも」
マリー「(呆れて)だから、嘘だってば」
千春「うーっ、もう、マリーさんたら(ふくれる)また、騙されたぁ」
マリー「ごめん、ごめん。本当は久住さん、大学で心理学の講師をしていたのよ。趣味と実益も兼ねた店を持つのが夢で、ここに念願の喫茶店を開いたの。人間観察とリラクゼーション空間」
千春「やっぱり! そういうインテリな感じですか。確かにゲイン効果とか、心理学用語を使ってました。そうかぁ。そっち系の人かぁ」
マリー「そっち系ってどっち系よ。だから、私の話は嘘だって言ってるでしょう」
千春「もう、マリーさんて、それっぽく言うから、どれも本当に聞こえてしまうじゃないですかぁ」
マリー「わかってて騙される千春ちゃんがマヌケなのよ」
千春「じゃあ、いっそこんなのどうですか? 久住さんは過去からやってきたタイムトラベラー」
マリー「それいいわね。未来じゃなくて、過去からってところが、絶妙にいい感じ」
千春「だって、久住さんて堅物というか、古風な頑固さがありますよね」
マリー「(笑って)あるある。昭和っぽい」
千春「もしくは銀河系アルセ・マジョリスからきた宇宙人」
マリー「どこの星よ。それ」
千春「知りません? おおぐま座の47番目の恒星。そこには環境が限りなく地球に似ている惑星が存在してるんです」
マリー「千春ちゃんて、無駄な知識を持ってるわね……でも、どうして地球人は他人の素性を知りたがるのかしらね。生い立ち、家柄、学歴、職業とか? それで同情したり、尊敬したり、卑下したり。地球人というのは、人の不幸や傷をえぐるのが好きよね」
千春「マリーさん、めっちゃ真っ当な意見を言ってますね」
マリー「どうかしら。私のように嘘を何度も繰り返しつき続けていると、真実と嘘の境界線が曖昧になって、本当のことがわからなくなってくるの。区別がつかなくなって、自分の中で嘘を本当にしてしまう。そういうことってない?」
千春「そう言われると、無意識にそういう一面があるかもしれません。物事を自分に都合よく歪曲して正当化してしまう」
マリー「ちなみに千春ちゃんて、友達も恋人もいないでしょう?」
千春「はい。今はそう呼べる人はいません」
マリー「寂しくない?」
千春「恋人や友達がいた時の方が寂しかったんですよね。私はこういう人だと決めつけられて、悶々としていました。きっと、私は無駄にブライドが高いんです。下に見られたら負けみたいな嫌な女です」
マリー「それって自分が悪いのか。相手のせいなのか。縁に恵まれなかったのか?」
千春「それでも二十代までは人目を気にして、友達の多い楽しい人を演じていたんです。でも、三十代になってそういうのはもうやめました。もともと、ひとり上手なんですよ。人を信用していない」
マリー「そういう子って、親から、あまり大切にされずにきたタイプよね」
千春「(笑って)大正解! 確かに姉ばかりが可愛がられてました。両親と姉は意地悪な性格で、その考え方や行動を私は嫌悪していました。そういう気持ちが伝わるのか、家族の中でハブられてましたね」
マリー「でも、親を恨んだりはしないのね」
千春「だって、そんなの言い訳じゃないですか。姉はいい歳して、自分が不幸なのは親のせいだって責めるんですよ」
マリー「あら、大切にされたお姉様は今、不幸なの?」
千春「ネットで知り合った素性の怪しいヒモ男と暮らして借金生活に転落。男に逃げられ荒れて、勤怠不良で会社はクビ。実家に転がり込んで酒浸りの毎日。親に暴言を吐きまくって、お金の無心です」
マリー「わがままに育った女のなれの果てすぎて、笑えないわ」
千春「しかも、父親は借金してまで株に注ぎ込んで多額の損失。母親はもとから家事を放棄してて身の丈に合わない買物と旅行三昧。結局、質素で堅実に生活している私に泣きついてきます。私が彼らの後始末に奔走させられる未来が見えます」
マリー「損な役回りの子っているのよね。都合よく使われる。そういう子が犠牲になって壊れていくのは嫌だわ」
千春「私は大丈夫ですよ。最小限の被害にとどめる術を、日々ライター業の中で勉強して、身につけていますから」
マリー「私の前では、強がらなくていいのよ」
千春「お気遣いありがとうございます。こんな話につきあわせてすみません……少し酔いが醒めてきました。(無理して笑って)あーあ、明日は久住さん、少しは機嫌がいいといいなぁ」
* * *
SE (ル・シアン)ピアノジャズが流れている。
千春「ごちそうさまでした」
久住「五百円頂戴します……もう何カ月も、ずっと同じブレンドコーヒーを飲み続けていて飽きないですか?」
千春「はい、全然飽きません。お世辞抜きでとても美味しいです。ところで、マスターはジャズがお好きなんですか?」
久住「ピアノジャズ限定で好きです。トランペット系は胸が苦しくなるので、あまり聞きません」
千春「何かトラウマがあるんですか?」
久住「単なる好みの問題です」
千春「マスターの不眠症の原因は何ですか?」
久住「わかりません。眠くならないだけです」
千春「わくわくして眠れないのと、不安で眠れないのと、どっちですか?」
久住「小学生に対する質問ですか? どちらでもないです。こういうレベルの質問は、勘弁していただきたいです」
千春「……私、来週四日間、入院して簡単なカテーテル手術を受けるんです」
久住「そうですか。柄にもなく怖いんですか?」
千春「怖くはないです。ただ……」
久住「ただ、何ですか?」
千春「いいえ、何でもないです。退院したら、またコーヒーを飲みに来ますね」
久住「他に楽しみはないんですか?」
千春「今のところはないですね。ここに来るのがルーティーンみたいです」
久住「気取った言い方は好きではありません」
千春「では何と?」
久住「日課、です」
千春「マスターだって、前に気取って、ゲイン効果とか言ってたじゃないですかぁ」
久住「(少し笑って)忘れました」
* * *
SE (カウンセリング・ルーム)かすかに加湿器の音がしている。
千春「はじめて久住さんが、私に微笑みかけてくれたような気がしました」
永井「手術をがんばれというエールだったんですね」
千春「どうでしょうか……これが、久住さんを見た、最後でした」
永井「えっ? どういうことですか?」
千春「手術後の数日間は痛みとの闘いでした。でも、退院したら美味しいコーヒーが飲める。早くル・シアンへ行きたい。あと何日の辛抱、あと何時間の辛抱と、子供みたいに唱えてやり過ごしました。そして、退院した日の午後。もう気持ちを抑えられず、病院から直接ル・シアンへ向かいました。重いトランクを引きずって」
* * *
SE 都会の喧噪。トランクを引きずる音(足早)。
千春M「(少し息が切れて)着いた。えっ? 閉まってる? これだけが楽しみだったのに……あれ? いつもの貼り紙がなくなってる。看板も外されてる。様子が変……中は?……えっ? もぬけの殻?……お店がなくなってる……」
SE トランクを引きずる音(呆然、ゆっくり)。
千春M「私、何やってるんだろう……(ふっと笑う)もう、缶コーヒーでいいか……」
SE 自動販売機で缶コーヒーを買う。栓を開けて飲む。
千春M「こんなことなら、久住さんに遠慮しないで、質問攻めにすればよかった……あーあ。こんな時、せめて気をきかせて、冷たい雪が降ってくれたらいいのに……誰かに甘えたい……大丈夫だと言って抱きしめて欲しい……」
SE 都会の喧噪。車が行き交う。
千春M「ショーウインドーに自分の姿が映ってる……いつもの私だ。吹っ切れた時の潔さ。間違いに気づけた時の穏やかさ。空を見上げることができる強さ……」
SE トランクを引きずる音(ゆっくりから足早に)
千春「空がものすごく青い……この街のどこかに。いや、地球のどこかに? いいえ、時空の彼方に、彼はひっそりと生きているのかな……」
* * *
SE かすかに加湿器の音がしている。
永井「久住さんに何があったんですか?」
千春「ビルの管理会社に問い合わると、そのビルは老朽化のために、取り壊しが決まっていて、もとから十一月末までの契約だったそうです。マリーさんのお店もなくなっていました。お二人のことは個人情報なので教えてもらえませんでした」
永井「それはショックでしたね」
千春「トドメは彩花ちゃんです。今回のことを知っているか聞こうと、通信アプリを開いたら連絡先が消えていました。私は嫌われていたんです。振り返れば、私から連絡したことはありませんでした。上辺だけの人間、偽善者だとわかっていたのでしょう。それとも元カレのところに戻ったのかもしれません」
永井「千春さんは何も悪くありません。自分を責めないでください」
千春「それから、眠れなくなりました。不眠症だった久住さんの気持ちがわかった気がします。夜が長くて、胸が苦しくて、早く太陽が昇ってほしいと、待ち焦がれます。暗闇の中に手を伸ばして思うんです。久住さんも、マリーさんも、彩花ちゃんも、寂しすぎた女が勝手に作り出した幻だったのではないかと」
永井「現実だと思いますよ。こんなにたくさんのエピソードがあるのですから」
千春「マリーさんの嘘が聞きたい……(虚ろになって)また、久住さんと会えたりするでしょうか。そうだ。マリーさんの嘘にあった芽室町のジャガイモ農家を訪ねたら、彼はいたりしないでしょうか……もし、久住さんを見つけたら、私は彼を呼び止めて聞くでしょう。私を覚えていますか? 眠れていますか?」
永井「千春さん……間違っていたらごめんなさい」
千春「どうぞ、おっしゃってください」
永井「久住さんと出会ってから、ピアノジャズを聞いたり、ボリス・ヴィアンを読んだりしていませんか?」
SE (千春の頭の中)ピアノジャズが流れ始める。
千春「ええ。確かにそうですね」
永井「知らず知らずのうちに、好きな人の影響を受ける。近づきたくなる。久住さんが淹れるコーヒーだから、美味しい」
千春「えっ?」
永井「久住さんに、恋をしていたのではありませんか?」
千春「私が?……恋ですか?」
永井「ええ。彼の姿をずっと追い求めているから。会いたくてたまらないから、眠れないのではないですか?」
千春「(笑って)まさか。私の人生において、恋愛なんて、なくてもいいものです。趣味や芸術に興ずるひとりの時間の方が遥かに大切ですし優先されます。恋愛に左右される女は苦手ですし、私がそのようにはなることはあり得ません」
永井「千春さんは小さい頃から、ずっとひとりで考えて問題を解決して頑張ってきたんですね。でも、誰かを頼ってもいいんですよ。少しずつ本当の自分、弱い自分を出していけるといいのかもしれません」
千春「(ふっと笑って)弱い自分なんかいません……ただ、久住さんにブラックペッパー・コーヒーを出してほしかった。それを味わいたかった……そう、彼に嫌われて終わりたかったのです……」
了