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『ラヴ・ストリート』【35】

  ワイルド・チャイルド
 
今野佑香は、ずっとぼんやりしたまま下校時間を迎えた。母親を射殺した女子児童ではなく、ごく普通の小学生だった。
 今朝早くに長い眠りから覚めた。二段ベッドで眠っていた。居場所が理解できずに何度も布団の感触を確かめた。枕に頬ずりをした。コンクリートの塀ではない。アスファルトの道路でもない。部屋を見回した。染みのついた天井、汚れて落書きのある壁。確かに自分の部屋だった。それでも、どこまでが夢で、どこまでが現実なのか分からなかった。
 ベッドから、はっと上体を起こし鴨居を見た。水色のワンピースが掛かっている。佑香は布団の上にぺたんと座ったまま呆然としていた。しばらくして、寒気を感じ、我に返った。静かにベッドから下りた。五時五十分だった。下段で姉が口を開いて眠っている。隣の部屋も、奥の部屋もしんとしている。家族は皆、眠っているようだった。佑香は居間へ行きストーブのスイッチを入れた。腹がグーとなった。そういえば夕飯を食べていなかった。冷蔵庫を開けると未開封の弁当が入っていた。それを取り出して電子レンジで温めた。その間に、ペットボトルのお茶をマグカップに入れた。弁当が温まると、今度はマグカップを入れて温めた。いつもやっているので手順にも慣れていた。七人家族なのに、皆生活がばらばらで、食事はそれぞれが好きな時間に食べる。弁当や買ってきた総菜が冷蔵庫に入っていることが多い。それなのに、運動会と夏の日曜日のバーべキューだけは、何故か皆こぞって大騒ぎをする。
 温まった弁当とお茶をテーブルに運ぶと、すみにリサイクル店のポイントカードが放ってあるのを見つけた。開いてみるとポイント五個、二千五百円分のスタンプが斜線を引かれキャンセルになっている。母が一度売ってしまったワンピースを引き取ってきたのは本当のようだった。あの優しさを垣間見せた母は夢ではなく現実そのものだった。
 いいところもあるんだ。
 佑香は弁当を開けて一口二口と食べた。空腹だったせいか、食べ物が胃を通っていくのがはっきりと分かった。特に熱いお茶は腹に染みた。とたんに、また涙が浮かんだ。そんな状態が一日続いた。授業中、何度も涙が浮かんだ。
 佑香はいつもと変わらずに、ひとりで学校を出ると、聡美の家の方を遠回りした。これが最後だと思った。
 恐ろしい夢だった。どうしてあんな夢をみたのだろう。母を殺す夢なんて。
 佑香は自分の中に殺意があるのではないかと不安になっていた。心理学を知っていれば、親殺しの夢イコール殺意ではないと納得するが、小学生の佑香がそれを知る由もない。結果として、聡美への深い憧れが母に対する嫌悪感を増長させ、殺意を抱かせてしまったような気がした。
 佑香は門から聡美のいる白いお城を見上げた。きっと病気の馨に付き添っている。ランドセルからメモ帳を取り出して、聡美に手紙を書いた。
 エプロンをありがとうございました。とてもすてきでうしかったです。
 げきのドロシーをがんばります。今までありがとうございました。 佑香

 半分に折ってポストに入れた。聡美と決別しようと思った。確かに馨から、大切な母親を取り上げていたのかもしれない。馨の気持ちを少しも考えなかった。いい気はしていなかっただろう。 
 佑香は、もう一度、白いお城と少し雪が残っている庭を見た。聡美にクッキーの作り方を教えてもらうはずだった。フェルトのマスコット作りに、編み物。聡美と過ごして本当に楽しかった。佑香は意を決したように背を向けると、一度も振り返らずに、その場を後にした。この日を境に、佑香は聡美の前に姿を見せなくなった。
 それから二週間が過ぎた。今期二度目の積雪があり、札幌の街は再び雪化粧をした。
 学習発表会も無事に終わった。佑香は水色のワンピースに白いエプロンと赤いリボンをつけ、見事にドロシーを演じきった。フィナーレの全員合唱の後、深いお辞儀をして幕が下りた瞬間、来年はまた脇役でいいと思った。
 佑香は完全に気が抜けてしまっていた。もう楽しみはない。相変わらず友達のいない学校に通い、あの違和感でいっぱいの家に帰る。以前のように、女優の新藤美由紀が本当の母親だとか、いつか本当の親が迎えに来るなどということを想像して楽しむこともできなくなっていた。もう夢みる少女には戻れなかった。佑香はいつものようにうつむきながら、ひとりで小学校の門を出た。とたんに頭頂部が、ベージュのダウンコートにふわっと、めり込んだ。
「すみませんっ」
 佑香が謝りながら顔を上げると、それは馨だった。
 馨は相変わらず仏頂面だった。
「ちゃんと、前見て歩けば」
「ごめんなさい」
 佑香は何となく気まずい感じがして、足早で通り過ぎようとした。
「どうして、この頃、うちに来なくなったの?」
 佑香はその言葉に、はっとして振り向いた。少し慌てた。
「べ、別に、理由ない」
「お母さん、寂しそうにしてるけど」
 佑香は、もしかして、馨がそれを言いに来たのではと思った。馨が小学校の前を通るはずがない。佑香は嬉しそうな顔をしかけたが、とたんに自惚れのような気もして、またうつむいてしまった。
「馨くんがいれば、お母さん、寂しくなんかないよ」
 佑香は穏やかな言い方をすると、再び歩き出した。
 馨が後ろをついてきた。さくさくと雪を踏みしめる足音がする。
「お母さんが君に自慢するために、はりきって作ったケーキも余って仕方ないんだけど」
「馨くんが食べてあげればいいじゃない」
「あんなに食べきれないよ。飽きるし」
 佑香が立ち止まって振り向いた。
「食べなきゃだめ!」
 佑香は涙声になった。「だって、馨くんのお母さんじゃない」
「えっ?」
「馨くんのお母さんなの!」
 佑香はぽろぽろと涙をこぼした。
 馨は佑香の涙に特別慌てた様子もなかった。口を尖らせた。
「僕が泣かせたみたいじゃん」
「大丈夫。すぐ止まるから」
 佑香は手のひら全部を使って涙をダーッとふいた。そして、また歩き出した。
 馨はやれやれという顔で、少し嘲笑気味に言った。
「何、向きになってるの?」
「向きになってない!」
「こわっ」
 佑香はずんずんと歩く速度を上げた。
「私、邪魔かなあって思っただけ」
 馨も、さくさくと音を立てて早足でついてくる。
「邪魔?」
「馨くんとお母さんの邪魔」
「ふーん」
 結局、馨は佑香の家の前までついてきた。佑香は、はっとエアマシンガンのことを思い出した。
「そうだ。前にもらったマシンガン、返していい?」
「どうして?」
「もう、いらないから」
「そうなんだ」
 佑香は走って家の中に入った。そして、エアマシンガンを手に出てきた。
「じゃあ、これ。ありがとう」
 馨はエアマシンガンを受け取ると、背負っていたリュックを下ろして中にしまった。
「もう、うちに来ないの?」
「うん」
「そんなに遠慮しなくていいのに」
「決めたから」
 佑香は自分に言い聞かせていた。もう母親を殺す夢をみたくなかった。
 馨はリュックを背負いながら、さりげなく言った。
「そんなにうちのお母さんが好きなら、嫁に来ればいいじゃん」
「えっ?」
「姑になるけど」
 佑香は顔が赤くなるのをごまかそうと、顔の前で手をぶんぶんと何度も振って断った。
「いいよお」
「希望を持たせたつもりなのに、そんなに必死こいて否定するなよ」
「だって、うちの常識ない親が、逆に馨くんの親になっちゃうよ」
「そうか」
 馨は妙に納得していた。
「それに、お兄ちゃんもお姉ちゃんも野生児だから」
「野生児・・・」
「手がつけられないよ。私もいい子ぶってるけど本性は野生児なの。それじゃ、馨くんが、かわいそうでしょ」
「そういうことか」
「うん」
 佑香は今さらながら、どきどきした。
 馨がふっと笑った。
「もうマシンガンで親を撃つ真似する必要ないんだ。よかったじゃん」
「うん。馨くんだって、ないよね」
「この間、お父さんに向かって撃ちかけたけど」
「またあ」
「お母さんに意地悪するから」
「嘘でしょ」
「冗談」
 馨は口角を上げた。
 佑香は築三十年の今野家をしみじみと眺めた。
「私、うちの家族のままでいい。私には、あのお母さんがお似合いなのよ」
「ふーん」
「馨くんにも、あの素敵なお母さんが似合っていると思う」
「似合っているかどうか分からないけど、僕も、まあ、うちのお母さんでいいや」
 佑香は突然、声を潜めた。
「ねぇ」
「何?」
 馨もつられて声が小さくなった。
「あのマシンガン、まさか本物じゃないよね」
「どうして?」
「何となく」
「本物だったら、どうする?」
「えっ?」
「まあ、どっちでもいいじゃん。使わないんだから」
「そうだね」
 馨はさらに声を小さくして佑香の耳元で言った。
「実は、うちのお母さんもピストルを隠してるんだ」
「えっ?」
「食器棚の一番上の引き出しに」
「冗談でしょう?」
「本当。分からないように家計簿の下に隠してあるけど」
「ま、まさか本物じゃないよね」
「さっきと同じこと聞いてるし」
「だって」
「宅配便で届いたんだ。本物だったりして」
「えーっ」
 佑香の声が響いた。
 馨は普通の声に戻っていた。
「冗談」
 佑香はいつものふくれっ面になった。
「もうっ」
「だったら、いいんだけどね」と馨は、口の中で言った。
「えっ?」
 佑香が聞き返した時、馨は空を見上げていた。そして、そのまま家の方向に歩き出した。佑香の顔は見ずに、「バイバイ」と言い、背中で手を振った。
「バイバイ」
 佑香も、馨の着ている断崖のようなダウンジャケットに手を振った。毛糸の手袋の中で指先が寂しさを感じている。声にならない白い息が呟いている。
 こんなに近くに住んでいるのに、もう会うこともない。

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