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『ラヴ・ストリート』【28】

  リビング・ウィル
 
夏目美代子は、新聞社の一階にある喫茶店にいた。気温は十度を超え、昨日の雪を一気に解かしてしまった。太陽の光が濡れたアスファルトに反射し、目を開けていられないほど眩しかった。
 午前中、四週間ぶりに退院し、啓太郎の車で我が家に戻った。昼食は啓太郎がサンドイッチを作ってくれた。洋がらしがピリッときいていて思ったより食が進んだ。体調もいいので、予定どおり、人に会うことにした。久しぶりにきちんと化粧をし、少しおしゃれをした。抗がん剤の副作用で髪の毛が抜けてしまったのでニット帽を被っていたが、それを除けば病気をする前とさほど変わらないように見えた。そして、再び、啓太郎に車で大通公園まで送ってもらった。誰と会うかは啓太郎に秘密にしていた。
 リビング・ウィルという言葉がある。生前の意志表示という意味で、主に尊厳死を望む旨を生前に伝えるというふうに定義される。万が一、脳死状態に陥った時は延命治療はしないでほしいと、家族や信頼できる人に、その意志を明確に伝えておくのだ。臓器提供もその一つで、遺書と考えればいいのかもしれない。
 美代子は、そのリビング・ウィルを託すためにやってきた。尊厳死のことなら啓太郎に誠心誠意伝えればいい。しかし、もう一つ大事なことをやり残している。啓太郎に真実を伝えないまま死んでいくのは親としてどうだろう。
 美代子はバッグから書類袋を取り出し、中を確認した。これが美代子のリビング・ウィルだった。新聞や雑誌の切り抜きが入っている。それは三十五年前の銀行強盗事件、つまり、啓太郎の父、高橋良介が巻き込まれた事件のものだ。しかし、真実を知らない世間では当然そうは言ってくれなかった。エリート大学生が起こした不可解な事件として認知された。
 良介がコンノという男に騙され、逃走の途中で逃げ帰って来てから三ヶ月。事件は何も進展がなく、年が明けてからはニュースやマスコミの話題に上らなくなっていた。良介と美代子は罪悪感を感じながらも、盗んだ現金は全額返してあることから、できるなら、このまま何事もなく終わって欲しいと願った。卒業を一ヶ月後に控えたある日、美代子は体の変化に気がついた。ずっと事件のショックから体調をくずしていると思い込んでいたが、病院で妊娠を告げられると納得した。事件の夜、啓太郎を身ごもったのだ。
 良介は妊娠していることを聞くと、美代子を抱きしめて喜んだ。そして、美代子のお腹に手を当てては何度も微笑んだ。美代子は不安な日々を過ごしていたので素直に嬉しかった。幸せの絶頂だった。卒業後に両親に挨拶してもらうつもりだったが、一ヶ月前倒しして週末に会ってもらうことにした。
美代子は家に帰ると妊娠のことは告げずに、週末の予定を母親に聞いていた。その時、テレビから銀行強盗事件、容疑者逮捕のニュースが流れた。美代子は凍りついた。静かに、顔をテレビに向けた。容疑者は良介を騙したコンノという名前の男ではない。
 美代子はすぐに良介のアパートへ向かった。日はすっかり暮れて外は暗かったが、呼び出し電話で話せるような内容ではなかった。美代子の心配をよそに、ドアを開けた良介は、穏やかな顔をしていた。
「ニュースを聞いたんだね」
 美代子は静かに頷いた。そして、部屋に入ると、部屋はきれいに片付けられていた。中央に小さなボストンバッグが置かれている。
「報道されている男は犯人じゃない。誤認逮捕だ」
「やっぱり・・・」
「僕が真実を明らかにしない限り、彼は無実の罪で裁かれることになるかもしれない。だから、これから警察に出頭して全てを話す」
「うん」
「いつかこんな日が来ると覚悟していたんだ」
 良介には確かな強さがあった。三ヶ月前、罪の恐怖に震えていた良介ではなかった。
 美代子はこれが正しい道なのだと思った。
「きっと、警察の人も分かってくれると思う。何にも悪いことをしていないもの」
「そうだね。最初から、ちゃんと警察に行っていればよかったんだ。僕は弱虫だった」
「今は違うわ」
「こんなことになってごめん。赤ちゃんが生まれてくるというのに」
「ううん。不安で過ごしていくより、ずっといい。何があっても待っているから」
「ありがとう。しばらく会えないけど」
「うん」
「体は大丈夫?」
「うん」
 美代子は泣かなかった。永遠の別れではない。どんな判断が下されようと、罪に怯えて生きていくよりも、ずっと明るく健全な未来であるような気がした。美代子は衣類などをたたんで、いつでも持って行けるようにボストンバッグに詰めた。
 午後八時過ぎ、良介と美代子がアパートを出ると、コンノが道の向こう側に立っていた。コンノは良介を見つけると、吸っていた煙草を捨て、靴で火を揉み消した。そして、にやにやしながら近づいてきた。
「よう。久しぶり」
 美代子はその人相の悪さと服装から、一瞬、不良に絡まれるのかと思い、後ずさりした。良介は美代子を隠すように立ちはだかった。
「よく僕の家が分かったね」
「顔は広いもんで」
「僕は、今から警察に出頭するから」
 美代子はそれを聞いて、この男がコンノだと分かった。
「そんなことを言い出すんじゃねえかと思った。お坊ちゃんよお」
「無実の人間が捕まっているんだ」
「せっかくだから、この際、罪をかぶってもらえばいいべや」
「そんなわけにいかないだろう」
「俺のこともチクるつもりだべ」
「全て真実を言うつもりだ」
「それじゃ困るんだよ。テメエのせいで金を取り損ねてんのによお。挙げ句にパクられたらたまったもんじゃねえ」
「罪を償ってやり直せばいい。一緒に自首しよう」
「そんなこと言っていいんだべか。俺が、もしパクられるようなことがあったら、仲間がテメエの女を殺っちまうことになってんだけどよお」
「えっ?」
「脅しじゃねえよ」
 美代子はコンノに鋭い視線でにらまれ、ぶるっと身震いした。卑劣な男だった。良介がバイトしていた音楽喫茶に時々やってきた客で、運転免許を持っていた良介に、日当一万円で運転を頼めないかと誘ってきたのだった。良介は何の疑いもなく、それを引き受けて事件に巻き込まれてしまった。
 良介はコンノとにらみ合ったまま後方に手を回し、見えないように美代子のお腹を触った。葛藤しているようだった。良介がいない間、誰が二人の安全を守ってくれるのだろう。こんな脅しに屈したくはないが、この男ならやりかねない。そう考えているのが、美代子にもお腹の子供にも伝わった。
「分かった。君が警察に捕まることはない。出頭はしない」
「物わかりがいいべや」
「そのかわり、絶対、彼女に手を出さないでくれ。何かあったら、すぐに警察に駆け込む」
「交渉成立ってことで」
 コンノは去っていった。美代子と良介は再び部屋へ戻った。美代子は寒さと恐怖と将来への不安にがたがたと震えていた。良介は、そんな美代子をしっかりと抱きしめていた。ずっと無言で考えている。
 美代子は、不運、不幸だと嘆くのを通り越して、あまりの不条理さに、この世に正義など存在しないような怒りを覚えた。
 神様は、私たちにどうしろとおっしゃっているのだろう。
 良介は結論を出したようだった。美代子を安心させようと微笑んでみせた。
「安心して。誤認逮捕された人は必ず助け出すから」
「どうやって?」
「明日話す」
「分かったわ」
「今日は朝まで、ずっと一緒にいよう。親子三人で」
 良介は美代子の頭を撫でた。美代子は良介の大きな手に安心し肩にもたれかかった。それから、生まれてくる子供の話をした。どんな子供に育てたいか。良介は男の子がいいなと言った。正義感の強い男の子。良介の話はおとぎ話のようで心地よかった。良介の心臓の音は気持ちを落ち着かせた。良介の体温が全身を包み込んだ。美代子はいつの間にか眠っていた。 
 翌朝、美代子が目を覚ますと、良介の姿は消えていた。
   *
 沢崎肇は、喫茶店の奥の席に座っている女性が、啓太郎の母親であるとすぐに分かった。ニット帽を目深にかぶっているのは病気のせいだ。受付でコーヒーを頼むと、ゆっくりと美代子に近づいた。
「啓太郎くんのお母さんですね。沢崎です」
 美代子は、はっとして沢崎の顔を見た。そして、慌てて立ち上がった。
「いつも啓太郎が大変お世話になっております」
「こちらこそ」
「お忙しいところをお呼び立ていたしまして、申し訳ございません」
「いいえ。どうぞ、座って下さい」
「はい」
 この時、沢崎は、美代子が単に挨拶に寄ったのだと思っていた。美代子の病状は啓太郎から聞いている。
「息子さんは実に才能がありますね。フリーにしておくのはもったいないですよ」
「ありがとうございます。啓太郎はとても沢崎さんを尊敬しています。そういう方に巡り会えて本当に幸せです」
「いやいや。それは大袈裟ですよ」
 沢崎は頭に手をやり照れ笑いした。
 丁度コーヒーが運ばれてきた。沢崎は笑顔のまま一口飲んだ。
「沢崎さんのお名前を聞いた時、運命だと思いました」
 笑っていた沢崎は、運命という言葉を聞き真顔に戻った。社交辞令にはない表現だ。
「運命、ですか?」
「三十五年前、私、沢崎さんの取材を受けているんです」
「えっ。そうなんですか? 三十五年前といいますと、私が入社した年ですね」 
「私、夏目美代子です」
 沢崎はフルネームを聞き、さーっと血の気が引いた。記憶が瞬時に甦った。現在の顔と、当時の顔がオーバーラップした。間違いなく銀行強盗犯、高橋良介の恋人だった。
「まさか。そんなことって・・・」
「覚えていらっしゃったのですね」
「忘れるわけがありません。あれは私にとっても歯がゆいというか、不本意な事件でした」
 沢崎は三十五年前のことを克明に覚えている。
 内勤を半年経験した後、先輩記者から離れ、初めて一人で取材に出た。それが良介の銀行強盗事件だった。
 覆面をした犯人が銀行に押し入り、三百万円を奪って乗用車で逃走した。しかし、犯人は何を思ったのか、奪った金を途中で車から投げ捨てたのだった。物証や目撃証言が多かったにもかかわらず、捜査は難航した。しかし、三ヶ月後、事件は急転する。容疑者が逮捕されたのだ。犯人と背格好が近いこと、当日のアリバイがないこと、多額の借金があったことが決め手となった。
 ところが二日後、札幌市内に住む大学生、高橋良介から警察に一通の手紙が届く。
 手紙には、犯人は別人で、自分は騙され逃走の手助けをさせられた旨がつづられていた。しかし、肝心の主犯である男の名前は書かれておらず、良介の無実を証明するものは何もなかった。警察は、良介のアパートに残されていた指紋と、現金の入っていたバッグの指紋が一致したことから、良介を強盗事件の犯人として指名手配した。誤認逮捕された容疑者はすぐに釈放された。
 エリート大学生、謎の銀行強盗。不可解な犯行告白。退廃的若者の象徴。愉快犯か。すでに海外逃亡?
 マスコミはこぞって、あれこれ書き立てた。しかし、沢崎は先入観を捨て、冷静に取材をした。良介の父親は東京で会社を経営しており、金銭的に不自由をしていない。借金もない。就職も大手銀行に内定している。結婚を決めた恋人がいる。順風満帆の前途ある若者に、銀行強盗をする動機が見つからない。
 沢崎は手紙の内容が本当なのではないかと思い始めた。そして、恋人の美代子に取材をしたのだった。もちろん、美代子は良介の手紙と同じことを証言した。しかし、同様に主犯の男のことは知らないで通した。
 あれから三十五年。とうに時効は成立している。今なら真実を語ってくれるだろう。いや、真実を語るために、今こうして、美代子はやってきたのだ。
「真実を教えてもらえませんか。あの時、夏目さんは何かを隠しておられた」
「強盗犯は、彼のバイト先で声を掛けてきたコンノという男です」
「やはり犯人を知っておられたのですか」
「はい。顔も見ています」
「どうして、警察に言わなかったのですか?」
「脅迫されたんです。コンノが逮捕されたら、仲間が私に危害を加えると。良介さんが出頭しなかったのもそのせいです。警察で追求されれば、きっとコンノのことを隠しきれない。そうなれば、私に危害が及ぶかもしれない。苦渋の選択でした」
「そういうことでしたか」
「結局、被害者でもある彼が全て罪をかぶることに」
美代子は、目を潤ませた。「沢崎さんだけでした。彼と私が言ったことを信じて下さったのは」
「私は上司に何度も直訴したんです。真実を伝えたいと」
「私も警察の前を通る度に、何度駆け込もうと思ったかしれません。でも、お腹には啓太郎がいたんです」
「啓太郎くんは、高橋さんの子供なんですか?」
「はい」
「事件のことを知っているのですか?」
「いいえ。生まれた時から父親はいなかったわけですから、あえて言う必要はないと思いました」
 沢崎は、啓太郎が言った「ジャーナリズムの標的」という言葉を思い出していた。ひょっとして、啓太郎は知っているのではという疑念がわいてきた。
「本当に知らないのですか?」
「はい・・・」
 沢崎は、これ以上、美代子に聞くのは酷だと思った。
「高橋さんは今どちらに」
「手紙を警察に送った後、アメリカに渡ったようです」
「連絡は?」
「一度もありません。でも、ずっとアメリカにいることは確かです。定期的に向こうの銀行の小切手が送られてきます。ですから母子家庭でしたが、生活にも、啓太郎の学費にも困ったことは一度もありませんでした」
「コンノという男は時効が成立しているというのに、高橋さんはずっと時効停止。永遠に容疑者のままなんですね」
「はい。さらに不法滞在という罪を犯していることになります。罪から逃げようとすると、また罪を重ねる。因果なものです」
 沢崎は自分が真実を報道していれば状況は違ったのかもしれないと思った。
「啓太郎くんは、父親のことを聞いたことがありますか?」
「四歳くらいの時、一度だけあります」
「小さい頃ですね」
「はい」
 美代子に少女の笑顔が戻った。「私、ジャン・バルジャンだって言ったんです」
「『ああ無情』のですか?」
「ええ」
「そうか。無実の人を助けるために名乗り出るんでしたね」
 沢崎はコーヒーを飲んでいなかったことに気がつき、カップを手に取った。コーヒーはすでに冷めていた。それにはわずかな時間しか要さなかった。三十五年という歳月は果てしなく長かっただろうと思った。
 ジャン・バルジャンは司教に救われた後、少年の硬貨を靴で踏んでいたことに気がつかず、また小さな罪を重ねてしまう。数年後、マドレーヌと名前を変え会社を興こしたジャンは、一生懸命に働き、過去の罪に報いるかのごとく人のために尽力する。そして慈善家として慕われて市長にまでなった時、少年の硬貨を盗んだ罪で無実の男が逮捕されたことを知る。マドレーヌ市長は、男を助けるために全てを捨て、ジャンだと名乗り出る。
 置かれている状況と立場は違うが、良介と重なって見えた。だから、美代子は、啓太郎に「父親はジャン・バルジャンだ」と言ったのだろう。きっと良介は遠いアメリカで別人になって暮らしているのだろうと思った。小切手がそれを物語っている。
 美代子が書類袋を出した。
「これは事件関係の記事です。沢崎さんから啓太郎に渡してもらえませんか」
「分かりました」
「そして、活字にはなっていない真実を話してやって下さい」
「はい」
「私のリビング・ウィルです」
「えっ? リビング・ウィルって」
「遺書だと、ご理解下さい。ご負担を掛けることは申し訳ないと思っています。しかし、沢崎さん意外に頼める人がいないんです。どうかお願いします」
 沢崎は書類袋を両手で受け取った。苦悩の年月、夫と息子への愛、最後の意志。いろいろな想いが詰まっているのだろう。それはずっしりと重かった。

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