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『ラヴ・ストリート』【30】

  マーキー・ムーン(シンクロニシティⅡ)
 
霧島エリは、第三倉庫の入り口にいた。線路沿いのこの辺りは列車の行き来が激しく、多少の物音も騒音に紛れてしまう格好の場所だった。午後六時。啓太郎がここにやってくる。
 エリはお昼に聡美の家を出てから、拳銃を渡す場所を探して歩き回った。そして、この倉庫に目星をつけて自宅へ戻った。午後一時だった。母親は駅前のスーパーへパートに出ていて不在だった。午後六時過ぎまでは帰らない。エリと姉を私立の女子校へ通わせるために、母はずっとパートに出ていた。小学校の時は家に帰ると誰もいないので、友達も呼べずに寂しい思いもしたが、今はそれが有り難かった。
 エリは決断していた。絶対に光輝を守る。守ってみせる。警察になど渡さない。すぐに光輝にメールをした。
 夏目さんが分かってくれました。自首する必要はありません。 
 嘘だった。啓太郎とは何も話をしていない。昨日、証拠の拳銃を渡す約束をしただけだった。とりあえず、光輝がメールを見て自首しなければそれでいい。でも、啓太郎と接触したことを疑問に思うだろう。光輝は絶対、啓太郎に確認の電話をする。何とか光輝と啓太郎が連絡を取り合わないようにしなければならない。
 エリは、すぐさま、啓太郎に電話をした。
「もしもし」
「霧島さんだね」
 啓太郎はエリからの電話を待っていたような口ぶりだった。
「昨日言っていた拳銃を、夕方の六時にお渡したいのですが」
「分かった。車で行くよ」
「家から少し行ったところに倉庫があるんです。そこなら人目につきませんし」
「場所はどこ?」
「携帯にメールをした方が便利ですよね」
「そうだね。じゃあ、アドレスはわかる?」
「はい。名刺に書かれているので」
 エリは、どうやって光輝からの電話を阻止するか考えを巡らせていた。
「あと、今、南城くんにメールしたんです。夏目さんに証拠を渡すって」
「えっ?」
「こそこそするのも嫌ですし」
「そう」
「南城くんは、夏目さんの携帯番号を知っていますか?」
「ああ。名刺を渡してある」
「もし、彼から電話が入っても、今日お渡しするまで出ないでいただけないでしょうか」
「どうして?」
「南城くんは知ってのとおり、頭が回るので策を施すかもしれないと思って」
 エリは苦しい理由づけに、たどたどしい口調になっていた。
「彼に限ってそれはないと思うけどな」
 啓太郎は苦笑しているようだった。
 エリは啓太郎の人柄につけ込んで懇願するしかなかった。
「自分の身を守るためです。お渡しするまでの間です。お願いできませんか?」
「分かった。約束する」
「では、六時に待っています。この後、場所を詳しくメールします」
「ああ」
 エリは電話を切った。とたんにものすごい罪悪感に苛まれた。啓太郎くらい素直な大人を見たことがなかった。人を疑うことを知らない。それなのに自分はどうだろう。会った時から、何度も啓太郎を騙し続けている。そして、今度は騙すどころか、この上ない裏切りを犯そうとしている。
 エリは啓太郎に第三倉庫の場所を知らせるメールを送信した。刹那、メールが来た。光輝からだった。
 夏目さんから自首することを聞いたの? 何を話したのか教えて欲しい。 
 エリは光輝からのメールをすぐに削除した。もう光輝とは一切関係ない。
 こんなふうに家族との繋がりも簡単に断ち切れたらいいのにと思った。家族は確実にマスコミの餌食になるだろう。父は、ナンバーワンにもなれないだめ娘のために、どうしてこんな目に遭わなければならないと嘆く。母は、こんな子供を生まなければよかったと後悔する。姉は、人間関係も恋愛もうまくいかなくなると全て妹のせいだと言う。
 小さい時から朝目覚めた瞬間、真っ先に思った。今日も寂しいと。もちろん、性格の問題もあるのかもしれないが、いつも寂しかった。光輝もきっと寂しかったのだと思う。寂しすぎると狂いそうになる。両親が姉ばかり可愛がるので、いつも世界にひとりぼっちみたいな孤独感があった。しかし、いつの間にか、血が繋がっているから心が通じ合えるとは限らないと悟った。どこか冷めてしまった。
 家族は切りたくても切れない血縁。そうだとしたら、光輝とは、見えない糸、いや、今は導火線で繋がっている。いつでも断ち切ることができる導火線だ。啓太郎は正義の炎を手に立ちはだかった。導火線を完全に断ち切る前に、啓太郎に火をつけさせるわけにいかなかった。光輝も引火して爆発してしまう。燃えつきるのは自分だけで十分だ。
 エリは机の引き出しの鍵を開け、奥からポーチを取り出した。どうして捨てられなかったのだろう。そう思いながら、中から拳銃を取り出した。
 デザートイーグル44マグナム。
 以前、この拳銃について調べたことがある。こんな物騒なものが簡単に手に入る世の中なのだとショックを受けた。しかし、今は強い味方だった。犯行時に光輝が身につけていたウインドブレーカーなどの衣類と一緒に、拳銃を紙袋に詰めた。
 エリは制服からロングニットとデニムパンツに着替えるとベッドに大の字に倒れた。家を出るまであと三時間と少し。楽しかった時のことを考えようと思った。
 楽しかったこと? 光輝といるだけで、この一年はいつも楽しかった。お互いあまり自身のことを話さなかった。こんな日が来ることを予測して、あえて話さなかったのかもしれない。もちろん、相手に聞くこともなかった。家族のこと、学校のこと、趣味、誕生日、血液型、夢、何も知らなかった。ただ会うと手を繋いで街を歩いた。公園、植物園、地下街、ビルの裏通り、狸小路商店街。春夏秋冬、行き先も決めずに気の向くまま歩いた。そして、定刻に別れる。不思議な関係だった。恋人同士でもなかった。仲のいい友達でもなかった。同志? いや、共犯者だ。
 それでも、一緒にいると光輝が好きなものは自然と分かった。音楽だ。いつも待ち合わせ場所にイヤホンをして現れる。古レコード屋を見つけると思わず入ってしまう。聞いたこともない昔のロックグループのレコードを物色する。レアなものを見つけた時は子供のように嬉しそうな顔をする。エリは黙って見ている。あえて誰のアルバムなのか聞かない。好きなものを共有しないように努めた。
 たぶん缶コーヒーが好きだと思う。きっとチョコレートも好きだ。今年のバレンタインデーは、他校の女子生徒からもらったと思われるたくさんのチョコレートを堂々と出して食べていた。深い意味はないのかもしれないが、エリにも勧めてくれた。エリはチョコレートを用意しなかった。彼女ではないのだからと自分に言い聞かせた。今となれば、意地を張らないで、最初で最後のチョコレートを素直にあげておけばよかったと思った。
 いつの間にか眠っていた。昨夜はほとんど眠っていなかった。三十分くらい経って、ぼんやりと目が覚めた。こんな状況なのに優しい夢をみていた。どんな夢だったかは思い出せないが、目覚めた瞬間の感覚で分かる。そう、優しい夢をみていた。
 昨夜は啓太郎に拳銃を渡すという口実で会う約束をしたものの、どういう展開に持ち込むべきか迷い続けた。方法はたった一つだと分かっていながら、それがたまらなく怖かった。逃げ出したかった。しかし、聡美と話したことで迷いが吹き飛んだ。今は怖さを通り越して静かな時が流れている。貴重な時間のはずなのに、あえて無駄に過ごしたかった。エリはベッドでずっとまどろみ続けた。
 第三倉庫には一時間前の五時に到着した。この倉庫群は取り壊しが決まっており、すでに二棟が閉鎖されていた。車の出入口には鎖の錠が張られている。エリは一部稼働している第一倉庫の作業が五時過ぎに終了したのを確かめてから、鎖をくぐり第三倉庫の入り口に立った。第三倉庫は三つ倉庫が並ぶいちばん奥まった位置にあり、すぐ横を列車が通っている。もちろん倉庫の内部には入れないが、入り口部分の横に古いコンテナが積んであり、市道からは完全に死角になっていた。
 辺りはすでに真っ暗だった。エリの白い吐息がわずかな電柱の明かりに照らし出された。晩秋の大雪は一日にして大半が解けてしまった。倉庫前のアスファルトも濡れていて、所々に水たまりができている。
 エリは辺りを見回し、紙袋から黒のウインドブレーカーの上下とニット帽を取り出して着込んだ。そして、拳銃を右のポケットに入れた。
   *
 南城光輝は、エリの家の前で五時半まで待っていた。しかし、エリも家族も、誰ひとり帰ってくる気配がない。仕方なく地下鉄駅へ戻ることにした。エリとも啓太郎とも全く連絡がつかない。本当に、明日、自首しなくていいのだろうか。啓太郎は優しいが正義か揺らぐタイプではない。罪に目をつぶるようなことはしないはずだ。何かおかしい。
 光輝は学校を早退した後、セイジョへ向かい、ずっと校門の前でエリを待っていた。その後、友達からエリが欠席していることを聞き、慌てて、こぐま公園へ来た。公園の近くにエリの家があることだけは知っていたので、何とかなると思った。偶然にも佑香に会い、家はすぐに分かったが、肝心のエリはいない。
 実は、光輝が佑香に連れられて来る十分前に、エリは倉庫へ向かっていた。ほんのわずかなすれ違いだった。
 エリはどこにいるのだろう。今、どうしているのだろう。光輝は地下鉄駅の階段を進まぬ足でゆっくりと下りていった。このまま自宅へ戻るしかないのだろうか。他に方法はないのか。
 運命は一瞬にして変わる。恐ろしいと思った。これが、強盗という罪を犯した自分への報いなのだ。でも、エリは何の関係もない。自分と出会わなければ、友達と笑い合い、楽しい毎日を過ごしている平凡な女子高生だったはずだ。エリだけは守ろうと自首を決意したのに、そのことがまた新たなる運命を引き寄せてしまった。
 光輝の携帯メールの着信音が鳴った。啓太郎からだった。光輝は急いでメールを開いた。倉庫の名前と住所、周りの状況が書かれている。
 この場所へ来いという意味なのか?
 光輝は、一瞬、首をひねったが、よく見ると、エリからのメールが転送されたものだと分かった。すぐさま、啓太郎から電話が入った。光輝は慌てて出た。
「もしもしっ」
「ああ。お母さん。俺、啓太郎。今、彼女と揉めちゃって。晩飯はいらないから。じゃあ」
 啓太郎は早口で言うと一方的に電話を切ってしまった。
 光輝は全てを察した。走って階段を駆け上がり地上に出ると、すぐにタクシーに乗り込んだ。
   *
 夏目啓太郎は、倉庫の前で、拳銃を受け取ろうと手を出した瞬間、いきなりエリに銃口を向けられた。反射的に両手を高く上げた。その平凡なリアクションに、映画じゃあるまいしと笑い飛ばそうとしたが、エリの真剣な顔を見てこれはただ事ではないと思った。エリが犯人そのままの格好をしていることからも、意を決していることが分かった。光輝からの電話に出ないで欲しいと言った意味がようやく分かった。二人の秘密を知っているのは啓太郎だけだ。口封じという言葉が頭に浮かんだ。
「こういうことかな。俺を殺せば、彼を助けられる」
「はい」
「それは本物?」
「デザートイーグル44マグナム」
 エリは本気だ。
「俺を殺して、君はどうするの?」
「私もここで自殺します」
 啓太郎は一歩後ろに下がろうとした。 
「動かないで」
 エリの手は震えている。
 啓太郎はさほど恐怖を感じなかった。エリが拳銃を持つと、ただのおもちゃのような感じがした。
「分かった。俺も男だ。腹をくくるよ。でも、その前に、母親に電話していいかな。晩飯食わないで待ってるから」
 エリは黙っていた。
「変な真似はしない。もし、助けを求めたりしたら、ズドンと撃っちゃっていいから」
 エリは頷いた。
 啓太郎は携帯を取り出すと、番号を探すふりをして、先刻、エリからもらったメールを光輝に転送した。そして、すぐさま、光輝に電話をした。
「ああ。お母さん。俺、啓太郎。今、彼女と揉めちゃって。晩飯はいらないから。じゃあ」
 一方的に喋って電話を切った。光輝が理解して駆けつけてくれることを祈った。エリを止められるのは光輝しかいない。
「ありがとう。母親に電話できてよかった。ずっと、母ひとり子ひとりだったからさあ。しかも、癌で長くないんだ」
「えっ?」
「嘘で同情をひこうとかしてないから。三ヶ月前に癌だって分かった時は、もう手術できないほど、あちこちに転移してたんだ。今回、二度目の入院も何とか乗り切って、今日退院したばかりなんだ。体調がよくないのに、はりきっちゃって。俺の大好物のロールキャベツを作って待ってるって。うちのロールキャベツはトマト味でさあ。挽肉の中心にチーズが入ってるんだ。真ん中から割ると、チーズかとろりと出てきて」
 啓太郎は一気に喋り続けたために、息が続かなくなり言葉が途切れた。少しでも長く喋り続けて時間を稼ごうと思った。
「霧島さんのお母さんは、どんな人?」
 エリは返事をしない。
「優しい?」
 エリは反応しない。
「面白い?」
 エリは動かない。
「うちの母親は、よく笑う人だよ」
 エリは瞬きも忘れている。
「俺ってマザコンかなあ」
 エリは何かに取り憑かれたようになっている。
「葬式を出すのは俺だと思ってたけど、母親に出してもらわないとだめみたいだ」
 その場の張り詰めた空気に呑まれまいとするための軽いジョークだったが、逆にその言葉が身に染みた。啓太郎は死という文字が目の前に浮かんできて、ぶるっと身震いした。「ヤバいなぁ」と小さな声を発してしまった。
 ようやくエリが口を開いた。
「南城くんが苦しむ姿を見たくないんです。彼のためだったら、私、何でもできます。非情にもなれます」
「彼のことが本当に好きなんだね」
 エリの瞳から我慢していた涙がこぼれた。
「南城くんは私の太陽なんです。私を暗くて寂しい世界から、嘘で塗り固められた現実から救い出してくれた。こんな何の取り柄もない、生きている価値すらないような私を明るく照らしてくれた」
「でも、君がしようとしていることは殺人だよ。こんなことをして、彼が喜ぶと思う?」
「彼が、どう思おうと構いません」
「君が死んでしまったら、彼は、ずっと君の死を背負って生きていかなければならない。それは強盗の罪を背負っていくよりつらいことなんじゃないのか!」
「彼にとって私は、そんなに大切な存在じゃありません」
「えっ?」
 エリは自分に言い聞かせるように大きな声で叫んだ。
「彼は私を巻き込んでしまったから、仕方なくつき合ってたんです。そうじゃなきゃ、私みたいなさえない女と、彼がつき合ってくれるわけないじゃないですか!」
「違うと思うよ。彼は 」
 啓太郎がそう言いかけた時、鎖を上げる音がした。
「本気でそう思ってたの?」
 光輝の声だった。「僕が、仕方なくつき合ってたと思ってたんだ」
 啓太郎が横を振り向くと、光輝は鎖をくぐり入ってくるところだった。いつからいたのだろう。足音一つ感じなかった。
 エリの視線が光輝に向き、一瞬、隙ができた。啓太郎はエリに飛びかかって拳銃を取り上げようかと思ったが、二人が本心をぶつけ合える機会をつぶしてしまうようで躊躇した。
「ええ。最初からずっと思ってた!」
 エリは涙を振り払い、強がって叫んだ。
「ああ。そのとおりだよ」
 光輝が少しずつ近づいてきた。
「近づかないで」
 エリは反射的に少し横へずれた。
「君の言うとおりだ。仕方ないから、つき合ってやってたんだ」
 光輝の目に涙がたまっている。「君みたいな女、僕が相手にするわけないじゃないか!」 
 啓太郎は、光輝の演技が痛くて、痛すぎて、切迫した状況だということを忘れた。いつ発砲されるかも分からないのに、銃口から目を逸らして夜空を見上げた。月が明るい。もうすぐ満月だ。星も瞬いている。きれいだ。 
 エリは絞り出すような声になっていた。
「もう帰って」
「君こそ、僕に関わらないでくれ。僕の問題なんだ」
「決めたの」
 エリは啓太郎に近づいた。「もう決めたの!」
 啓太郎はエリの語気の強さに視線を戻した。
「あなたを守るって」 
 エリは啓太郎に向かって引き金を引いた。
 パーン。
 銃声が響いた。
 啓太郎は仰向けに倒れた。水たまりに背中をつき、しぶきが上がった。泥水が頬に飛んだ。反射的にそれを手のひらでぬぐった。たった今見ていた夜空がまた広がっていた。今度は月と無数の星たちが静かに啓太郎を見ている。啓太郎は大勢の観客に向かって、ぽつりとブラックジョークを飛ばした。
「母親はガンで死ぬ。俺もガンで撃たれて死ぬ。どちらもガンじゃ出来過ぎだって」
 パーン。
 もう一つの銃声だった。
 エリの手から拳銃が落ちる音がした。
 光輝が倒れている啓太郎の横を走って通り過ぎた。
「エリ!」
 啓太郎は二人の姿が重なるのをアスファルトの長い影に見た。光輝が初めてエリの名前を呼ぶのを聞いた。
 エリはずっと太陽を待っていた。そう、太陽に恋こがれていた月だ。月は太陽の光を受けて輝く。でも、月の方が美しく輝くじゃないか。
 啓太郎はそんなことを考えながら、ふっと笑った。そして、静かに目を閉じた。田中さんの顔が浮かんだ。笑顔、膨れた顔、真剣な顔、また笑顔。そして思った。
 まだ彼女を好きだったんだ。

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