『ラヴ・ストリート』【2】
ジャーナリズムの標的
沢崎肇は、事務椅子の背に重心をかけ煙草をくゆらしていた。いかにもジャーナリストといった風貌である。チェックのシャツにノーネクタイ、茶系のコーデュロイジャケットを着ている。少し長めの白髪頭をペンでポリポリとかき、啓太郎が入り口のドア付近で頭を下げているのを見て呟いた。
「おお、来たな。貧乏フリーランス」
その月刊誌の編集部は、今も昔と変わらず雑然としていた。時代は移り変わり、インターネットの環境が整い、随分と便利になった。しかし、沢崎の机上は一向に片付かない。
啓太郎が向こうから煙たそうな顔をして、沢崎のデスクに近づいてきた。
「他の部署と違って、ここはいつ来ても、むさ苦しいですね。煙草の煙で視界は悪いし。今時、分煙していない部署なんてここだけですよ」
「だったら来るな。今後、出入り禁止」
啓太郎は、にっと笑い、すかさずデパートの紙袋を差し出した。
「お土産の豆大福です」
「そういう所は、抜かりないなあ」と、沢崎は苦笑いしながら、すぐに紙袋を受け取り、中をのぞき込んだ。「で、今日は何の事件?」
「この新聞記事を読んでもらえますか」
啓太郎が差し出した切り抜きは、わずか新聞一段、数十行程度のものだった。
「また、随分と小さい事件だな。『パチンコ店で強盗、一千万円奪われる』・・・こんな事件あったか?」
「はい、ちょうど一年前です。で、これが事件から三日後の記事です」
啓太郎はさらに小さい切り抜きを出した。
「『強奪された一千万円もどる』・・・無事、解決じゃないか。めでたし、めでたし」
「よく読んで下さい。路上にお金がぽんと置かれていたんですよ」
「犯人のやつ、お金を盗んではみたものの、恐くなったんじゃないのか」
「でも、捜査線上に全く犯人像が浮かんでこなかったんです。ある意味、大成功です。それなのに、犯人は何故、お金を戻したんでしょうか」
「良心の呵責に耐えかねてとか?」
「調べてみたいんですけど」
「相変わらず、誰も気に止めないような事件に、ご執心だな」
「これ記事にしていいですかね」
「ご自由に。面白かったら採用。面白かったらだよ」
「ありがとうございまーす」
「豆大福、食っていけ」
「お茶を入れてこいってことですね」
「給湯室の棚に玉露があるから。うーんと濃いやつな」
「了解しました」
「近頃は人員削減で、お茶を入れてくれる女の子もいなくてさあ」
「人員うんぬんとかじゃなくて、このむさ苦しい部署を希望する女の子がいないだけじゃないですか」
「本当に出入り禁止になりたいのか」
「冗談でーす」
啓太郎は、沢崎の前でしか見せない子供っぽい表情で、脱兎のごとく給湯室へ逃げていった。
沢崎は、啓太郎と初めて会った十年前を思い出していた。
この月刊誌の編集長になったばかりの時だった。もともとは北海道の地域経済や政治、事件、教育などを鋭い視点で描く硬派が売りの雑誌だった。しかし、時代とともに興味本位な記事を売りにするイエロージャーナリズムの波に呑み込まれた。次第に売り上げ部数は減少し、ついには休刊の危機に追い込まれた。それを立て直すべく、報道畑の沢崎が本社から出向してきたのだった。ベテランの記者が立て続けに本業の報道部へ異動になり、代わりに配属されてきた新人たちは、やる気だけが空回りしていた。新聞やテレビのニュースと変わらない事実を淡々と羅列した記事。「それじゃ雑誌の意味がないだろう。もっと掘り下げて、人間を取材しろ」と鼓舞してみたが、それほどの力量も情熱も彼らにはなかった。苦肉の策として専属契約記者募集の広告を出した。その時に応募してきたのが、啓太郎だった。
面接には、そうそうたるメンツが揃った。元新聞記者、出版社の編集者、ノンフィクションの新人賞候補になった者もいた。そして、誰もがジャーナリズムについて熱く語った。しかし、啓太郎は涼しい顔をして質問に淡々と答えた。
「どうして、新聞社の試験を受けなかったの? いい大学を出ているのに」
「ジャーナリズムに携われるような家庭環境じゃないんです」
「えっ?」
「まさにジャーナリズムの標的です」
沢崎は、その言葉のインパクトに少々たじろいだ。ジョークで返すしかなかった。
「標的って、親父さんがまずい仕事をしているとか?」
啓太郎はジョークをにこやかに受け取った。
「いいえ。うちは母子家庭なので、その心配はないです」
沢崎は手元の履歴書をちらっと見てから、戸籍謄本ではなかったと苦笑した。
「何か分からんけど、複雑そうだな・・・まあ、言いたくないんだろう」
「はい」
啓太郎は、はっきりと答えた。その表情に全く暗さはなかった。
沢崎の頭の中をいろいろな憶測が駆け巡った。何か事件に関わったことがあるのか。それとも巻き込まれたのか。家庭環境って何だ?
実は、この面接前、履歴書と一緒に、各人の著作本や掲載記事を提出してもらっていた。皆一様にきれいな装丁の著作本だったが、啓太郎だけは掲載記事どころか未発表のワープロ原稿だった。しかし、沢崎はその内容に驚かされる。
それは一見、当たり屋が起こしたよくある事件だった。犯人の男は、自分を車で跳ねた女性をゆすり逮捕される。しかし、そんな単純な事件ではなかった。
男は七年前に子供を交通事故で亡くしていた。子供を車で跳ねたのは、当時大学生だった被害者女性の夫だった。信号は青だったのに子供が飛び出してきたと主張し、不起訴となっていた。当時同乗していた友人から信号無視をして跳ねたことを、七年かけてついに聞き出した男は復讐を決意した。その夫が何もなかったように就職し、幸せな家庭を築き、のうのうと暮らしているのが許せなかったのだ。金銭を要求し続け、生活を破綻させてやるつもりだったと供述した。
啓太郎が問題提起したかったのは、その夫が子供の命を奪ったことに、まるで罪の意識を感じていなかったことだった。男の家へ一度も謝罪に訪れていなかった。線香を上げ、手を合わせることすらしなかったのだ。
ジャーナリズムの申し子だ。
沢崎は、すでに面接前から啓太郎に心が動いていた。いや、決めていた。しかし、啓太郎は自分をジャーナリズムの標的だと言う。
結局、上層部の判断で啓太郎は採用されなかったが、沢崎は個人的に声を掛けた。
「何かいい記事が書けたら、いつでも持ってこいよ」
「いいんですか?」
「ああ。そのかわり、フリーの扱いだから、採用されるかは内容次第だけどな」
「フリーの方が助かります」
「えっ?」
「これを書けと言われるより、自分から書きたいんです。新聞で連載されていた『あの事件、その真実』みたいなのを」
実は『あの事件、その真実』という特集記事を、ずっと書いてきたのは沢崎だった。思わず口角が上がった。
「そうか」
「はい。これからよろしくお願いします」
啓太郎は、すぐれた嗅覚を持っていた。時間をかけて徹底的に取材し、事件の背景だけではなく、その人間の本質、深層心理を記事にしていった。五年前には、東京のテレビ局がワイドショーで取り上げたことから、雑誌の売り上げ部数が伸びたこともあった。
十年経っても変わらない啓太郎が、センスのない湯呑みを差し出した。
「お茶、どうぞ」
「ああ。サンキュー」
沢崎は熱い茶をすすると豆大福を頬ばった。「まだ、ビデオ屋でバイトしてるのか」
「はい」
「何度も言うけど、専属契約にしてやってもいいんだぜ」
「自分が書きたいもの、自由にやりたいんで」
「相変わらず頑固だよな。そろそろお袋さんを安心させてやれよ」
「それを言われるときついんですよ」
「お袋さんの具合はどうだ?」
「相変わらず明るくて病人には見えません。今も、きっと、ナース相手にぺちゃくちゃ喋りまくってますよ」
「そうか」
沢崎はふっと笑い、二つ目の豆大福に手を伸ばした。