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『ラヴ・ストリート』【22】

   魔女メディアの大罪
 
夏目美代子は、明日、四週間ぶりに退院する。ここ三日間は平熱で、食事も少しずつではあるが採れるようになったため、通院しながら抗がん剤の点滴をすることになった。次に入院する時は最期だろうと思いながら、使わないタオルや下着をバッグに詰めていた。
「退院が決まってよかったですね」
 担当ナースの南城舞が病室に顔を出した。夜勤を終えて帰るところだった。長い髪の毛を下ろし私服に着替えると、だいぶ印象が違う。これからデートに向かう若いOLのようだった。
「ありがとう。南城さんには随分とお世話になりました」
「いいえ。かえって未熟な看護師相手に優しくしていただいて」
 舞は何か言いたそうな表情だった。
 美代子はそれを察し椅子を指差した。
「どうぞ、椅子に掛けて下さい」
「えっ?」
「勤務が終わったのに、私のところへ来るということは、何か話したいんでしょう?」
「朝から非常識だとは思ったんですが・・・こんなことを話せるのって、夏目さんしかいなくて」
「話くらい、いくらでも聞くわよ」
「すみません」
 舞は椅子に座るとすぐに口を開いた。「離婚するんです」
「えっ?」
「今月いっぱいで、この病院を辞めます。それから離婚の手続きをして、故郷に帰るつもりです」
 美代子は、十八歳の義理の息子がいることを思い出した。
「ひょっとして、息子さんが原因?」
 舞は美代子の勘のよさに苦笑いしてから、静かに頷いた。
「はい」
「その後も、うまく関係が築けなかったのね」
「家では口もきいてくれません」
「そう」
「ここ一年は、嫌われてるのを通り越して、視界から完全に消えている感じです」
「いくら難しい年頃とはいえ、相当応えるわよね」
「彼にとって、私は魔女なんです。父親に取り憑いた魔女」
「魔女だなんて」
「自分でもそう思います。激しく渦巻く感情に手がつけられないことがあります。だから、親子関係の不和という理由をつけて、ごまかしがきくうちに離婚することにしたんです」
「ごまかし?」
「ええ。本当のことを、夫に、彼に、悟られることなく姿を消してしまいたいんです」
 舞は消え入りそうな声で言うと下を向いた。
 美代子は、舞が魔女だなんてとんでもないと思った。その自己犠牲ともとれるしおらしい態度に、同情せずにはいられなかった。
「本当のことを悟られるって、まだ他に理由があるの?」
「はい。再婚した時、彼は十二歳の小学生でした。背なんかも見下ろすほど低くて・・・それが今はもう遙か上。十八歳の高校生です」
「六年間も。さぞかし辛い日々だったでしょう」
「ずっと、彼を見てきました。どんどん成熟していく姿を目に焼きつけてきました」
「そうね」
「私、きっと彼のことが好きなんです」
「えっ?」
「初めて会った時から」
「それって・・・」
 美代子は舞の告白を、ずっと母親としての苦悩だと思って聞いていた。しかし、それは全くの見当違いだった。舞の恍惚とした表情に思わず固唾を呑んだ。違う。そういう意味ではない。好きというのは息子としてか、男としてかと問うまでもなかった。実際、舞とその息子に血の繋がりはない。何ということだ。
 舞はしおらしさから一転して、快活に話し出した。
「私は看護学校へ通うため、高校卒業と同時に札幌へ出てきました。でも、すぐに都会の誘惑に負けて、つらい看護師の仕事なんてバカらしいって、すすきののキャバクラで働き始めました。その時の客が今の夫です」
「そうだったの」
「奥さんを亡くしたばかりで落ち込んでいて、何だか放っておけなくて」
「同情したのね」
「はい。愛じゃなくて同情だと気がついたのは、結婚を決めて、息子である彼と初めて会った時でした」
 舞はその時を思い出しうっとりした。「何て美しくて魅力的な男の子なんだろうと目を見張りました。自分が赤面しているが分かりました。ときめくというのは、こういうことだと。十歳も年下の、わずか十二歳の少年に恋心を抱いたんです。変ですか?」
 美代子は舞の言っていることに違和感を感じなかった。それは、そういう物語をいくつも知っていて、その主人公の気持ちを理解することができたからだった。
「別に否定はしないわよ。古くはギリシャ神話に源氏物語。その他の小説でも年下の美しい少年に惹かれる話はたくさんあるわ。女性に限って言えば、母性と愛情は紙一重なのかもしれない」
「夏目さんなら、そう言って下さると思っていました」
 舞は嬉しそうだった。「優等生の彼に認めてもらいたくて、中途半端をやってきた自分が恥ずかしくて、看護学校にまた通い出しました」
「それで看護師に」
「最初は自分が彼に抱いてしまった感情を、錯覚だと必死に打ち消していました。でも、彼は日々美しく成長していく。私はどんどん惹かれていく。すれ違う度、その横顔に見とれました。ここ数年は限界を超える一歩手前の状態でした」
 美代子は、舞の形相が妖艶なものと化していくことを見逃さなかった。
 舞は声を潜めて言った。
「実は、去年、妊娠したんです」
「えっ?」
「夫を愛していないのに妊娠したんです。ずっと夫を通して彼の存在を感じていました」
 美代子は、舞が自分を魔女だと言ったのは、まさにこのことだと思った。舞の答えが予測できて思わず声が震えた。
「どうしたの?」
「夫に言いました。彼に母親として認められていないのに弟妹なんか産めない。堕ろしたいって」
「それは本心?」  
 舞はあっけらかんと答えた。
「いいえ。彼から無視され続けてきたことに責任を転嫁したんです。本当は彼と血が繋がる弟妹を産みたくなかったんですよね」
「そう・・・」
 美代子は、小さな命が奪われたことに心が痛み、黙ってしまった。母性よりも女の性を優先させる人間を否定する気はない。しかし、もはや同情する気にも、かばい立てする気にもなれなかった。
 舞は自嘲気味に続けた。
「魔女も引退です。憎まれ嫌われているうちが華でした。中絶した直後くらいから、彼は私に対して敵意を持つことも、反抗的な態度をとることもなくなりました。私を無視しているのではなく、視界にすら入らなくなったんです。もう完全に違う方向を見ているんです。見たことがないような優しい表情をして」
「それは息子さんが何かを感じとったということ?」
 舞は冷めた目をしてふっと笑った。
「彼は恋をしたんです・・・・・・あの女に」
 舞は魔女のような卑しい笑みを浮かべ、吐き捨てるような言い方をした。「彼女と手を繋いで歩いているのを見ちゃったんです。何かさえない普通の子で」
「焼きもち?」
「ちょっとがっかりしたんです。彼が好きになるのは、何から何まで完璧な最高級の女じゃないとだめだって、ずっと思ってましたから」
 美代子はざわっと鳥肌がたった。
 ギリシャ神話の魔女メディアの話が頭をかすめた。愛するイアソンを追っ手の父から守るために、幼い弟を切り刻み海へ投げ込んだ魔女メディア。エゴによって堕胎を選択し、一つの命を消してしまった舞。
 美代子はその小さな命を思った。そして、舞に大罪を犯したことに気づいて欲しいと思った。そのためには嫌な役目もかって出ようと。
「魔女さん。懺悔なさい」
「えっ?」
 美代子は語気を強めて言った。余命わずかな女の叫びだった。
「この世に生まれてくることができなかった小さな命に謝りなさい!」
 舞は美代子の言葉に面食らっていた。美代子なら自分に同調し、寛容な態度で聞いてくれると思っていたのだ。予期せぬ言葉に顔を真っ赤にすると、ばたばたと走って病室を出ていった。
 美代子は、突如、激高した自分に驚いていた。病魔に冒され弱ってしまった肉体の中に、まだこんなに怒れるパワーとエネルギーが残っているとは。
最期にやるべきことがある。まだ死ぬわけにいかない。
美代子は決心したように病室の窓から外を見た。雪が舞っている。
「初雪・・・」
 思わず呟いた。どうりで朝方から寒い。カレンダーに目を移した。十月二十九日の初雪。いつもより早いような気がした。いや、平年並みだろうか。去年はどうだっただろう。そんなことを考えながら、次第に激しくなる雪を見ていた。来年は雪が見られるだろうか。
 その日、札幌は十一センチの積雪があり、午後には、街全体が真っ白に雪化粧した。

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